興亡の世界史05\シルクロードと唐帝国\著)森安孝夫 

ー感想ー
下記の文章には、強く同意した。実際、そのような教育を受けてきた私たちは、このことを知らぬまま、一生を過ごすだけでなく、子々孫々にも伝えてしまう危険性を孕んでいる。現行の教育について恐怖を覚えた。

(1)イギリスに産業革命を もたらした大量の労働者たちの食糧は、新大陸から入ってきて寒冷地や荒地にも適応したジャガイモやトウモロコシによって支えられたと言われる。そのように貧しかった西欧が古代から世界の中心であったはずはない。にもかかわらず現代日本の多くがそのような錯覚に陥っているのはなぜだろう。答えは簡単である。それは我々の先輩たちが明治維新後に留学生やお雇い外国人を通じて欧米の文明を丸ごと受け入れ、技術や工業製品のみならず、その思想・文学・芸術など文化全般の摂取や模倣に腐心してきたからである。
(2)現代の日本人の多くは、欧米人に対しては劣等感を持ち、アジア人に対しては優越感を持っている。これは明治維新以後に西洋から入ってきた西欧中心史観(一般的には西洋中心史観という)が「脱亜入欧論」を唱えた福沢諭吉のような明治の啓蒙家たちや、中学・高校の歴史教科書によって喧伝された上に、日清戦争での勝利と台湾領有、日露戦争での勝利と日韓併合、そして第二次世界大戦での敗北という 歴史的事件が重なって生み出された「負の遺産」である。

***********************************

序章 本当の「自虐史観」とは何か
   本書の目指すところ
        シルクロードと唐帝国に惹かれる日本人  

 日本人の多くはシルクロードという言葉に惹かれ、唐帝国に憧れ、両者を重ねてロマンチックな幻想を抱きがちであるが、それはどうしてだろうか。多分、その鍵は仏教にある。日本の仏教が伝来したのは六世紀中葉であるが、本格的な仏教文化 の輸入は七世紀から唐前半期である。唐都・長安はユーラシア大陸を貫くシルクロ ードの東のターミナルとされてきたが、日本人はそれを勝手に博多・大阪・奈良・ 京都にまで伸ばして解釈してきた。そしてそれは、あながち間違ってないどころか、日本文化の源流の一つを、歴史に関心の薄い人々にさえ認識させる役割を果た してきたのである。
「日本」という国名が成立したちょうどその頃の我が国は、仏教文化によって唐と結びついたのであり、その唐はシルクロードによって仏教文化の栄えた西域・イン ドと結びついていた。当時の日本民族形成期の高揚感と仏教に対する好印象が、千数百年の時を超えて現代日本人の遺伝子の中に受け継がれているのである。
 もちろんそこには、西域からインドへ仏教の原典を求める旅をした三蔵法師のイメ ージが重なる。奈良時代以来、仏教は日本人にとって最も親しみのある宗教となっ ていった。さらに、明治以来の学問の発達と普及により、今や正倉院御物と聞けば誰でも条件反射的にシルクロードやガンダーラを連想するようになった。

 仏教の歴史

 (1)漢時代: インドから中国に伝来
 (2)南北朝時代:ようやく根付き、
 (3)隋唐時代:北朝仏教と南朝仏教が融合
 (4)唐時代:玄奘(げんじょう)・義浄(ぎじょう)に代表される教学仏教や善導
        によって大成された浄土教の隆盛、さらに不空 (ふくう)に代表
        される密教が加わり、歴代皇帝による保護・尊崇と相俟って、
        唐は中国仏教の黄金時代となった。 
 唐=仏教王国
 唐都・長安=仏教都市
 と言っても決して過言ではない。
 唐代の人口は約5,000万人仏教僧侶はお上の認可を受けない私度僧を含めれば少なくとも50万人は超えていたと思われるから、100人に1人が仏僧であったことになる。長安では正式の仏教僧尼数が2万人以上あったことはほぼ確実とされているから、長安の人口を100万人と見ても、僧尼の割合は50人に1人以上となる。唐王朝は、高祖・李淵(りえん)によって建国された618年から朱全忠(しゅぜんちゅう)によって滅ぼされる907年まで、約300年続いたが、名実ともに帝国の名にふさわしい偉容(いよう)を保ったのは、630年の東突厥滅亡・併合から755年の安史(あんし)の乱勃発までである。安史の乱後、唐は甘粛(かんしゅく)省以西を 失っただけでなく、中国本土内にも多数の地方政権藩鎮(はんちん)の半独立を許し、それまでとはまったく別の小さな国になるのである。
(1)文学史では唐代を
  ①初唐 (建国~8世紀初頭)
  ②盛唐(玄宗時代~安史の乱終息後の765年)
  ③中唐(766 年~835年)
  ④晩唐(836年~907年)
  の四期に分けるが
(2)政治史では
  ①前期:初唐;太宗の「貞観の治」
      盛唐:玄宗の「開元の治」
  ②後期:中唐・晩唐
 帝国の絶頂期は盛唐と思われがちであるが、均田 制・府兵制・租庸調制に代表される律令体制が発展・完成したのは初唐であり、玄宗時代にはすでにその崩壊が始まっている。安史の乱はそれにとどめを刺しただけである。とはいえ文化的繁栄は後期まで及び、学術・文学の分野では後世に残る名著が次々に生み出されただけでなく、文学ジャンルが多様化し、木版印刷術も普及し始める。
 唐は中国史の中で最も国際性・開放性に富んだ王朝であり、しかも中国文化自体も最高潮に達する輝かしい時代を築いた。7~8世紀の唐は名実ともに世界一の帝国 であり、その世界主義は、国内諸都市における外国人居留地の存在、外国人使節・ 留学生・商人・芸人の遍在、外交・商業ルートによる外国文物の洪水のような流 入、芸術・文化における西域趣味、道教・儒教に対抗した普遍宗教である仏教、さらに唐代3夷教(さんいきょう)といわれた
 (1)摩尼(まに)教ー明教
 (2)景(けい)教ーキリスト教ネストリウス派
 (3)祆(けん)教ーゾロアスター教
 等々によって特徴付けられる。これらはいずれおとらずシルクロードと密接に関わっている。
 学問的に見れば本当は元朝すなわちモンゴル帝国時代こそが真に世界的な帝国を 形成したのであり、しかも日本は仏教文化の面でも元朝からは唐に劣らぬ大きな恩恵を被ったのであるが、「蒙古襲来」という負のイメージが強すぎて、普通の日本人はこの時代をあまり好きではない。また漢代や三国魏はあまりに遠く、宗・明は 中華主義的すぎるし、清朝は大国であったにもかかわらず、日清戦争に勝利したた めに憧れの対象からは外れてしまう。 『古事記』の時代から明治維新まで、漢文は長らく日本の公用語であった。飛鳥・ 奈良・平安・鎌倉・室町・江戸時代と、我が国のお役人や知識人たちは正式な書写 言語として漢文ないしは日本語混じりの変体漢文を使ってきたのであり、その間に 大量の漢語がそのまま日本語に入って、定着した。今の日本語の中から漢語を取り去ったら、まともな文章は書けない。片仮名や平仮名さえも漢字を改良して作られ たものに過ぎない。つまり日本の文字文化は、近世以前の徹頭徹尾、中国のおかげを被ってきたと言っても過言ではない。しかるに明治維新以後、日本の政治家・官 僚・経済人・文化人の目は欧米を向き、とりわけ第二次世界大戦後は、芸術・娯楽 の分野を通じて一般大衆に至るまでこぞってアメリカ合衆国になびくようになった。  
 かつての日本にとって中国は、現在のアメリカ合衆国以上の圧倒的存在であっ た。戦後60年を経て、今や日本の政府首脳や高級官僚が、日米同盟こそ日本外交の 基本方針であると公言してはばからない外交不毛の情けない時代とはいえ、選択肢としてのヨーロッパもあればアジアもある。しかし飛鳥・奈良時代から平安時代前期の日本にとって大唐帝国は、いわば唯一無二の絶対的存在であった。百済・新羅や渤海があったとはいえ、それらはいずれも漢字と律令制と仏教文化を受け継いだ 東アジア文明圏の兄弟のようなものであって、父であり母であり師匠であったのは ひとえに唐であった。

現代日本人の欧米コンプレックス

  資本主義・自由主義を標榜するアメリカが現代文明の最先端にいるからといっ て、そのアメリカがつい百年前まで西欧より進んでいなかったことを知らないインテリはどこにもいないだろう。欧米中心の現代文明といっても、実はそのルーツの ほとんどが西欧であることを、普通の知識人なら誰でも知っている。しかし、その西欧がそれより数百年前には軍事力も経済力も、そして文化力もアジアより劣っていたことは、アジアの先進国を自負する日本でも、ほとんど認識されていない。  
 ユーラシア大陸の地図を見てみると、近現代の世界と価値観をリードしたアルプス以北の西欧諸国はこの地図の西北の端に位置するのみであり、どちらかといえば 寒冷な気候帯に属することが一目瞭然である。つまり小麦・大麦・粟などに依拠するエジプト、メソポタミア、インダス、黄河のいわゆる四大農耕文明圏を繋ぐライ ンよりかなり北側にある。
 機械化以前の時代には人間それ自身が最良の道具であり、人口増加がなければ文明は発達しない。人口増加の基盤は豊富な食糧である。食糧生産の基本である農業技術の水準は、西欧ではようやく18世紀になって、中国では北魏時代の6世紀に成立した農業指南書『斉民要術』と同じになったとさえいわれる。安価な食糧を大量 に、しかも一年中安定して供給するには、穀物やイモ類という保存の効く食糧を大規模に生産している農耕地帯の存在、もしくはそこから容易に輸送できる手段のいずれかが不可欠である。
 鉄道やトラックなど内陸の大量輸送機関が発達する以前のアルプス以北の西欧にそのような条件が備わっていたとはとてもいえない。実際、大学の理工学部ではもちろん、文科系学部でさえ西洋学中心に講じられてきた。今でも一般の大学で学ばれる西洋語は英語を筆頭にドイツ語・フランス語・ロシア語・総合大学ではさらにイタリア語・スペイン語、時には西欧の文語としてのラテン語・ギリシャ語まであるのに、東洋語は長らく中国語・漢文の身であった。韓流ブームに乗って韓国語が加わってきたのはごく最近のことである。法学部にはローマ法やゲルマン法な どヨーロッパ法の専門家はいても、中国や日本の律令の専門家は旧帝国大学においてさえ必ずしもいるとは限らない。経済学部ではマルクス経済学かそれに対する近代経済学など。このような我が国の大学における西洋学偏重の結果が、古代から現代まで一貫して西欧が世界の中心であったという日本人一般に見られる錯覚を招いたのである。
 現代の日本人の多くは、欧米人に対しては劣等感を持ち、アジア人に対しては優越感を持っている。これは明治維新以後に西洋から入ってきた西欧中心史観(一般的には西洋中心史観という)が「脱亜入欧論」を唱えた福沢諭吉のような明治の啓蒙家たちや、中学・高校の歴史教科書によって喧伝された上に、日清戦争での勝利と台湾領有、日露戦争での勝利と日韓併合、そして第二次世界大戦での敗北という 歴史的事件が重なって生み出された「負の遺産」である。

進んだアジア、遅れたヨーロッパ

 しかしながら、1,000年、2,000年の単位でユーラシア全体の歴史を眺めている我々東洋史学者の目から見れば、この劣等感・優越感はいずれも不当かつ不要なもので ある。紙・羅針盤・印刷術・火薬・銃火器(鉄砲・大砲)のどれひとつとってもヨ ーロッパで発明されたものはない。ヨーロッパの中でもフランス・イギリス・オラ ンダ・ドイツに代表される西欧というのは、ユーラシア大陸の東の辺境に位置する朝鮮・日本の対極にある西の辺境である。つまりいわゆる「四大文明圏」からみれば「ど田舎」であり、いつもアジア本土から一方的に多大の恩恵を受け、時に広大 なプレッシャーを被る受け身の立場にあったのである。
 一方、南欧のギリシャ・イタリア・スペイン、そして東欧を含む西洋全体で見ても、キリスト教は西アジアから伝播し、ゲルマン民族大移動は中央アジアからのフン族の西進によって誘発された。ついでイスラムの勃興によってカール大帝(シャルル・マーニュ)のフランク王国が変貌し、十字軍運動によって初めて西洋は「キ リスト教民族」として自己アイデンティティを確立したが、モンゴル帝国の登場によって激動に見舞われ、その後ようやく南欧のイタリアからルネサンス運動が興るのである。13世紀後半にアジアを旅したマルコ=ポーロには、ヨーロッパがアジアより勝っているなどという思い込みや自惚など生まれるはずもなかった。オスマン 帝国によるコンスタンチノープル占領、すなわちビザンツ帝国(東ローマ帝国)の滅亡によって西洋中世がおわったと言われるのは1453年のことである。
 日本人や東洋人には、西欧は古典古代の昔から人類文化の中心であったと単純に信じ込んでいる人が多い。しかし、近代以後の状況をそのまま過去に投影するのは大きな間違いである。
 例えば、8~9世紀によけるユーラシア大陸の東端と西端の文化状況を比べてみよう。花の都パリという言葉があるが、当時にあって真に花の都 の名に値するのは唐の長安である。
(1)ユーラシア大陸の東端
   フランク王国に代表される当時の西欧はまだ羊皮紙の時代であり、書物は
   重くて扱いにくく、しかも高価であった。その上、カール大帝は遊牧国家
   のリーダ ーにも似て始終国内を巡回しており、フランク王国にはついに首
   都と呼べるものは 現れなかった。パリにはわずか2万〜3 万の人口しかいな
   かったのであるから、本屋など成り立つはずもない。
(2)ユーラシア大陸の西端
   唐の長安には本屋があって賑わっていたが、それは紙がどこにでも豊富に
   あり、軽くて安価な書籍が提供されたからである。科挙という試験制度は
   あって受験用に書物の需要が伸びたこと、まだ毛筆の時代ではあるが 木版
   印刷術も発明されて日用性の高い暦書・家庭医学書・道徳書や字書・韻
   書・唐 詩、さらには仏典の印刷は始まっていたこと、商業が発達してお
   り、大都市が多数 あってその中に大量の識字層が形成されていたことなど
   も、唐に本屋という商売が成立し得た大きな要因である。

 軽くて安い紙が中国から中央アジアのサマルカンドに伝播したのが8世紀、アラブ世界に普及するのが9~10世紀、南欧イタリアに出現するのはようやく12世紀であり、西欧ではもっと遅れるのである。本屋であればある程度以上の数量の在庫が必須であり、高価でしかも重くてかさばる羊皮紙の書物を、 いつ売れる当てもなく保管しておくのは無理である。西洋では書物などというものは、ごく一部の王侯貴族とキリスト教聖職者の周囲にしかなかったのである。西洋において書物が「世俗化」して需要が増大するのは、大学というギルド的学問所の 揺籃期(ようらんき)に当たる13世紀からであり、本格化するのはグーテンベルクに よって活字印刷術が改良(発明ではない)された15世紀からなのである。印刷術の普及には安くて大量の紙がいる。本屋の有無が文化水準のバロメータであることは、古今東西変わるまい。
 ルネサンスといえば我が国では芸術の方が有名かもしれないが、その本質はギリシア・ローマの古典の復興である。これらの古典は古代地中海世界の南欧から直接近代西欧に受け継がれたわけではない。それを伝えたのは、ローマからは野蛮人の代名詞とみなされたゲルマン人の支配する中世西欧世界であるはずはなく、実は西アジア〜北アフリカのイスラム世界と東欧のギリシア正教世界だったのである。
(1)日本人がアジアに対して優越感を持つようになるのが明治期以降の武力進出
  後である
(2)ヨーロッパ人がアジア人に対して優越感を持つようになるのも、どんなに早
  くても18世紀からの武力進出以後
 オスマン帝国・サファー ビー朝・ムーガル帝国・大清帝国といういずれもモンゴル帝国の衣鉢(いはつ)を 継ぐ大国が並び立っていた17世紀まで、経済力においても軍事力においてもヨーロ ッパ特に西欧がアジアを凌駕したことは一度たりともなかったのである。アジアと ヨーロッパの勢力が本当に逆転し始めるのは、オスマン帝国が神聖ローマ帝国を脅かす第二次ウィーン包囲に失敗した1683年以後のことである。

「国民史」から「グローバル世界史」へ

 歴史とは自然に、あるいは単純に発展するものではない。歴史とは人間が作り出すものである。
 近代西洋が作り出した「国民国家(nation-state)」という概念も、 人類文化の一つの帰結にすぎす、国民国家の枠組みを固めるために、ついでその枠組みを守るために生み出されたものが、一国史とか国民史であった。
(1)中華世界では王朝の正統性を主張するための史観が2,000年の伝統を持って
  いる
(2)19世紀の西洋においては、歴史学が国民的な学問として形成され、歴史家は国民のアイデ ンティティを作るのに貢献し、学校の歴史教育は国民に共属意識を植え付け、国家の安定をまず第一とする権力システムに正当性を与えるために利用された。
 同じく19世紀に生まれた唯物史観は、それとは全く立場を異にするものであり、 20世紀世界においては極めて大きな影響力を持ったが、それも東西ドイツ統合とソ連崩壊を目の当たりにした今ではすっかり色褪せた。

参考)唯物史観とは、「物質的な生産力や生産関係の変化が、歴史を動かす原動力となる」という考え方です。 ヘーゲルが「絶対精神が自由の実現に向けて歴史を動かす」と考えたのとは一線を画したものです。 マルクスは、この社会は生産力(生産手段や能力)と生産関係(生産を通じて結ばれる関係。
 ドイツのマルクスやエンゲル スに始まる唯物史観とは別に、フランスのアナール学派に由来する社会史も20世紀の西洋史学界ではそれなりの流行を見せたが、日本では日本史・東洋史を含む歴史学界全体の潮流とはなり得なかった。
 20世紀の末から21世紀初頭にかけて、マルクス史観崩壊による一種の揺り戻し現 象として、再び一国史や国民の歴史というレベルに逆戻りする向きもあるが、それ はどちらかといえば政治的な動きであり、学問的には取るに足りない。今や新しい 歴史学の方向としては、比較史とか関係史という視点を踏まえた「グローバル世界 史」が叫ばれている。

歴史学の意義

  近代ヨーロッパより1,000年も早く、科挙という実力主義で「民主的な」高級官吏 登用試験を採用したのは中国である。伝統中国では多くの場合、読書人と政治家・ 官僚は表裏一体であった。両者をつないだのが科挙である。唐代の文人・詩人(今 でいう文科系の学者・知識人)にして家居を目指さなかった者は、仏教や道教の僧 侶を除いては、ほぼ皆無に近かった。初唐の張説・陳子昂(ちんすごう)、盛唐の 杜甫・王維・孟浩然(もうこうねん)、中唐の白楽天(白居易)・元稹(げんし ん)・韓愈(かんゆ)・柳宗元(りゅうそうげん)、晩唐の杜牧・李商隠(りしょ ういん)・韋荘(いそう)など、皆そうである。詩仙と呼ばれて超俗の感のある李 白でさえ、一再ならず官途に就こうとして任官活動をし、玄宗に仕えたことがある のである。  
 科挙受験のために必要だったのは儒学である。儒教精神に基づく儒学は実際の政 治経済を重視したという点でまさしく「実学」であったのに対し、仏教・道教の学 問はむしろ「虚学」である。現代において法学部・経済学部の学問が実学と呼ばれ るのに対し、文学部の学問は往々にして虚学と呼ばれる。それはそれで結構であ り、歴史学者である私は、金儲けと無縁の虚学に誇りを持っている。しかし、歴史学は本当に巨額なのだろうか。決してそうではあるまい。  
 歴史学は人類にとって役に立つ学問であろうか。私は役に立つと断言する。医学 がどれだけ進歩しようと、病気をしない人には役立たない。だからと言って、医学が不要であると考える人はいまい。学問とはそういうものである。  
 杜甫は安史の乱前後の歴史状況を詳細に詩に詠んだ「詩史」を残し、白楽天は諷 喩詩(ふうゆし)を作る目的を文学のためではなく政治のためであると明言した。 いずれもそこに歴史的な教養・学問に支えられた社会批判の目がある。現代においても、政治家・官僚・外交官並びにそれを監視するジャーナリスト、さらには明確な未来へのヴィジョンが必須とされる財界人や企業の経営者に、歴史を振り返る教養が求められる。それと同時に、彼らを見守りつつ世論を形成していく広い範囲の一般読書人の水準向上もまた大事である。新聞・テレビなどのマスコミ報道の裏 に歴史の流れを感じ取り、人類を破滅に導く虚偽や不正の言動を見抜くセンスの 涵養(かんよう)こそが、日本の未来を切り開く鍵となるはずである。

本書の枠組みと目的

 唐が中央アジアのトゥルファン盆地にあった麴氏高昌国(きくしこうしょうこ く)を併呑(へいどん)して西域支配の道を開いた640年から、安史の乱が勃発する 755年までが、唐がシルクロード東部を直接押さえ、東西南北の文物の移動と人的交 流がとりわけ活発に行われた時代である。この時代を中心に、日本は唐から実に多 くのものを学んだ。それゆえ日本は、岩ヴァ必然的に長安・洛陽など唐の大都市を 通じて、シルクロードとも密接に繋がったのである。シルクロードと唐帝国は、日本史の一部であると言っても過言ではない。  
 さて本書の読者としてまず第一に期待しているのは、高校の世界史・日本史・現 代社会などの教員である。その理由はもはや明白であろう。すでに社会に出て諸分 野で活躍している日本人の基本的な歴史知識は、ほとんどが高校時代の歴史教育な いし大学受験勉強に依存しているのである。私は一般向けの書物を執筆するのは今 回が初めてであるが、大学受験界の世界史教育とは院生時代から長らく接点を持ってきた。予備校で教えたり、高校へ講演会に出かけたり、つい最近では、大阪大学21世紀COEプログラム「インターファェイスの人文学」の一環として、全国高校歴 史教員研修会を主宰したりもした。そういう経験を通じて、日本の歴史教育のネッ クは、高校の社会科教員であるという確信にいたっている。この方々の歴史意識が 劇的に変わらなければ、日本の明治以来の欧米依存体質は今後も変わるまい。  
 本書の大きなねらいは、これまで幾度となく語られてきたシルクロードと唐帝国 に関わる歴史を、西欧中心史観とも中華主義思想とも異なる中央ユーラシアからの 視点で、わかりやすく記述することにある。言い換えれば、遊牧騎馬民集団とシル クロードの両者を内包する中央ユーラシア史の側からユーラシア世界史を、すなわ ち前近代の世界史を見直すのである。前近代とは近代以前と同義であるが、西洋史 と我々のユーラシア世界史とでは見方が異なり、2世紀程度の時代差がある。西洋 中心主義(ユーロ=セントリスム)や中華主義(シノ=セントリスム)は大きな意 味で民族主義であるから、世界史認識からこれらを排することは、民族主義的な歴 史の「捏造」に対して警鐘を鳴らすことでもある。  
 本書の具体的な叙述の主眼は、
(1)シルクロード史と表裏一体のソグド人東方発展 史、
(2)唐建国史とその前後における突厥(とつけつ:6世紀半ばにこの大遊牧国家を 建設したトルコ系民族)の動向、
(3)安史の乱による唐の変容とウィグルの活動、
の3 点にある。突厥とウィグルはともにモンゴリアに生まれ、中央ユーラシア東部に展 開していくトルコ系遊牧民集団である。本書はこの三本柱に沿ってほぼ時代順に展 開するが、(1)は(2)や(3)の時代にも連続するので、ソグド人は(2)(3)でも随所に顔を出 すことになる。唐代の西域趣味に言及し、胡姫(こき)とその由来について奴隷貿 易という視点を導入して詳しく論じるもその一環である。また唐が真の意味で世界 帝国であったのは安史の乱までの前半期だけであるから、叙述の重心も必然的にそ の時期に偏る。  
 これまでの概説書において蓄積されてきた、漢代から唐代までの東西文化交流に ついての興味深い事実や、シルクロードと遊牧騎馬民族との密接な関係の歴史を、 すべて繰り返すことはしない。むしろ私自身が研究の中心となって学界に発表し、 世界の東洋学界でほぼ定説化してきたが、まだ江湖(こうこ:世の中)の読書界で はほとんど知られていない史実の紹介に重点を置く。そのために原史料を多く取り 上げる方針である。  本書の最大にして最後の目標は、西洋中心主義的歴史観からの脱却と味方の大転 換を、江湖の読書人と未来の日本を支える学生諸君に促すこと、この一点にある。 そのために、この序章は文明論的な色彩を帯びており、人類史全般に関わる大きな 問題を取り上げている。しかし第一章からは、それらを念頭に置きつつも叙述は具 体的となるので、シルクロード世界史における新たな事実の発見と、その面白さを じゅうぶん堪能していただけることであろう。

人種・民族・国民に根拠はあるか
人種に優劣はない

 現在の地球上に生息する人類はホモ=サピエンス(新人、現生人類)ただ一種の みだそうである。かつて我々は、世界にコーカソイド(白色人種、ユーロペオイド ともいう)・モンゴロイド(黄色人種)・ニグロイド(黒色人種)の三大人種がい る、あるいはモンゴロイドからオーストラロイドを区別する四大人種説もある、と 教わった。そしてこれらにはそれぞれ別の先祖がいて、突き詰めれば別の類人猿が いて、進化してきたのだと思いこんだ。しかるにミトコンドリアDNAを駆使する現 代の遺伝子人類学によって、現代の人類の祖先はみな、約20万年前にアフリカにお いて原人から進化した一人の新人「イヴ」に行き着くというのである。(イヴ仮 説)。その子孫がアフリカを出て、世界中に拡散し、先住の原人を駆逐していった らしい。つまり、「人類は皆兄弟」というのは、理想でも言葉遊びでもなく、本当 だったというわけである。  
 となれば、初めから肌色の違う人種ありきではない。むしろアフリカから世界中 に拡散した人類が、各地でその後の環境の違いによって肌の色や髪の毛を含む体質 に変化を生じていったとみなさざるをえない。しかも、農業発明以前の石器時代に は人類はまだ定住という文化はなく、人間集団は常に移動しているのであるから、 人間集団の離合州さんも頻繁に起こったはずである。その後、農業が発明されて歴 史時代に入り、国家が生み出されてからも、人間集団の離合州さんと混血は繰り返 された。そのような人類大移動の結果としての近代の人類の分布を、身体的特徴を 種にしつつも、言語と文化なども斟酌(しんしゃく)して、互いに近い集団ごとに 括っていったところ、三つの大集団に分かれたので、それぞれをモンゴロイド・コ ーカソイド・ニグロイドと名付けたというのが実状なのである。  
 人種(レイス、race)は生物学上の亜種か変種にそうとうし、優劣はない。したがって人種差別(レイシズム、racism)に人類学的根拠はなく、それは単に心の問 題ということになる。

民族と国民は近代の産物

  このような人種(race)としばしば混同されるのが、民族と国民である。この両 者も、人種と同じく近代になってから出現した概念である。「国民」とは一つの国 家の内部に含まれる人々の集団であるから、それに対する欧米語は、例えば英語の ネーション(nation)になるが、民族はそのようにうまく対応する語はない。実は 「民族」というのは、明治維新後の日本人の造語であって、英語で対応語を探すと すれば、先ほどのネーション(nation)の外、ピープル(people)とかエスニック= グループ(ethnic group)があり、さらにレイス(race)の場合さえあるのである。 このように「民族」の定義は決して一筋縄では行かないが、大方の認知を得ている ところでは、(1)まず言語を同じくし、(2)しかも風俗・習慣や歴史(神話も含む)を 共有し、(3)さらに同じ民族に属しているという「民族意識」を持つ人々の集団である。内面的な宗教や外面的な身体的特徴は、一致する場合も多いが、往々にして一 致しないこともある点に注意しなければならない。  
 民族の第一の特徴は言語の共有ということであるが、それがしばしば混乱を引き 起こす元凶ともなる。なぜなら、言語はたった一世代で交替することが可能だから である。言語は遺伝するものではなく後天的に獲得するものであるから、簡単に変 わるのである。アメリカに移民した日系人でも二世・三世になればもはや日本語は 話さず英語を喋っている。もし第二次世界大戦後にアメリカ進駐軍のマッカーサー 司令部が、戦後の日本の教育は英語でやれと命じていたならば、我々は今頃英語を喋っていたに違いない。現在のアメリカ合衆国では白人も黒人も黄色人種も英語を 喋っている。つまり人種と言語は関係ないのである。とすれば言語に基づく民族の 分類がいかに不安定なものか、想像がつこう。  以上のように見てくると、先ほどの(1)(2)(3)を短くして、 民族とは「言語をはじめ とする広い意味での文化を共有する人々の集団」と定義しても、実際にはさまざま な不都合が生じてくる。しかし、それを承知の上でなお、我々は大きな歴史の流れ を捉えようとする時、「民族」という概念を便宜的に使わざるを得ないのである。

