ニューヨーク・シティ・セレナーデ1

ニューヨーク・シティ・セレナーデ

全てがかったるくやり所のなかった1976年の冬、僕がなかば放心状態で聴いていたレコードはパティ・スミスの『ラジオ・エチオピア〜ストリート・パンクの女王』だった。 彼女の深く寒い鉛色の歌声を聴きながら、僕は何故か言葉にならない安らぎを感じていた。それはファースト・アルバム『牝馬』のジャケットに惹かれて彼女の歌を聴くようになってからずっと続いていた、ぞくぞくするような興奮と共にあった。僕はパティの顔の上にエンジェルの像を重ねあわそうとしては、いつもへロイン患者や娼婦やジャンヌ・ダルクの影を思い浮かべてしまうのだった。おそらく彼女の持ってい特有の美しさは、僕にとって“揺れ動くもの〟としていつも存在していたのだ。ジョニ・ミッチェルでもブリジット・フォンテーヌでもニコでもなく、その時の僕は本気でパティと寝たいと考えていたほどだった。そのうちにたまらなくなって、「タクシー・ドライヴァー」のロバート・デニーロのように、機関銃でもぶっ放したくなった僕は、ニューヨークへ行くことにした。“俺はニューヨーク・シティへ行くぞ、こんな所はもう沢山だ〟頭の奥でボブ・ディランの古い歌の一節がまるでマーチのように、早足で駆けぬけていった。
ケネディ空港に着いて黒人の運ちゃんの運転するタクシーで真夜中近いニューヨークの街を走って行った時、ゾクゾクするような興奮を覚えていた僕も、いざホテルに着いた時には護身用のビストルは手に入らないかと真剣に思い始めていた。かつてはボブ・ディランも泊ったことがあるというその”ホテル・アール〟は、ビレッジのワシントン広場のまん前にあった。この古ぼけた安ホテルには、僕達みたいな旅行者はほとんどおらず、何やらいかがわしいような連中が、安いホテル代をこれ幸いにと、もう何年も住みついている様子だった。ボン引き風のオヤジからラスタ・ヘアーの黒人、片時もビールの缶を離そうとしない酔いどれの老人、ジミ・ヘンドリックスそっくりのアフロヘアーの黒人、バンク小僧風、ヒッピー風、ドープの売人・・・旧式のエレベーターの中で、「ヘイ、マン!こいつを買わねえか?」なんてハッパの一杯詰まった袋や、赤やピンクの錠剤をチラつかせてくる。ホテルの入り口の掲示板には “ザ・ナントカズ、土曜の夜、コッパフィールズに出演!〟なんてビラが貼ってある。隣りの部屋ではでっかいボリュームでガンガンにソウルがかかっているし、あちらの部屋じゃ誰かがエレキ・ギターを弾いている。僕の部屋からはワシントン広場の入り口を見下ろすことができる。
だが2日もすると、ホテルのそばのマクドーガル・ストリートのカフェで濃いエキソプレッソーヒーをすすったり、“プリーカー・ボブス〟で中古レコードを捜したり(ブルー・チアーやキム・フォウリーやラスカルズやチョコレート・ウォッチ・バンドなどの貴重盤が見つかることもある)、古着屋の店先をのぞいたり、本屋でパティ・スミスやケルアックやグレゴリー・コオソの詩集を買いこんだり、「ビレッジ・ヴォイス」や「ニューヨーク・ロッカー」をひろげて、今夜行くコンサートを決めたり、ワシントン広場の昼下がりの狂宴を楽しんだりできるようになってくる。