トルコ民族の場合

唐代と現代の「ウィグル」

  ここで、本書に頻出する唐代のウィグル民族と、現代中国の新疆(しんきょう) ウィグル自治区のウィグルとの関係について述べておきたい。実は古い時代のウィ グルが民族集団として活躍するのは唐帝国からモンゴル帝国(元朝)の時代までで あり、それ以後ウィグルの名前はいったん消滅する。ウィグルの流れを汲むが、モ ンゴル時代以降徐々にイスラム化していった東トルキスタン東部のトルコ人たち、 並びにそれより早くカラハン朝治下にイスラム化した東トルキスタン西部のトルコ 人たちは、オアシス都市群ごとに自己認識し、トゥルファン人とかクチャ人とかカ シュガル人というふうに出身地に応じてばらばらに呼ばれるようになる。 それが20世紀前半になって東トルキスタンの政治的統一の必要に迫られた時、かつ て栄光に包まれていたウィグルの名前を全体名称として採用するのである。つまり 本来ウィグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグ ルと呼ぶようになったのであり、古代ウイグル史を専門とする私に言わせれば、こ うした新ウイグルは偽ウイグルである。しかも古ウイグルはイスラム教徒(ムスリ ム)ではない。  
 言語について言えば、唐~元代の古ウイグル語と近現代の新ウイグル語とは、基 本的に同じトルコ語である。文法に大きな変化はない。しかし文字はすっかり変わ り、また語彙も相当に変わっている。つまりイスラム化以後はアラブ=ペルシャ系 の文字と語彙が流入し、さらに清朝以後は大量の漢語が借用された。  
 このように民族というのも、人類と同じく近代人は机上で作り上げた概念にすぎ ず、前近代人が自分たちをどう意識していたかとは関係がない。一人種が言語を異 にして多数の民族に分かれるだけでなく、トルコ民族のように、一民族が複数の人 種からなることも往々にしてあるのである。とりわけ我々日本人が注意せねばなら ないのは、ユーラシア大陸の大部分は過去も現在も多言語世界であると言う点であ る。一般民衆の間でも、バイリンガル(二言語話者)はなんら珍しいことではな く、商業従事者や通訳の場合にはトリリンガル(三言語話者)、ポリグロット(多 言語話者)さえいくらでもいた。他の情報が極端に少ない前近現代の研究の際に、 我々はどうしても言語だけで民族を決めたり、国家と民族を同一視したり、現代の 枠組みを過去に投影しがちであるが、それには細心の注意が必要なのである。  
 現在の人類の起源を辿れば皆アフリカに行き着くのであるから、純粋の民族とか 純粋の文化などと言うものは、世界史上に存在したことがない。人種と同じく民族 も、全てが混成の産物であり、世界中の民族は多かれ少なかれ人類共通の文化遺産 を受け継いで今日に至った歴史的産物である。人種さえ長大なタイムスパン(時間 枠)の中で徐々に形成された後天的なものであったのだが、民族はそれよりはるか に短いタイムスパンで形成されたものであって、これからもどんどん変化してい く。このように民族とは「生もの」なのである。
漢民族の実体  ただ中国の場合はいささか事情が違うのは、言語といっても口語ではなく文語、つまり書き言葉による統一への指向である。中国は歴史上常に多民族国家であった のに、いつも異民族は「漢人に同化」したとか「漢化」したと多数派である漢民族 が主張してきたのは、共通の文語すなわち漢文があったからである。  
 現代でいえば、漢民族はもとより、新疆ウイグル族もチベット族も内モンゴルの モンゴル族も広西のチュワン族もみな漢語(中国語)の読み書きができるようにな っているから「中華民族多元一体論」などというのが出現する。多元の中の中華と いうのは、結局は漢民族中心の中華思想であり、これまた国民国家をめざした近代 主義的虚構に過ぎないのである。チベット人は現代において中国人ではなるが、中 華民族ではない。本当は互いに通じ合わない口語をしゃべっているにもかかわら ず、強制的な文語の統一によって中華民族という一民族を創造するという無理をし なくても、中国は多民族国家だと宣言する現行憲法の精神にのっとりさえすれば、 政治的になんの問題もなかろう。  
 中国人というのはあくまでも中国国民であって漢民族とは別のはずである。しか もその漢民族でさえ一筋縄ではない。漢民族という呼称は漢帝国に由来するが、前 漢・後漢時代の漢文化に北の遊牧文化、西方の仏教文化・イラン文化などが混じり 合って唐文化が成立した。その背景には当然ながら五胡十六国時代の大民族移動を はじめとする異民族(現代中国で言う少数民族)や異国人の大量流入があった。この ように「漢文化」と「唐文化」は別物なのであるから、唐代の漢民族も正しくは 「唐民族」と言うべきであるが、そこは話がややこしくなるので、本書でも普通の 表現を踏襲する。そして唐代の漢民族・漢文化は遼・金朝で再び変わり、モンゴル 民族と色目人が入り込んだ元朝でもっと変わった。そして最後は満州族の清朝の登 場である。現在の漢民族の民族衣装の典型であるチャイナドレスというのは、満州 人の服装であって、漢代とも唐代とも何の関係もない。現代中国語の標準語となっ た北京語も、清朝の支配者となった満州人たちが話した中国語である。中国史は決 して漢民族史ではない。  
 断っておくが、私は中国を政治的に混乱させようとする分裂主義者ではない。し かしゲルマン民族大移動期が大分裂の時代であると同時に大融合の時代であり、後 のヨーロッパ諸民族形成に大きなきっかけを与えたのと同様に、五胡十六国時代も 大分裂と同時に大融合の時代であって、新たな漢民族の形成期であった。そのよう な大分裂と大融合をその後も何度か繰り返して、今の漢民族があるという事実を客 観的に述べただけである。  
 中世以降の西洋史は、古代ギリシャ・ローマ人から野蛮視されていた北方のゲル マン人が切り拓いたように、五胡十六国時代以降の中国史は漢民族からは野蛮視さ れていた北方の異民族が切り拓いたのである。そしてギリシャ・ローマ人とゲルマ ン人が融合し、さらに後にアヴァール・ブルガール・ハザール・スラブ・マジャー ルなどとも混交して新しい西洋人が誕生していくように、漢族と五胡(3~5世紀の 華北で活動した匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・氐(てい)・羌(きょう)・ 羯(けつ)に代表される遊牧系少数民族の総称)が融合した上に突厥(とつく つ)・鉄勒(てつろく)・吐谷渾(とよくこん)・沙陀(さだ)・党項・奚(け い)・契丹(きつたん)・韃靼(だつたん)・女真(じょしん)・モンゴル・満州 族とも順次混交していくことによって新しい中国人が生まれていくのである。西洋 人が多種であるように、中国人も多種であって、西洋民族などというものがいない ように中華民族も存在しない。漢民族はあくまで中国人の多数派に過ぎない。

勝者の論理

真の愛国者とは

  第二次大戦中に駐日フランス大使であった詩人のポール=クローデルは、「私が 絶対に滅亡するのを望まない民族がある。それは日本人だ。これほど興味ある古代 からの文明を持っている民族を私は知らない」と言ったそうである。移民国家で歴史の極めて浅い米国人は、やたらと星条旗を振り回して連帯感を高めているが、常 日頃は西欧人に強いコンプレックスを抱いている。その西欧人の代表たるフランス 人の、なかでも最高の知識人が、日本人・日本文化を羨んでいるのである。日本人 は大いに自分の歴史を誇っていいし、私も日本人であることを誇りに思っている。 オリンピックやワールドカップの時は喜んで日の丸を振り、「君が代」だって違和 感はない。私は誰にも負けない愛国者のつもりである。しかし、学校教育の場で国 旗・国歌を強制するのには嫌悪感を覚える。なぜならそこには国家権力が顔を覗か せているからである。  
 権力の本質は暴力(軍事力)と経済力であり、当然ながら権力者とは傲慢なもの である。国家権力とて例外ではない。国家の支配者層というものは、自己の政治 的・経済的利益を保護するために「国益」という言葉を振り回し、自分たちに従わ ない勢力を「売国奴」呼ばわりしがちなのである。そのために、現代では教育やマ スコミも動員される。しかしながら、長大な人類の歴史を顧みずに、また世界史の 中における日本人の位置を知らずして、近視眼的に愛国心を煽るような教育やマスコミ報道の姿勢が、真に日本人のためになるはずがない。  日本の平和憲法は確かにアメリカの都合で作られた。しかしそこには人類の理想 がある。私とてアメリカ・ロシアの軍事力や中国・朝鮮の核武装を含む軍備増強に は脅威を覚えている。しかしだからといって防衛という名で「戦争のできる普通の 国」を目指すと言うのでは、人類史を後ろ向きに歩むだけである。沖縄や広島・長 崎を思い、平和憲法に共感を抱く人々を「平和ボケ」と揶揄しているのは、もはや 自分や家族が徴兵制にひっかかる恐れがない地位を築いたか、軍需産業によって大 きな儲けが期待できる人々である。防衛だろうが侵略だろうが戦争は経済行為なの であり、結局は「お金儲けのどこが悪いのですか」とうそぶく資本主義の申し子的 連中が戦争をしたがるのである。そういう輩が口にする「国益」「国際貢献」とか 「国家の品格」などという言葉ほどいかがわしいものはない。  歴史を学ぶ究極の意義は、人種にも民族にも言語にも思想にも何一つ純粋なものなどなく、すべていり混じり合って形成されてきた歴史的産物であるから、そこに はいかなる優劣も差別もないということを、明確に認識することである。愛国者を 自任するならば、人類史の中ではごく最近になって初めて国境を持つようになった 国家というものの本質を考え抜き、国境を含めて国家という枠組みをどうするかと いう今後の人類最大の課題に真剣に取り組んでもらいたい。仏陀の教えの根幹には 「諸行無常」があり、その無常とは「すべては変化する」という意味である。人類も民族も無常だということを知ったならば、真の仏教徒が人種差別や民族主義に陥 ったりすることはありえまい。

理科系的歴史学・文化系的歴史学・歴史小説

本当の「自虐史観」とは

  私の目から見れば、20世紀前半における日本帝国主義の負の側面、例えば日韓 併合・満州事変や南京大虐殺や従軍慰安婦問題などを率直に記述するのは「自虐史 観」でもなんでもない。本当の「自虐史観」とは、自分たちの足場であるアジアの 偉大な文明から目を逸らし、ヨーロッパに育った近代西欧文明こそが人類共通の目 指すべき方向であるとした西欧中心史観に盲従した、明治以後の我が国の西洋史学 界を中心とする歴史学界と、それがリードしてきた歴史教育の現場にこそある。農 業の発明以来10,000年の、とりわけ遊牧騎馬民族の登場以来3,000年の人類史の大き な潮流を客観的に把握することなく、18世紀以降に初めて世界を制覇した西欧諸国 が己に都合のいいように記述した世界史の枠組みを、多少の追加修正をしただけ で、ほとんどそのまま鵜呑みにした明治以来の世界史教科書は、まさしく自虐史観の象徴的存在であるといえよう。
 世間的に有名ではあるが世界史をよく知らないと思われる評論家たちが、現代は 世界史上初の画期的な「文明の統一」が行われる時代だとか、近代化は滔々(とう とう:よどみなく流れるさま)たるグローバル世界の趨勢(すうせい:成り行き) だ、などというのを聞く時、あらためて日本のインテリの骨の髄まで染み込んだ西欧中心主義に驚かされる。断っておくが、西欧的「近代化」の流れの中で、世界が 一つの国になる可能性など絶対にない。それは世界史を知らず、軍事力(国内的に は警察力で十分)と経済力を握っている権力側の人間が、自分たちに都合よく人々 をコントロールするための宣伝文句、ないしは殺し文句である。今のアメリカ合衆 国に輪をかけたような圧倒的軍事力による支配という、おぞましいシナリオの果て の世界の統一など、一体世界中の何分の一が望んでいるというのか。  
 現存する世界最古の本格的歴史書を書いたのは紀元前5世紀のギリシャのヘロドト スである。そこではギリシアの大敵であったペルシアとギリシアでは領土の広さ、 人口、経済力のどれをとっても圧倒的にペルシアの方が遊雨製であった。ペルシア 戦争においてギリシアはペルシアに勝ったわけではなく、たまたま負けなかっただ けである。マラソン競技の由来譚に騙されてはいけない。ペルシアの本当のライバ ルは黒海周辺の草原にいた遊牧民のスキタイであって、ギリシアなど本気で戦う相 手ではなかった。しかしヘロドトスは、世界は昔からヨーロッパとアジアの二つに 分かれて対立・抗争してきており、ペルシア戦争ではギリシアがペルシアに勝っ た、すなわちヨーロッパがアジアに勝ったとしたのである。その後、ギリシア北方 で東ヨーロッパ草原部に近いマケドニアにフィリッポス2世が現れてギリシアを破 り、その後を継いだアレクサンドロスがアケメネス朝ペルシアに遠征してダレイオ ス3世を打倒したことにより、ヘロドトスの描いた「ヨーロッパは善であり、アジア は悪である」という図式は、後世のヨーロッパ人にいっそう受け入れられやすくな ったのである。  
 近代西欧列強のアジアへの武力進出に伴う容赦ない殺戮は、こうしてヘロドトス 以来の歴史観に支えられていたのであり、アメリカのブッシュ政権がキリスト教と イスラム教の対立を文明対テロと言い換え、どちらを支持す流のかと二者択一を迫 ったのも、同じ根っこに由来する。  
 西欧の歴史が古代ギリシア・ローマから始まるとするのは、近代西欧が自分たちに都合のいいように生み出したフィクションである。そして16世紀以降、海のルー トで中国のことを直接知るようになった西欧世界は、当初は素直に中国の悠久の歴史と高度な文明に感動し、人文主義を発展させ、いい意味の東洋趣味(オリエンタリ ズム)や支那趣味(シノワズリー)に酔いしれていた。ところが、アジアへの武力進 出が進んだ19世紀にはとうとう、進歩し続けるヨーロッパ史に対し、アジア史の特 徴は停滞であると論だんするに至り、それまで並列的に存在していた諸文明圏の歴史は西欧の世界制覇によって統合され、ここに初めて世界史が成立したとまで宣言 したのである。

日本人の歴史意識を問い直す

  実は現代西欧の知識人は18~19世紀と違って今やアジアへの文化的コンプレック スを克服したから、古典古代のギリシア・ローマと西欧が地理的にはもちろん歴史的にも文化的にも直結しないことを認め始めている。プラトンやアリストテレスな ど彼らの精神的よりどころとなる古典は、文化的に圧倒的優位にあったイスラム世 界から学び取り、さらにはビザンツのギリシア正教世界から受け継いだのであり、 真の西欧世界の誕生は12世紀前後であるという見解を、多くの研究者たちは取るよ うになった。つまり現在の欧米では、現代世界をリードする西欧並びに北米の文明 はメソポタミア・エジプト文明を受け継いだ古典古代に始まり、中世にはやや衰え たがルネサンスによって見事に復活し、大航海時代を経てその輝かしい光が世界中に及んだのであるという西欧中心主義的世界史は一種のフィクションであったと、 認識されるようになったのである。  
 それにもかかわらず我が国では、相変わらず西洋中心に記述された世界史のフィ クションを引きずっているのはなぜか。それは明治以降の教育を受けた日本人自身 の思考方法が西洋化してしまったからである。 その責任は、明治期に輸入した19世 紀の西洋中心主義的世界史のパラダイムを変換することを基本的に許さない高校世 界史教科書の指導要領と、それを錦の御旗として奉じる教科書検定官にあるのであ り、さらには不勉強さを恥じつつも大学受験を隠れ蓑にして教科書の変更を望まな い多くの高校世界史教員までがそれを支えているのである。  
 もちろん大学受験の現実を直視せざるを得ない高校側にのみ責任を押し付けるの はフェアではない。いつまでも西洋史と中国史を中心とする入試問題を出し続ける 大学側にも大きな責任がある。新しい視野に立った入試問題を、世間やマスコミの 批判を恐れずに出題する勇気と見識が大学側に問われているのである。  
 この序章において私は「自虐史観からの脱却」を説いてきたが、これは決して国 家主義やいい加減な愛国者を益するものではなく、日本が近隣諸国から信頼され、 諸手を挙げて国連の常任理事国として迎えられ、平和憲法という人類最高の理想を 掲げて世界をリードできる「文明国」になることを夢見ながら、少なくとも国際人 として日本人にふさわしい歴史観と誇りを持てるようにとの願いを込めたものなの である。

第1章 シルクロードと世界史
中央ユーラシアからの視点

「中央ユーラシア」とはどこか  

 世界史の再構築を目指す歴史界ではすでに常識化し、最近では一般にも知られる ようになった術語に「中央ユーラシア」がある。ユーラシアとはいうまでもなく、 アジア大陸とその西方に半島のように付随しているヨーロッパ大陸とを合わせた概 念である。これと地中海を挟んだ北アフリカとを合わせてアフロ=ユーラシアとい うが、そこが近代以前の主要な世界史の舞台である。いわゆる「四大文明」はすべ て、この中の乾燥地域で大河の流域に発生した。中央ユーラシアとは、ユーラシア ないしアフロ=ユーラシア全体の中央部分という意味であり、大興安嶺(だいこう あんれい:中国、黒竜江(こくりゅうこう)省北部から内モンゴル自治区北東部に 延 びる山脈)以西の内外モンゴリアからカスピ海周辺までの内陸アジアに南ロシア (ウクライナ)~東ヨーロッパ中心部を加えた領域である。
 中央ユーラシアは、ユーラシア全体の中で最も雨量・水量の少ない砂漠地帯とそ れに次ぐ乾燥地帯である草原地帯とからなり、乾燥地帯であるが大河を擁するかつ ての四大農耕文明圏より北方に位置している。中央ユーラシアの草原と砂漠の代表 的なものを東から西へ順に見ていくと、大興安嶺周辺~モンゴル草原~ジュンガル 草原~天山山脈内部草原~カザフ草原~ウラル草原~南ロシア草原~カルパチア草 原の草原ベルトがあり、その南側にゴビ砂漠~タクラマカン砂漠~キジルクム砂 漠~カラクム砂漠の砂漠ベルトがある。松田壽男によって提唱された天山=シル河 線というのは、まさしくこの草原地帯と砂漠地帯を分けるラインなのである。北極 海とシベリアからの湿った空気が砂漠地帯にまでは届かないのである。さらにこの 砂漠ベルトの南側に、内モンゴル(黄河湾曲部内のオルドスを含む)~寧夏回族 (ねいかかいぞく)自治区~甘粛(かんしゅく)省~青海~チベット~カシミー ル~ガンダーラ~トハリスタン(旧バクトリア)など、草原と砂漠が入りくんだ半 草原半砂漠ベルト地帯が連なる。つまり中央ユーラシア全体では、北から草原ベル トと砂漠ベルトと半草原半砂漠ベルトが三重構造になっているといえよう。  
 注意しなければならないのは、このような横の変化だけでなく、山脈部の縦の変化である。一応の目安にすぎないが、天山山脈を例にとれば、山中の海抜200~ 3,000メートルあたりに多数散在する大小の盆地はいずれも見事な大草原になってい る。南麓(ふもと)ではそれより海抜の低いところは急激に半砂漠状の山肌とな り、さらに高度を下げると完全な禿げ山、そして砂漠になっていく。それに対して 北麓では、海抜1,000メートルあたりまで下っても草原であるところが多く、それ以 下になると砂漠に近い草原となる。ただし、海抜500メートルあたりでも北麓は河川 の周辺には農耕地帯が広がっている。天山山脈はノコギリ歯状の重畳たる山の連な りであり、ここの山でみればいずれも北斜面の方が、直射日光の当たる南斜面より 緑が濃い。2,000メートルを超えるあたりの北しゃめんには針葉樹の森林が発達し、 南斜面の草原と好対照をなすが、3,000メートル以上になると山肌が露になり、4,000 メートルを越すと氷河や万年雪に覆われてくるのである。  
 中央ユーラシアには大山脈が多く、その広大な山麓や山脈内部に大草原を擁して いることを見落としてはならない。とりわけ注目すべきは天山山脈であり、これま でユルドゥズ渓谷と呼ばれたために誤解を受けることの多かった現バインブラク草 原は、なんと東西250キロ以上、南北百数十キロに及ぶ大草原であって、渓谷などと いう日本語に惑わされてはいけない。これほどの規模ではないまでも、山脈中には 大小の草原が多数内包されているのである。ユーラシアの背骨に当たるパミール・ 天山山脈・崑崙(くんるん)山脈・カラコルム山脈・ヒンドゥークシュ山脈はもと より、満州とモンゴリアを分ける大興安嶺、モンゴリアとジュンガリアを分けるア ルタイ山脈、甘粛省と青海省を分ける祁連(きれん)山脈、チベットとインドを分 けるヒマラヤ山脈、アジアとユーロッパを分けるウラル山脈など、いずれもそうい う自然景観をもっている。  
 こうした山脈は巨大な貯水庫であり、遊牧民の揺籃(ようらん:物事の発展の初 期の段階)の地たりえたのである。中央ユーラシア史上に活躍したトルコ民族の古代 語には、一般に「山」を意味するターグのほかに、「大山脈中の森林と草原、山中 牧場」を意味するイッシュ という語が厳然として存在する。中央ユーラシア最高の大草原地帯で幾多の遊牧国家勃興の本拠地となったモンゴリアのオトュケン山とア ルタイ山脈そして北魏から隋唐までの「拓跋(たくばつ)国家」を拓いた鮮卑(せ んぴ)系遊牧民集団の故郷である大興安嶺は、いずれもイッシュであってターグで ないことに大きな意味がある。

北中国と中央アジア

  本書の主要舞台となるのは中国本土、とりわけ唐帝国の政治的中心であり、陸の シルクロードと直結していた北中国(華北)と、その北方のモンゴリア、並びに北 中国より西方の中央アジアである。北中国には中華人民共和国に属する内蒙古自治 区も含まれるが、そこにはゴビ砂漠を挟んで現在のモンゴル国、すなわち外蒙古と 対峙している。蒙古と いったり、内外と区別するのはいずれも中華主義的なので、 今後はゴビ以北をモンゴリア・モンゴル本土ないし漠北、ゴビ以南を内モンゴルないし漠南と読んで区別する。ただし両者を合わせる必要がある時は内外モンゴル、 またはモンゴル高原という。  
 一方、北中国の西方に位置する中央アジアは、古くは「西域」と呼ばれた。西域 とは元来、漢代中国世界の西の玄関口となった敦煌西方の玉門館・陽関以西の地域 という意味であり、最初は漢帝国の支配が及んだ天山山脈以南のタリム盆地地方、 すなわち天山南路だけを指したが、後にはさらにパミールの西方までも含むように なる。西域にはペルシアも含まれることがあるが、玄奘(げんじょう)の『大唐西 遊記』のようにインドを含むのはやや例外的である。近現代の用法である中央アジ アも、狭義から広義まで指す範囲に相当の「揺れ」がある。その「揺れ」は、中央 アジアの中核をなすトルキスタンという呼称と深く関わっている。  
 上述したようにトルキスタンとはペルシア語で「トルコ人の国、トルコ語を話す 人々の土地」の意である。9世紀のウィグル帝国崩壊後にウィグルをはじめとするト ルコ系諸民族の大移動いよって、天山山脈以南のタリム盆地のトルキスタン化が進 行した。それまではトルキスタンというのはペルシア語を話す農耕中心の世界から 見た用語であり、天山=シル河線以北のトルコ系遊牧民のいる草原世界を指してい た。それなのに、9~10世紀以降、天山=シル河線以南でかつては印欧語族が占めて いた砂漠オアシス地域がトルコ語化していくと、今度はむしろそこを指すようにな ってしまう。近現代のトルキスタンという呼称は厳密には唐代より後にしか当ては まらないのであるが、従来の概説書では人文地理的概念として唐以前の古い時代の 中央アジア(の一部)を特定する場合にも頻繁に使用されていることに注意された い。  
 近代のトルキスタンは

東西トルキスタンについて
(1)広義の意味の分け方
①東トルキスタン(シナ=トルキスタン)
 ー中華人民共和国新疆ウィグル自治区
②西トルキスタン(ロシア=トルキスタン)
 ー旧ソ連時代の中央アジア五共和国に当たる
  ・ウズベキスタン
  ・カザフスタン
  ・キルギス(キルギズタン)
  ・トルクメニスタン
  ・タジキスタン

(2)狭義の意味の分け方(狭義の東西トルキスタンがもっとも狭い意味の中央アジアである。)
①東トルキスタン(シナ=トルキスタン)
 ー新疆ウイグル自治区の 南半分(天山南路)
②西トルキスタン(ロシア=トルキスタン)
 ー・パミール地区
  ・その西でシル河以南のカザ フスタン南部
  ・ウズベキスタン
  ・トルクメニスタンというオアシス農耕を中心とす  
   る地域を限定的に指す
 
 しかし中央アジアという語は、草原地帯を含む広義のトルキスタンと同義で使わ れることも少なくない。これが中間的な中央アジアなのである。ちなみにキルギス 語・カザフ語・ウズベク語・トルクメン語はいずれもトルコ系の方言であり、タジク語のみペルシア系の方言である。タジキスタンにもトルコ語を話す人は住んでい るが、旧ソ連時代を通じてこれら五カ国にはロシア語が浸透した。片や新疆ウイグ ル自治区では、ウイグル語やカザフ語をはじめとするトルコ系諸方言が優勢であっ たが、今や中国語(漢語)が急速に普及しつつある。なお、旧ソ連の学界の影響を 受けた研究者の間には、ロシア語の影響から今でも旧ソ連時代の五共和国の範囲だ けを中央アジアとする傾向が残るが、日本語としての中央アジアという概念には東 トルキスタンを除外 する伝統も用法もない。  
 学界で最もよく使われるのは、さらに広義の中央アジアである。それは、広義の トルキスタンの東と南に拡大する。東ではゴビ砂漠を挟んでモンゴリア草原部と内 モンゴルから甘粛省西北部の河西回廊、そして南に回って青海省と チベット・カシ ミール・ガンダーラ・アフガニスタンである。別の見方をすれば、東は大興安嶺か ら西はウラル山脈・カスピ海までの間、南はヒマラヤ山脈から北はシベリアまでの 草原・砂漠地帯のことである。この広義の中央アジアを内陸アジアと呼ぶことも多 い。  
 中央アジアには以上のように広義と狭義とその中間的な用法があり、しかもその 使い方は人それぞれであるので、これを厳密に定義することは不可能なだけでなく 不都合さえ生じる。本書では、北アジアに分類されることもあるモンゴリアを明ら かに含む場合には内陸アジアとか中央ユーラシア東部という言い方をするよう心が けるが、依拠する先学や論争する相手が中央アジアと言っている場合はそれに合わ せざるをえず、ケースバイケースで対処することを予めお断りしておく。

農牧接城地帯 

 中国というとすぐさま農耕地帯と思われるかもしれないが、かつて中国本土の内 部には内モンゴルの広大な草原だけでなく、さらにその南側にも広々とした草原地 域があった。すなわち河北省北部・山西省北部・陝西(せんせい)省北部・寧夏 (ねいか)回族自治区・甘粛省には可耕地と遊牧用草原とが入り組み、どちらにも 利用できる土地の広がりが点在したのである。そして内モンゴル草原と合わせたこ れらの遊牧可能地帯に、匈奴(きょうど)・羯(けつ)・鮮卑(せんぴ)・氐(て い)・羌(きょう)・稽胡(けいこ)・突厥(とつくつ)・沙陀(さだ)・党項 (たんぐーと)・吐谷渾(とよくこん)・奚(けい)・契丹(きつたん)など様々 な遊牧民集団が活躍したことを忘れてはならない。秦漢(しんかん)=匈奴拮抗時 代から五胡十六国時代を経て、北魏・隋唐・五代にいたり、さらに遼・金・元朝へ と続く中国史において、草原を本拠地とする遊牧民族は決して客人ではなく、農耕 漢民族と並ぶもう一方の主人であったのである。まずそのことを読者にはしっかり と認識していただきたい。中国史を中華主義の呪縛から解き放つには、まずここが 肝心なのである。  
 五胡十六国時代に先行する西晋(せいしん)に文臣として仕えた江統(こうと う)が、関中(長安を中心とする渭水(いすい)流域とその周辺)の人口百余万の うち半分は戎狄(じゅうてき:辺境の民族や外国人を、野蛮人と卑しめていう語) であると述べたのは、あながち誇張ではない。後漢末の戦乱で人口が激減したところに五胡が入り込み、三国時代・西晋を経た後、北中国には五胡の建てた諸国が興 亡し、それを鮮卑族の北魏が統一した。この北魏が分裂した東魏と西魏、それらを 受け継いだ北斉と北周、そしてこれに取ってかわり、江南までも手中に収めて再び 全中国を統一した隋・唐は、いずれも鮮卑系拓跋(たくばつ)部の出身者が開いた 王朝であるから、鮮卑系諸王朝とか「拓跋国家」(杉山正明)と総称して良い。元 来は大興安嶺周辺の草原森林地帯を原住地としたが、徐々に南下して内モンゴルの 草原地帯で次第に成長した鮮卑族は、さらに集団で南下して農業=遊牧交雑地帯を 根拠地とすることにより、北中国全体を掌握し、ついに中国を再統一する大帝国へ と発展を遂げるのである。  
 ここ10年くらい、内モンゴル草原ベルトそのものよりも、むしろその南側にある こうした半農半遊牧地帯の重要性に注目する研究者が少しずつ増えている。そこ は、漢民族とは農耕民・都市民であり漢民族こそが中華民族(中国人)であるとす る立場からは「辺境」というニュアンスを込めて「長城地帯」と呼ばれてきたとこ ろでもあるが、漢民族の出自の半分さえも遊牧民であるとする我々の立場からは、 ここは辺境どころかむしろ遊牧民と農耕民の交わる「接点」であり、中国史のダイ ナミズムを生み出してきた中核部と捉えるので、呼称もおのずから異なってくる。 はじめ妹尾達彦はこれを「農業=遊牧境域線」と呼び、石見清裕はラティモア説を 踏まえて「リザーヴァー」ないし「(中国北辺)ベルト状地帯」とし、私は「農牧 接壌地帯」と読んできたが、新たに妹尾が「農業=遊牧境界地帯」と名付けた。本 書では「農業=遊牧交雑地帯」という意味を込めて、「農牧接壌地帯」という名称 を続けて使用することにしたい。  
 河北・山西北部の「燕雲(えんうん)十六州」から陝西(せんせい)・寧夏(ね いか)・甘粛(かんしゅく)の六盤(りくばん)山・賀蘭(がらん)山・祁連山に 至るまで横長に広がるこの農牧接壌地帯は、中国諸王朝にとって両刃の剣であり、 そこをうまくコントロールできたことによって唐朝は前半期の大繁栄をみるが、同 じところが今度は安史の乱を支える勢力の揺籃の地となり、さらに五代の沙陀諸王 朝(トルコ系)と遼朝(モンゴル系)・西夏(タングート系)といういわゆる「征服王朝」出現の舞台となったのである。  
 ちなみに、単に牧畜するだけの小規模草原ならば、河北省南部・山東省・河南省 北部・山西省南部・陝西省南部にさえ散在している。北中国の農業の土台とされて きた黄土の研究に正面から取り組んだ原宗子(はらもとこ)が最近著で、中国農本 主義に対して、実態的には牧畜に依拠しながら、理念的にはこれを排斥・差別した ものと批判し、斎藤勝が最新論文で北中国で行われた牧畜は農業より劣ったもので はなく、むしろ儲かる生業だったと主張し始めたのも、奇しき巡り合わせと言うべ きである。
「万里の長城」は農耕都市民と遊牧民とがせめぎ合ってきた中国史の流れに応じ て、この農牧接壌地帯を北上したり南下したりして、揺れ動いてきたのである。そ して農耕都市民と遊牧民の両者が一体化した時、万里の長城は文字通り無用の長物 となるのであるが、その典型的時代の最初が唐朝であり、その後、元朝・清朝がこ れに続くことになるのである。ちなみに一言付け加えておきたいのは、万里の長城 は遊牧民の侵入を止めるだけでなく、農耕中国で志を得られなかった知識人・軍人 や税役に苦しむ貧窮農民の北方への逃亡を阻止するという役割さえ担っていたと言 う点である。 

シルクロードとは
シルクロードの定義の変遷  

 本書の表題にも掲げた「シルクロード」とは、もとはといえば19世紀のドイツ人 地理学者リヒトホーフェンが造り出したドイツ語のザイデンシュトラーセン「絹の 道」に由来する術語であ流が、その後イギリスのオーレル=スタインが英訳してシルクロードとなり、それが今では世界中で実に多種多様な意味と範囲で使用される ようになったのである。中央アジアへの学術探検でスタインやスウェヘン=ヘディ ンが活躍した20世紀前半までは、古代の絹織物の遺物や、絹貿易に関わる文書が発 見される遺跡は、中央アジアでもほとんどがオアシス地帯に限られていたため、シ ルクロードがもっぱら「オアシスの道」の代名詞として定義され、その意味で使用 されてきたのは当然であった。  
 しかしながら明治以来、我が国の東洋史学、とりわけその中核の一翼を担った内 陸アジア史学と東西交渉史学が目覚ましい発展を遂げると、1930年代以降、シルク ロードは「オアシスの道」だけでなく、中央ユーラシアを貫く「草原の道」と、東 南アジアを経由する「海洋の道」とを含むようになっていく。その際、もっとも大 きな役割を果たしたのは、松田壽男博士の研究である。博士はまず、モンゴル高 原~天山山脈の広大な草原の上に建てられた匈奴・鮮卑・突厥・ウイグルなどの遊 牧国家の主要産物たる馬と中国の絹とが平和時には恒常的に交易されたという事実 を掘り起こし、それに「絹馬交易(絹馬貿易)」と言う名称を与えた。そして、中 央ユーラシアの遊牧国家の発展にとって商業が必要不可欠の要素であったこと、と りわけ絹が商品とも貨幣ともなって移動した遠距離交易路としての「草原の路」が いかに重要であったかを明らかにした。さらに博士は、アジア史全体にまで目を向 けて優れた概説書をいくつも著したが、そこでは「海洋の道」までがシルクロード に含まれるようになり、今ではその主張が学会の定説となったのである。  
 歴史研究において東西交渉史学なる分野を開拓し、シルクロードとしての「草原 の道」を発見したのは、我が国の東洋史学界が果たした偉大な貢献である。しかる に我が国の高校世界史教科書のシルクロードは、リヒトホーフェンの原義にしたが って「オアシスの道」のみを指す事が多い。ここにも高校世界史教科書における西 欧中心主義の残滓(ざんし:残りかす)がみられるのであるが、現在の東洋史学界 の実状を反映して定義すれば、シルクロードとは まず第一に「オアシスの道」と 「草原の道」の両者を含むものとすべきである。本書で単にシルクロードと言う場 合は、この両者を含めた「陸のシルクロード」のことである。しかしながら、ユー ラシア史全体を俯瞰する時には、当然ながら南中国から東南アジアやインドを経由 して西アジアに至る「海洋の道」も視野に入れなければならない。その場合には単 にシルクロードとしないで、「海のシルクロード」と呼ぶことにする。