よく晴れた土曜や日曜の昼下がりのワシントン広場は、まるで“ニューヨーク版リオのカーニバル”といった感じだ。どこから集まって来たのか人、人、人の群れがひしめきあっている。だがそいつは一種異様な光景なのだ。およそ公園でくつろぐ市民といったイメージからは遥かにかけ離れている。天を指さし何やら大声で叫び続けている男。何かに憑かれたようにウッド・ベースで即興演奏を叩き出している黒人の青年。棒を投げ続け、とまらなくなってしまったアラビア人の曲芸師。あちらの人垣では、黒人達が「ババ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」をゴスペル風に歌い、その隣りでは明日のディランかスティーヴ・フォーバートがハモニカを吹きギターをかき鳴らし、また行くあてもない老夫婦はベンチの上で遥か一点を見つめ続けている。マリ投げをする者、噴水の中に飛び込む男、バント・マイムに熱中する男女の一群、抱き合うカップル達・・・よく見るとそれはオカマだった。誰かれかまわずちっとも似てやしない似顔絵を描いている絵描き。薬の売人、アル中、ジャンキー、気違い・・・・・・そんなものでこの広場は真っ昼間からいっぱいだ。
タイムズ・スクエアはおのぼりさんとポルノでいっぱい。フィフスストリートのそばの”フィルモア・イースト〟はボロボロにさびれ、今は見る影もない。そのそばのプエルトリコ人街では、ケンカ早いプエルトリカンが何やらもめている。まるで中国に来たような錯覚に落ち入ってしまうチャイナタウン。ヘルス・エンジェルスのうろつくロウワー・イースト・サイドを足早に駆けぬけながら、僕はさびれたロフトの一画で行なわれるジャズのコンサートに出かけるところ。ガランとした倉庫の立ち並ぶソーホーに住む日本人画家夫婦のアトリエにあるキャンバスは、まるでバスのようにでっかかった。
そんな風にニューヨークでの日々は駆け足で過ぎ去っていく。この街には確かに一種独特のエネルギーが満ち溢れている。インド人、ユダヤ人、イギリス人、中国人、アラブ人、ドイツ人、ベトナム人、プエルトリカン・・・・・・およそありとあらゆる人種がひしめきあっているここニューヨークは、アメリカの中の1つの州と言うよりもむしろもう1つの異形の国家を形成しているように思われた。エンパイアー・ステート・ビルディングの102階からこの街を見下ろした時、これらの超高層ビルディングはまるで日に日にその高さを増していくように思われたが、そのビルの高さよりもむしろずっと深く、決して日の当たることのない地下王国が、まるでモグラの巣のように地底深く続いているのが感じられるのだった。
それはありとあらゆる落書きで埋めつくされた地下鉄に乗ってこの街の下を走るとき、真夜中の大通りから裏通りの迷路に入りこんで行くとき、あらゆるものが陽の光と闇夜の間に引き裂かれ同時に2つの世界を形作っているように思えるのだった。
何も知らずにふらりと入ったクリストファー・ストリートの一軒めのパブ・・・・・・注文したビールがまだ運ばれてこないうちに、一種異様な雰囲気がこの店を支配していることに気づく。何てこった!こには女なんてひとりもいやしない。誰もがせわしなく店に入ってくる客を目で追い続けている。あちらのテーブルじゃ大学教授風の男と美青年がじっと見つめあいグラスを傾けあっているかと思うと、カウンターの隅じゃ、ミート・ローフとロウエル・ジョージみたいにブクブク太った男達が腕と腕をからませあっている。 ここクリストファー・ストリートは有名なホモ横丁なのだ。