東西南北のネットワーク  

 シルクロードとは決して「線」ではなく、「面」である。初歩的な概説書や学習 参考書の類では、シルクロードとして挙げられるのは中央アジアの天山北路(草原 の道)と天山南路(オアシスの道)であり、南路はさらにタリム盆地北辺沿いの西 域北道と南辺沿いの西域南道とに分かれ、これらは東西に延びる三本の線で図示さ れている。 あたかもシルクロードとは立派に舗装でもされた人工の一本道であるか のような錯覚を与える、しかし実際の(1)シルクロードは砂漠や草原の道なき道が大 部分であり、誰もが同じところを通ることになる狭い峡谷や峠以外はどこを通って もいいのである。その峡谷や峠にしても、自然条件や人為的理由によって通りにく くなれば、人々はすぐに別の峡谷や峠へと迂回するのである。  さらに問題なのは、天山南北路はいずれも東西に走っているので、シルクロード とは東西交易路だと誤解されてしまうことである。比較的詳しい概説書の付図や歴 史地図を見ればわかるのであるが、(2)シルクロードとは東西だけでなく南北にも延 びており、多くの支線と合わせると細かい網の目状になっている。無数にある網の 結び目(ジャンクション)の多くは交通の要地であり、そこに大小の都市が発生し ている事がほとんどである。すなわちシルクロードとは東西をつなぐ線ではなく東 西南北に広がるネットワークなのである。私がシルクロードを「面」とする理由 は、まず以上の2点にある。

 シルクロードを草原の道、オアシスの道、海洋の道と分類したところで、いずれ も中国と西アジア、あるいは中国とローマ帝国とを結ぶ道であるため、どうしても 東西交渉というイメーずが付きまとう。しかしながら、シルクロードをネットワー クとして理解すれば、決して東西だけでなく、南北の視点も大事である事がお分か りいただけるであろう。中央ユーラシアよりさらに北方の北ユーラシアを特産地と する高級毛皮や南海産の香薬を抜きにして、絹だけでシルクロードは語れない。東 西南北を網の目のように結ぶ交易ルートであるから、そこでは世界中の価値ある特 産品、例えば絹織物・金銀器・ガラス・香料・薬品・毛皮をはじめ、ありとあらゆ る商品が複雑なルートで行き交ったのである。  
 それゆえ、東西南北の長距離交易路のかなりの部分、あるいは一部を捉えて、黄 金の道、銀の道、玉の道、ガラスの道、香料の道、毛皮の道などと称する場合もあ る。絹の道としてシルクロードも、もとはといえばそれらと同格の呼称にすぎなか った。しかし、そのような特産品の代表が絹であったから、シルクロードという術 後が容易に人々の同意を勝ち得て、普遍化したのである。シルクロードはあくま で、東西南北交易ネットワークの代名詞であり、岩ヴァ雅称に過ぎない。とはいえ それが最高の雅称であることは、中央ユーラシア各地から出土した絹織物の種類と 分布の広がり、さらに文様と織り技術に具現する人類文化の奥深さを知れば、首肯 されるはずである。こうした絹織物をめぐる文化交流史的研究は、実物を分析する 能力もある真の意味のシルクロード史研究者の成長を待って今後大きく発展する事 が予想されるが、その一端はすでにルポ=レスニチェンコ・坂本和子・横張和子な どによって示されている。  
 陸のシルクロード貿易について、さらに誤解をといておきたい。上でも強調した ように、シルクロードは多数のジャンクション(網の結び目)をもつネットワーク であって、商品の伝達はリレー式(中継)であることの方が一般的である。たった 一つ、あるいはせいぜい二つ三つのジャンクション間を移動するだけの短距離商人 もいれば、いくつものジャンクションを越えていく中~長距離商人もいる。また同 一の商人が、両者を兼ねることも往々にしてある。例えばサマルカンドから天山北 路の草原ルートで現在のウルムチ東方の北庭(ビシュバリク)に達し、そこから天 山越えしてトゥルファン盆地の高昌(こうしょう)に入り、数ヶ月間の滞在後に砂 漠を越えて敦煌に達し、そのまま河西回廊を東進して長安にまで、はるばるとソグ ド産の金銀器とインド産の胡椒を運ぶソグド人長距離商人がいたとしよう。彼が北 庭で生きた羊を仕入れてトゥルファンで売り捌く短距離商人となり、ゴビを越えた 敦煌で新たにコータン(于闐:うてん)産の玉を仕入れ、長安にまで運ぶ中距離商 人となれば、まさに一人三役を果たすが、こうしたことはごく自然なのである。  
 注意したいのは、紀元前に始まる初期のシルクロード貿易は、まず短距離、つい で中距離を動く商人たちによってリレー式に始まったことである。最初から長距離 商人がいたわけではない。それゆえ、しばしば前漢・武帝時代の張騫(ちょうけ ん)をシルクロードの開拓者のごとくいうのも、誤解である。張騫がシルクロード を開拓したわけではない。彼はすでにあったルートを一人で遠くまで旅しただけで ある。もっとも、張騫以後に中国側からシルクロードへの働きかけが急激に活発と なり、西域寄りの物産や情報の流入が格段に増大したことは否めない。  
 東西南北交易ネットワークの雅称としてのシルクロードよりさらに進んで、その ネットワークを包含する地域全体の名称としてシルクロードを使用する場合があ る。しかも、私の場合、シルクロードには空間だけでなく時間的概念をも含ませて いる。例えば「シルクロード地帯」とか「シルクロード東部」などという用語に は、世界史の上でシルクロード(もちろん陸のシルクロード)が重要な役割を果た した時代、つまり近代以前において、シルクロードの幹線が通っていた地域という 意味を込めている。シルクロードとは別の言葉で言えば「前近代中央ユーラシア」 のことなのである。さらに本書では東側(中国・朝鮮・日本)からの目でシルクロ ード地帯を見ることが多いから、往々にして「シルクロード東部」が話題になる。

シルクロード貿易の本質

  シルクロード貿易の本質は奢侈品(しゃしひん:生活必需品以外のぜいたく品) 貿易である。これはとりわけ家畜の輸送力に依存する陸のシルクロードについては 強調されねばならない。シルクロードは、旧世界すなわちアフロ=ユーラシア世界 として完結していた「ユーラシア世界史」の時代に、諸文明圏を結ぶ最重要ルート であった。  これに対し、いわゆる「大航海時代」以降、世界史が新大陸を含んで地球規模で 動く「グローバル世界史」の時代になると、陸のシルクロードは相対的に落ち目に なる。それは、それまでアジアの栄光の影に隠れていた中世ヨーロッパの諸勢力 が、アジアより火薬と共に学んだ羅針盤を改良し、鉄製刀剣と馬と銃火器を持って 大型外洋航海船で大西洋に乗り出し、新大陸からの銀を始めとする富の収奪と、ジ ャガイモ・トウモロコシなどの寒冷地に強い栽培植物の移植によって大きく発展 し、産業革命を成し遂げ、ついにアジアを凌駕するに至るのと表裏一体の関係にあ る。つまり生産力・軍事力と並んで世界史を動かす原動力である物流は、「大航海 時代」を境にその前後で大転換を遂げるのである。具体的に言えば、グローバル世 界史の「海洋の時代」となれば、重くてかさばる食糧や原材料や生活必需品の大量 輸送が可能になるのに対し、ユーラシア世界史の「内陸の時代」におけるシルクロ ード貿易は、時と場所によっては塩・穀物などの生活必需品の短距離輸送もあった が、あくまで軽くて貴重な商品、すなわち奢侈品や嗜好品の中~長距離輸送が主流 であった。
①方角、② 特産地、③ラクダや馬で運ばれた奢侈品や嗜好品
(1)①東、②中国、③絹織物・紙・茶
(2)①西、②ペルシア、東地中海方面、
   ③金銀器・ガラス製品・乳香・薬品・じゅうたん
(3)①南、②インド、東南アジア、
   ③胡椒・香木・宝石・珊瑚・象牙
    ・犀角(さいかく) 鼈甲・藍
(4)①北、
   ②ロシア、シベリア、 満州、中央アジア、  
   ③高級毛皮・朝鮮人参・鹿角・魚膠(ぎよこう:
    サメ などの魚類を原料とする にかわ)
(5)①、②複数にまたがる、
   ③コータンの玉・バダクシャのラピスラズリ・
    クチャの硇砂(のうしゃ:塩化アンモニウ ム)・
    チベットの麝香・ヤク牛の尻尾・毛織物・
    綿織物・真珠・装身具・鎖帷子・装飾鞍などの
    武具・葡萄酒・蜂蜜・大黄
それ以外の重要な貿易品:奴隷・家畜  
 もちろん、先ほど述べたように、奢侈品を長距離ないし中距離で運ぶ典型的シル クロード商人が、旅の途中で短距離の交易をすることがあってもいいわけで、その 場合は、家畜といっても馬・ラクダといった高額でしかも足の速いものだけでな く、低額で足の遅い羊・ヤギ・牛などさえ扱われることがあった。そしてそのよう なシルクロード貿易で活躍した者としては、アラム商人・インド商人・バクトリア 商人・ソグド商人・ペルシア商人・アラブ商人・シリア商人・ユダヤ商人・アルメ ニア商人・ウイグル商人・ 回回商人などが知られている。  
 シルクロードではこうした活発な商業活動が行われ他だけではなく、仏教・ゾロ アスター教・マニ教・キリスト教・イスラム教といった宗教が伝播し、蓄積された 富によって豪華な装飾や華麗な壁画を持つ寺院や教会が次々に建立され、惜しげもなく喜捨(きしゃ)される金銭財物によってそれが維持されたのである。なお僧侶 や巡礼者は宗教活動と併行して商業活動にも従事するのが一般的であり、公私の世 俗的威信材のみならず、宗教的儀礼用必需品(僧侶の衣装、式場の装飾品、香料、 菓子など)も重要な商品としてシルクロードを駆け巡り、遠隔地商業を活発かさせ る要因となった。

世界史における重要性  

 確かに1980年に放送されたNHKスペシャル「シルクロード」によって、シルクロ ードには「東西」の交流と「文明の通り道」のイメージが行き渡ってしまったため に、ややもすれば現地の歴史や文化を無視する傾向が強まった。しかし現地出土の 多言語の文書を解読し精密に分析すれば、先学たちが漢文史料やペルシア語・アラ ビア語史料などのいわば中央アジアの「外縁」に残された資料を用いて、苦心惨憺して論証してきたシルクロードの貿易や言語・宗教・文化交流の実態が、如 実に浮かび上がってくるのである。現地の極度に乾燥した砂の下や石窟の中に埋も れていたこうした一次史料によって、今や、かつての中央アジアにおける多民族・ 多言語・多宗教の人々の営みが、いずれもシルクロードと密接に結びついていたことが確認されているのである。 モンゴル帝国時代までの中央ユーラシアにおけるシ ルクロードの重要性に疑念をさしはさむ余地は微塵もない。
 近代に入り、西欧列強が銃火器と羅針盤を備えた外洋航海船でもって「海洋の 道」から世界を制覇していくようになると、世界史における内陸アジアの重要性は 格段に低下し始める。佐口透が指摘したように、近代にいても露清間貿易の盛況に 支えられ、内陸アジアを通じての国際貿易の総量は近代以前を凌ぐとはいえ、その 世界貿易に占める割合は「海洋の道」にはるかに及ばなくなる。したがって世界に おける内陸アジアの重要性は経済的にも文化的にも低下していくのである。  
 近代の東西トルキスタン住民の大多数は農民となった。いや前近代においても、 シルクロード貿易は奢侈品を運んで移動するキャラバンによる遠隔地商業であるか ら、各地域内の定期市などで自己完結する日常生活レベルでの交易とは截然(せつ ぜん)特別され、一般農民と直接の関係を持つことは少なかった。それゆえ、シル クロード部液は在地の住民にとって重要でなかったという評価もあり得るだろう。 しかし私は、キャラバンの通過・滞在によってローカルな経済も刺激されたはずで あると考えるから、そのような評価には与(くみ)しない。  
 それよりむしろ、7世紀前半に典型的なシルクロードしょうにんの本拠地であるソ グディアナを通過した玄奘の目に、現地の生業は「力田(農業)と 逐利(ちくり: 商業)する者が雑り半ばしている」と映った事実に、注目する。しかもかれは、 「風俗は軽薄で、詭詐(うそいつわり)がまかり通っている。 おおむね欲張りで、 父子ともに利殖をはかっている」(水谷真成訳)とも伝えているのである。我々は 中央アジア史において農民が大事ではなかったなどと言っているのではない。しかし、前近代世界において商業という第三次産業が50%を占めているというのは、 やはり異常であり、そこに特殊性があると見ていいはずである。  
 近代以降は、軍事力の中核が騎馬軍団から銃火器にかわり、貿易のメインルート が「オアシスの道」「草原の道」から「海洋の道」に移行したことにより、中央ア ジアは世界史の檜舞台から引き摺り下ろされ、以後の中央アジア史は数ある地域史の一つとして語られるようになるのであるから、近代中央アジア史研究者が邪称知 してのシルクロードにさえ違和感 を覚えるのは理解できる。私は、地域史に意味が ないと言っているのではない。しかし、平安時代の日本が、同時代のアジア大陸か らの影響を受けるだけではなく、積極的に世界史に直結する大きな役割を演じてい たかといえば、それはそうではあるまい。  
 ソ連崩壊後は再び中央アジアが世界の注目を浴びるようになってきているが、ティムール帝国滅亡後の16世紀~20世紀の中央アジア史は、やはり地域史の枠を大き くはみ出ることはなかったのである。私が先に、シルクロード地帯とは「前近代中 央ユーラシア」のことであると定義したのは、近現代の中央アジアや中央ユーラシ アを問題とする場面ではシルクロードという術語は相応しくないし、マスコミでも 「現代に蘇るシルクロード」などという表現は使ってほしくないと思うからである。

ユーラシア史の時代区分
イスラム化協調への疑問
世界史の時代区分への新提案  

 さてここに、私なりの世界史の時代区分を提示してみよう。 人類の歴史は今や600 万~700万年前にまで遡るとされているが、我々現生人類(ホモ=サピエンス)の歴 史はせいぜい20万年くらい、そしてようやく11,000年くらい前に農業が発明されて から歴史時代に入ったのである。これまでの世界史というのは、マルクスの唯物史 観の影響も強くあって、どうしても生産力中心の見方をしてきた。 言い換えれば、 農業地帯中心、農耕都市文明中心史観出会った。しかし私は、むしろ軍事力と経済 力(食料生産力と商工業とエネルギー)そしてそのバックにある情報収集伝達能力 に注目するのである。

<世界史の八段階>
(1) 農業革命(第一次農業革命)      約11,000年前より
(2) 四大文明の登場(第二次農業革命)   約5,500年前より
(3) 鉄器革命(遅れて第三次農業革命)   約4,000年前より
(4) 遊牧騎馬民族の登場          約3,000年前より
(5) 中央ユーラシア型国家優勢時代     約1,000年前より
(6) 火薬革命と海路によるグローバル化   約500年前より
(7) 産業革命と鉄道(外燃機関)      約200年前より
(8) 自動車と航空機(内燃機関)      約100年前より
 私は世界史の大きな流れをこのように八段階に分けて考えているが、その特徴は、中央ユーラシア史と世界史を連動させるため、(4)「遊牧騎馬民族の登場」と(5) 「中央ユーラシア型国家優勢時代」という時代区分を設けていることである。(6)の 火薬革命、すなわち殺傷能力の高い銃火器の登場と(7)の産業革命以後、人類は機械 化文明時代に入るが、それはまだ500年弱に過ぎない。それに先行する2,000~ 3,000年の間最も強い軍事力は何であり、最も早い情報伝達手段は何だったのか。機 械化文明の根幹をなす動力を表す単位として 、今でも「馬力(horsepower)」とい う言葉が残っているように、それは馬だったのである。 優秀な馬を育てて、馬に乗 って弓を射る技術に 長じた集団、すなわち騎馬遊牧民こそが地上最強の軍事集団たりえたのである。前近代におけるユーラシア世界史は、農業生産力だけでなく、馬 の軍事力・情報伝達能力とシルクロード商業による経済力をそれ相応に評価してこ そ、初めて理解可能となるのである。  
 9~10世紀を広義の中央アジア史ひいては中央ユーラシア史の 一大転換期とみな す点では、私も野間と同意見である。しかし私はその時代を、遊牧民が草原に本拠 を置きながら、農耕地帯や都市をも包含して支配するようになる中央ユーラシア型 国家(やや古くなりつつある用語で言えば「征服王朝」)の成立した時代と位置付 け、ユーラシア世界史の一大転換期とみなすのである。 もちろん、その中央ユーラシア型国家の完成体が モンゴル帝国であり、その継承国 家としてティムール帝国・オスマン帝国・ムガール帝国・ロシア帝国・大清帝国が ある。したがって、中央ユーラシアの立場から世界史を 時代区分して、10世紀戦後 を境にして、それ以前を、中世、以後を近世とし、16~17世紀からを近代と呼び、 グローバル世界史に連動させることも可能ではないかと思うが、今はまだそこまで は主張しない。

第二章 ソグド人の登場
シルクロードの主役
ソグド研究小史  

 騎馬遊牧民族の動向に大きく左右されたシルクロードの歴史の舞台で活躍した民 族や集団は多数いるが、シルクロード商業の主役を演じた人々といえば、まず筆頭 に挙げられるのがソグド人である。とりわけ本書が対象とする時代にあっては、そ の存在感は抜きん出ている。しかもそのソグド人が、最初は商人として入り込んで いった中国ならびに中央ユーラシア東部の遊牧国家において、時間の経過とともに 経済のみならず政治・外交・軍事・文化・宗教の分野においても想像以上に重要な 地位を占めて行ったことが、近年の新発見と新しい視野に立つ研究によって、一挙 に明らかになってきている。  
 紀元1,000年紀のシルクロード貿易を支配したのがソグド商人であり、ソグド語が 国際語となったことを初めて学界で唱えたのは、不世出の東洋学者であり、中央ア ジア・敦煌探検でも名高いフランスのP=ペリオである。1911年、コレージュ =ド=フランスに開設されたばかりの中央アジア学講座の開講記念講演において、 彼はその仮説を明らかにしたのである。まだ極めて材料の少なかった時代に、この ような仮説を提出した彼の慧眼には、今更ながら脱帽せざるを得ないが、その後の ソグド研究には明治末期~大正期にヨーロッパ東洋学界に追いつく気迫を見せた日 本人学者の活躍が目立つようになる。  
 我が国における初期のソグド史研究の代表作は、白鳥庫吉「粟特(ソグド)国 考」(1924年)であり、一方、北中国を含むシルクロード東部に発展したソグド人 に関する研究も羽田享「漠北の地と康国人」(1923年)、藤田豊八「西域研究 (4)薩宝につきて」(1925年)、桑原隲蔵「隋唐時代に支那に来住した西域人に 就いて」(1926年)、石田幹之助「『胡旋舞』小考」(1930年)など、ほぼ同時期 に集中している。それ以後も、ソグド人の東方発展史については日本が世界の学界 をリードしてきた。その中でも顕著な業績を上げた先学として、松田壽男・小野川 秀美・羽田明・榎一雄・伊瀬仙太郎・護雅夫・池田温・後藤勝らがおり、私より若 い世代には吉田豊・荒川正晴・森部豊・影山悦子・山下将司らが続いている。  
 20世紀には華々しい成果を挙げた我が国のソグド人研究であるが、21世紀に入っ た途端、その地位が危うくなっている。なんと言っても脅威なのは、1999年以降、 西安・太原において次々に北周・北斉・隋代の豪華なソグド人墓が発見され、それ に伴って中国の研究者が台頭してきたことである。中国におけるソグド学の隆盛は 1980年代から見られるものの、その時はまだ日本の業績の上に乗っかった形であっ た。それが、ここに来て日本の方が後塵を排する立場になりつつある。
 さらにショッキングな出来事は、2002年に『ソグド 商人の歴史』と題するフラン ス語の書物がパリで出版され、しかもその執筆者がE=ドラヴェスィエールという フランスの若手研究者だったことである。本来なら、このような単行本はまず日本 で出版されて然るべきであるのに、完全に先を越されてしまった。その書物には 我々に未知の情報も数多く含まれている。しかしながら、相当部分はすでに日本の 先行研究で尽くされていることをまとめた感がいなめず、しかも本人は日本語が読 めないため、我が国の多くの先行研究をみ見落としている。本書の出版は、シルク ロード商業に強い関心を抱きながら日本語による業績へのアプローチを苦手として きた欧米学界では大きな反響を呼び、早くも2004年にはその改訂版が出版され、さ らにその英訳も2005年に出版された。改訂版には吉田豊・荒川正晴そして私の三名 が、彼と直に接触する機会を使用したり英文の書評において、増補修正のアドバイ スをした結果もある程度は反映されているが、まだ満足できるものではない。しか し今後の欧米におけるソグド商人の研究は、日本語の幾多の業績を参照することな く、本書を中心に動いていくことであろう。残念ながら、これが日本史を除く世界 の歴史学界の現実であるが、最先端の水準さえ保っていればいつかは報われるであ ろう。

ソグド=ネットワーク
漢文史料中のソグド人の見つけ方  

 漢文史料の中でソグド商人はどのように呼ばれているのであろうか。従来は紀元 1000年紀の範囲内で「商胡(しょうこ)・賈胡(ここ)・客胡(きゃつこ)・興生 胡(こうせいこ)・興胡(こうこ)」あるいは「胡商・胡客」とあれば、ほとんど イラン系商人ないしは西域商人とみなしてよいと認められてきた。しかし、本書で はさらに一歩進めてこれらの多くをソグド商人と見る説を打ち出したい。特に唐代 において「興生胡」ないしその省略形の「興胡」とあれば100%近く、また「商胡・ 賈胡・客胡・胡商・胡客」も80%~90%はソグド商人と見て良いと私は思う。  
 しかしながら、後漢から魏晋南北朝時代の「胡」については今しばらく慎重であ りたい。この時代の「商胡・賈胡・客胡・胡商・胡客」が西域しょうにんであるこ とは揺るがなくても、タリム盆地諸オアシス都市国家からやってきた非漢人( 亀茲 (クチャ)人、焉耆(えんぎ)人を含むトカラ人やコータン人・楼閣人など)の商 人であることも決して少なくなく、 時には遠くインドやペルシアからやって来た商 人を指す場合さえあり、安易にソグド商人とは断定できないからである。例えば6世 紀の『洛陽伽藍記』巻3には、「葱嶺(パミール)より巳西、大秦(=東ローマ帝 国)に至るまでの百国千城は、(北魏に)款附(心から付き従う)せざるなし。商 胡・販客は日ごとに塞下に奔る(=国境地帯に押し寄せる)」とあるが、同書には 「乾陀羅(ガンダーラ) 国胡王」とか「波斯(ペルシア)国胡王」という表現もあ って、「胡」は必ずしもソグドを指していない。さらに 問題なのは、商業を意味す る商・賈・興生や旅人を意味する客と結びつくのではなく、それ以外の語と結びつ いて「~胡」「胡~」となっている場合、例えば「諸胡・雑胡・西胡・ 胡人」や、単に「胡」とある場合である。漢語の「胡」とは基本的に「えびす・外人」の意味 であっても、時代や地域によって 融通無碍に意味の変わる言葉である。五胡と呼ば れる匈奴・鮮卑・氐・羯に代表される中国北部~西北部とその外縁にいた騎馬遊牧 民を意味することもしばしばである。中国に来住したソグド人は、漢文書による行 政上の必要から漢字名を持たされたらしく、その際には出身都市名を示す漢語が姓 として採用された。それらは康国(サマルカンド)、安国( ブハラ )、米国(マー イムルグ)、史国(キッシュ)、何国(クシャーニャ)、曹国(カブーダン)、石 国(タシケント)、畢国(ひつこく:パイカンド)に由来する康・安・米・史・ 何・曹・石・畢という姓である。さらに都市名を特定できないが、羅・穆(ぼ く)・翟(てき)もソグド人のせいに加えて良いことが最近ではほぼ認められてい る。今後はこれらを一括して「ソグド姓」と呼ぶ。ただし康・安・米以外のソグド 姓は、漢人本来のせいであることに注意されたい。それゆえ紀元後の漢文史料でソ グド人・ソグドしょうにんを探すには、「胡」とソグド姓、ないしソグドの総称で ある粟特(ぞくとく)・窣利(そつり)とが結び付いた箇所に注目するのが確実な 方法である。ソグド姓だけ、あるいは商業関係用語と結びついた「胡」だけで判断 するのは危険が大きすぎる。

国際語としてのソグド語  

 こうしてみれば、この時点でソグド語が中央ユーラシア東部の国際語となってい たことが容易に推定されようが、それはモンゴリアのホイト=タミル河(オルホン 河支流)流域にあるブグト碑文と天山中部草原にある昭蘇県の石人銘文の存在によ って裏付けられる。両者はともに突厥第一帝国の公式モニュメントであり、国内の みならず周辺諸国からの使者たちにも見せることを狙って6世紀末頃に建てられた ものであるが、その言語は漢語でもトルコ語でもなくソグド語だったのである。 オ ルホン碑文と総称される突厥碑文から知られる通り、唐代の7世紀末に復興する突 厥第二帝国も公用語は自分たち固有の突厥語(古トルコ語の一種)であったのに対 し、第一帝国の公用語が外来のソグド語であったということに、読者は意外の感を 抱かれるかもしれない。
 しかしそのことはすでに『周書』突厥伝にある「その書字は胡に類す」という一句 から予想されており、近年のブグド碑文・ 昭蘇県石人銘文の発見によって確証され たのである。  
 この事実は、遊牧国家に与えたソグド人の影響の大きさを如実に物語っている。 突厥第一帝国には「胡部」と呼ばれるソグド人聚落(しゅうらく)さえ形成されて いたこと、史蜀胡悉(ししょくこしつ)・安遂伽(あんすいか)・安烏喚(あんう かん)・康鞘利(こうしようり)・康蘇密(こうそみつ)という実名が知られるほ どの大物をはじめとする「群胡」(多くのソグド人)が歴代の突厥宮廷に仕えてお り、彼らが淳朴な突厥人に奸智(かんち:悪だくみ もちろん漢人側の表現)を授 けて中国に仇をなしていた様子、逆に見れば突厥にとっては有利な政治・経済・外 交上の顧問となっていたことが、護雅夫による漢籍・石刻碑文の分析から判明して いる。  
 現存する史料による限り、中央ユーラシアの遊牧民に史上初めて文字文化をもたらしたのは、好きたいにおけるペルシア人やギリシア人でも匈奴における漢人でも なく、突厥におけるソグド人だったわけであるが、突厥以前にモンゴリアを押さえ た柔然(じゅうぜん)においても、南の中国に拠る拓跋(たくばつ)国家や青海の 吐谷渾(とよくこん)といった鮮卑系諸王朝や、西域諸国との交渉においては、ソ グド人が重きをなし、ソグド語が国際語であったと断定することができるのである。

河西回廊のソグド人軍団
河西随一の大都市・涼州(りょうしゅう)  

 中央ユーラシアに張り巡らされたシルクロード=ネットワークの中で、 東西南北 のいずれにも通じる掛け値なしの要衝といえば、西のソグディアナと東の河西地方 をおいて外にない。その河西回廊でソグド人コロニーのあった重要都市として 知ら れるのは、これまでに見た酒泉(粛州)と、池田温の研究によって 有名となった敦 煌(沙州)がある。唐代の敦煌には行政区画として「従化郷 (じゅううかきょう)」と名付けられた聚落(しゅうらく)があったが、そこには「安城」とも呼ば れ、沙州城の東隣にあり、戸数は約300、住民は安姓だけでなく、康姓・石姓・曹 姓・何姓・米姓・賀姓・史姓などが大部分を占める独立の城郭年であった。しかし、それ以上に注目すべきなのが、河西随一の大都会で姑臧(こぞう) とも武威 (ぶい)とも呼ばれた涼州(りょうしゅう)である。  河西が中国の領土となったのは前漢・武帝の時であるが、早くも後漢代の初めに は、姑臧は一大マーケットとしての繁栄を見せている。 『後漢書』巻31・列伝2 1・孔奮伝によれば、王莽(おうもう)の乱を避けて河西にあった孔奮が、河西大 将軍・竇融(とうゆう)の推薦で姑臧(=涼州・武威)の長官になった時のことと して、次のようにある。  
 時に天下は擾乱(じょうらん)するも、唯河西のみ独り安んじ、姑臧は富邑たり と称えられ、貨を羌・胡に通じ、市は日ごとに四たび合まる。県に居する(県の長 官となる)者毎に、数ヶ月に盈たずして、 輒(すなわ)ち豊積を致す。(孔)奮は 在職すること4年なるも、財産は増す所なし。  
 そして627/628年に河西回廊を通過した震度求法僧・玄奘の伝記『大慈恩寺三蔵法 師伝』には、「涼州は河西の都会たりて、西蕃・葱右(そうゆう)諸国を襟帯し、 商侶の往来は停絶あることなし」と評されている。つまり涼州は河西最大の都会 で、西域や葱嶺(そうれい:パミール)以西の諸国と密接に繋がっており、商人た ちの往来が途絶えることがなかったという。  
 また唐代に、上は宮廷の王族・貴人・官僚から下は庶民に至るまで、国を挙げて熱中した年中行事に、正月15日前後の「元宵(げんしょう)観燈」がある。宮殿・ 官庁・商店や個人の家ごとにそれぞれ意匠と贅を尽くした燈籠を無数に懸け連ね、 着飾った男女が夜を徹して歌い踊り、恋のアバンチュールも楽しんだのである。 燈 籠の中には燈樹・火ジュ・山棚などと称され、長い竿に多数の横木をつけてそこに 万燈(まんどう)をぶら下げたものや、無数の小燈籠を円錐形に配する工夫をして 大燈籠に仕立てるなど、相当大掛かりなものもあり、その伝統は後に日本へも伝わって青森や弘前の ねぶた(ねぷた)、秋田の竿燈となる。隋唐代の中国ではこのよ うな夜通しの遊興がお上から許されたのは稀であるから、その熱狂ぶりと賑わい は、我が国のねぶたや竿燈、そして仙台の七夕や神戸のルミナリエなどと比べても 想像を絶するものがあったようである。そうした元宵観燈がもっとも盛んに行われ た都市として長安・洛陽に並んであげられるのが、かつて煬帝(ようだい) が愛し た南の江都(こうと)・揚州(広陵)と、河西の涼州なのである。  
 このように繁栄した涼州において、北朝~隋唐代を通じてソグド人が蝟集(いし ゅう)していた事実を示す史料は少なくない。すでに言及した敦煌発見のソグド 語 古代書簡は、4世紀の第一=四半世紀に領収にいたソグド商人と深く関わるものであったし、四世紀末には涼州で即序胡(そくじょこ)の安據(あんきょ)が前涼王・ 張駿の墓を盗掘したため、後涼王・呂纂(りょさん)(二代目)が安據の一党50余 家を誅したという[『晋書』巻122呂纂載記]。すでにブハラ主審の一族が蟠踞(ばん きょ)していた証である。
 そして5世紀に入って429年、北魏の 世祖太武帝が自ら先頭に立ってモンゴリアへ 遠征し、宿敵柔然(じゅうぜん)の大檀可汗(だいだんかがん)の率いる軍に大勝 して数百万に及ぶ 俘虜(ふりょ)・家畜・車廬を獲得したが、最後の詰めを欠き、 逃亡した大檀の息の目を止めることが出来なかった。ところが、後で、柔然の内情 に通じた「涼州賈胡」の口から、伏兵を恐れずにあと二日進軍していれば大檀は逃 げ場を失ってうち果足されたはずだと聞き、太武帝は地団駄を踏んだという[『魏 書』巻35・崔浩伝(さいこうでん)など]これまた涼州に本拠を置くソグド商人が、 漠北に情報ネットワークを持っていた証拠である。  
 さらに439年(太延5)、河西地方を支配していた北涼が北魏に征服され、首都・ 姑臧(すなわち涼州)が陥落した時、その民3万余家が北魏の首都、平城(現在の 山西省大同市)に連行されたが、涼州にいたソグド商人もことごとく運命を共にし た。この時、北魏が北涼を滅ぼすことになった理由の一つとして、財政的にソグド 人商人のキャラバン貿易に深く依存していた北涼が、北魏へのソグド商人 の自由な 往来を阻害したことが挙げられる。この事件に対し、ソグド都市国家連合を代表す る粟特(ぞくとく)王(ソグド王)は北魏に遣使して、これらのソグド商人を買い 戻す努力をした。その結果、十年以上経った452年頃、ようやく北魏の皇帝は詔を下 してそれを許可したという 。
「買い戻す」と訳した原文は「贖(あがなう)」であるが、それは直ちに帰国させ ることを意味するのではなく、奴隷身分より解放して自由身分にするということで あろう。ソグド商人たちは10年以上も抑留されていたわけであるが、本国は彼らを 見捨てることなく救済の努力を続けていたのである。その間、彼らは北魏のシルク ロード国際貿易への参入に加担させられたのか、あるいは優秀な軍事集団として 遠 征などに利用されたのか定かではない。『魏書』西域伝では、452年以後ソグディア ナからの朝貢(ちょうこう)はないというが、実は本紀には457~479年にソグドの 名前で4回、468~509年にサマルカンドの名前で10回の朝貢が伝えられてい る。以上の始末は、ソグド商人の東方への発展が、決して 個々別々に孤立した個人 レベルのものではなかったことを窺(うかが)わせるに十分である。