さきほどから僕にビールをおごったり、ひっきりなしに近づいてくる黒人の男が、何やらわけのわからないスラングで僕に話しかけてくる。やばいことにならない内に僕はそそくさとこの店を逃げ出した。
あの誇らしげに入れ墨をしてでっかいナイフをぶら下げているヘルス・エンジェルスや、クイムズ・スクエアの映画館の便所でナニを見せびらかしていたオカマの青年や、ドイツからやって来たという”カミカゼ”という名のパンク・バンドのヴォーカリストや、ニュージャージーのロック・コンサートに行く途中バスの中で一緒だった美人のヌード・ダンサーのリタや、でっかいジョイントを巻いてくれたジャズ・ドラマーのウィリー・ボボ・ショーや、トム・ヴァーラインのグルービーだと誇 し気に語っていたセクシーなブロンド娘、スタッテン・アイランドで会ったリトルマフィアの一員マイクや、僕らにTシャツをプレゼントしてくれたザ・シャーツのアーニーや”マックス・シティの床に虚ろに座りこんでいたポール・コゾフそっくりの美少年。
全てがさみしくあらわな心と陽気でシニカルな笑いを同時に漂わせながら、ニューヨークは巨大なネオン・サインに囲まれた荒野の中でひしめきあっている。ハイでエネルギッシュでだが決して前進 することはない放置されたままの街。夜になると昼間のにぎやかさとはうって変わって、ひっそりと冷えたコンクリートの肩を横たえてしまう街。だがむしろお楽しみはこれからなのだ。ディスコなんぞに行く金も嬉しさも持ちあわせていない人達のためにも、抜け道はいたる所に用意されている。決して醒めない悪夢のためのささやかなパーティ。ワイルド・サイドへようこそ。真夜中にほおばる“裸のランチ〟もまたオツなものさ。
4月10日のイースターの夜、酔いどれとゴミ箱があっちこっちに転がっているバワリー街のはずれ”CBGB〟の店内は、まるで芋を洗うようにゴッタ返していた。店の外には入りきれない客達が遥か彼方通りに沿って、何百メートルも列をなしている。今日はここでパティ・スミスのコンサートがあるのだ。おまけに少し前に怪我をしてからずっとステージを遠ざかっていた彼女の、今日は久々のステージだと言うので、客達の興奮も最高潮といった所だ。僕の隣りにいたゲイルという24歳の双子座の素敵な女の娘のおかげで、僕は一番前のテーブルに陣取って、ビールなぞ飲みながら今夜のコンサートを待つことができた。ニューヨークに着いて友人と一緒にパティの所属するアリスタ・レコードに行っても、彼女のマネージャーに電話をしても結局、”病気療養中〟のバティには会えなかった僕だけに、いささか興奮気味の自分を感じている。何せニューヨークに来た目的のひとつは、パティのステージを観ることにあったのだから・・・・・・。
僕はゲイルに話しかける。「バティの他にどんなミュージシャンが好きなの?」「もちろん、ジム・モリスンとジミ・ヘンドリックスよ!」「僕は日本人ってこともあって、彼女の英語の歌詞を全て理解することは難しいけど、君達は彼女の詩をよく理解できるのかな?」「彼女の詩はとても即興的よ。私はギンズパークを読むように彼女の詩集を読む。彼女の詩はとても力強いわ。私も自分で詩を書いたり曲をつけたりするの。少し前まではジョニ・ミッチェルも好きだったけれど、今の私にはソフトすぎるわ」
店の照明が一段と暗くなり、さっきまでかかっていたドアーズのレコードが鳴りやんだ。僕は残ったビールを一気に喉に流しこむ。さあ、パティの登場だ!