第三章 唐の建国と突厥(とつくつ)の興亡
多民族国家・唐帝国
唐は漢民族王朝ではない  

 ユーラシア大陸の東部に位置し、悠久の歴史を誇る中国は、常に多言語世界であ った。そして中国史の半分くらいは、支配者層が漢民族ではなく、異民族(中国語 で「少数民族」とも呼ばれる非漢民族)であった。例えば五胡十六国・北魏(戦費 族拓跋氏)・遼(契丹族)・西夏(タングート族)・ 金(女真族)・元(モンゴル 族)・清(満州ジュシェン族 )などは誰もがすぐに思いつくであろうが、近年では 北魏を受け継ぐ東魏・西魏・北周・北斉は愚か隋・唐でさえ鮮卑系王朝とか「拓跋 国家」などと言われている。後者は学問的には中国の陳寅恪が「関隴貴族集団」あ るいは「武川軍閥集団」(以下「関隴集団」と略称)というものを提唱し、西魏・ 北周・隋・唐を関隴集団によって生み出された一連の国家と捉えた 学説に近く、そ の点では中国史研究者にも目新しい説ではなかろう。  
 関隴集団とは、北魏の国防を担うエリート部隊であった六鎮の出身者、とりわけ武川鎮の出身者(多くは鮮卑族)が、北魏分裂後に関中盆地に移動して在地の豪族 と手を組んで出来上がった胡漢融合集団のことである。西魏の実験を握り、北周王 朝を開いた宇文氏、隋を開いた楊氏、唐を開いた李氏はいずれもそこの出身であ る。しかし従来の関隴集団を標榜する説には、北朝隋唐の歴史を秦漢以来の中国史 の自己展開の枠内で捉えようとする中華主義が色濃く残っている。それに対し、鮮 卑系王朝とか「拓跋国家」という用語を使う我々は北~中央アジア史、ひいては中 央ユーラシア史に軸足を置いている。そしてこの立場からは、唐帝国は決して狭義 の漢民族の国家ではないと断言できるのである。  
 すでに序章で「漢化」について述べたが、重大な論点なので、ここでもう一度さ らに詳しく論じたい。  
 現代中国では中核となる漢民族の他に50余の「少数民族」が公式に認められているが、中華人民共和国の領土内で唐代までに活躍した匈奴・鮮卑・氐(てい)・ 羌(きょう)・羯(けつ)・柔然(じゅうぜん)・高車・突厥・鉄勒・吐谷渾・カ ルルク・奚(けい)・契丹などはその中に入っていない。なぜなら、秦漢時代まで に形成された狭義の漢民族に、魏晋南北朝隋唐時代を通じてこれらが融合して新し い漢民族となったからである。であるから、唐の漢民族・漢文化と秦漢の漢民族・ 漢文化とは別物なのである。前者はむしろ唐民族・唐文化と呼ぶ方がふさわしい が、誰も唐民族とは言わず漢民族という。こうした用語の保守性がしばしば真実を 覆い隠すのである。

秦漢時代までに形成された狭義の漢民族
+
(魏晋南北朝隋唐時代)
匈奴・鮮卑・氐(てい)・羌(きょう)・羯(けつ)・柔然(じゅうぜん)・高 車・突厥・鉄勒・吐谷渾・カルルク・奚(けい)・契丹

新しい漢民族


唐の漢民族・漢文化≠秦漢の漢民族・漢文化

唐民族・唐文化と呼ぶ方がふさわしいが、誰も唐民族とは言わず漢民族だから、混同してしまう。

 唐は中国史の黄金時代であるという命題を、唐は漢民族史の黄金時代と読み替え て、漢民族が多種多様の少数異民族を差別せずに優遇したなどということ自体、ま さしく中華主義以外のなにものでもない。唐は漢語をはじめとする中国文化を取り 入れた異民族が中心となって建設した国家、あるいは少なくとも異民族の血を引く 新しい漢民族たる「唐民族」の国家なのであるから、漢民族以外の少数民族にアレ ルギーがなく、能力さえあればこれらを分け隔てなく用いるのは当たり前である。 唐の世界主義。国際性・開放性は、もともと唐が漢民族と異民族も血と文化が混じ り合うことによって生み出されたエネルギーによって創建された国家であるという 本質に由来し、しかも一貫して多民族国家だったことによって促進された物なので ある。それは後のモンゴル帝国や現代のアメリカ合衆国にも通底するものである。  
 唐には、東魏・西魏分立時代から中国に巨大な経済的負担をかけた突厥人もいれ ば、商人として活躍したソグド人もペルシア人 も、あるいは高仙芝(こうせんし) や慧超(えちょう)のような朝鮮人も阿倍仲麻呂や藤原清河(ふじわらきよかわ) や井真成(いのまなり)のような日本人もいた。彼らは全て固有の言語と漢語をこ なし、場合によっては第三言語も操っていた。彼らがすべて「漢語も」 しゃべれた という側面のみを抽出して、彼ら は全て結局は「漢化」したのであるとか、唐がそういう異民族を受け入れたのは、漢民族の度量が大きかったからであるとかいう解 釈は、後知恵の中華思想に過ぎない。

唐建国の担い手・鮮卑(せんぴ)  

 では唐帝国総研の中核を担った異民族(非漢民族)とは一体何者であったのだろ うか。その筆頭が北魏の武川鎮(ぶせんちん)に由来する鮮卑系集団であることは 今や定説である。武川鎮とは、もともとは大興安嶺方面にいた遊牧民族である鮮卑 が、中国本土に入って建国した北魏が、北方で新たに台頭した遊牧民族である柔 然・高車(こうしゃ)を防ぐために配置した六つの辺境軍鎮「六鎮」の一つであ る。現在の内モンゴル自治区の首都フフホト(呼和浩特)の北方に置かれていた。 北魏の首都がまだ山西省北部の平城(大同)に置かれていた時代には、六鎮の武将 たちは国防の重責を担うエリート集団として、それ相応の待遇を与えられていたの が、孝文帝が洛陽に遷都し、いわゆる「漢化政策」を推し進めて国の中心が南にシ フトすると、風向きが変わった。吉岡真が暴き出したように、漢籍は北魏を漢人王 朝であるかのように史料操作しているから、この漢化政策を過大視してはいけない が、六鎮の将兵への待遇が急激に悪化したのは事実である。とどのつまり彼らの不 満が523年からの「六鎮の乱」となって爆発した。  
 その混乱によって北魏は東魏と 西魏に分裂するが、当初強盛だったのは東魏であ る。南下した六鎮の将兵たちの多くが東魏に入って山東貴族と手を結んだのに対 し、西魏に入った武川鎮出身の少数派は関中盆地で郷兵集団を統率していた在地豪 族と手を組んだ。こうして宇文泰をリーダーに 西魏内部に形成されたのが胡漢融合 集団であり、それを基盤にして北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏が相次いで政権 の座についたのである。  
 唐建国の立役者がこのような由来を持つ鮮卑系関隴集団であったことは紛れもないが、しかしそれだけではない。実はなんとあの匈奴までもが深く関わっておたこ とが、石見清裕によって明らかにされたのである。 もちろん、従来からも関隴集団 中の独孤氏は匈奴系であるとか、隋の文帝(楊堅ようけん)の父・楊忠は身長2メ ートルに及び、しかも彫りの深い美男子であったので、コーカソイドの血が混じっ ているだろうと言われてきた。五胡のうち 匈奴と羯にはコーカソイドが混じってい た可能性が高いのである。しかるに石見が漢籍から発見したのは、胡漢融合集団と しての関隴集団ではなく、オルドス(黄河湾曲部)で遊牧生活を続けていた匈奴の 集団なのである。その名を費也頭(ひやとう)という。  
 楊堅・楊広すなわち隋の文帝・煬帝二台に渡る新国家建設の一大事業が三度の高 句麗遠征失敗によって頓挫し、全国各地に反乱の火の手が上がると、煬帝は政治へ の関心を失い、616年からは、彼の大英断によって開鑿(かいさく) された大運河の 要衝であり、強い憧れを持っていた江南文化の薫り高い江都揚州に引き籠り、酒と 女と遊興に明け暮れるようになってしまった。後に唐の玄宗も同じ轍を踏むことに なるが、権力者・大富豪といい女とが磁石のようにくっつくのは、古今東西変わり はない。  
 一方、全国の反乱勢力は約20の群雄に集約されつつあった。そうした中、楊氏 と同じ関隴集団の出で、煬帝から煬帝から太原留守(たいげん りゅうしゅ)という 大役を任されていた李淵(りえん)が、有能な三人の息子たちに後押しされる形で 617年7月に挙兵した。この段階では、李淵父子の軍団はまだ幾多の群遊の一つに過 ぎなかった。彼らは、自分たちの本拠が山西省の太原(并州、晋陽)であるという 地の利を生かし、真っ先に長安を目指した。大運河を重視した関係で、煬帝は洛陽 や揚州にいることが多く、首都・大興城(唐の長安城)には文帝以来蓄積された財 貨や武器が隋末の戦乱に遭わず、無傷のままで残っていた。それを易々と手中に収 めたことが、李淵一派が他の群雄より抜きんでる大きな要因になったといわれる。  
 同年11月に李淵軍が長安に入城すると、そこには煬帝の孫で13歳の楊侑(ようゆう)がいるだけであった。李淵は彼を形式的な隋皇帝に祭り上げ、自分は唐王とな り、禅譲の機会を伺った。そして618年3月、煬帝が江都 揚州で部下の反乱にあって 殺されると、同年5月、李淵は初代皇帝・高祖となった。長男・李建成(りけんせ い)が皇太子となり、次男・李世民(りせいみん)は秦王、四男の李元佶(りげん きつ)は斉王に封じられた。これが武徳元年の唐の建国であるが、各地にはまだ多 くの群雄が残っており、それらが順々に閉廷され、最終的に国内統一がほぼ完了す るのには5年後のことである。

唐の建国と発展

唐(618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国であり、中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。

オリドス地域の重要性
拓跋(たくばつ)国家と突厥第一帝国  

 唐の建国の中心は鮮卑系漢人と匈奴の一部であったことが理解されたと思うが、 彼らが中華の唐帝国を確立するために最大のライバルとなったのは、かつての 匈 奴・鮮卑・柔然の後を承けてて、当時の中央ユーラシア東部地域を支配していた遊 牧国家・突厥第一帝国(東西両突厥、552~630年)である。この強大な勢力を打倒 することなしに、唐が人類史上に燦然と輝くあれほどまでの世界帝国になることは ありえなかったのである。ただし唐と突厥との国際関係は、唐に先行する拓跋国家 である東魏・西魏・北斉・北周・隋にまで遡って考えなければならない。  
 モンゴリア西部のアルタイ地方から突厥が 勃興した6世紀中葉は、ちょうど東魏と 西魏がそれぞれ北斉と北周に名を変える頃であった。この両王朝の名称変更は、北 魏の王族・拓跋氏と皇帝として戴きながらも実権を掌握していた東魏の高氏(高歓 の息子の高洋)と西魏の宇文氏(宇文泰の子の宇文覚)とが、強制的に皇帝位を譲 らせたことを意味する。  
 とはいえ北中国に分立した両王朝では、柔然を倒してモンゴリアを中心とする草原世界に覇を唱えた凸靴第一帝国に対抗することはかなわず、常に突厥から掣肘 (せいちゅう)を加えられたのである。『周書』突厥伝によれば、第三代の木杆可 汗(もつかんかがん)「以来、突厥は富強隣、中華を凌ごうという意志を抱くよう になった。北周の武帝(高祖、宇文邕)は木杆可汗の娘を娶る競争において北斉に 勝利し、北周の朝廷はすでに突厥と和親して、 毎年、きぬ・きぬわた・錦・あやぎ ぬという多種多様の絹製品10万段を贈っていた。突厥人で京師(けいし:長安= 西安)に滞在する者は丁重にもてなされたので、錦を衣服とし肉を食している者 は、常に1000をもって数えるほどたくさんいた。 一方、北斉の人もその侵略を懼 (おそ)れ、やはり宮廷や国家の財物庫を傾けて贈り物をした」という。  
 この勢いを受け継いだ第四代・他鉢(たはつ:佗鉢)可汗が「南方にいる二人の 息子(北斉と北周)が孝順である限り、我らにどうして物資欠乏の心配があろう か」という有名な言葉を吐いたことが『周書』突厥伝に伝えられているのは、まさ にその当時の勢力関係を象徴している。 互いのしのぎを削っている北斉・北周はな んとしても突厥の観心を買って自己に有利に働いてもらうよう物資援助や婚姻関係 などで配慮せざるを得ず、片や突厥は北斉・北周の対立関係を利用して北から南を コントロールできたのである。  
 この言葉は突厥の中国に対する優位と驕慢(きょうまん)さを強調する文脈で引 用されているが、単に凸靴が略奪・歳幣(さいへい)などに頼って贅沢をしていた と理解してはならない。 経済基盤の脆弱な遊牧を主とする国家にとって最大の困難 は旱魃(かんばつ)・霜雪などの自然災害なのである。まさにこの突厥第一帝国を はじめ、次のウイグル帝国(東ウイグル)も、後世の大元ウルス(元朝)も、自然 災害が国家滅亡の一大要因となったのである。自然災害や疫病などによって家畜の 大量死という饑饉状態に陥った時、いつでも援助してくれる国家が南に控えていれ ば、これほど心強いことはない。  
 さらに、木杆可汗の娘が阿史那(あしな)皇后として 北周・武帝に嫁いだよう に、それまで北周良しであった路線が、572年の 他鉢可汗即位によって、北斉よりに シフトしたことは注意されて良い。 最新の平田陽一郎の研究によれば、即位前は地 頭可汗と呼ばれ、東面にいる小可汗として早くから北斉と緊密な関係を保っていた 他鉢可汗は、北斉の初代・文宣帝(高洋)以下の仏教を保護した国造り政策に共鳴 し、北斉の沙門・恵琳から強化を受けて仏教徒となっていたという背景があるとい う。しかも「三武一宗の法難」といわれる仏教弾圧の一つである廃仏を574年に断行 した北周の武帝によって、577年最終的に北斉が滅ぼされると、他鉢可汗は高洋の子 の高紹義を迎えて北斉皇帝とし、北斉からの逃亡者をまとめ上げて亡命政権を作ら せ、北斉復興を名目にして北周に侵入した。 親征した武帝が急死するという不運に 見舞われながらも、578年に行われた一連の戦闘においておおむね北周が突厥・北斉 亡命政権連合側に勝利を収めた。

太宗の打倒突厥
玄武門の変による太宗の即位  

 建国直後の唐に対抗していた群雄のうちでも強大であった隴西(ろうさい) の薛 挙(せつきょ)、山西北部の劉武周(りゅうぶしゅう)、河北の竇建徳(とうけん とく)、洛陽の王世充(おうせいじゅう)などを次々にうち砕いていったのは、高 祖となった李淵の長男で皇太子となった李建成ではなく、若い頃から勇猛をもって きこえた次男の秦王・李世民であった。李世民のあまりの活躍ぶりと、それに伴う 宮廷内での評価や世間の声望の上昇に焦りを覚える皇太子と、兄の資質には到底及 ばないと自覚する末弟の斉王・李元吉とが、李世民に対抗するために手を結ぶのは無理からぬところである。こうして李建成・李元吉対李世民という敵対の基本構図 が出来上がる。 
 そして武徳9年( 626)6月4日早朝、長安城北門である玄武門において李世民は皇 太子・李建成と弟の李元吉との戦闘の上、二人を一挙に殺害する。世に「玄武門の 変」といわれるクーデターである。 この時に父である高祖・李淵から実権を奪った 李世民は、まず皇太子となるが、早くも2ヶ月後に太宗として即位し、名実ともに最 高権力者となる。残された史書には、玄武門の変が、人格的にひどかった李建成・ 李元吉に対する太宗李世民の正当防衛であったかのように書かれているが、それは即位後に太宗が同時代の歴史家を動員して行わせた歴史の捏造によるものであっ て、事実ではないらしい。  
 玄武門の変が兄弟間の帝位後継争いであることは疑いないが、それだけではな く、背景として幾つかのことが考えられる。すでに武徳6年( 623)の段階で隋末唐 初の群雄の多くが鎮圧されており、残る大敵は北の突厥と、突厥の威を借りて生き 続ける夏州(オルドス南部)の梁師都と朔州(大同盆地西部の馬邑)の苑君璋(え んくんしょう)の勢力だけであった。石見清裕によれば、武徳後半において唐の抱 える問題は、国内問題から突厥相手の国際問題に移行していたのである。そして対 突厥政策を巡って、宮廷内では高祖と李建成・李元吉と李世民の三者間で、さまざ まな思惑の絡んだ路線対立が生じていたようである。  
 山下将司によれば、国内戦争の終焉によって武徳6年に一旦は廃止された関中十 二軍は、突厥との前面対決のために武徳8年(625)4月に再度設置されたが、その トップたる十二人の軍将はことごとく高祖李淵の配下であった(第二章で触れたソ グド人武将・安修仁(あんしゆうじん)もその中に含まれていた)。つまり群雄鎮 圧に大きな成果を挙げた李世民派(山東集団という)は完全に締め出されたのであ る。  
 李世民は、武徳7年(624)秋には、突厥側の頡利(けつり)・突利の二可汗の侵 略に対して出撃して成功し、突利と義兄弟となるなど以後の離間策につながる 布石 を打っているが、武徳8年には一度も出撃命令を受けることなく終わり、片や高祖 が派遣した唐軍は突厥に大敗したのである。  
 対突厥策については遷都論という弱腰路線にも全面対決という強硬策にも反対 し、もし突厥内部分裂を計略する自分のやり方が通らなければ、国内は再び隋末の ような混乱状態に逆戻りするとの危機感を抱いていた李世民は、高祖と皇太子の方 から遠ざけられつつある現実を打開するべく、ついにクーデターに 踏み切った。国 内的にも国際的にも、緊張はこの年にピークに達していたのである。クーデターの 決断にはもちろん、彼を取り巻く房玄齢(ぼうげんれい) を筆頭とする山東集団の 強力な支えがあった。勝利を収めた李世民は、関中十二軍を解体し、以後、唐建国 の功臣としての名誉は、李淵の 太原挙兵に従った者たちではなく、玄武門の変で李 世民を支えた者たちへと移るのである。

唐の最盛期
天可汗(てんがかん)という称号  

 従来の概説書の多くは、630年の東突厥の滅亡に動転した草原遊牧地帯の諸民族の 君長たちが、太宗に対して「天可汗」 という称号を奉った事実をとらえて、そのことはとりもなおさず、太宗が農耕中国の天子たる「皇帝」のほかに、北~西北方の 草原世界の天子たる「大可汗」としても認知されたことを示しており、ここに唐帝 国は真の「世界帝国」に成長したのである、と説明する。しかしこのような一方的 な過大評価は禁物である。  
 突厥第二帝国のオルホン碑文やウイグル帝国のシネウス碑文などの古代トルコ語 諸史料より、中央ユーラシア東部のトルコ系諸民族が唐王朝・唐帝国のことをタブ ガチ(Tabyuac)と称したことが明らかとなっている。このタブガチとは、「唐家 子」に由来する(桑原隲藏説)のではなく、白鳥庫吉とP=ペリオが主張したとお り、本来は拓跋=タクバツ( Taybac)という名称が訛ったものなのである。正確に は拓(第一音節)の語末の-yと跋(第二音節)の語頭のb-という子音が後退したも ので、言語学的に音位転換といわれる現象である。このように同時代に最有力な隣 人であった北のトルコ系諸民族が唐をタクバツと認識していたという事実からも、 唐が漢人王朝ではなく拓跋王朝であったという中央ユーラシア史的見方の正当性 が、いっそう高められよう。  
 北魏以来隋唐までの拓跋国家の天子は、北の草原のトルコ=モンゴル系遊牧民世 界から見れば、あくまでも北方出身の「タブガチ可汗」すなわち「タクバツ(国家 の)可汗」である。太宗は出自的にもそうした北族の王者たるにふさわしい血統を 引いているのである。そのようなタクバツ可汗に率いられた唐帝国が、軍事力によ って突厥・鉄勒を包含するトルコ世界を制圧したのであるから、複数存在可能な 小 可汗の上に立つ大可汗という意味で、あるいは唯一至高の可汗として、草原世界の 諸君長がこれに「天可汗」という尊称を奉るのはごく自然なことと考えられる。

隋唐は「征服王朝」か  

 古代帝国・漢の滅亡以来、数百年に及んだ大混乱・民族移動期を経て、再び中国 を統一した隋唐帝国にとって、天下を脅かす強力なライバルとなりえたのは、高句 麗・奚(けい)・契丹・突厥・突騎施(とっきし)・鉄勒・ウイグル・ 吐谷渾・チ ベットという、中央ユーラシア東部草原地帯に依拠する遊牧騎馬民集団を大量に抱 える民族ないし国家であった。隋唐自身も、北魏以来の鮮卑系集団が中核となり、 上記の諸民族に比べて早くに中国本土に民族移動した五胡(匈奴・鮮卑・氐・羌・ 羯)と呼ばれる遊牧民全体と、人口では圧倒的に勝る漢人農耕民とを合体させて建 設された帝国であるから、支配層についていえば同じ根っこに由来する。しかし彼 らの統治理念はまさしく「漢化」しつつあった。  
 つまり、政治理念として儒教思想に基づく律令であり、宗教としては中国在来の シャーマニズムがシルクロードを経て伝来した仏教の刺激を受けて体系化された道 教、あるいは東伝後数百年を経てほとんど固有の宗教となりつつあった中国仏教で ある。いずれも「漢文」の素養を必須とするものであるが故に「漢化」といわれ、 しばしば中華主義者から過大視・誇大視されてきた現象である。  
 ただし仏教がもともとは胡族の宗教とされるのはもちろん、律令制の具体相であ る均田制・府兵制・租庸調制のうち府兵制はもちろん、均田制にさえ北族的要素が あると指摘されることも、忘れてはなるまい。いわゆる「漢化」とはその程度のも のであるが、あくまで「漢語」が宮廷言語・統治言語であったゆえに、私は隋唐を遼・西夏・金・元・清のようなレベルのいわゆる「征服王朝」(中央ユーラシア 型 国家)と同列に置くことはしないのである。  
 毀誉褒貶(きよほうへん)は激しいが、それだけ天才的な戦略家・政治家であっ たと言える隋の煬帝と唐の太宗・李世民が、名実ともに世界一の大領土・人口を押 さえ、大運河による世界一の経済力を手中にしながらも。なにゆえ内省充実に向か わず外政に固執したのだろうか。そこに私は、軸足を完全に農耕地帯に移し、文化 的に漢文化と融合しながらも、遊牧国家すなわち武力国家の本質を失わなかった隋 と初期の唐帝国の姿を見る。この時代にはゴビ砂漠という天然の国境が消えたので あり、それは後のモンゴル帝国・元朝と清朝にのみ見られる現象であることに注意 したい。  
 煬帝は吐谷渾と突厥の制圧にはある程度成功したものの高句麗遠征に失敗して自 らの墓穴を掘り、太宗もまた吐谷渾と東突厥を滅亡させることに成功しながら高句 麗遠征(645、647、648年の三次)では、生涯唯一とも言える敗北の苦杯をなめさせ られた。以後も唐は、再興した突厥(第二帝国)や鉄勒(てつろく)・奚(け い)・契丹(きったん)・突騎施・ウイグル・チベットという遊牧民集団ないし 国 家との間で戦争と和親を繰り返し、いずれにせよ莫大なエネルギーと金銭財物を注 ぎ込むことになるのである。これは唐側から見ればいうまでもなく浪費であるが、 周辺にながらこんだ金銭財物はシルクロード貿易の活性化に直結したのである。  
 唐皇帝が名実ともに天可汗であり、唐が真の世界帝国たりえたのは、8世紀中葉の 安史の乱までどころか、ほとんどを父・太宗の遺産に頼った高宗の時代まで、すな わち府兵制を基礎とする都護府・都督府・鎮戌防人制によって羈縻支配(馬や牛を つなぎ止めておくという意味で、異民族の地域を唐王朝の州県に組み込みながら、 現地の異民族にその地の一定の統治権を分け与える、異民族に対する懐柔策と言う ことできる。 また、いくつかの州をまとめて監視するために都護府を置き、都護府 の長官以下の官吏と付属の軍隊は中央から派遣した。)が実効力を維持し得た7世紀 に限定されるのである。7世紀末の則天武后時代に突厥が復興して強大な突厥第二帝 国が出現してからも、唐の東トルキスタン経営は順調であり、文化的には最も華や かな時代を迎えるが、その盛唐といわれる玄宗の治世(開元・天宝年間)において さえ、すでに帝国衰亡の芽は萌しているのである。

第四章 唐代文化の西域趣味
酒場の胡姫
石田幹之助の名著「長安の春」  

 近現代についてはいざ知らず、およそ近代以前の人類史について、歴史学の資料 になるような文献の中に風俗・文化や日常生活に関する情報が残されていることは 実に稀である。それは新聞とか日記を想起すれば容易にわかるように、記録という ものは日々繰り返されることや身の回りのこと、つまり同時代人にとって当たり前 のことを書き留めるものではなく、日常とは異なる珍しい出来事とか重要な情報の 伝達などに偏るものだからである。文化や風俗は一週間や一ヶ月単位で変化するも のではない。  
 中国史上もっとも国際色豊かな世界帝国であったといわれる唐について、そこに どのような生活が営まれ、いかなる外国文化が流入していたかの研究に心血を注い だ石田幹之助の『長安の春』(1941年刊)は、歴史史料としては二字的なものに過 ぎない文学作品、そりわけ唐詩に着目することによって、この限界を打ち破ってみ せた。平凡社・東洋文庫シリーズの一冊として復刻された時に解題を加えた私の恩 師・榎一雄の言葉を借りれば、「『長安の春』に収められた諸篇が読者を引きつけ るのは、そこに漂っているえも言われぬ余韻であり、その余韻は読者が恣にするこ とを許された無限の想像につながるものである。こうした余韻が漂うのは、一つに 博士が材料として縦横に引用している文学作品のもつ効果でもある。」
 とはいえ唐詩をはじめとする文学作品はあくまで同時代人の手になるものであ り、歴史家である石田博士はそこにさえ書かれていないことまでもいい加減な想像 で補ったりはしない。類い稀なる名誉と称賛されるのは、そこがポイントなのであ る。近年、巷に溢れる小説家によるいわゆる歴史物は、親切というかお節介という か、本当の歴史家なら余韻として残さざるを得ない部分に、まったくの想像であり もしないストーリーを「創造」しすぎている。そうした現状を榎先生は「歴史の顔 をした作り話の横行」であると批判しておられた。読書力に自信のある方々には是 非とも『長安の春』に挑戦していただきたい。

胡俗の大流行
「胡」の付く言葉

「胡」の付いた言葉として周知の胡桃(くるみ)・胡瓜(きゅうり)・胡麻(ご ま)はいずれも西域のオアシス農業地域の産物であり、北方の草原では育たないか ら、これらを前漢代に張騫(ちょうけん)がもたらしたという伝説は全くの作り放 しであることが意図も容易く暴露される。前漢代の胡麻は「匈奴から伝来した麻」 という意味にしかならず、極めて不自然だからである。胡麻を 張騫が将来したとい う伝説は宋代から始まるのであり、その時代なら胡麻は「西方オアシス農業地帯か ら伝来した麻」の意味になって誰にも納得できる。  
 胡座(あぐら)については北か西か判断できないが、胡床(こしょう :腰掛け) や胡瓶(こへい:水差し)や胡粉(ごふん:おしろい)や胡椒(こしょう)はやは り西方から伝来したものであろう。胡椒は東南アジアとインドの特産であるが、中 国には最初インド産のものが西域を通じてもたらされたのである。  
 一方、胡食(こしょく)というのはイースト菌発酵なしのパンないしは揚げパ ン・蒸しパンの類(胡餅・焼餅・油餅・爐餅(ろへい)・煎餅・胡麻餅)などであ り、いずれも西アジア・中央アジアから伝わった食事法ないしは食物である。そも そも3世紀頃までの東アジアには「粉食」の文化はなく、穀物を粒のまま煮たり蒸し たりして食べる「粒食」の文化だったのである。そこに西方から麦を粉にしてから パンにしたり麺にして食べる粉食文化が入ってきたのである。 もともと漢語の 「麺」とはラーメン・うどん・そばの類を言うのではなく「麦粉」の意味であり、 「餅」とは麦粉を焼いて作った食品、つまりパン類であって米の「お餅」ではな い。爐餅は「爐(かまど)で焼いたパン」、煎餅は「油で煎ったパン」である。粉 食は西アジアから中央アジアのオアシス農業地帯沿いに伝播してきたのであり、胡 食の胡が西域をさしていることにまず疑いはない。 また、胡楽のほとんどが西域楽、しかも多くは東トルキスタンに由来する音楽であ ることは、後で述べる。

胡服の由来
胡姫はどこから来たのか  

 石田幹之助は「唐代に於ける異国趣味の主潮はイラン系の文物であったといふこ とに尽きる」と述べたが、いまからみればその結論はいささかの修正を要する。氏 は中国にもっとも近い西域であるタリム盆地地方、すなわち天山南路の西域北道と 西域南道の全体をイラン文化圏としている。西域南道のコータンは確かにイラン系 のコータン語を話すとはいえ、西域北道の亀茲(クチヤ)や焉耆(えんぎ)では別 系統のクチャ語(=トカラ語B)やアグニ語(=トカラ語A)を話しており、 しかも いずれも文字はインド起源のブラーフミー文字ないしカロシュティー文字であるよ うに、ともにインド文化圏ないし仏教文化圏なのである。それゆえ「唐代に於ける 異国趣味の主潮はイラン系・インド系・トカラ系を包含する西域系の文化・文物であった」と言うのが、より真実に近いのである。  
 そしてその西域系の文化を体現していたのが、これから紹介する胡姫(こき)、 および胡旋舞(こせんぶ)・胡騰舞(ことうぶ)のダンサーである胡女・胡児たち である。とりあえずはエキゾチックな顔立ちをした「外人」、とりわけ若い女性や 少年を想像しておいていただきたい。
 「少年の行(うた)」 李白  
  五陵の少年 金市の東、  
  銀鞍(ぎんあん) 白馬 春風を渡る。  
  落花踏み尽くして  いずれの処かにか遊ぶ、
  笑って入る 胡姫酒肆(しゆし)の中。
 
  (現代語訳)
  郊外の高級住宅地に住む青年たちは、長安の西バザ
  ールの東隣にある繁華街を銀板で飾った鞍を載せた
  白馬にまたがって、春風に吹かれながら颯爽と行
  く。一面に散った花を踏みながら、どこへ遊びに出
  かけるのだろうか。笑いさざめきながら繰り込んだ
  のは、美しい胡姫のいる酒場の中だ。
 
 「白鼻のか」 李白
  
銀鞍 白鼻のか、(か=特異な黄馬の一種)
   緑地 障泥(しょうでい)の錦・
  細雨 春風 花落つる時、
   鞭を揮(ふる)いて直ちに胡姫に就きて飲む。
 
  (現代語訳)
        銀板で飾った鞍を白い鼻面の黄馬に置き、
        地色が緑の泥よけ(障泥)用の腹掛けを錦で飾ってい
  る。細かい雨が降り、春風が吹いて、花が散る時 
  分、馬に鞭をふるい、一直線にお目当ての胡姫のい
  る酒場に入って飲み始める。

 いずれも春の花が咲いている時期であり、馬に乗った青年と酒場の胡姫を主題とし、色彩の対比が美しい絵のような詩である。一首目は間違いなく長安の情景であ り、そこに詠われる「少年」とは子供ではなく、めいけ・富豪の子弟か、あるいは無頼遊侠(ぶらいゆうきょう)の徒で、いずれにせよ大金を浪費できる階級の若者 のことである。  
 二首目は長安の風景を詠ったものとは断定はされていないが、まずそうととって 大過なかろう。夏は猛暑で冬は厳冬となる長安は、春が一年中でもっとも良い季節 である。立春に続く雨水の候、薄紅色の杏(あんず)の花が雲のごとく群がり匂 い、季(すもも)の花が綻(ほころ)ぶ頃のようよう始まり、啓蟄の声を聞けば桃 の花が咲き、春分を過ぎると春は酣(たけなわ)となって薔薇・海棠(かいど う)・木蘭・桐花・藤花が次々と咲き誇り、風に吹かれて乱れ散っていく。 白馬が 踏みしめた花はその何であったろうか。長安の春の花の王者はなんと煎っても旧暦3 月の牡丹であるが、これは愛玩鑑賞や花比べ用に驚くほどの高値で取引されたとい うから、街路樹ではなかったであろう。一方、当時の薔薇は観賞用と塩手は牡丹に 遠く及ばず、むしろ花弁を潰して作る薔薇水という香水の方が珍重され、その高級 品はペルシアからはるばる輸入されていた。  
 8~9世紀に世界最大の人口を誇った花の都・長安には、絢爛たる文化の花も開い ていた。序章で述べたように、長安には本屋さえあって賑わっていたのである。繁華街には貴人や官僚、文人墨客や将校・遊侠の士が溢れ、北方の突厥やウイグルな ど遊牧国家からの使節や客人、西域からの商人・職人・芸人や宗教関係者、東アジ ア諸国からの留学生や留学僧などでごったがえし、まれには海のルートを通って南 からやって来た東南アジアやインドの海岸部、さらに遠くペルシアやアラブの人々 さえ混じっていた。  
 そんな中を、流行の胡服に身を包んだ若者が馬に乗って風を切って進んで行くの である。胡服だから筒袖の上着にズボンのセットであり、当然ながらベルトにブー ツ、時には帽子までも付随している。一方、派手な馬具で飾り立てた馬は、今で言 えばさしずめ高級スポーツカーである。 ニューモードの胡服に高級スポーツカー、さらにそこに胡姫と呼ばれる高級クラブ の外人ホステスあるいはダンサーとの組み合わせとなれば、これ以上に人目を引き つけるものはあるまい。  
 このように胡姫は、唐代長安をはじめとする大都市の酒楼・料亭やホテル内の酒 場・キャバレーにて、美しく着飾り、あるいは若さを誇示する薄化粧をし、あるい は妖艶な濃粧をほどこし、異国の名香を薫らせて客を接待していたのである。もち ろん酒場の花形であるからして、 とりわけ容色に優れた若い娘が多く選ばれていた に違いないが、単に酒席に侍るだけでなく、歌も唄えば踊りも舞える胡姫も数多く いたであろう。  
 さて、これほどまでに唐の詩人たちを興奮させた胡姫とは、いったいどういう女 性であったのだろうか。論証を抜きにして結論だけ言えば、胡姫とは緑や青い瞳を 持って深目、亜麻色・栗色ないしはブルネットの巻き毛、そして高鼻で 白皙(はく せき)のコーカソイド人種の 女性である。 黄色人種(モンゴロイド)で黒眼・黒髪・直毛の東アジア人士にとって、そのエキ ゾチックな美しさがいかに眩しかったか、想像にかたくない。白色人種(コーカソ イド)は中央アジアからヨーロッパに至るまで広く分布しているが、中国にやって きた胡姫は、そのうち、ソグディア・ホラズム・トハリスタン (旧バクトリア、現 アフガニスタン北半部)・ペルシアなどイラン系の言語(それぞれソグド語・古ホ ラズム語・バクトリア語・中世ペルシア語)を話す地方出身の女性たちであった。  
 従来の歴史物・唐詩解説書・各種辞典類においては、イラン系といってもほとん どは西アジアのペルシア人とみなされてきたが、最近の歴史学・考古学の成果によ れば、それはむしろ中央アジアのソグド人を指すと見なすべきである。特に目覚ま しい考古学的成果は、胡旋舞ないし胡騰舞をモチーフにした浮き彫りのある石製葬 具が、中国北部の陜西(せんせい)・山西(さんせい)・寧夏(ねいか)で発見さ れたソグド人墓からいくつも出土したことである。また、かつてササン銀器と言わ れたものの多くが、実はソグド銀器であったということもこの際参考になろう。  
 もちろん、例外はあるので記述には慎重さが必要であるが、石田幹之助が胡姫を 「イラン系統の婦女」と定義したがために、氏自身は多くをソグド女性と考えてい たようであるが、その後の文学者たちが単純にイランをペルシアと読み替えてしま い、誤解が蔓延したのである。ペルシア湾からカスピ海におよぶイラン本土に住む ペルシア人と、アム河~シル河間のオアシス諸都市に由来するソグド人とは 、類似 点が多いとはいえ、やはり厳しく選別すべきであろう。例えば近現代でもフランス 人とイタリア人、ドイツ人とオランダ人を区別する方が普通の感覚であろう。ソグ ド人とペルシア人を並列的にしておくと、いつまで経っても誤った印象は修正され ないであろうから、ここは私の責任において、胡姫とは「ソグド人の若い女性」で あると断言する。


跳躍する胡騰舞
胡旋舞・胡騰舞の故郷と新パトロン  

 胡旋舞の踊り子である胡旋女を貢物として唐に献上したのは、康国( こうこく: サマルカンド)・米国(まーイムグル)・史国(キッシュ)などいずれもソグディ アナの国々であった。白居易(はくきょい)「新楽府(しんがくふ)」では胡旋女 (こせんじょ)の出身を康居(こうきょ)としているが、オアシス都市国家の 康国 を遊牧民族の康居と混同するのは、当時の通弊であり、ここは疑いもなく康国出身 とみなさねばならない。といっても、康国 はしばしばソグディアナの代名詞ともな っている。各種の史料から、ソグディアナにはサマルカンド中心の都市国家 連合と プラハ中心の都市国家連合があって勢力を二分していたことが 窺えるから、ここで 白居易が康国ではなく康居といったのは、もしかしたらサマルカンド中心の都市国 家連合の意味があったのかもしれない。  
 胡姫の「胡」については文学研究者や一般の方々の誤解を招くほど慎重な言い方 をしていた石田幹之助も、胡旋舞 ・胡施女の「胡」については明快にソグドを指す 意味における「胡」であると断言していた。それゆえ、これらの胡施女も当然なが ら胡姫の部類に入ったと思われる。敦煌壁画の中で胡旋舞を踊る女性は、仏教壁画 の一部として描かれたため、菩薩のような中性的な容貌をしており、人種的特徴を つかむのは難しいが、やはりモンゴロイドというよりはコーカソイドとみなす方が 良いようである。  
 ことろで胡旋舞・胡騰舞が見られた場所として、王宮や貴族の邸宅、一位の盛り 場のほかに地方都市には藩鎮(節度使。観察使など)の邸宅もあった。節度使とは 盛唐囲碁に置かれた地方軍政長官、観察使とは地方民政長官であるが、前者が後者 を兼ねて全権を掌握することも少なくなかった。劉言史が胡騰舞を目にした豪華な 宴会は、王中丞の邸宅で催されたものであるが、王中丞とは王武俊のことである。
 王武俊は、漢名を持っているが実は契丹族出身であり、最初は史思明の武将であった李宝臣(本名は張忠志)に支えて出世した人物である。安史の乱後、その有力武 将たちはいわゆる「河朔三鎮(かさくさんちん)」として本領を安堵されたが、その一つが李宝臣が初代となった成徳軍節度使であり、建中2年(781)の李宝臣没後に王武俊 がその職を継ぎ、ついには御史大夫にも任ぜられる。その詩はもう760年代後半~ 770年代の作で、成徳軍節度使の本拠たる恒州(後に鎮州、現在の河北省正定県)に あった彼の邸宅での様子を詠んだものと思われる。  
 もともと安史勢力にさらにその傾向が強く、安禄山・史思明のようなソグド系突 厥(突厥じんとソグド人の混血、あるいは突厥化したソグド人)だけでなく、ソグ ド人・突厥人・契丹人などが結集していた。安史勢力の生き残りである河朔三鎮の 武将たちが、胡旋舞・胡騰舞の新しいパトロンになることになんの不思議もない。  
 最近、森部豊によって、7世紀末の恒州付近にソグド人、あるいはその後裔(こう えい)が集団として居住していたことが明らかにされた。 とすれば、王武俊のもと にいて優遇された文人・劉言史の詩に、タシケント出身のソグド人ダンサーが「西 を向いた時には、故郷への道のはるかに遠いことがふと脳裏をよぎる」とあるの は、あるいは本国がイスラム勢力に占領される以前から唐にやって来ていたソグド 人が、もはや帰るべき故郷を失ったことを嘆じているのかもしれない。  
 751年のタラス河畔の戦いより後の時代には、ソグディアナ本国はすでに完全にア ラブのアッバース朝支配下に 入っており、徐々にイスラム化が進行している。『冊 府元亀(さつぷげんき)』巻972によれば 宝応元年(762)12月には黒衣大食(たじ ら)(アッパース朝)と石国が『旧唐書』巻11によれば 大暦7年(772)にもソグデ ィアナの康国・石国が大食やウイグルと並んで唐に 朝貢してきているところをみる と、アラブ側もソグド諸国に朝貢を続行させるため、独立国のような体裁を取らせ ていたことが窺(つぐな)えるのである。したがって、ソグド商人の活動が本国の イスラム化とともに凋落したとはおよそ考えられない。だからこそ、第二章98ペー ジ~99ページに引用したイスラム史料『世界境域志』の抜粋からわかるように、9~ 10世紀に至ってもソグディアナがやはり遠隔地商業の中心地として栄えていたの である。

音楽・舞踏とその担い手
西域音楽の盛行
唐代音楽の種類  

 いかに娯楽性が高まり、民間の遊興に供されたとはいえ、やはり唐代音楽の最大 のパトロンは王族・貴族・高級官僚である。初唐では大楽署所管の十部楽(十部伎 じゅうぶぎ)が権威を持ち、国家・宮廷の公式行事や宮廷・貴族邸宅・大寺院にお ける公私の宴会で演奏された。唐の太常寺(現代の文部省に当たる)には雅楽・俗 楽・胡学・散楽を司る太学署と、軍楽を司る鼓吹署があった。
「雅楽」というのは、儒教の礼楽思想に基づく祭祀・儀礼用の音楽舞踊であった が、十部楽の中では讌楽(えんがく)に受け継がれた程度である。「俗楽」という のも民間の通俗音楽などではなく、雅楽には含まれない漢代以来の伝統的な芸術音 楽で、その代表は十部楽の清楽(清商楽)である。  
 これに対し、外来の音楽一般をさして「胡楽」というが、中心となるのは亀茲 楽・疏勒楽(かしゅがるがく)・康国楽・安国楽などの西域音楽である。隋代の七 部楽(七部伎)・九部楽(九部伎)を発展させて、唐の太宗の時に十部楽(十部 伎)が定められたが、胡楽はその大部分を占める。つまり唐朝廷で最高の権威を持 つ十部楽ではあるが、その内実は唐朝へと東流した古代シルクロード音楽の集大成 であるということができる。ちなみに日本に入った雅楽は中国の胡俗楽である。
 十部楽で使用された楽器を見ると管楽器・弦楽器・打楽器が全て揃っているだけ ではなく、それぞれの多様さに眼を見張る。唐では当時世界一の音楽が演奏されて いたということで、その楽器の数と種類は現代の交響楽団のそれに比べても引けを 取らない。もちろん近代西欧で発明されたピアノはないが、現代でも交響楽団にピ アノはないのがふつうだろう。  
 同じく太学署が司るとはいえ、正統的な音楽である雅楽・俗楽・胡楽とは一線を 画する散楽というのは、曲芸・幻術・手品・戯劇などの芸能を音楽伴奏で行なうも ので、百戯・雑伎とも呼ばれるものであった。これらは文字通り曲芸とかサーカス の類である。宋代以後、中国音楽の主流となるのは歌劇(宗の雑劇、元の元曲、民 の崑曲、清の京劇)であるが、唐代まではまだそれはなく、管弦楽と舞踊が中心で あった。さらに唐代散楽の中には歌舞伎と呼ばれる舞楽もあった。  
 太常寺管轄下の太楽署や鼓吹署で宮廷・国家の楽舞に従事するのは、役人と教官 おほかはみな楽工とか太常音声人と呼ばれた固有隷属民である。技量的には軍楽工 より雅楽工が上で、雅楽工より胡・俗楽工が上であったといわれる。これらとは別 に宮城内の内教坊(ないきょうぼう)に属する宮女が胡・俗楽に従事していた。  ただし雅楽・俗楽・胡楽が鼎立(ていりつ)していたのは初唐までで、 盛唐では 俗楽は胡楽を吸収し、新しい俗楽が発生した。玄宗の愛した「法曲」とはこの新俗 楽のことである。

第五章 奴隷売買文書を読む

高額商品としての「奴隷」  
馬鹿息子より有能な奴隷を
奴隷の役割と「歴史の真実」

『大慈恩寺三蔵法師伝』によれば、初唐に玄奘三蔵が国禁を犯して密出国を敢行し た際、彼は河西地方最大の都市・涼州(武威)で人々に請われて仏教の講義をした が、散会の日にシルクロード商人たちから金銭・銀銭・奴隷・馬のおびただしい布 施を受けたという。当時の河西地方は未だ唐の銅銭経済圏に包摂されてはおらず、 金銭とは主に東ローマ(ビザンツ)の金貨、銀銭とはササン朝ペルシアの銀貨ないしソグドの仿製(ぼうせい)銀貨を指す。このような金銀貨と並ぶ最高の価値ある ものとして奴隷と馬が、玄奘の講義に感動した大商人たちから惜しみなく寄進され たのである。  
 それから100年ばかり遡ったおの531年、北魏の王族の一人が涼州刺史となった が、彼はもともと貪暴の汚名高く、当地の富豪・商胡から財物を巻きあげようとし て策を弄し、彼らに褒美を与えると言って集めたところでだまし討ちにして、その 資財・生口をことごとく没収したという[『魏書』巻19]。第二章で見たように、シ ルクロード=ネットワークの要衝・涼州の商胡がソグド人であることは間違いな く、彼らが所有していた 生口も商品としての奴隷であった 可能性が高い。  さらに時代を遡って『後漢書』 李恂伝(りじゅんでん)には、 李恂が西域副校尉 として赴任した時のこととして、「西域は殷富 にして珍宝多く、諸国の侍子および 督使・賈胡はしばしば恂(じゅん)に奴婢(どひ)・宛馬・金銀・香罽(こうけ い)の属を遺流も、一として受くるとこなし」とある。賄賂を受け取らなかった彼 の清廉潔白ぶりが賞賛されているのであるが、逆に言えば奴隷が、金銀や史上に名 高い大宛(だいえん)産の汗血馬と並んで最高の商品であったことが窺(うかが) われるのである。馬(ないしラクダ)の機動力を抜きにしてユーラシア世界史が語 れないのと同じく、奴隷の果たした役割を故意に歴史から遠ざけても歴史の真実を 見ることはできない。  
 本書第四章で述べたように、唐代の風俗・文化における西域趣味、特に音楽と舞 踏の担い手には、自由を奪われた隷属身分の者たちが非常に多かった。その隷属民 については、244ページ以降で考えてみたい。一時代前までの京都・祇園の芸妓やサ ーカスのスターたちが、一般人にはとても我慢できないような厳しい稽古に耐えて きたことを想起してもわかる通り、 技芸を継承させるには逃げ場のない隷属民の方 が都合が良いという側面があるのは否めまい。宮廷の胡姫には、外国から献上さ れ、官の隷属民として扱われた者もいたであろうが、貴族・高級官僚・富豪の私邸 も含む民間に入って 胡旋舞・胡騰舞などを披露した胡姫や胡児のほとんどは、おそ らく遠くから運ばれてきた私的奴隷であったというのが、私の見解である。

唐代の奴隷市場
唐の市場制度と人身売買

 唐代までの中国では、都市の商業活動は市内で勝手にやれたわけではなく、営業 場所はお上から強い制約を受けており、長安では東市と西市、洛陽では南市と北市 に各種商店は集中させられていた。さらにそうした市場の内部では同業者が店を連 ねるように配置されたが、そのような同業店舗の「並び」を「行(こう)」という のである。日本語の銀行に名残をとどめる金銀行もその一つである。  
 明治末に大谷探検隊が将来し、現在は龍谷大学に所蔵されるトゥルファン文書に よれば、盛唐の天宝元年(742)の西州には、綵帛(さいはく)行・帛練(はくれ ん)行・穀麦行・米麺行・菓子行(果物屋)・菜子行(種屋)・鐺釡(とうふ)行 (金物屋の一種)・凡器行(容器屋)という名前の存在が知られるほか、口馬・香 料・薬品・顔料・刃物・革製品などもそれぞれ別の行で取り扱われていたことが判 明する。西州はトゥルファン盆地の首邑(しゅゆう)・高昌(こうしょう)のこと であり、問題の大谷文書は西州(一時的には交河郡)に置かれた市場における公定 物価表の残巻であるから、その他の商品を扱う行、例えば長安で知られる金銀行・ 珠玉行・肉行・衣行などもあったはずである。逆に、長安・洛陽・太原(たいげ ん)・揚州(ようしゅう)・益州(えきしゅう:成都)・幽州(ゆうしゅう:北 京)など唐本土の大都市の市場には、少なくとも本文書から知られる各種の行はす べて揃っていたとみなしてよかろう。  
 人身売買のあるところに必ずしも奴隷制があるとは言えないが、奴隷制のあるところには必ず人身売買があった。それゆえ唐帝国でも、奴婢の需要を満たすための 人身売買が普遍的であった。とはいえ建国期当初の内乱が治まり、国内が安定してくると、奴婢の大量供給は枯渇する一方であり、しかも良賤制野本で認められた奴 隷解放に伴って奴婢が減少すれば、必然的に求められるのは外国からの奴隷の輸入ということになろう。先に紹介したトゥルファン出土の漢文文書「唐栄買胡婢 失満 児市券」はその一端を証明している。  
 敦煌文書にも人身売買を示す実例が散見される。そのうち一件は、唐代の敦煌 (沙州)に奴隷市場があって、蕃漢の奴隷が取り引きされていたことを如実に示す ので、すぐ後で紹介する。
 また別の一件は8世紀中葉に敦煌の奴隷市場で、王修智という名の漢人行商人(原文 は行客)が13歳のソグド人男奴隷を売ったことに関わるものであり、保証人の一人 である敦煌在住の百姓・安神慶もソグド人と見て良い。唐の中心部では古文書はほとんどまったく残っておらず、正式の歴史書にも 人身売買のような日常茶飯事が書 き留められることは稀である。しかし史料がないことと事実がなかったこととは全 く別である。実際には長安にも洛陽にも大掛かりな奴隷市場が存在したのである。  
 機械文明時代以前の奴隷というものは、現代のロボットにも優る最高の精密機械であった。しかもその値段は馬1~2頭程度、時には馬より安いことさえあるので ある。現代の高級車に匹敵する当時の馬を所有する上流階級の者にとっては、身辺 警護や私兵としての屈強な奴隷(軍事奴隷) 、荘園を耕作させる労働力としての奴 隷(農業生産奴隷)、子孫を残すための婢妾、歌舞音楽に秀でた芸能者、料理をはじめとする家事を仕切る奴隷(家内奴隷)は、時代と地域を問わず魅力ある商品で あり、一方それを仲介する商人にとっては最高の商品であったのである。また女肆 (じょし:女郎屋)を経営する商売人にとっても、女奴隷は利幅の大きい商品であ った。当時、世界一の人口を誇った唐帝国の、しかもその中心地である長安・洛陽 に存在した奴隷市場がいかに繁栄したかは、思い半ばに過ぎるものがあろう。

胡姫・胡児の出自と奴隷貿易
新発見の奴隷リスト

 シルクロード地域における人身売買契約文書の存在は、古くは3~4世紀の西域南 道におけるカロシュティー文書、アフガニスタン発見の4~8世紀のバクトリア語文 書、唐代にはコータン文書。チベット文書、その後は10世紀以降の古代ウィグル文 書に知られている。しかし、これらの実例は少なく、しかもそのほとんどは饑饉 (ききん)で窮乏(きゅうぼう)したり、借金返済に窮したり、大金を必要としる 事情に迫られ他などの理由で、自己の妻子や所有する奴隷を売り払うというケース で、どうやらそれぞれの近場の人間同士で行われた人身売買のようである。然る に、唐代の胡姫・胡児の売買はこれらと違い、シルクロードを通じて遠距離間で行 われたと思われる。この点では、中世イスラム世界のマムルークや、近代アメリカ の黒人奴隷のケースに似ている。  
 ソグド人が唐帝国内で奴婢を連れて旅行したことは、これまでも トゥルファン出 土漢文文書から再三にわたり指摘されてきた。然るに、唐の則天武后時代のトゥル ファンに、私奴婢特にソグド人奴隷(当時の用語では 胡奴婢)の売買を専門とする 家の存在した可能性を初めて指摘しなのは、ウルムチの漢人研究者・ 呉震である。 その大胆な推測の根拠となったのは、1964年にアスターナ第35墓から出土した 「先漏(せんろう)新附部曲客女奴婢名籍」というものである。この名称は出土後 に中国人研究者によって付けられたものであり、 相当に破損している原文書にあっ たものではない。要するに私賎民である部曲(かきべ)・客女および私奴婢の名前 が列挙されたリスト部分が主体となっており、それに短い説明がついていたが、 それさえ現状では不完全であり、このリスト文書の性格を見抜くのは容易ではなかっ た。それをやってのけたのが 呉震である。  
 呉震の分析によれば、この「奴婢名籍」には2軒の家の戸籍に所属すべき私賎 民が合計で79名(内訳は楽事1名、部曲3名、客女6名、奴23名、婢45名、不明 1名)記載されているが、文書の破損状態から見て元来は100名以上いたはずで あり、しかもこれらは全て前回の戸口調査の時に漏れていたので、今回新たに戸籍 に載せるよう申告するものである。  
 最初の家の戸籍から漏れていた者は楽事1名、部曲3名、客女4名、奴23名、 婢30名の小計61名であり、2番目の家の戸籍から漏れていたのは客女2名、 婢1 5名、不明1名の小計18名である。周知のごとく唐朝では徴税の基礎となる戸口 管理は厳重であり、もし不法に脱漏があったならば、戸主は言うまでもなく、隣組 の責任者や州県の長官までも罪を受けることになる。 このような中にあって、本リストのように 大量の脱漏があるのは尋常ではない。そ の裏には、当事者たちは明らかな、何らかの事情があったはずである。   
 本リスト中には、建て前上は人身売買されない半自由民の楽事・部曲・客女も見 えるが、圧倒的多数派所有者が自由に売買できる私奴婢である。その数は68人 (奴23人、婢45人)、そのうちで年齢の判明する者は、10歳未満が9人(奴3人、 婢6人)、10代が18人(奴6人、婢12人)、20代が10人(奴2人、婢8 人)、30代が7人(奴5人、婢2人)である。さらに婢には2歳か20歳代かいずれか 不明の者が3人いる。奴の最年少は5歳、最年長は36歳、婢の最年少は1歳、最年長 は31歳である。たった2つの家族には、これだけ大量の奴婢がいること自体いかに も不自然であるが、それが前回の人口調査の時には申告されてなくて、ここでいきなり出現したのであるから不自然さは倍加する。  
 しかも奴婢の中に1歳から13歳までの幼少の者が2割近く含まれており、労働力と して使役するために購入したものではないことは明らかである。さらに奴婢の名前 をチェックすると、何と少なく見積もってもその5割以上が漢語とは思われない、 つまり胡名の音写なのである。  
 奴婢は姓がないため、胡名だからと言ってそれがソグド語・ソグド人と即断する わけにはいかないが、姓を持つ部曲。客女9名のうち4名がソグド姓(石姓が2 人、何姓・曹姓が1人ずつ)であるから、やはり約半数はソグド人であったと言っ ても過言ではなかろう。呉震は、漢語名は便宜的に付けられたものであって、全て のソグド人であったというが、その点だけは保留にしたい。漢人やトカラ人(焉耆 (えんき)人・亀茲(きじ)人)やトルコ人の奴隷がいてもおかしくはない。 残念 ながらこれらの賎民を保持した2軒の家の戸主が肝心であったか、それともソグド人 ないし西域人であったか、姓名ともに残存しないのでわからないが、多分ソグド人 であったと見てよかろう。

第六章 突厥の復興
遊牧民族最初の「歴史史料」

 建国当初の突厥第二帝国の本拠は漠南の陰山山脈地方であり、最初は南で唐と、東で契丹と戦うのが主であったが、徐々に漠北のモンゴリアに拠る鉄勒(てつろく)諸部へも討伐軍を振り向けて勢力を拡大していき、本拠を漠北のオルホン河~ オトュケン山地方に移すことができたのは、686年末~687年前半のことである。すでにそれ以前から漠北に大旱魃(だいかんばつ)があって九姓鉄勒 全体が危機に瀕 し、685年には唐の安北都護符が漠北から河西へと撤退しただけでなく、686年には 鉄勒から多数の難民がゴビを渡って河西地方に流入する有様であったため、突厥が 北遷するには好都合な状況だったのである。漠北を回復してようやく阿史那骨咄禄 (あしなこつとつろく)は初代可汗としてイルテリシュ可汗と名乗ったが、それは 「国民(イル)を集めたる可汗」という意味である。  
 この突厥の復興と漠北回帰に尽力したのが、王族・阿史那氏に次ぐ名門の阿史徳 (あしとく)氏のリーダー であった阿史徳元珍、すなわちトニュクク(漢字表記は 暾欲谷:とんよくこく)である。波瀾万丈の生涯を送ることになる彼は、初代イル テリッシュ可汗、第二代カプガン可汗、第三代ビルゲ可汗に宰相として仕え、老年 に至るまでそれこそ粉骨砕身して縦横無尽の活躍を見せただけでなく、突厥史を復 元する重要な記録である自撰のトニュクク碑文を残してくれた。これと ビルゲ可汗 碑文、その弟のキョルテギン碑文などを合わせてオルホン碑文ないし突厥碑文とそ う称するが。これこそ遊牧民自身が書き残した世界最初のまとまった歴史史料なの である。

オルホン碑文ないし突厥碑文とは
(1)トニュクク碑文

(2)ビルゲ可汗碑文


(3)キョルテギン碑文

 トニュクク碑文にはよれば、イルテリ首都トニュククが蜂起した時の勢力は、わ ずかに700人であり、その3分の二は騎馬、3分の1は徒歩であったという。そしてさ らにイルテリシュが「南にタブガチ(=唐)を、 東に契丹、北にオグズ(=トクズ オグズ=鉄勒)を、非常に多く殺した。彼の参謀・軍事司令官は、まさに私であっ た」と言って自分の功績を誇っているが、この記事は『通典』巻198に阿史徳元珍 が 骨咄禄(こつとつろく)のもとに馳せ参じた時のこととして、「骨咄禄これを得て 甚だ喜び、立てて阿波大達干(たるかん)と為し、専ら兵馬の事を統べしむ 」とあるのと合致する。
 漠北に本拠ウィ移したのちにイルテリシュ は、弟の黙啜(もくてつ)をシャド に、もう一人の弟の咄悉匐(とつしつふく)をヤブグに任命して、それぞれを領土 の東西に封建し、自己を直轄する中央と合わせた分統体制を取った。シャドとヤブ グは可汗に次ぐ位の称号である。こうした中央と東西翼からなる分統体制は、匈奴 の昔から後のモンゴルに至るまで中央ユーラシア東部の遊牧国家、ひいては中央ユ ーラシア型国家の伝統的特徴である。トニュククが任じられたアバ=タルカン と言 うのは軍機大臣ないし国防大臣のようなものであるが、その権限は可汗直轄の中央部に限られたのか、それとも東西にある左翼・右翼にまで及んだのかはよくわから ない。  
 さて、以上のような経過を辿って、ゴビ砂漠の南北に渡った唐の突厥・鉄勒に対 する羈縻(きび)支配体制は崩壊した。しかし突厥にとっては、630年以来、タ ブガチと言う異民族に屈し、その支配に甘んじただけでなく、 高句麗や西突厥への 遠征をはじめとする様々の軍役に奉仕させられた50年間は忘れるべからざる屈辱の 時代として、戒めを込めて永く記憶されたのである。 次の史料はキョルテギン碑文東面7~8行目からの引用である。従来これは父祖たち が唐において行った偉業を誇る文言と理解されてきたが、決してそのような文脈で はない。自らの果敢を持つことができずに、唐皇帝を天可汗と仰がざるを得なかっ た痛恨の時代の記憶なのである。
(本体は成長して 突厥の支配貴族たる)ベグとなるべき男子たちは、唐(タブガ チ)の民への奴隷になり、ベグ夫人となるべき女子たちはその女奴隷になってしま った。突厥のベグたちは突厥風の名前(称号)を放棄し、唐にいるベグたちは唐ふ うの名前(称号)を帯びて唐皇帝(タブガチ可汗)に服属したという。 50年間(唐 皇帝に)労力を捧げたという。前方(東)へ日出づる所には、高句麗可汗(の国) にまで出征したのだという。後方(西)へは、(ソグディアナとトハリスタンの境 界にある)鉄門にまで出征したのだという。