紺色の毛糸の帽子をかむり、ストライブのシャツを着、紺の上着をはおってステージに登場した彼女は、思ったより小柄な女性だった。「ハッピー・イースター!みんな元気?あたしも元気よ!」陽気に笑いながら、とびかう客達の熱狂の叫び声やリクエストやジョークにポンポン答えていく彼女。だが大きく見開かれたその鋭い目からは、優れた表現者の多くがそうであるように、狂気的な光のような何かが確かに感じ取れる。「グローリア」や「バード・ランド」「レドンド・ビーチ」・・・・・・おなじみの曲を次々にエネルギッシュに歌いまくる彼女。詩のノートを朗読したり、かと思うと突然ギターの即興演奏を始めたり・・・・・・僕は彼女の瘦せた白い腕を見つめながら、確かに宗教的な、カリスマ的な磁気嵐を感じ取っていた。
彼女のバックを務める長身のレニーケイやチェコスロバキアからの亡命者、アイヴァン・クラー達の存在も忘れることはできない。ジミ・ヘンドリックスの影響を強く感じさせるそのギター・ブレイと共に、レニーはパティの曲作りの上での良き相棒であり、何よりも知的な彼女の理解者である。ニューヨークに来る前に寄ったパリのレコード屋の2階で偶然に会ったレニーと話をしたとき、彼は何よりもエナジーを発射することの重要性を語っていた。彼は言った。バンク・ロックこそが、ボブ・ディランとアルチュール・ランボーとファッグスとジミ・ヘンドリックスとボブ・マーリィとアルバ イラーとウィリアム バロウズを通底することが可能なのだと。
パティ・スミスが何もかもが終わってしまった季節から出発したとき、ロンドンでは新たなキッズ達によるパンクロックの波がまき起こった。国家的斜陽と失業の吹き荒れるロンドンの街で、他に何もすることのないガキ共が、”このクソッタレ!〟と叫び声をあげたのはむしろ当然と言えば当然だったろう。
だがバティが30過ぎの、子持ちの女工という身から出発したことは、ある意味で特筆されるべきことだと思う。それは“翔んでる女〟などと言うどこかの国の女性週刊誌が嬉しそうに騒ぎ立てているようなものではなく、誰よりも彼女が女であることを生理的な、血のようにドロドロと溶解した情念の中で捉え返しながら、それを社会に向けて放射していったことだと思う。むしろ翔んでいく所などどこにもなく、この深く底なしの闇の底へ降りて行こうとする彼方にしか、ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリスン、ジミ・ヘンドリックス、シド・バレット・・・の魂の悪魔払いを引き受けることはできないと言うこと、それはとりもなおさず、むき出しにされ、全ての論理や正義やスローガンを剥ぎ取られたときなおも存在する、どこまでもクールで醒めた自己の影であったに違いない。
そこでは持てる者、持たざる者〟と言った古典的マルクス主義的論理も、忍びよるナショナリズムの輪の影で、老いぼれたテロリストとして生きることもできなくなった、死を意識しながらどこまでも、“生きながら〟の死を拒絶しようとする倒錯したシニカルな存在論だけが有効だったのだ。僕はずっと思っていたものだ。「ヘロイン」を歌い「キャンディ・セイズ」を歌うルー・リードがどうして本物のジャンキーになってしまわないのかと。だが彼は既に、ヴェルヴェットラウンドという、ひとつの終わりを完成させてしまった男だった。『ベルリン』そして『メタル・マシン・ミュージック』の果てに、彼はなおもクールに醒め続けることを知ったのだと思う。あらゆる彼にまとわりおおいかぶさっていた全てのイメージから自己を解放し続けることによって、彼は“終点からの出発〟を生き続けようとしているように思える。ディスコを歌おうが、愛を歌おうが、テニスをしようが、健康食品を食べようが、あらゆる悲しさは今、生きることの等位として存在しているの だと言うことを、ルー・リードは何よりも知っているに違いない。
リチャード・ ヘル、ラモーンズ、デッド・ボーイズ、ウェイン・カウンティ、シャーツ、プロンディ、オーケストラ・ルナ、ラーフィング・ドッグス、クランプス、クリミナルズ、ヒューズ・バンド・・・・・・その他名前も知らないたくさんのニューヨークパンクのバンドを見たときに思ったのは、たとえ彼らがどんなにスピードや音量を上げて演奏しようが、それは決してスウィングすることはなかったという事だ。僕は“明日のない希望よりも、むしろ絶望の明日があればいい〟と言うある作家の言葉を思い出していた。もちろん、ブロンディを初めとして今やアンダーグラウンドから地上に躍り出て、ボップさと商業主義の谷間で、ほどよくバランスを保とうとしている連中もいる。僕はそれはそれで楽しむことの余裕は充分持ち合わせているのだが、今はむしろニューヨーク・ロックの新たな局面を形成している最も突出した部分は、スーサイドを初めとして、コントーションズ、マース、ティーン・エイジ・ジーザス、DNA・・・・・・といったよりアヴァンギャルドなバンド群の存在にあるようだ。