第七章 ウイグルの登場と安史の乱
古代ウイグルとソグド人  

 唐帝国と対等に渡り合った突厥第二帝国の最盛期は比較的短く、ビルゲ可汗の没 後は急速に衰えていく。それに替わって台頭してくるのが ウイグル帝国(東ウイグ ル可汗国)である。古代ウイグル族は、7世紀に一度、鉄勒集団全体が唐帝国の羈縻 (きび)支配を受けた時に姿を見せてはいるが、中央ユーラシア東部の歴史舞台に 主役の一人として華々しく登場するのは8世紀中葉からである。  
 まず742年、バスミル・カルルク・ウイグルの 三者連合が、それまでの中央ユーラ シア世界東半部の覇者であった突厥第二帝国の骨咄葉護(クトルクヤブグ )可汗を 敗走せしめ、バスミルの勲長である阿史那施(あしなし)を新たな可汗に推戴(す いたい)した。実際には三者のトロイカ体制である。これに対し突厥の遺民は烏蘇 米施(おずみしゅ)可汗を立てて対抗したが、三者連合軍は743~744年にこれを捕 殺し、その首級を長安に伝送してきた。  
 744年、ウイグルとカルルクは連合して、これまで自分たちの風土に立っていたバ スミルを撃破し、ウイグルの君長であった骨力 裴羅(クトルクボイラ)が初代可汗 として即位した。これがウイグル 帝国初代の闕毗伽(キヨル=ビルゲ)可汗である。明けて745年、カルルクがウイグルと不和となり、その主要部がモンゴリア西部 のアルタイ地方から西部天山 北方のセミレチエへと叛き去った。  
 こうして突厥第二帝国にとって替わったウイグル帝国は、740年代から840年まで の約100年間、漠北に覇を唱えるのである。第二代・葛勒(かつろく)可汗・磨延啜 (まえんてつ) の紀功碑であり、漢籍では「富貴城」と伝えられており、 これは遊 牧ウイグル人の ためではなく、外来のソグド人や漢人たちを住まわせるものであっ た。ウイグル帝国がかつての柔然・高車や第一・第二突厥と同じく、初めからソグ ド人の経済的・外交的手腕を利用していたことが容易に推測され、そのことは、史 料からも十分に証明されるものである。ただしここでも、ウイグルがモンゴル草原 の中に都市を建設させたことと、遊牧文化に誇りを持つウイグル 人自身の「定着 化」とか「文明化」とは截然(せつぜん)と区別すべきであることに注意していた だきたい。  
 さて、古代ウイグルが果たした歴史的役割として一般に最もよく知られているの は、唐代史を前期(初唐・盛唐)と後期(中唐・晩唐)に分ける分水嶺となった安 史の乱の鎮圧に目覚ましい活躍を見せ、唐の延命に大きな功績を残したことと、マ ニ教を国教化したことの2点であろう。
 755年に勃発して唐王朝を存亡の 危機に陥れた安史の乱に際しては、ウイグルが強 大な騎馬軍団による武力を行使して唐を救ったのは事実である。それ以後、ウイグ ルは唐に対し優勢を保ち、さまざまな要求をしてくるようになる。またウイグルと 結びついたソグド商人も、虎の威を借る狐のように、勝手な振る舞いを中国で行 い、絹馬交易をはじめとする内陸でのシルクロード貿易の利益を壟断(ろうだん) していく。これまで本書で一貫して述べてきたソグド商人の伝統は、唐=ウイグル 併存時代になっても継続するのである。  
 ただ従来と大きく異なるのは、ソグド人とウイグルとの緊密な結びつきの背景に マニ教が存在することである。歴史学・文献学・考古学的研究のいずれもが、ソグ ド人の宗教は、紀元前後からイスラム化以前まで、ずっとゾロアスター教が主流で あったことを示している のであるから、東ウイグルに入っていったソグド人 だけが 十中八九までマニ教であったとみなすのは極めて不自然である。 にもかかわらず状 況証拠は全て、ウイグルにマニ教を伝播・普及させた仲介者はソグド人であること を示唆している。この問題は、 家畜の解体を常とする遊牧民族であるウイグルが、 仏教以上に徹底的に殺生を戒めるマニ教に改宗し得た理由とともに、未だ学問上の 謎として残されている。

マニ教の世界史的意義  

 マニ教とは、3世紀前半に宗教の坩堝(るつぼ)であった西アジア世界のバビロニ アに生まれ育ったイラン人マニが、独特の二元論を持つヘレニズム的折衷主義の一 つであるグノーシスを中核とし、それにゾロアスター教・ユダヤ =キリスト教などか ら学んだ思想を取り入れて創始した二元論(光と闇、精神と物質、善と悪)的折衷 宗教である。  
 マニは布教開始後まもなく東方に伝道の旅をして、仏教文化圏であった西北イン ドでもある程度の成功を収めたという。その後帰国した彼は、すでにパルチアに取 って替わり、西アジアに覇権を確立していたササン朝ペルシアの皇帝シャープール 一世に働きかけ、その帰依を得ることに成功した。その結果、広大な帝国内を自由 に伝道することができるようになった。
こうしてマニ教はしばらく我世の春を謳歌するが、シャープール一世の死後ま もなく伝統的なペルシアの民族宗教であるゾロアスター教の勢力から反撃を被り、マニは処刑され、その信者も過酷な迫害を受けて四散をよぎなくされた。しかし初めから血統や民族の枠を超え、アフロ=ユーラシアの諸民族に受け容れられる「世界宗教」として、マニ生存中より東西に伝道団を 送り込んでいたマニ教は、ついには西は大西洋から東は太平洋にまで達し、各地で相当長期にわたって生き続けるこ ととなった。そして西方のキリスト教優勢地域ではキリスト教と、東方の仏教優勢 地域では仏教と、時には共存し、時には軋轢を生じながら、時間と空間を異にする さまざまな局面で影響しあったのであり、その世界史的意義は決して 小さくない。  
 例えば地中海地方では、教父アウグスチヌスの活動に典型的に見られるように、 マニ教との激しい教義論争を通じてキリスト教が自らの教義を確立していったし、 他方中央アジアでは仏教と出会い、マニ教自身が仏教化しただけでなく、北伝仏教 が変容・発展する上にも大きな影響を与えたと考えられる。また天文・暦学・思 想・説話・文字・絵画・音楽や書物の形式・製本法などの東西文化の交流にも多大 の貢献をなしたのである。  
 匈奴やクシャン朝の勃興以後、イスラム化以前の中央アジアの歴史と言語と文化 の上に最も深い影響を与えた宗教は、言うまでもなくインドに起こった仏教である が、一方で、3世紀のササン朝ペルシア統治下にせいるつしたマニ教も相当に重要な 役割を果たした。とりわけ8世紀半ば以降に強大となったウイグルはマニ教 国教化し て尊崇(そんすう)した世界史上唯一の国であり、中央アジア=マキ教とウイグル 史は密接不可分の関係にある。ウイグルを抜きにして中央アジア史は語れないが、 マニ教抜きではウイグル史もまた語れない。したがってマニ教抜きの中央アジア史 も成り立たないのである。

安禄山とソグド=ネットワーク
安史の乱勃発  

 755年(天宝14載)11月、幽州(范陽(はんよう)・燕京(えんけい)などともい う、現在の北京)に本拠を置く范陽節度使の安禄山は、盟友である史思明ととも に、参謀である次男の安慶緒(あんけいちょ)、漢人官僚の厳荘(げんそう)・高 尚、蕃将の阿史那承慶(あしなしょうけい)(旧突厥王族)・孫孝哲(契丹人)ら を従えて兵を挙げた。当時の北京にはソグド人やソグド系漢人が経営する「行」と いう商人ギルドが多数存在し、ホテルと倉庫業と金融業徒を合体させたような「邸 店」も立ち並んでいた。それまでに安禄山が、ソグド人ないしソグド系トルコ人・ ソグド系漢人のシルクロードを中心とする商業ネットワークによって莫大な資金を 調達し、トルコ人・ソグド人・ソグド系トルコ人・ 奚人・契丹人・室韋人(しつい じん)・漢人などの騎馬・歩兵軍団による軍事力を十分に整えていたことは言うま でもなかろう。  
 蜂起の名目は、玄宗の側近にある奸臣(かんしん)奸臣・楊国忠を除くと言うも のである。そして全幅の信頼を置く親衛隊8,000余騎を中心に、蕃漢10万~15万の大 軍団を率いて、一気に河北地方を南へと駆け下り、またたくまに洛陽を陥れた。こ の親衛隊にはソグド軍人が相当数含まれていた可能性がある。  
 翌756年(天宝15載)正月元日、安禄山は洛陽で大燕聖武皇帝として即位した。安 史側の勢力が強まる一方であるのに対し、同年6月、玄宗は蕃将の哥舒翰(かじょか ん)に命じて大軍を率い、潼関(どうかん)より東に出撃させたが、哥舒翰は敗北 して敵の手中に落ちた。パニックに陥った長安では、楊国忠の主張により、玄宗を 奉じて蜀(しょく:四川)への蒙塵(もうじん :皇帝の都落ち)を決定し、6月13日未明、玄宗、皇太子夫婦、楊貴妃とその一族、楊国忠一家、公主たちが、極秘裏に宮殿を脱出した。その直後、かの有名な馬嵬駅 (ばかいえき)の悲劇が起こり、楊貴妃は命を絶たれるのである。  
 玄宗はそのまま蜀へ蒙塵する一方、皇太子は捲土重来を期して霊武へ向かう。霊 武は西北辺境の要衝であり、かつ朔方節度使・郭子儀の本拠地であった。7月、皇太 子は群臣の懇望を受けて、蜀にある玄宗を上皇にまつりあげ、粛宗として霊武で即位した。

唐からウイグルへの援軍要請    
ウイグルからの求婚
安史の乱の乱終結  

 760年(上元元)閏3月、史思明(ししめい)は洛陽に入城し、再び東西両都に対 立する政権が誕生した。しかし、この後、史思明は長男の史朝義(しちょうぎ)に 代わって妾腹の子・史朝清(しちょうしん)を溺愛し始め、これを後継者に遷都し たため、逆に史朝義の部下が史思明を捕らえて幽閉した。以後、史朝義が洛陽を保 持する。
 761年(上元2)2月、史思明が殺され、史朝義が即位。  762年(宝応元)4月、約2年の蟄居生活の後、玄宗(げんそう )が死去。わずか十 余日後に粛宗(しゅくそう)も崩御し、代宗(だいそう)が即位した。  
 同年8月、ウイグルは史朝義 から援軍要請を受け、「唐朝では天子の死去が度重な り、国は乱れ、主君がいないので、侵略して府軍を手に入れてはどうか 」[両唐書ウ イグル伝 ]と誘われたので、牟羽可汗(ぼううかがん)自らが「国を傾けて」10万と も称される大軍を率いて南進することになる。ところがたまたま同じ頃、代宗は、 史朝義軍を打倒するため、ウイグル軍の出動を要請する使者・ 劉清潭(りゅうせい たん)を派遣していた。劉清潭は自分がゴビ砂漠に入る前に、すでにゴビ砂漠を南 下し、内モンゴリアの陰山山脈をも超えていたウイグル軍と遭遇するのである。  
 劉清潭は可汗に、かつて代宗がウイグルの葉護(やぶぐ)と協力して安慶緒から 両京を奪還した故事、さらに唐からウイグルに 毎年絹数万匹を贈っていることを訴 えつつ、翻意 (ほんい)を促したが、牟羽可汗はこれを無視し、さらに南下して 山 西の太原方面に向かった。そこで劉清潭は長安の代宗に密使を送り、ウイグル軍の 現状を報告した。そのため長安中が略奪の危険を恐れて震撼したという。その時、 牟羽と一緒に中国に入ってきていた妻の可敦 (かとぅん)が両親に会いたいと要請 してきたので、実父である僕固懐恩(ぼくこかいおん)が太原方面に赴き、娘婿の 牟羽可汗に道理を説いたらしい。その結果、ウイグルは再び唐側につくこととな り、山西盆地を汾水(ふんすい)沿いに南下し、南流黄河が東流する陝州(せんし ゅう)付近で黄河北岸に本営を置いた。

<流れ図>
登場人物

(1)唐:  
  ①史思明(ししめい)、
  ②史朝義(しちょうぎ:史思明の長男)、
  ③史朝清(しちょうしん:史思明の妾腹の子)、
  ④劉清潭(りゅうせいたん)
  ⑤玄宗(げんそう: 唐8代皇帝)
  ⑥粛宗(しゅくそう:唐9代皇帝)
  ⑦代宗(だいそう:唐10代皇帝)

(2)ウイグル:
  ①牟羽可汗(ぼううかがん)
  ②僕固懐恩(ぼくこかいおん:牟羽可汗の義父)
  ③牟羽可汗の妻の可敦(かとぅん)

交渉の流れ
・史朝義→(援軍要請)→ウイグル 牟羽可汗が大群を率いて南下
・代宗が史朝義を打倒するため、劉清潭をウイグルに派遣 、劉清潭は陰山山脈で牟 羽可汗に遭遇

交渉1回目(交渉決裂):
劉清潭は可汗に、かつて代宗がウイグルの葉護(やぶぐ)と協力して安慶緒 から両京を奪還した故事、さらに唐からウイグルに毎年絹数万匹を贈ってい ることを訴えた。牟羽可汗はこれを無視し、さらに南下して山西の太原方面 に向かった。 劉清潭は長安の代宗に密使を送り、ウイグル軍の現状を報告した。

交渉2回目(交渉成功):
牟羽の妻の可敦が両親に会いたいと要請してきたので、実父である 僕固懐恩が太原方面に赴き、娘婿の牟羽可汗に道理を説く。 ウイグルは再び唐側につくこととなる。

結果)
代宗は雍王(ようおう)・适(かつ:後の徳宗)を兵馬元帥とし、僕固懐恩らに 命じて、食糧を備蓄した太原倉のある陜州(せんしゅう)でウイグル軍に合流させ る。10月、ウイグル軍と 僕固懐恩軍とが先鋒となって戦い、 ついに洛陽を奪還、史 朝義は范陽(北京)に向かって敗走した。 雍王は安全な西方に帰ったが、牟羽可汗は洛陽付近の河陽(河南省孟県、黄河の北 岸)に数ヶ月間駐屯した。その間、僕固懐恩の息子・僕固瑒(ぼくこちょう)の軍 はウイグル軍と共に 史朝義を追跡していく。  763年(宝応2)正月、追い詰められた史朝義は范陽で自殺。史朝義の首が長安に 届き、安史の乱がようやくにして平らいだ。 同年2月、牟羽可汗は唐皇帝のいる長安 には立ち寄ることなく、モンゴリアに帰国した。

ウイグルのマニ京都ソグド人
カラバルガスン碑文より  

 ここまで、安史の乱をウイグルとの関係から見てきたが、そうした経緯はウイグ ル側の史料としてはカラバルガスン碑文などに断片的に見ることができる。 カラバ ルガスン碑文とは、モンゴリアのオルホン河畔にあったウイグルの首都オルドバリ ク(その遺跡がカラバルガスン )に残されたウイグル帝国大八代 保義可汗(在位 808~821年)時代の巨大な紀功碑であり、ウイグルの公式歴史文献とも言うべきも ので、ウイグル語・ソグド語・漢文の3種で記述されていた。  
 ウイグル語は自分たちの言語、漢文は唐帝国のみならず東アジア漢字文化圏の共 通文語、そしてソグド語は 北中国を含むシルクロード東部地域の国際語であり、は からずもウイグルにおけるソグド人の重要性を証明している。 私の考えでは、本碑文はウイグルのみならずシルクロード東部全体のマニ教記念碑というべきものであ る。おそらくは人為的破壊によって、ウイグル語面はほとんど破壊されてしまった が、幸いソグド語面と漢文面は比較的よく残った。  
 ここには、牟羽可汗の即位から安史の乱の時の中国本土遠征、それに直結するマニ教導入に関わる前半部分を、ソグド語面・漢文面から引用しよう。カラバルガス ン碑文の解読研究は、1990年代に私が代表となった文部省科学研究費によるモンゴ ル現地調査によって進展を見せたものであり、ソグド語面は吉田豊の最新の業績に より、漢文面は私が復元作成中の最新テキストより和訳して提示する。 [ ]は小さい 破損部の推定復元であり、推定不能の場合は空白のまま残してある。大きい破損分 は・・・で示す。( )は解釈をわかりやすくするために補ったものである。
⚫️ソグド語面8~12行目 [牟羽]可汗として位についたのは、男として奇特で、全てのあり方で特別であったからである。彼が支配者の位に就いた時、四方に驚愕と畏れが広まった。(彼の) 天運と幸運のゆえに[ ]と知恵のゆえに、技倆と[男らしさゆえに]・・・そして言葉 (=請願書)が来た。次のように(書いてあった)、「この苦難から救って下さ い。援助して下さい 」と。神である王(=可汗)がこの言葉(=請願書)を聞いた 時、自ら強力な軍隊とともに天子の居所(中国を指す)にお進みになられた。その 軍隊は・・・彼らは再び戦闘を行った。全ての外教の信者(=異教徒)たちは神な るマール=マーニーの宗教をそれほど[ ]したので、この[ ]は追放された。神である 王は強力な軍隊とともにここオトュケン(モンゴリア中央部)の地で[ ]を彼らは打 った、取った。・・・数において4[人のマニ僧?]・・・我々は[ ]に仕えている。そ して逆さまの法(邪教)を保持している。悪魔に仕えている。今、神である王 の・・・がこの手(で?)全ての火を燃やす宗教(の代わりに?)神であるマール =マーニーの宗教を受け入れ[た?]。それから神である王は[ ]と宗教を受け入れ た。・・・汝らは受け入れることができない。・・・その時、神である王は同意 (/満足)した。(そして)詔を発した。(曰く)、「(汝らは)受け入れなさ い。そのゆえに(?)(私たちは)悪魔に仕え、お供えをし、進行してきた。軽蔑 すべき手・・・我々は偶像をグラータークという名前の土地で全て焼こう(/焼い た)。」偉大なる神である[王と]王子たち(?)・・・神であるマール=マーニー の宗教・・・下方へ(?)神であるマール=ネーウ=ルワーン慕闍(もじゃく)が[ ]した時・・・
⚫️漢文面6~8行目 [牟羽可汗はその力量が]奇特にして異常であったため、北方世界の諸邦が欽伏し た。[唐の玄宗]皇帝が蒙塵してより、史思明[の後嗣の史朝義が]・・・ししゃを送っ てきたが、その幣物は重く言語は甘く、軍隊の出動を要請し、協力して唐の国家を 滅ぼそうと願った。それに対し牟羽可汗は、史思明[の子の史朝義]が玄宗の恩に背 き、帝位を簒奪(さんだつ)しようとしていることに憤激し 、親(みずか)ら驍雄(ぎょうゆう )を統領(とうりょう)して、唐軍と共に前後 から敵(反乱軍)に当たり、協力しあって敵を一掃し、京洛を回復した。皇帝(代 宗)は・・・[唐とウイグル は]兄弟の邦となり、永遠に・・・となった。(牟羽) 可汗は東都(洛陽)に駐屯し風俗を視察し、・・・(マニ教高僧である)[ ]法師 は、睿息(えいそく) ら4人のマニ僧を率いてウイグル帝国に入り、マニ教を布教 させたが、彼らはよく三際(過去・現在・未来に対応する前際・中際・後際のこ と、すなわち基礎的なマニ教教義のこと)に通じていた。況(いわ)んや法師はマ ニ教教義に熟達し、七部からなるマニ経典に精通しており 、その才能は海よりも深 く山よりも高く、辯舌(べんぜつ)は立て板に水の如くであった。それゆえによく 正教(マニ教)をウイグルに開くことができたのである。 [以下省略]

 一読してわかるように、ソグド語面と漢文面とは完全には対応していない。特に ウイグルに援軍を要請して使者や請願書を送ってくるのが、ソグド後面では唐皇帝であるのに対し、漢文面では史朝義である。漢文面には破損があって「史思明」しか読み取れないが、漢籍によって判明している事件の経緯から、ここではそのこの史朝義の愛永を破損部に補うことに疑問はない。さらに漢籍から判明する所によれば、安史の乱に介入したウイグルの可汗は第二代の磨延啜(まえんてつ :(1)葛勒可汗 (かつろくかがん))と第三代の(2)牟羽可汗(ぼううかがん)の二人である。
(1)葛勒可汗は 756年に粛宗(しゅくそう)の要請を受けて即座に軍隊を出動さ
  せ、粛宗の行在所となった霊州(霊武)に近いオルドス地方を安定させただけで
  なく、翌757年にはウイグルの皇太子的存在であった長男の葉護(やぶぐ)を筆
  頭に据えた援軍を派遣し、長安・洛陽奪回に多大の貢献をなした。
(2)牟羽可汗は 762年秋、最初は史朝義の誘いに乗って唐を侵略するために自ら
  が大軍を率いて南下 してきたのであるが、 粛宗の後を継いだ代宗(だいそう)
  の必死の要請を受け入 れ、結果的に唐側の味方となって行動し、洛陽にまで
  進撃して安史の乱を終結させ たのである。 

 一方、漢籍はまったく沈黙しているが、カラバルガスン碑文漢文面7~8行目に より、牟羽可汗が洛陽付近滞在中にマニ僧と知り合い、763年、彼らを本国に連れ帰 ったことにより、ウイグルのマニ教の歴史が始まったとされているのである。

新発見ウイグル文書断簡より  
磨延啜(まえんてつ) の功績はなぜ無視されたのか
安史の乱の見方を変える中国史の分水嶺  

 8世紀中葉に勃発した安史の乱が中国史上に持つ意義は極めて大きく、これまでに も膨大な研究が蓄積されてきた。安史の乱を境に、唐帝国は西域を失うばかりか、 中国本土の内部においてさえ藩鎮(節度使・観察使)の跋扈(ばつこ)を許し、ま さしく帝国時代であった前期(初唐・盛唐)に比べれば実質支配領土を極端に狭め られたのであるが、淮南(わいなん)~江南の農業経済の飛躍的発展に支えられ て、前期に匹敵する一世紀半近くの命脈を保つことになるのである。国家の常備軍 について見れば、それまでのように民衆への一律の 租庸調制に基づく徭役(ようえ き)でまかなうのではなく、土地課税重視の両税法と塩専売・商税などの間接税に よって得られる税金で雇うようになるのである。  
 中国史の優れた研究に従えば、安史の乱以降は唐は自前で軍事力を調達する武力 国家から、お金で平和を買う財政国家へと返信したというわけである。まさにその 通りであるが、いわば別の国家になってしまったのであり、私は誤解を避けるため には、安史の乱以後は大唐帝国という呼称は使うべきではないと思っている。

視座を中国からユーラシアへ  

 私には、安史の乱は単に唐代史の分水嶺であるばかりでなく、中国史全体、ひい てはユーラシア史の分水嶺であるとさえ見えるのである。 しかしながら、従来の研 究において安史の乱の原因として指摘されるのは、 宰相・李林甫(りりんぽ)が科 挙出身の政敵の登場を嫌って安禄山のような異民族将軍を辺境の節度使に積極的に 登用したから(股間の対立を煽った李林甫悪玉説)であるとか、遠方にいて玄宗に 寵愛された安禄山と玄宗側近の皇太子や宰相・楊国中(楊貴妃の一族)との間の玄 宗後をめぐる権力闘争であるとか、謀反の意思ありと疑われて追い詰められた結果 の否応なしの選択とか、長安のある関中と雑胡化した河北との地域的対立であるとか、いずれも中国史の視点からのものが多く、しかもほとんどマイナス評価であ る。  
 私は近年、ソグド人・トルコ人・ソグド系トルコ人たちが主役となった8世紀の 康 待賓(こうたいひん)・康願子の乱、安史の乱、僕固懐恩の乱、8から9世紀の河朔 三鎮(かさくさんちん:幽州・魏博・鎮冀)の動向、そして10世紀に入って5代の沙 陀(さだ)諸王朝と遼(契丹)帝国の成立という一連の動向を従来とは違った角度 から見直し、それらを担った中央ユーラシア的勢力に注目し、安史の乱に従来とは まったく違う評価を与えることを提唱しつつある。中央ユーラシア的勢力とは、 中 央ユーラシア出身のモンゴロイドでアルタイ系(主にトルコ系で 奚・契丹などのモ ンゴル系も含む)の騎馬遊牧民やコーカソイドでイラン系のソグド人、及びその混 血種によって構成される遊牧的 ・軍事的・商業的集団である。  
 そしてさらに、唐朝に味方して安史の乱を「つぶした」とされるトルコ系のウイ グル(廻紇・回鶻:かいこつ)についても、別の評価があり得ることを主張する。 換言すれば、中央ユーラシア型国家の典型(いわゆる「征服王朝」)としての遼帝 国の雛形として、かつて私自身が提唱した渤海に加えて安史の乱勢力、そしてさら にウイグル帝国の三者 があったのであり、しかもその趨勢はユーラシア全体の必然 的な歴史の流れ(長期波動)であった、という考えを提出しているのである。それ は次のようなものである。

早すぎた「征服王朝」 

 生産力・購買力と並んで歴史を動かしてきた大きなモーメントは軍事力である。 紀元前1,000年期初めに中央ユーラシアの乾燥した大草原地帯に馬を乗りこなす遊牧 民集団が登場し、地上最強の騎馬軍団を擁するようになってから、彼らの動向が世 界を動かす原動力となったのは自然であった。  
 第一章で時代区分について述べたように、私は世界史の時代区分の中に、(4)遊牧騎馬民族の登場と、(5)中央ユーラシア型国家優勢時代、を設けている。とりわけユ ーラシア史の一大転換期として注目するのは、(5)が始まる10世紀前後の時代であ る。この時代になると、ユーラシアには東から順に遼(契丹)帝国、沙陀諸王朝5 代のうち後唐・後晋・後漢・後周の四王朝)、西夏王国、甘州ウイグル王国、西ウ イグル王国、カラハン朝、 ガズナ朝、セルジューク朝、ハザール帝国など、同じ様 なタイプの中央ユーラシア型国家がずらりと並び立った。  
 すなわち、(4)遊牧騎馬民族の登場となった紀元前10世紀頃以降の長い時間をかけ て、豊かな農耕・定住地帯への略奪・征服あるいはその住民との協調・融和・同化 に成功と失敗を繰り返してきた 遊牧民勢力が、10世紀頃にいたってついに、大人口 の農耕民・都市民を擁する地域を少ない人口で安定的に支配する組織的なノウハウ を完成することができたのである。それらのノウハウとは軍事的支配制度、税制、 人材登用制度、商業・情報ネットワーク、文字の導入、文書行政、都市建設などで あり、それらを支える最大の基盤は、遊牧民集団の軍事力とシルクロードによる財 貨の蓄積であった。  
 しかしながらそれだけでは支配は一時的に終わってしまい、より安定した強固な 「征服王朝」を維持するには不十分である。そのために必要だったのは、いくつも の要素が複雑に絡み合った「システム」の構築であったと思われるが、その根幹に 文字文化(文字の普及と文字を使用しての文書行政) があったことは言うまでもない。
 人口の少ない「北方」の遊牧民勢力が、従来からの本拠地である草原に足場を残 しながらも、「南方」に位置する都市や農耕地帯を支配する中央ユーラシア型国家 を一挙に出現させたのは、決して偶然ではありえない。長い歴史を経た「北方」勢 力の水準が、武力のみに頼るのではなく、文書行政を通じて直接・間接に「南方」 を支配するシステムを構築できる段階に至っていた、だからこそユーラシア全域にわたってほぼ同じ時期に同じような現象が見られたと考え、そこに歴史的必然性を 見出すべきなのである。安史の乱側の勢力はもとより、それらを鎮圧する側の唐の 軍隊でさえその 中核は同じく中央ユーラシア的勢力の騎馬軍団であったことを絶対 に忘れてはならない。  
 このような見方に立てば、安史の乱には「乱」というレッテルに象徴されるよう な中国史側からのマイナス評価だけでなく、 ユーラシア史の側から積極的なプラス 評価を与えることができるのである。それは安史の乱が、10世紀前後に全ユーラシ アにわたって認められる歴史的動向に連動するもの、より正確に言えば先行する事 象であったと認めるからなのである。安史の乱を起こし、それを維持した背景に、 遊牧民の軍事力と、シルクロード貿易による経済力の両方があったことは、すでに 中国の栄新江(えいしんこう) によっても指摘されている。つまり征服王朝となる 条件は十分に備えていたはずなのであるが、最終的には安史勢力はウイグルを見方 に取り込むことができず、軍事的に破綻したのである。もし安史の乱が成功してい ればそれは安史王朝となっていたであろうが、いかんせん8世紀にはまだそうなる基 盤が十分には整っていなかった。だから安史の乱はいわば「早すぎた征服王朝」だ ったのである。

第八章 ソグド=ネットワークの変質
唐・安史勢力・ウイグルのソグド人
唐帝国内の興胡  

 荒川正晴の研究によると、北朝~隋~唐初のソグド人と、太宗(たいそう)・高 宗(こうそう)時代の西域発展期以降の唐のソグド人とでは、中国における扱いが大きく変化した。特にそれが 薩宝(さつぽう:薩保)という官称号の内容変化と、唐代になって全民衆を「百姓 (ひゃくせい:本貫地で戸籍登録)」「行客(こうきゃく:本貫地を離れた寄住先 の州県で戸籍登録)」のいずれかの戸籍につけて掌握する政策を推し進めた時、ソ グド人に対しては「百姓」「行客」だけでなく特別に「興胡(こうこ)」というカ テゴリーを設けた点に具現化しているという。  
 かつてのソグド人は、中国内地においていかに大人数で植民 聚落(しゅうらく) (都市内居留地を含む)を築こうとも、彼らはあくまで「外国人」であった。とこ ろが唐帝国が西域に進出してまず 麴氏高昌国(きくしこうしょうこく)を征服して 直轄化し、次いで東トルキスタン全体を安西都護符によって 羈縻支配する体制を取 り、さらに羈縻支配の網がパミールを超えて西トルキスタンにまで拡大すると、 658 年、ソグディアナ諸国には康居都督府 (こうきょととくふ)が置かれて名目的には 唐帝国の支配下に入った。  
 同様に羈縻都督府が置かれた地域は他にいくらでもあるのであるが、ソグディア ナだけは特別であった。なぜならそこは、ソグド商人の故郷であったからである。 つまり唐は、それまでにソグド商人がシルクロード東部全域に広げてきた商業・情 報ネットワークを潰すことなく、積極的に取り込もうとしたのである。そのため に、羈縻州となったソグディアナから新たにやってくるソグド商人を 、外国人では なく「興胡」という特殊な扱いにした。そして、すでに以前から中国に入っていた ソグド人を内地人(唐人であって漢人ではない)とし「百姓」「行客」のいずれか に分属させ、相変わらずの商業活動の余地を残し、彼らと「興胡」とをドッキング させ、さらなるシルクロード=ネットワークを構築させる政策を取ったのである。 従来から、柔然(じゅうぜん)・突厥・ウイグルなどの遊牧国家の一大発展には、 必ず商業民を取り込むことが前提とされてきたが、その点は大唐帝国にしても同じ だったわけである。これは大きな発見である。
「百姓」「行客」「興胡」のいずれかであるソグドしょうにんが、帝国内を移動するには中央ないし州レベルで発給する「過所(かしょ)」、または州県レベルで発 給する「公験」という通行許可証をお上から発給してもらわねばならず、以前より 移動の自由が減少したようにも見えるが、逆に過所または公験を持参しさえすれば 道途において様々な公的サービスを受けられるという有利さもあったのである。  
 こうして唐の内部で活躍を許されたソグド人たちの一部が、これまで見てきたよ うに自らある程度以上の軍事力を持つだけでなく、突厥第一帝国滅亡後にそこから 南下して来たソグド系突厥と結びつき、さらに 同羅(とんぐら)・突厥などのトル コ系、奚(けい)・契丹などのモンゴル系の遊牧民勢力とも結び付いて強大な軍事 力を持った時、伝統的な経済力と情報網を駆使して独立の方向を目指すのは、なん ら不思議ではない。それが安史の乱だったと見ることもまた不可能ではない。

牟羽可汗の政策とソグド人  

 さて、東ウイグルから見れば、安史の乱への介入は決して単なる援助・救援では ない。本書でこれまで縷述(るじゅつ)して来たような中央ユーラシア史の大きな 流れとソグド人の動向とを踏まえるならば、 磨延啜(まえんてつ)・ 牟羽可汗(ぼ ううかがん)が、治下のソグド人やソグド系トルコ人によってユーラシア東半部に 張り巡らされていたネットワークから集めた情報を元に、ソグド人政商やソグド系 武将とも相談の上、明らかな目標を持って安史の乱に積極的に参入した可能性は十 分にある。  
 玄宗皇帝の長安から蜀(四川)への蒙塵(もうじん)は756年6月に起こり、翌7月 に行在の霊武で即位した粛宗(しゅくそう)皇帝は、9月にウイグルの 磨延啜可汗へ の救援要請の使節団を派遣した。それが漠北オルホン河畔にあったウイグルの本拠 地に到着し、磨延啜可汗と会見したのは多分10月である。そして早くもその翌月か ら翌々月にはウイグル軍が唐の郭子儀(かくしぎ)軍と合流して、安史勢力側の阿 史那従礼軍を撃破し、少なくともオルドス地方一帯に平安をもたらした。  
 すでにアメリカのL=W=モージスやカザフスタンのA=K=カマロフらは、ウイグ ルは唐朝に臣属していたから援助を当然の義務と考えたという中華主義的見方をは っきりと斥け、突厥第二帝国の滅亡時に中国に亡命していた突厥ないしソグド系突 厥の集団を、最初は安史勢力側にいた旧突厥王族の阿史那従礼が糾合(きゅうご う)したので、ウイグルが対抗措置を とったのであるという見解を示している。確 かに磨延啜時代に限って言えば、このような旧突厥 勢力の復活阻止という一面があ った可能性は認められる。しかし、繰り返し述べたように、牟羽可汗の時代に入 り、ウイグル は史朝義の勢力と組んで、唐王朝地震を打倒するために中国に侵入し ているのであるから、このような見方を全体に及ぼすと、単なる結果論に陥ってし まう。  
 さらに忘れてならないのは、牟羽可汗(ぼううかがん)は、安史の乱が終息した 763年の8月、唐側の僕固懐恩(ぼくこかいおん)が反乱を起こすと、やはり中央ユ ーラシア勢力として成長著しいチベット帝国と手を組んで、 妻の実父である僕固懐 恩を助けようとしたことである。いうまでもなく僕固懐恩はウイグルと同じ九姓鉄 勒(てつろく)に所属する僕骨(=僕固)部出身のトルコ人武将であり、その配下 に遊牧民族出身の軍団を率いていたのである。僕固懐恩の乱側の勢力はウイグル・ チベット・吐谷渾(とよくこん)・党項(タングート)・ 奴刺(どらつ)を合わせ て20万以上に達したという。しかし、懐恩の病死後、ウイグルはチベットと袂 (た もと)を分かち、再び唐についた。  
 その後も牟羽可汗は決して中国侵攻の意志を放棄していない。778年、従父兄の頓 莫賀達干(とんばがたるかん)をして太原地方に 侵入させ、羊馬数万を獲得しただ けでなく、翌年には、本格的な中国征服を企図(きと)したのである。すなわち779 年5月、中国で代宗が逝去し、徳宗が即位すると、牟羽は側近のソグド人の意見をい れ、国を挙げて中国を目指しなんかしようとしたのである。
 もしこれが実現していれば唐はこの時点で命脈をたったはずであるが、この牟羽 の壮図(そうと)は、頓莫賀達干らのクーデターによって 挫かれ、牟羽はその与党 と側近のソグド人を合わせた約2,000人と共に殺されたのである。つまり、マニ教の 公式伝道を許しただけでなく、自らもマニ教に改宗し、マニ教徒と表裏一体である ソグド人を優遇した牟羽の「革新的」政策は、いまだ国人の圧倒的支持を得るには 至らなかったのである。  
 このように考えてくると、安史の乱の時に中国に親征した牟羽可汗が、そのころ にマニ教に改宗し、それを国教化しようとした理由は、先に述べたような経済的・ 政治的理由からのソグド=ネットワークの利用にあるだけではなく、軍事的にも重 要なソグド人ないしソグド系トルコ人 の取り込みを意図したのではないかとさえ思 われる。しかしながら、ソグド人のほとんどは本来ゾロアスター教徒であり、中国 にやって来たソグド人の間には 仏教徒になる者も多く見られ、また明らかに景教徒 (けいきょうと)もいたのであり、どの程度のソグド人がマニ教徒であったのか、 そして何ゆえにマニ教がウイグルの国教的地位を獲得したのかは、依然として謎の ままなのである。

シルクロード貿易の実態
西域の金銀銭  

 7世紀初めに唐の支配が西域に及ぶ直前のシルクロード東部では、金銀と絹織物が 主要な国際通貨であった。『大慈恩寺三蔵法師伝』巻1によれば、インドへ仏法を求めるために旅だった時、多数の金銭・銀銭が布施されたという。  
 そしてさらに、ゴビ砂漠を越えて密出国した玄奘を、東部天山の内懐(うちぶと ころ)に抱かれたトゥルファン盆地で迎えた高昌国王・ 麴文泰(きくぶんたい) が、中央アジアを通ってインドに往復するための旅費として玄奘に与えたのは「黄 金1百両、銀銭3萬、綾および絹など500疋」であった。さらに『大唐西域記』巻1 で玄奘は阿耆尼(あぐに=焉耆(えんぎ))国・屈支(くつち=亀茲(くちゃ)) 国・迦畢試(かぴし)国の通貨が金銭・銀銭・小銅銭であり、覩貨邏(とはら)国 (旧バクトリア)でも金銭・銀銭を使っていると報告している。  
 これらの記事は、なによりもよく当時の中央アジアの国際通貨が金銀銭と絹織物 であったことを物語っている。しかしながら、その一方で、『大慈恩寺三蔵法師伝』巻2には、高昌国と阿耆尼国の中間にある銀山について「山は甚だ高く広く、 皆是れ銀礦(ぎんこう) にして、 西国の銀銭の従い出る所なり」とあり、これを、 現在の新殭ウイグル 自治区~北中国からの金銀銅銭の出土状況と重ね合わせて考え れば、当時の中央アジアでは国際通貨としても現地通貨としても銀銭が最も重んじられていたと推定される。本書で取り上げたソグド文女奴隷売買契約書や漢文契約 文書により、7世紀のトゥルファンにおいても銀銭が高額貨幣 として通行していた事 実が確認されているのであるから、この推定にもはや疑いの余地はない。また銀銭 と同時に豪華な金銀器も大量に西方から中国にもたらされた。

高額貨幣としての絹織物

 しかしながら唐による征服後、河西からパミールまでの中央アジア東部は中国経済圏に入ることになったのであり、必然的に絹織物(帛練繒綵綾羅錦(はくれんそうさいりょうらにしき)などで「帛練」はその総称的代名詞)が銀銭に変わって高額貨幣の代表となっていく。 特に8世紀になると銀銭は完全に唐の銅銭に取って代わ られてしまう。銅銭はここの価値は低いが、高額であっても品質が多種多様で統一 的な計数機能を持っていない絹織物に代わって、価値計算の単位となったのであ る。荒川正晴によれば、中国本土から支配下の西域に軍事費として送付される布帛 の量も、8世紀に入ると飛躍的に増大し、それに伴ってソグド商人をはじめとする商 業活動は前代にもまして活発となるのである。  
 この時代になっても相変わらずソグド人の手によって 西方の金銀器が東方に運ば れたことは、考古学的資料によって 十分に推測される所であるが、彼らがパミール 以東において銀銭ないし銀塊を主たる交易手段としたことはもはやなかったようで ある。7世紀末にはトゥルファン文書から銀銭使用が消えるのみならず、早くも670 年前後に天山地方で活躍したソグド商人が銀ではなく絹を高額貨幣としている事実 が漢文文書から明らかになっている。  
 また8世紀の第1=4半世紀の様子を伝える『慧超(えちょう)往五天竺(てんじ く)国伝』では、ヒンドゥークシュ山脈以南の西天竺国(西インド)での銀銭使 用、建駄羅(ガンダーラ)国と 識匿(しきとく)国(シグナン)の条ではそれぞれ 次のようにいう。  
 ここ胡蜜の王は、軍力が貧弱なため自衛ができず、現在はタジク(=ウマイヤ朝 =大食)の管轄下にあり、毎年絹3,000疋を税として送っている。  そこ(=識匿)の王はいつも200~300人の者を大パミール平原に派遣して、例の興胡や(外国の)使節団から略奪している。たとえ略奪して絹ウィ獲得しても、倉庫に積み上げて腐るにまかせるばかりであり、(それで) 衣服を作ることを知らな い。  
 同じ『慧超伝』には西北インドのガンダーラあたりにまで中国領からソグドしょ うにんがやって来たことが記されているから、この時期のシルクロード東部におい て、金銀銭よりもむしろ実物貨幣としての絹を多く持参するソグド商人の姿が広範 に見られたと言って良かろう。

銅銭の役割を担う絹織物  

 紀元1,000年紀の中国本土では、金銀はさほど流通しておらず、貨幣として主に用 いられたのは、前漢以来の五銖銭(ごしゅせん)に代表される銅銭と、絹織物・穀 物などの実物貨幣であった。公権力のお墨付きを持ち、計数機能に優れている点 で、銅銭の方が優位にあったとはいえ、両者は並行して用いられたのである。隋代 まで伝統的に用いられた五銖銭に代わって唐初には「開元通宝」が発行され、以後 唐から五代まで「開元通宝」その他の銅銭が発行され続けるが、租庸調制の下では まだ納税は穀物・布帛(ふはく)などの現物によっていた。  
 ようやく780年になって、それまでの租庸調制に代わって両税法が 施行されると、 納税には銅銭を用いることが原則となり、地方にまで銅銭経済が浸透していく。し かしながら、銅銭は重くて安く、金銀・絹織物のような軽くて高いものの対極にあ って、 遠距離を運ぶ必要のある国際通貨には適していない。 それどころか国内でさえ、遠隔地間で税金や軍事費などを待つめて移送する場合には、どうせんではなく 軽貨と呼ばれる高級絹織物や金銀は使われたのである。ただし金は絶対量が少な く、銀は銀鉱山のある嶺南や江南の一部や、それが集中し蓄積される長安・洛陽・ 揚州(ようしゅう)などの大都市を中心に流通しただけであり、全国のいずこにお いても一般には絹織物(特に綾・羅)が遠方への価値輸送手段となったのである。  
 唐代にはまだ銀を以って物価を表示した事例はなく、宋代になって初めて現れ る。唐代の中国本土においてようやく流通し始めた銀でさえ、価値尺度を備えた安 全な貨幣となってないわけで、 銀以上に希少な金は、貨幣よりもむしろ財宝として 扱われた。それゆえ、漢代以来の1,000年以上にわたって、さまざまな輸入品の代価 として、あるいは政治的・軍事的安 寧(あんねい)を得るために中国から外国に向 けて支払われた国際通貨の大宗(たいそう)は、中国の特産であり、かつ軽くてか ちの高い絹織物以外にありえなかったのである。  
 モンゴル高原~天山山脈の草原地帯に興亡した遊牧国家の馬と、中国の絹織物と の交易に前近代中央ユーラシア史の原動力があるとする松田嘉男による「絹馬交 易」の研究は、この間の事情を極めて説得的に述べている。それによれば、特に突厥・ウイグル帝国にとっては絹が重要だったことが明らかである。このことは、か つて漢が匈奴に与えた歳幣(さいへい)には絹以外に穀物が、そして後代に宋から 遼・金・西夏に与えられた歳幣には絹に銀が加えられただけでなく、それらが絹に 劣らぬ重みを有していたのと好対照である。つまり突厥やウイグルの国際通貨は絹 織物であって、銀ではなかったのである。まして、より稀少で、伝統的に遊牧民が ステータスシンボル(威信財)あるいは本当の財宝として自ら所有することを好ん だ金製品の材料である金であったはずはない。

唐・ウイグルの絹馬交易

 唐との絹馬交易(けんばこうえき) でとりわけ有名なのはウイグル帝国(東ウイ グル)である。 安史の乱で国家存亡の危機に立たされた唐帝国は、ウイグルの軍事 的援助を得ることでかろうじて生きながらえることができたのであるが、見返りと してそれ以後定期・不定期に大量の絹織物 が唐から東ウイグルの本拠であるモンゴ リアに送られることになった。一部は歳幣として 定期的に贈られたものであるが、 大部分は不定期にウイグルからもたらされる馬の代価として送られたのである。 後 者がすなわち絹馬交易によるものであ離、それは東ウイグル末期まで続いた。  
 この絹馬交易は、かつてはウイグルの非道ぶりを言いたてる漢籍の記事を間に受 けて、不要な馬を押し付けられる矯正された貿易であるという見方(唐財政がこれ によって圧迫されたというウイグル悪玉説) が支配的であったが、最近では斎藤勝 が、実際に唐が必要とした軍馬の供給にとって重要な交易であったという新見解を 提出した。中華主義的バイアスのかかった漢文史料の虚構を暴くその論証過程は見 事であり、馬が軍事力の根幹であった時代、唐にとって最大の輸入品は馬だったは ずであるから、私は斎藤の新説に全面的に同意する。  
 さて、この馬の代価(馬価絹ばかけん)としてモンゴリアに年々蓄積される膨大 な量の絹織物は、ソグド商人の手により、軽くて高価な商品、ひいては貨幣として 西方の中央アジア・西アジア・東ローマなどに運ばれたに違いない。それに対して ウイグルが得たのは、金銀器、ガラス製品、玉、琥珀、真珠、珊瑚その他の宝石 類、さまざまな香料薬品類、ソグド・インド・ペルシア・西アジアなど西方産の絨 毯・壁掛け・つづれ織・棉布そのほかの織物類等の奢侈品(しゃしひん)出会った と思われる。  
 ただ注意したいのは、馬価絹というのは一定の規格のある平絹(ひらぎぬ)であ り、錦や綾・羅、さらに金襴(きんらん)などの高級絹織物ではない。そしてその レートは馬一頭につき平絹25匹程度であった。平絹はあくまで計算基準であり、そ れとこれら高級絹織物とのレートも決まっており、実際の馬価絹支払いには平絹だけでなく高級絹織物も大量に含まれたと思われるが、実態はわからない。一方、朝 貢(ちょうこう)品への回賜(かいし)や歳幣として唐より外国にもたらされた絹 織物がまさしく唐の国家威信をかけた最高級品であったことが、石見清裕によって 明らかにされている。さらに石見は、「互市(ごし)」と呼ばれる民間貿易で使用 された貨幣としての「帛錬(はくれん)・ 蕃綵(ばんさい)」も、高級品であった ろうと推定している。  
 遊牧民側が馬価絹で購入した商品の中で、一番わかりやすいのは金銀器である。 突厥・ウイグルなど草原世界のお王侯貴族がいかに金銀器を愛好したかは、 正史の 突厥伝・ウイグル伝などの漢籍記事、そしてギリシア語で残された東ローマからの 使者の報告のみならず、モンゴリア・トゥヴァ・南シベリア・天山山中などより出 土した実物がこれをよく示している。つい最近、モンゴリアのオルホン河畔にある 突厥のビルゲ可汗廟がトルコ共和国隊によって発掘され、 多数の金銀器(カラー口 絵参照)が出土したため、自分たちの遠い先祖の地における大発見として喧伝(け んでん) されたことは記憶に新しい。これらの出土品には名品が多く、当然ながら 唐からの歳賜品も含まれようが、草原世界に流入した馬価絹により、自らの嗜好に 合わせて唐都のみならずトゥルファン・ クチャやゾグディアナなどからやってくる 商人から買い集めた財宝も多かったに違いない。

奴隷とソグド=マネー  

 さて、もう一点忘れてならないのは、本書第五章でクローズアップしたソグド人 奴隷のことである。これまで私は、多い年には数万頭から10万頭にも達する大量 の馬の見返りに突厥・ウイグル帝国に流入した絹の価格はあまりに巨大すぎて、いかに金銀器・宝石・香料・高級織物類などが高価であったとしても、人口の少ない 遊牧民国家の上流階級が使用・浪費するには自ずから限度があり、絶対に収支の 「釣り合い」が取れないのではないかと訝(いぶか)ってきた。先に引用したパミ ール山中の識匿国の例のように、使いきれない 馬価絹は倉庫に積み上げたまま腐る に任せたのかとさえ疑った。  
 しかしながら、今やこの見返り商品の中に大量の奴隷がいたと仮定したら、長年 の謎は解けるのである。北朝から隋唐にかけて中国には西域から多数の芸能人・音 楽家・工芸職人・医術者などが迎え入れられ、文化交流の花を咲かせてきた。だと したら、草原の遊牧民世界にもそれに匹敵する豪華な暮らしがあり、絨毯を敷き高 価な錦繍(きんしゅう)で覆われた美しいテントで、着飾った王侯貴族や妻妾たち が金銀器やガラス細工で葡萄酒を飲みながら、西域伝来の歌舞音楽やサーカスを楽 しんでいるなどということがあっても不思議はない。そこでは、中国の宮廷と同じ く、歌舞音楽を支える奴隷もいれば、美貌を買われて 妻妾となる奴隷もおり、草原 の貴族たちに西域の音楽や各種の文化が流布していったことだろう。  
 ここで想起されるのが時代はやや遡るが、次の二つの事例である。『旧唐書』巻 29・音楽志2と『通典』巻142・楽2によれば、北周の武帝が突厥第一帝国から阿史那 氏の王女を皇后として 娶った時、西域諸国出身の随員が一緒にやってきたため、 そ れから長安に亀茲(クチャ)楽・疏勒(そろく)楽・安国(あんこく)楽・康国 (こうこく)楽が大いに集まったという。つまり、突厥宮廷にすでにこういう音楽 を演奏する楽人集団が侍っていたはずであり、これを恒常的に支えるために、大量 の馬価絹が消費されたことであろう。  
 また、則天武后の一族の武延秀(ぶえんしゅう)が突厥・カプガン可汗の娘を娶 るために突厥には派遣された時、その地に抑留されてしまうが、そこで突厥語・突 厥舞のみならず胡旋舞まで習得した。そのため、帰国後に彼は宮廷サロンの花形プ リンセスであった安楽公主に気に入られ、ついにはその婿となったのである。これ も、突厥にソグドの胡旋舞を教えるほどの文化的下地がある、ということを意味し ている。突厥宮廷は唐宮廷から見ても決してダサく (垢抜けない)はなかったのである。  
 隋唐代には西域の胡人の代表であるソグド人が、貿易の相手として北方草原の覇 者である突厥やウイグルのもとに多数入り込み、植民聚落を形成 したり、場合によ っては都市さえ建設した。
 そして、突厥やウイグルと緊密に結びつき 、そこにソグド文化を持ち込んだだけで なく、自分たちも遊牧民化していった。必然的に相当の混血が起こり、新たにソグ ド系突厥人、ソグド系ウイグル人とでも呼ぶべき集団が形成されてきた。 東ウイグ ル時代には、これらの純ソグド人ならびに半ソグド人たちが中国での貿易活動を有 利にするために、ウイグルと詐称することが往々にしてあったことは、牟羽 (ぼう う)可汗時代の漢籍史料から十分認識されている。すでに紹介したように、牟羽可 汗がクーデターで倒された時、共に殺害された彼の与党と素琴のソグド人は合わせ て約2,000人いたのである。
 そしてしばらくの潜伏期間を挟んで、第7代 懐信(かいしん)可汗の時から、ウイ グルのソグド人とマニ教僧侶の動きが史料上で活発になる。再びソグド商人が絹馬 交易の仲介者となり、ウイグルの圧力を 背景にして唐国内の大都市に設置させたマ ニ教寺院を宿泊施設・倉庫・銀行、時には緊急時の避難所などとしてうまく利用し つつ、ついには唐本土の金融資本のかなりの部分さえ掌握するようになる。それが 「回鶻銭(かいこつせん)」、すなわち「ウイグル=マネー」と呼ばれ るものであ る。内外の多くの学者はこれを文字通りにウイグル人が商人化した結果と考えてき たが、それは誤りで、実体はソグド=マネーなのである。経験のない遊牧民がいき なり国際商人になどなれるはずはない。これについては『岩波講座世界史』に発表 した拙稿「《シルクロード》のウイグル商人―ソグド商人とオルトク商人の あいだ ー」で詳しく述べたので、ここでは繰り返さない。