口を開けば、やれ斜陽だ! 失業だ! 怒りだ! 反逆だ!とバカのひとつ覚えのように何もかもが決まりきった状況論や社会問題で語り尽くされてしまうことの多かったロンドンのバンクに比べ、ニューヨークのパンクには初めから状況などなかったのだ。それは世代と世代との、国家と人民との、ブルジョアと貧民との闘いとしてではなく、個人と個人の、狂気と正気の、そして何よりも地下と地上の闘いとして存在していた。資本主義国家の行きついてしまった究極の果て。豊かさの廃墟。パティ・スミスの視線がSLAにではなく、むしろアンドレ・ブルトンやエチオピア、ブラック・モスレムに向けられていることは、彼女が政治的論理性を超えた非国家的なものを捻出しているからに他ならない。パロウズ、コオソ、ケルアック、ウォーホール、アンガー、メカス・・・・・・その他幾人もの地下の住人達がたどり着いた方位に、パティ・スミスは今ロック・ミュージックという銃口を向けるのだ。
街を素敵に駆け抜けること。だが全力疾走で街を駆け抜けてしまったとき、街はずれに佇みながら男は何を思うだろうか・・・・・・。西海岸の連中の様にメキシコの国境を夢見るわけにはいくまい。
ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・ヨハンセン、サウス・サイド・ジョニー、エリオット・マーフィー・・・・・・ストリート・ロックン・ローラーと呼ばれている彼らの存在も、ある意味でニューヨークパンクと通底しながらニューヨークのロックシーンのもうひとつの裏側を映しだしている。だがわざわざ“ストリート〟という言葉を強調しなければならなかったのは、70年代のロックが背負ってしまったひとつの不幸には違いない。
ニューヨーク・ドールズの時代から“横丁の悪ガキ〟といった趣を漂わせていた、デヴィッド・ヨハンセンのチンピラっぽさも、ニュージャージーのコンサートでホット・ツナの前座に出てさんざん野次られたあげく、3曲で帰ってしまったエリオット・マーフィーのフォーク文学青年風のナイーヴさも、そして何よりもあの『青春の叫び』の「7月4日のアズベリー・パーク」や「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」で僕にアッパーカットを喰らわせたスプリングスティーンの裏通りのリアルな風景描写もそれぞれに僕をワクワクさせる。
だが僕はあえて言おう。スプリングスティーンは絶対に髭を剃るべきではなかったのだと。裏通りのヒーローであり続けることと、ひとりのロック・スターとして頂点をきわめて行くことの危なっかしいリアリティの間で、『闇に吠える街』での彼は引き裂かれているのではないだろうか?むしろ現代の新しいプレスリーやチャック・ベリーになるか、あるいはより深く、ディラン的な廃墟の街からの旅路を見つけ出すことが今の彼には必要のように思われる。
ニューヨークの夏を過ごしてから2年間の歳月の流れの中で、当時僕らと一緒にニューヨークの街をうろついていたひとりの男が死んだのは今年の寒い冬のことだった。そしてこれを書いているたった今、信じられないことに同じくニューヨークの街を僕と2人で歩いていたひとりのサックス吹きが急死したという知らせが届いた。何ということだろう。僕らはまだ、この深い闇夜に向かって生き続けることを決意したばかりだというのに・・・・・・。
だが僕は決して涙を流さない。そして彼らも泣かないだろう。ブルースはよしにして、セレナーデをやってくれ。今あらゆる哀しさはこの空の下で、カラカラに乾ききったものとしてある。そしてこの窓の中、イギー・ポップの『ニュー・ヴァリューズ』を聴きながら僕は今、僕らのいたあの夏のニューヨークが、もうどこにも存在しないことを感じ始めている。

(「詩の世界」1980・1)

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