参考)岩波講座 世界歴史 第11巻 中央ユーラシアの統合
《シルクロード》のウイグル商人― ソグド商人とオルトク商人のあいだ―
(1)オルトク問題解決のための新出史料  
   ユーラシアが世界史上初めて一つにまとまったモンゴル時代、漢文やペル
  シア語の歴史書をはじめとする東西文献には、「斡脱(あつだつ)・オルタク・
  オルトク」という言葉が頻出するようになる。
   これは当時の商人 や商業に関する特殊な術語であり、その語源と意味につ
  いては、多くの先 行研究はある。かつてはこれをユダヤ商人と見る説さえあ
  ったが、それが 下火になった後は、次のような考えが通説化した。それは、
  オルタク商人 とはモンゴル皇帝・王族・政府と結託し、その保護と資金提供
  を受けて会社ないし組合組織を作り、遠隔地商業・高利貸し・徴税請負など
  を行なって暴利を貪った西域商人ないしはムスリム(イスラム教徒、サラセン)
  商 人・ウイグル商人であり、オルタクやオルトクというテュルク語はムスリ
  ムのテュルク人によってモンゴルに伝えられたものである、という見方で あ
  る。  
   ところが最近になって、従来の諸説を検討し直した宇野伸浩は、 オル得 を
  なんらかの「組合」とする見方を退け、「オルトク商人は、出資者であ るモ
  ンゴル人の共同事業者という意味で ortoq(ortaq)と呼ばれていた 」とする考
  えを示した。私たちはこの考え方が最も真実に近いと思われる。しか しこの
  宇野論文も含めて従来の論考は全て、東の漢文資料と、西のイスラ ム史料・
  ロシア史料などとによって導き出されたものであった。 これに対 して本稿で
  は、勃興期のモンゴルと地理的にも政治・経済的にも文化的に も極めて密接
  な関係を持ったウイグル人の残したいわゆるウイグル文書に 着目し、それを
  正面から取り上げることによって、この問題の 解決を図り たい。ここにいう
  ウイグル文書とは、 東部天山地方を中心とする西ウイグル王国(9世紀後半
  ―13世紀初頭)ないしモンゴル支配時代(13― 14世 紀)のウイグリスタンの
  人々が残した文献のことである。
   ところで19世紀末から20世紀初頭にかけて、スウェーデンのヘディン、 イ
  ギリスのスタイン、ドイツのグリュンヴェーデル とルコック、フランス のペ
  リオ、ロシアのクレメンツやオルデンブルグ、そして日本の大谷探検 隊など
  が中央アジアの遺跡を発掘するのを、世界中の人々が固唾を呑んで 見守った
  ことがあった。現在では先進文明圏の外にある中央アジアである が、かつて
  陸の《シルクロード》が世界貿易の幹線であった頃、そこは絹 織物・金銀ガ
  ラス器・珠玉宝石・香料薬品・毛皮・象牙などの軽くて高価 な商品や貴重な
  情報が溢れ、流行の最先端をゆくセンターであった。様々 な人々が集まるオ
  アシス都市には、様々な宗教が流れ込んできた。今でこ そイスラム教が圧倒
  的に優勢であるが、かつてそこには1000年もの長きに わたって仏教が栄え、
  また西方で迫害されたマニ教やネストリウスはキリ スト教なども伝播してい
  た。 前述の各国探検隊によって持ち帰られた発掘 品の中には、仏教文化の遺
  品とその時代の古文書を中心に、マニ教・キリ スト教関係のものが混じって
  いた。 ウイグル文書とは、 そのようにして発 見された古文書類の中でも主要
  な一群であり、人類の貴重な文化遺産である。
   ウイグル文書の研究は、まず比較的解読の容易な経典類から始まって発展
  したが、解読困難な俗文書(寺院経済文書も含む)の研究は後回しにされた。し
  かし俗文書こそ歴史学の史料として重要である。
   本稿の目的は、 これらの文書を効果的に使って、
  ①長い間オルタクと呼びならわされ てきたモンゴル時代の特殊な商人はオル
   トクと称すべきこと、
  ②そのオルトクお語源は古ウイグル後であること、
  ③それはイスラム教徒ウイグル人ではなく仏教徒ウイグル人の用語からモン
   ゴル語に入ったものであること、
  ④オルトクというウイグル語は少なくとも 10世紀までは遡 れること、
  ⑤オルトク関係とは組合や会社などの組織ではなく、起源 的には個人と個人
   の契約であったこと、
  ⑥オルトク商人はムスリム (イスラム教徒)商人ばかりではなく仏教徒(時にキ
   リスト教徒)ウイグ ル商人も混じっていたこと、否むしろ起源的に見れば初
   期には仏教徒(時 にキリスト教徒)ウイグル商人が中心だったとみなすべき
   こと、  
  ⑦ウイグル商人の起源は唐代に内陸アジアの遠隔地貿易で活躍したソグド商
   人にまで遡ること、
  ⑧唐代の回鶻銭(かいこつせん)とはウイグル商人ではなくソグド商人の資本で
   あること、等々を論証することである、
   この試みは、他方から見れば、「消えたソグド商人」の謎を解くことでも
  ある。
(2)ウイグル農業社会の土地共有  
   もともとモンゴリアの大草原で遊牧中心の生活を営み、8−9世紀には東 ウ
  イグル可汗国を建設したウイグル人であったが、 9世紀後半に東部天山地方
  に本拠を移し、西ウイグル王国を建設して以降、砂漠とオアシスが多い当地
  にあって徐々に農民や商人になる者が増えていった。そしてモンゴルが勃興
  する13世紀までには、天山山中ないし北麓の草原においては遊牧生 活や騎馬
  軍団を維持しつつも、民衆の多くは先住民であったトカラ人・ソグド人など
  の印欧語族や漢族などと交わり、彼らに倣って農業や商業、あるいは家内工
  業に従事するようになっていた。 ウイグル文書の大部分はこのようなウイグ
  ル西遷(せいせん :西に移ること)後の、いわゆる「定着化」以降に作られたも
  のである。  
   こうして形成されたウイグル農業社会においては、耕作用の土地は個人で
  所有されるだけでなく、しばしば共同で所有されていた。そのことは、 山田
  信夫著、小田嘉典、P・ツィーメ、梅村担、森保孝夫共著『ウイグル文契約文
  書集成』に収められた土地売買、小作、土地共同使用、家畜賃貸、 棉布借
  用、土地譲渡などの契約文書に現れる次のような表現より明らかである。な
  おこれらの各種契約文書を示す略号については『集成』第二巻の 序文に明記
  してある。
(3)ウイグル・回回・ムスリム  
   さて、今や我々は、東部天山地方のウイグル人にも、 本物の赤いルビー を
  表すlalという語が確実に知られていたこと、およびそのルビーが重要な商品
  として、当時のウイグル社会にまで浸透していたことを疑う必要は無くなっ
  た。しかもそれを扱う商人が残した文書に、オルトクに関わる言葉 が出てく
  るのである。
   ここで注意しておかなければならないのは、 現在の中央アジアのウイグ ル
  族は全てイスラム教徒(ムスリム)であるが、モンゴル時代の東部天山地方にい
  たウイグル人はその大部分が仏教徒で、 一部にネストリウス派キ リスト教徒
  も居住していたが、イスラム教徒の姿は外来の商人以外はまだほとんど見ら
  れなかったという事実である。この事実は現地出土のウイグ ル文書や遺蹟、
  そして漢籍、イスラム史料、ヨーロッパ側の史料などから 明らかである。い
  までは論証の必要もないが、回回名称問題やオルトク問 題を論じた学者の間
  にはこの事情に疎く、ウイグルといえばその中に必然 的に大量のイスラム教
  徒も含まれると誤解したり、あるいは逆にイスラム 教徒という相性の中にウ
  イグルを含めるという「誤り」を犯しているの に、それを認識していないも
  のが多く見られた。実はこれがオルトク問題の紛糾させて来た要因の一つで
  もある。しかし同じ中央アジアのテュルク 族でも、カラハン朝やホラズム朝
  など西ウイグル王国より西方にあって イ スラム教に改宗し、「回回」と称さ
  れることの多かったテュルク系集団 と、唐代以来の「回鶻・回紇」(いずれも
  Huigbur>Uighur=「ウイグル」の 音写)の直系である西ウイグル王国の仏教
  徒(あるいは ネストリウス派キリス ト教徒)ウイグル集団とは、明確に区別さ
  れなければならない。たとえば 先の『輟耕録(てっ こうろく:元末の1366年に
  書かれた陶宗儀の随筆。)』 が伝える巨大なルビーをモンゴル皇帝に売りつけ
  た回回商人がムスリム商人であったことには1点の疑いもない。そのことは、
  すでに別稿で示したよ うに、同じく陶宗儀の手になる『書史会要』巻8、回
  回字の条に「その字 母は29あり横書きする」とあり、アラビア=ペルシア文
  字29個が各文 字の名称の漢字音写を伴って横書きされていることから確証さ
  れた。  
   これに反して、我々の Mi26文書に現れるルビーを扱っていたのは、文書
  の出土地から見て間違いなくトゥルファン盆地を拠点としたウイグル商人で
  あった。書式・書体・述語などを総合的に吟味して体系化した私のウイグル
  文契約書(さらには俗文書全体)の時代判定法によれば 、本文書はモンゴル時
  代のものである。すなわち本文書の契約によってルビーを東西に売り歩いて
  いたのは仏教徒(あるいはネストリウス派キリスト教徒)ウイ グル商人と考え
  るのが自然であって、これを 敢えて(あえて:わざわざ) ムスリム商人とみなす
  必然性はどこにもないのである。
(4)ウイグル語の手紙と商業  
   9世紀後半に東部天山地方に西ウイグル王国を建設したウイグル人にとっ
  て、いわゆる《シルクロード》貿易は極めて重要なものであった。これは従
  来の通説であり、今なお大方の支持を得ている。一時は、西ウイグル人 たち
  が残したウイグル語の俗文書 は、ウイグルが農業社会であったことを 反映す
  るものばかりで、商業すなわち東西貿易が重要な生業であったと推 断させる
  ものはない、との主張がなされたこともあった。確かに山田信夫 研究のウイ
  グル文契約文書に登場する のは、ほとんど全てが農民であった (『集成』参
  照)。しかし、もし仏教・マニ教関係のウイグル宗教文書 (特にその奥書き)や
  俗文書類にまで目を転ずれば、ウイグルの商業活動 を示唆するものは容易に
  見つかるのである。例えは、ツィーメは 1976年の 論文「高昌ウイグル王国
  の商業について 」で、「もしある貴人の子弟息女 が旅をして遠方へ行き、商
  売をしたいと考えるなら、 待ち焦がれている商 品への渇望で・・」などの仏
  教テキストを引用する一方、未発表の手紙を 含むかなりの数の俗文書につい
  て言及していた。  
   しかしながらなんといっても圧倒的な説得力を持つ証拠は、 かつて私が 部
  分的な紹介をし、その翌1986年に出版されたハミルトンの『敦煌出土9 −10
  世紀ウイグル文書』 でその全貌が明らかになった、《シルクロード》 のキャ
  ラヴァン貿易の実態を生々しく伝えるウイグル文の手紙・手紙草 稿・帳簿・
  人命リスト・祈願文・覚書その他の文書類である。これらの文 書の重要さは
  いくら強調しても強調しすぎることはない。現在それらはパ リの国立図書館
  とロンドンの大英図書館とに所蔵されており、 その所蔵番 号や形状について
  は1985年の拙稿で網羅的に紹介したが、その時はまだ具 体的なテキストを引
  用して内容を紹介することは差し控えざるをえなかっ た。しかし今やハミル
  トンの労作が公表されたので、ここではそれに基づ き、所々に私の解釈も加
  えながら、興味深い実例を列挙してみよう。
(5)10世紀頃のウイグル=ネットワーク  
   前節に挙げた3例からでも、当時のウイグル語の手紙に一定の書式があった
  ことは容易に見て取れよう。つまり手紙をやり取りする習慣がそれだ け一般
  化していたということである。 冒頭に先ず宛名(受取人)と差出 人、次に挨拶
  の決まり文句、それから本文が来る。挨拶の決まり文句がか なりの分量を占
  めるのは、まだ郵便制度が発達していない前近代において は、無事息災を尋
  ね合うこと自体が手紙の重要な目的であったからであ る。挨拶の決まり文句
  の外に頻出するキーワードはビティクbitig「手紙、 書簡」、アルキシュarqis
  「キャラヴァン、隊商」、ブレクbilak/belak「包 み、梱包、送り物、贈り
  物」である。Bitigの本来の語義は「書いた物、文 書」である。それがarqisに
  よって運ばれると「手紙」になるのである が、arqisが主として運ぶのはむし
  ろbilak/belakの方である。これは公的ある いは私的な「贈答品、プレゼン
  ト」を指す場合もあれば、商売上の「梱包 した商品・貿易品」を指す場合も
  あり、その区別は文脈によって判断する しかない。  
   ハミルトン発表のウイグル語手紙文書全体を通じて浮かび上がってくるの
  は、商人自身がキャラバンのメンバーとなって商品を運ぶという原初的 な姿
  だけでなく、遠隔地にいる者同士が自分たちの仲間の参加しないキャラバン
  を盛んに活用して、手紙と荷物の交換を行なっているという姿であ る。さら
  にこのようなキャラバンの利用法は商人以外の人々にまで拡大し ている。そ
  して、 全くの他人に託す荷物が途中で紛失したり、商品や贈り 物の数量がご
  まかされたりしないように、荷物の包みにはタムガと呼ばれ る印章(元はテュ
  ルク系遊牧民が、所有する家畜に押した焼印であるが、 ここでは普通の印鑑
  として使用 )で封印が押され、受領の際にはそのタムガ印章でかくにんできる
  よう、別荘の手紙の中にも同じタムガ印を押すのである。  
   枚数の関係で詳細は省かざるを得ないが、偶然にも敦煌蔵経洞にこのよう
  に貴重な文書を残したウイグル人の本拠地は、東部天山地方のビシュバ リク
  (北庭)とトゥルファン地方を中心とする西ウイグル王国であった。 西ウイグ
  ル王国と敦煌地方の間の緊密な関係については 既に私が別稿で論 証した通り
  で、疑問の余地はない。実はトゥルファン出土のウイグル文書 中にも全く同
  様の書式と内容をもつ手紙類はかなり存在するのであるが、 それにはまだ未
  発表のものが多いので、ここで紹介することは出来ない。  MOTHにまとめら
  れた10世紀前後の手紙類の多くは敦煌以外の地から敦 煌に送られてきたもの
  であり、そこに現れるカムチゥQamciu(甘州)、ス クチュSugcu(粛州)、カミ
  ルQamil(ハミ)、Otukan(オチュケン 山)、Bes -baliq(ビシュバリク=北庭)、
  トゥルパンTurpan(トゥルファ ン)、クチェ/クセンKuca/Kusan(亀茲、クチ
  ャ)、オドンOdon(于闐う てん、コータン)、キタイ Qitay(契丹)、Uyrur(ウイ
  グル) 、タブガチ Tavrac(中国)、ヤグラカル Yarlaqir(ウイグル王族の薬羅
  葛)、 チュング ルCungul(仲雲)、チュムルCumul(処密)などの地名・種族名
  は、図1 のようなウイグル商人のネットワークを浮かび上がらせる。  また商
  品リスト類は現地敦煌に駐在したウイグル商人の残したものが主であろう
  が、それらのリスト類と先の手紙とを合わせると、そこには絹・ 生絹・練
  絹・渇子(かつし:毛織物)・繊細な棉布・立機(りつき)・奴 隷・麝香(じゃこ
  う)・真珠・絨錦(じゅうきん)・ハンカチ・染料・漆 杯・銀の鉢・銀張りの箙
  (えびら:矢を入れて背に負う道具)・櫛・鍋・ 鋼鉄の小刀・鍬・羊・ラクダ・
  干し葡萄・杏・棗(なつめ)などの商品名 (家畜や贈答品名なども含む)が見えて
  いる。  
   ハミルトンは結論として、 これらの文書を残した人々の職業は僧侶・王
  族・貴人・役人・軍人・商人・職人その他であるが、彼らの活動で最も顕 著
  なのはキャラバン貿易であり、商人のみならず仏僧・貴人・役人・軍人 まで
  もが商業に従事していると述べているが、その明快な結論は、《シルクロー
  ド》貿易に関する従来の通説を補強するものである。ハミルトンの 仕事は、
  これまでまず漢文史料、特に五代宋遼金(*)への朝貢記事など から推定され、
  さらにそれにイスラム側史料を重ね合わせることによって 浮かび上がってき
  ていた 中央アジア経由のシルクロード=ネットワークの 核心部分を、現地出
  土の文献史料によって一層はっきりさせたと言えるの である。実はこれら三
  種の史料間に現れる朝貢(ちょうこう)品名・商品 名には重なるものが多いの
  であるが、それはまた当然のことであろう。
  (*)五代宋遼金とは、唐の後に起こった王朝    
   五代―後梁(こうりょう:907−923)、後唐(こうとう:923-936)      
      後晋(こうしん:936―946)、後漢(こうかん:947−950)      
      後周(こうしゅう:951-960)
   宋(そう:970-1279)
   遼(りょう:916−1125)
   金(きん:1115−1234)
(6)ソグド商人からウイグル商人へ  
   オルトク商人が遠隔地商業・高利貸し・徴税請負などのために動かした巨
  額のお金をオルトク銭というが、じつは中国においてこのような巨大な外国
  資本が運用されたのはモンゴル時代が初めてではない。 別格の大原ウルス時
  代を除けば、中国王朝の中では最も開放的・国際的だと言われる唐 の時代、
  急速な商品・貨幣経済発展の波に乗って活躍する商胡・興胡・ 胡客・蕃客(ば
  んかく)などと呼ばれた外国商人がいた。彼らは珠玉宝石・ 香料薬種・象牙な
  どの奢侈品を取り扱う一方、両替・預金・利貸・手形・ 小切手などほとんど
  今の銀行と変わらぬ多角経営を行い、中国金融界に絶 大な勢力を築いた。そ
  のような外国金融資本の代表が波斯(ペルシア)銭 並びに回鶻(ウイグル )銭で
  あった。  
   以上は日野開三郎によって明らかにされたところで、 唐代経済史研究に 一
  時代を画した同氏にして初めて可能な鋭い指摘であった。しかしなが ら、波
  斯銭をペルシア商人の資本と正しく認識しながら、回鶻銭についは これを文
  字通りウイグル商人の資本とみなした点だけは納得できない。 当時のウイグ
  ルはまだモンゴリアに本拠を置く遊牧民である。なるほど、 10 世紀以降、五
  代―宋諸王朝や遼朝(契丹国)に朝貢(実際は貿易)にやっ てきたのは、ウイグ
  ルが「定着化」した後の西ウイグル王国や、 別の集団 が河西に建国した甘州
  (かんしゅう)ウイグル王国( 9世紀末―11世紀中 葉)に所属する者たちで、その
  限りでは確かにウイグル人と言っても誤り ではない。ところがそれはあくま
  でその当時の「国籍」がウイグル王国で あったというだけで、その民族的出
  自までそうとは限らない。結論を先に 言えば、ウイグル商人と言っても実は
  ソグド人や漢人が多いのである。 例 えば、漢籍史料から判明する朝貢使節の
  人名を見れば、そこには漢人の姓をもつ者と並んで、安(あん )・康・曹・石
  などソグド人特有の姓をもつ 者が目立つのである。同じ傾向は敦煌から出土
  した10世紀ごろのウイグル 関係の漢文文書からも言える。さらに第5節で一
  部を紹介したMOTHにも やはり、漢人の姓をもつ者と並んで、アン( An=安)
  姓のMaxu,Manyaq,Mir, Naxidというソグド語名をもつ者や、ソグド=ベグと
  名乗る者さえいた。  
   さらにもう一つの事実がある。それは、かの有名な敦煌蔵経洞から、「半
  楷書体」と呼ばれる最初期のウイグル文 字で書かれたソグド=ウイグ ル両語
  併用の手紙・帳簿・覚書類が出現したことである。これらはシムス =ウイリ
  アムスとハミルトン共編の『 敦煌出土9−10世紀テュルク=ソグド 語文献』で
  初めて学界に発表されたものであった。そこにも、漢語の姓名やアン(An=安)
  姓の人物が見える。これらの文書に使われた言語の基調 はソグド語である
  が、しばしばウイグル語からの透写語(カルク)的表現が見られるのみならず、
  随所にウイグル語 (正確にはウイグル語を中心とするテュルク語)が単語レベ
  ルだけでなく、文章でも使われている。特 にDTSTHとMOTHとの間で、
  「紙」(k’r-oy=kagda)・「キャラヴァン」 (rxys=arqis)・「私からの贈り物
  の包み」(p’l’kym/pyl’km=belalim)・ 「負債」(pyrkym=bergim)・「代償」
  (wrwr=orur)などの、手紙や商業 文書に頻出する術語が共通していることは
  注目に値する。 このような文書 はウイグル化したソグド人か、ソグド語を習
  得したウイグル人が書いたも のであろう。  
   もはや、当時の中央アジアから河西地方には、ウイグル語・漢語のできる
  ソグド人、ソグド語・漢語のできるウイグル人、ないしはソグド語・ウ イグ
  ル語のできる漢人が主に商業に従事して活躍していたことは疑いな い。たと
  えそこに 血統的にはソグド人や漢人がいたとしても、あるいはソ グド語を得
  意とする者がいたとしても、西ウイグル王国か甘州ウイグル王 国かに属して
  いた者であれば、それはウイグル国人と呼ばれて当然であ る。
   本稿では詳細を省略したが、一種の「征服王朝」ともいうべき西ウイグ ル
  王国や甘州ウイグル王国は、ウイグル人を始めとするテュルク人、漢人、ソ
  グド人、トカラ人、あるいはチベット人や吐谷渾(とよくこん)人 なども混じ
  った多民族国家であり、多言語社会であった。もちろん混血や言語・文化の
  混淆(こんこう)が進行していたが、 そこには紀元前後1 0 世紀あたりまで《シ
  ルクロード》で活躍した商人として最も名高い あのソグド商人(本巻吉田論文
  参照)の伝統も生き続けていた。ベゼクリク千仏洞に残る10世紀以後のウイグ
  ル仏教壁画の 誓願図(せいがんず)に 見える商人の風貌が、ユーロペオイド(コ
  ーカソイド、白色人種)に特徴 的な紅毛碧眼(へきがん)、あるいは少なくとも
  深目高鼻多毛であるの は、西ウイグル王国の商業を牛耳っていたのがソグド
  商人であったことを 如実に示しているのである。さらに12世紀の宋人が金朝
  に抑留された時の 見聞録である『松漠紀聞』にさえ、「多く燕[北京地方]に
  商賈(しょう こ)を為し、[貢ぎ物や商品を]載するに橐駝(たくだ:ラクダ)を以て
  し、夏地[西夏国領]を過ぎる」とある仏教徒「回鶻」人すなわちウイグル 商
  人の特徴として、「髪は巻いており、目は深く、眉はきれいで濃い。 ま つ毛
  のあたりから下には頬髭(ほおひげ)が多い」という描写がある。この描写がい
  かによく先の壁画に見える商人の容貌と一致するか改めて説明する必要はな
  かろう。
   これまでにベゼクリクの誓願図に見える 商人は外来の商人か、それともウ
  イグル国内の商人かという問題に明解を与えた者はいない。 しかし、もし外
  来とすれば、風貌からして やはりパミールの以西のイラン系のソグド 商人か
  ペルシア商人の可能性が高く、その本国としてはサーマン朝、後期 アッバー
  ス朝、ブワイフ朝、 ガズニ朝、カラハン朝(大食国)、セルジュ ーク朝、ホラ
  ズム朝などが考えられる。 しかしこれらはいずれもイスラム 化した王朝であ
  り、そこからやってきたムスリム商人が、偶像だらけの千 仏洞に礼拝に来
  て、仏教的寄進をするはずはなかろう。それゆえ誓願図に 見える商人は、仏
  教国たる西ウイグル国内の商人、つまりソグド系ウイグ ル商人と見るのが妥
  当である。そして彼らが南方は 河西~ロプノール地方 からチベット、西方は
  イスラム諸国やイスラム化する前の東トルキスタン 西部、北方はモンゴリア
  からシベリア南部、そして東方は五代・宋・西 夏・遼(契丹)・金へと往来し
  ていたのである。
(7)オルトクの源流  
   そもそも遠隔地商業などというものは、ノウハウもネットワークもなく い
  きなり始められる者ではない。8−9世紀にゴビ以北のモンゴリアを中心に 遊
  牧生活を送っていたウイグル人が、 安史の乱で存亡の危機に陥った唐を 助け
  た功績により治外法権的地位を得たとはいえ、突然に唐で商人に早変 わりで
  きるはずはなかろう。むしろその功績を楯に、商行為どころか掠奪 行為など
  好き勝手をしたと云える漢文史料の方にこそ信憑性がある。ひるがえって東
  ウイグル可汗国( 744-840)においてソグド人が政治的にも文化 的にも宗教
  (マニ教)的にも絶大な影響力を行使したという歴史的背景を 熟知している
  我々には、8−9世紀のウイグル商人とかウイグル銭と呼ばれ る実体があった
  とすれば、それは、ソグディアナ(パミールから流れ 出て アラル海に注ぐア
  ム河とシル河に挟まれた地域、 マー・ワラー・アンナフ ル)を本拠に、その
  商業圏が中央アジア・モンゴリア・チベット・中国に まで及んだ(時には西の
  黒海周辺や南のインド洋にまで延びた)あのソグ ド商人とソグド金融資本以外
  には考えられないのである。逆にこれをソグ ド金融資本と捉えるならば、唐
  代中国において強大な経済力を持った西域 商人の代表として、 ペルシア商人
  と並んで当然予想さるべきソグド商人が 挙げられることになり、日野が胡商
  の活動を示す史料としてまとめたもの 全てが、氏自身の卓越した見通しを裏
  付けるものとして、 再び蘇ってくるのである。我が国では芥川龍之介の小説
  「杜子春」で有名になったよう な、唐代のいわゆる胡人採宝譚の背景にいる
  胡人としては、やはりペルシ ア人とソグド人がその双璧を成していたに違い
  ないのである。
    東ウイグル可汗国時代から西ウイグル王国時代初期までのウイグル人は ソ
  グド商人のパトロンの立場にあり、当時のウイグル商人の実体はソグド しょ
  うにんそのものであった。その後ウイグルの「定着化」が進んでくる に従
  い、ソグド人のウイグル化やソグド人とウイグル人の混血も進み、 かつては
  自らが商業に手を染めることはなかったウイグル人であったが、 ソ グド商人
  を見習って、あるいは徐々にソグド人に取って代わって遠隔地商 業に進出し
  ていくようになったと思われる。 こうして、 モンゴル勃興ぜん やには名実と
  もにウイグルしょうにんと呼ばれるに足る実体を備えた者 が、パミール以東
  の貿易網を掌握するようになっていたのである。 このよ うな歴史的背景をも
  つウイグル商人であったからこそ、 第3節に紹介し たMi26文書のような商い
  契約を結んだのである。その2行目のortoqluqにつ いては、これを単に「オ
  ルトクである」と訳し、「オルトクに予定されている」と解釈しておいた
  が、いま一度文章全体の内容を振り返れば、これは2人の「仲間」のうち1人
  が資本を出し、もう1人が実際に遠隔地貿易に 従事して利潤を上げ、その成果
  を分け合うという契約を結ぶためのもので あったことが明らかとなろう。第
  二節に列挙した農地共有の実際を示す文 書同様、ここでもやはりオルトク関
  係を結ぶ両者の間に上下関係は認めら れない。このような形での契約は、中
  央アジアの中でも際立った交通の要 衝に位置したウイグリスタンの人々の間
  で日常的に行われており、 ここ のortoqluqもなんら特別の術語ではなかった
  と思われる。ウイグル人にとっ て「仲間」すなわちオルトクとなって商業を
  行うとは、 まさにこういうこ とを指したのであり、それ程までに商業が盛ん
  であったということである。
   第5節で紹介した手紙IIをもう一度参照していただきたい。実はそこにも
  ortoqという語が現れていた。 ハミルトンはこれを単純に人名要素 と 考え、
  その前後を「この手紙は8月2日に書いた手紙です。カウディの手元 から117
  房の真珠を確認の上受け取りなさい。1通の手紙はマハ隊長の手 に、1通の手
  紙はヤクシ=オルトクのてに[託します]と翻訳したが、私はこの最後の部分も
  「ヤクシという名の商業仲間の手に」と解釈すべきである と思う。もしこれ
  が正しければ、モンゴル時代の文書に在証されたトゥル ファンのウイグル仏
  教徒の使用していた用語が、 いっきに10世紀まで遡 って在証されることにな
  るが、第5、6節を通じてモンゴル勃興以前の西 ウイグル王国の 盛んな商業
  活動の実態を見てきた後では、それも容易に首 肯(しゅこう)されることであ
  ろう。
(8)モンゴル時代のウイグル=ネットワーク  
   オルトクの意味はあくまで「パートナー、仲間」であって、決して組合組
  織や会社ではない。この点では、本稿冒頭に紹介した宇野の「共同事業者」
  とする考えは正しかった。ただし同氏はオルトクの起源をムスリム商人とみ
  なす通説に従って、 漢籍に見える回鶻・回回をともにムスリム商人と考えて
  いるようである。従来は13世紀前半にモンゴルの宰相となって 活躍した「回
  回」人のチンカイ(田鎮海)をケレイト人であるとか、ケレ イトに身を寄せて
  いたムスリムであるとかの説が優勢であるが、私はラシ ード・アッディーン
  が彼をウイグル人であると言っている のを素直に信 じ、また1220年代の
  『蒙韃備録(もうたつびろく)』に、
   Aモンゴルの風俗は素朴であるので、隣接している回鶻の人たちがいつも北
   中国にやってきて交易をし、モンゴルに売りさばくのであった。  
  B回鶻に田姓の者があり、財産が豊富であった。巨万の商売をしており、北中
   国と往来していた。    
  とある「回鶻」も、旧西ウイグル王国並びにその国人とみなして良いと考
  える。漢語の姓名を持ったウイグル商人が 西ウイグル王国にいても少しもお
  かしくないことは既に第7節で述べた。そして第 6節で明らかにした10世紀
  頃のウイグルの商業ネットワークと、 かつて私が「ウイグル=コネクショ
  ン」として提唱してきたモンゴル時代のウイグル人ネットワークとを比べる
  と、大体はよく一致するのに、大きな相違もあることに気付かれよう。その
  一つは、後者にモンゴル本土が含まれないことである。しかし、今ここに、
  上記の『蒙韃備録』の「田姓」の「回鶻」商人を、西ウイグル国出身のチン
  カイ(田鎮海)とのその一族とみなすことによって、 この空白は埋められるの
  である。その結果得られた新しいモンゴル時代のウイグル=ネットワークが
  下図である。

   かつてのソグド商人の伝統を継承するウイグル商人 の商業ネットワークと
  情報網がモンゴル本土にまで延びていたからこそ、西ウイグル王国は西遼国
  (カラキタイ) の一時的かつ間接的な支配の下でもモンゴルの勃興をいち早く
  察知し、自ら進んでモンゴルに臣属していき、その着眼よろしく両者の関係
  は極めて緊密になっていったのである。 その緊密さは、ウイグル王がチンギ
  ス汗の第5子とされたこととウイグル文字がそのままモンゴルに借用されて
  モンゴル文字になったこととに象徴されるが、そのほか にもウイグル仏教が
  モンゴル仏教の母となった事実がある。このような情 勢の下、ウイグル商人
  のモンゴルとの往来はますます盛んになり、そして 珍奇な商品を恒常的に提
  供するうちに、相次ぐ侵略戦争に勝利して豊になっていくモンゴル王族や有
  力者から資本を預かり、それを運営して巨額の 利益を産むという契約関係
  が、新たに結ばれるようになったと推測され る。モンゴル王族や有力者にと
  っては、銀や絹織物や宝石の形で蓄積され る財貨を有効に活かす手段とてな
  く、これをウイグル商人 に託して利殖す ることはありがたいことであったろ
  う。こうして、元来のウイグル語では 農業の上でも商業の上でも「仲間」を
  組むことを示すごくありふれた言葉 であった「オルトク」が、モンゴル勃興
  以後は、ウイグル商人とモンゴル 王族・有力者との特殊な関係を指す術語と
  なり、それがモンゴル語にも漢 語にも入って定着したのである。 第3節で見
  た中国・ウイグル・モンゴル 間のあの貨幣・重量単位の見事な一致は、この
  ような背景無くしては考え られない。
   漢字表記「斡脱(あつだつ)」の当時の発音はオルタクではなくオルトクに極
  めて近く、本稿で見たように東方のテュルク語の代表であるウイグ ル語でも
  明白にオルトクであった。ところが同時代の西方のテュルク語諸 方言ではこ
  れをオルタクと呼ぶほうが一般的であった。モンゴル帝国~大 元ウルス(元朝)
  で活躍したオルトク商人の期限を、文化的にも地理的に も近く、しかも発音
  まで一致する東のウイグル人仏教徒に求めず、わざわ ざこれを文化的にも地
  理的にも遠く、発音にさえやや難のある西のテュル ク人ムスリムに求める従
  来の説には、余りにも無理が多いのである。オル トク商人の期限はやはり仏
  教徒ウイグル商人であり、さらにウイグル商人 の起源はソグド商人にまで遡
  るというのが、これまでと違う私の新しい結 論である。

おわりに

    本稿の最大の目的は、モンゴル時代に東西に活躍したオルトク商人の源流は、決してムスリム(イスラム教徒)商人のみにあるのではなく、むしろ直接的には仏教徒(時にキリスト教)ウイグル商人とみなすべきこと、さらにその源流は唐代に内陸アジアの遠隔地貿易で活躍したソグド商人にまで遡ることを論証することであった。
    しかしながら私も、仏教徒(あるいはキリスト教徒)ウイグル商人がチンギス汗やオゴデイ汗と密接な関係を持つのとほとんど同時に、西方のムスリム(回回)商人もモンゴリアに進出を開始していたことは、これを認めざるを得ない。西トルキスタンのムスリム商人もウイグル商人とは 別の意味でソグド商人の直径である。そして、13世紀も後半 になり大元ウル ス(元朝)の時代になると、西方から大量のムスリム商人が進出してきた、ウイグル商人のお株を奪ってしまったこと、す なわちオルトク商人といえばムスリム商人と考えられる程になってしまうのもまた事実である。 それは、おそらく、杉山正明が主張するように、モンゴル世界のネットワークが中央アジア東部~北中国から発展して、中央アジア西部~ 西アジ ア~ヨーロッパに及び、さらには南宋を滅ぼして南中国にまで拡大し、ついにユーラシア大陸南方の海のルートともリンクしたことと関係があろ う。この段階になれば、前述の商業ネットワークの規模からいっても、商業に従事できる人口数からいっても、あるいは西アジアのムスリム商業圏と取引する際の有利さという点でも、仏教徒ウイグル 商人はムスリム商人の比ではない。他方、巨大な支配領域の経営には絶対的に人口の少ないモンゴル人の方としても、 文化的・宗教的・政治的に緊密な関係を有してきた旧西ウイグル国人たちを自分たちの同士として支配側に取り込み、文書行政に秀で、軍事も含めあらゆる面に目配りのきく彼らの高い統治能力を 十分に活用せざるを得なかったのである。こうして 旧西ウイグル国人のモンゴル政権内部における色目人筆頭の地位は不動のまま、ユーラシア経済 界においてはあくまでもモンゴルの「 使用人」にすぎないムスリム(回回)にその支配的地位を明け渡すことになるのである。

終章 唐帝国のたそがれ

中央アジア史上の関ヶ原
唐・チベット・ウイグルの一時的 鼎立(ていりつ)  ウイグル対チベットの北庭争奪戦 三国会盟とウイグルの 西遷
唐・チベット・ウイグルの三国会盟  

 821~822年に唐とチベット(吐蕃とばん)が会盟(講和条約)を結んだ事実は、ラサに残る有名な「唐蕃会盟碑」や漢籍史料からよく知られている。しかるに、1980年代初めにハンガリーのJ=セルブと我が国の山口瑞鳳によって、実はこの時、この両者間だけでなくウイグル帝国とチベット帝国の間にも講和が結ばれたのでは ないかという驚くべきことが、敦煌出土チベット語文書と後世のチベット語典籍資 料から推定された。すでに唐とウイグルは安史の乱 鎮圧以降親密な関係にあるか ら、それが事実とすれば、唐・チベット・ウイグルの間に三国会盟が成立していた ことになる。
 ただしそれを裏付ける史料が唐側にもウイグル側にも一切見つかっていなかった。 しかし、当時のユーラシア東部における三国の存在はあまりにも大きく、その三国が会盟を結んだとなれば世界史上の一大事件であり、それに言及した史料が唐にもウイグルにも一切見つからないということはいかにも不思議である。
 そこで私はそれを追い求めた結果、パリに所蔵される敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」なる文言があることを発見、これこそが正しくその三国会盟に言及する唯一の漢文文書ではないかと予測し、そのことを1987年に発表した概説論文において述べておいた。ところが1997年になって、中国の李正宇によりサンクトペテルブルクに所蔵される ある敦煌文書断片(Dx.1462)がペリオ3829番とぴ たりと接合する事実が発表され、その結果、私の予想が当たっていたことが証明さ れたのである。つまり両者は一つの文書が上下に切れたものであり、接合・復元した完全な文章から、そこが国境線であったことまで判明したのである。この新事実を、北庭争奪戦の結果に関する私の説と、先学による蓄積のある唐蕃会盟碑の研究成果と合体させるならば、ここに820年代当時の唐・チベット・ウイグ ルの国境をほぼ正確に画定できる。それを図示すれば、353ページの地図になろう。 清水県(秦州、天水)と固原(原州)を結ぶ南北線が唐とチベットの境界、エチナまでがチベット領、ゴビ=アルタイ東南部以北がウイグル領である。 つまり東西に走るゴビ砂漠がウイグルと唐・チベットとを隔てる天然の境界となっている。

天然国境は変わらない

 これに関連して注目すべきなのは、ゴビ=アルタイ東南部 のセブレイに、カラバ ルガスン碑文と同じくウイグル語・ソグド語・漢文の三言語で記されたセブレイ碑 文が今も残っていることである。以下は、我々の現地調査による記録である。  
 セブレイ碑文は、セブレイ村の東南約6キロの地点で、 ズールン山脈とセブレイ 山の中間にある幅7~8キロのの南向きの斜面状平原の中のある。この平原は半砂漠 状で、地表は草よりも砂礫が目立つゴビ灘(たん)である。やや急な角度で南の方 5~6キロ先まで下っていき、半砂漠状の大平原につながっている。そのはるか向こ うの数十キロ先にはフレン=ハナン山脈・ノヨン山などがそびえている。  
 これらの山々は馬で容易に越えられ、その南側は中国甘粛省のエチナ河下流域に 通じる。北側は平原の先に別の山脈が低く見え、その方向には本当の砂漠があっ て、車で越すには難渋するが、馬ならばなんの問題もないという。その砂漠の向こ うはオンギ河下流域だから、モンゴル本土の中央部のオルホン河流域に出るルート 上に、この平原は位置していることになる。  
 現在でもここがモンゴル国と中華人民共和国の国境であり、中国から羊毛やカシミアを買い付けにモンゴル入りする中国商人がこのルートを使い、ジープで一日か けて北の砂漠を渡り、オンギ河流域のアルバイヘールに出てからハイウェイでモン ゴルの首都ウランバートルに直行するという。甘粛地方の河西回廊からウイグルへ の入り口として唐代の漢籍に見える「花門山 (かもんざん) 」「花門山堡(ほ)」 というのは、まさしくこの辺りを指すに違いない。  
 ラサに現存する唐蕃会盟碑によれば、唐とチベットの講和条約の本質は、両国間 の国境画定である。とすれば、セブレイ碑はこの三国会盟を、ウイグルの側で記念 し、モンゴル中央部から南下してそこまでは明らかにウイグル領であることを内外 に宣言する性質のものではなかったか。またこの三国会盟は、8世紀末の北庭争奪 戦の勝利者がウイグルであり、その後も天山地方に足場を維持していたからこそ、あり得たのである。
 振り返ってみれば漢王朝が 匈奴の勢力を北中国~河西回廊の農牧接壌地帯から駆 逐した後の両者の境界も、元朝がモンゴリアに退いた後の明朝と旧モンゴル勢力である北元との境界も、やはりゴビ砂漠であった。天然お国境は変わらないのであり、ゴビ砂漠が国境でなかったのはモンゴル帝国・元朝と清朝という中央ユーラシア型国家(征服王朝)の支配下時代だけなのである。

西ウイグル王国の誕生
ソグド人の行方

 本書でしばしば主役を演じたソグド人とそのソグド語・ソグド文字は、いつ頃、 どのように消滅していったのだろうか。 第二章でも少し触れておいたが、本国ソグディアナは、8世紀中葉にアッバース朝の直接支配下に入り、 それ以後イスラム化が進行するにつれて、徐々にソグド人としての宗教的・文化的独自性は失われてい く。特にサーマーン朝治下では、アラビア文字ペルシア語が主流となった。そのような近世ペルシア語が現在のタジク語に繋がっていく。 一方、カラハン朝以後のトルコ系イスラム諸王朝治下でトルキスタン化が進むと、アラビア文字トルコ語が支配的となっていく。  
 カラハン朝出身の大学者カーシュガリーの手になる百科事典『トルコ語アラビア語総覧』によると、西部天山の北麓には11世紀まで本国出身のソグド人集団が確認されるが、彼らはソグド語とトルコ語を話すバイリンガルであり、トルコの服装を採 用し、トルコの習慣に染まってしまっていたという。ただ彼らはソグド文字だけはかろうじて保持していたが、それも1~2世紀後には消滅する。それでも ソグド語のサルト「隊商」から派生したサルタク ・サルタグルと呼ばれ、漢文で回回(かいかい)商人と呼ばれるようになるトルコ系・ペルシア系のムスリム商人の中に、混血 していった旧ソグド人の痕跡が色濃く残るのである。
 西トルキスタンの都市部・ 平野部の言語がトルコ語とペルシア語にすっかり替わってしまった後も、山間部ではソグド語が細々と保たれたらしい。20世紀後半、ザ ラフシャン河上流にあるヤグーノーブ渓谷で約3,000人が話していたヤグノーブ語 は、その唯一の生き残りである。
 一方、唐代にシルクロード東部に進出していた ソグド人の後裔たちはどうなったか。 彼らも決して死に絶えたわけではない。実はそのかなりの部分は、西ウイグル王国 や甘州ウイグル王国、さらに五代の沙陀(さだ)王朝の中で商業経済を支える者として、あるいは武人として生き残ったのである。  
 前者の典型が西ウイグル王国のソグド商人、いや正しくはソグド系ウイグル商人である。トゥルファンのベゼクリク千仏洞に残るウイグル仏教壁画の年代については、今や私の新説により10世紀後半~14世紀前半であることが学界で認められてい る。
 その中で11~12世紀に属すると断言できるベゼクリク第20窟(グリュンヴェーデル 編号第9窟)の誓願図(せいがんず)に見える商人の風貌(下図参照)は、いずれもコーカソイドに特徴的な紅毛碧眼(こうもうへきが ん)、あるいは深目高鼻多毛であり、これこそが現代にまで残された最後のソグド 人の姿である。  
 このように、ソグド人は消滅したのではなく、他の民族の中に融解していったのである。

ソグド人がもたらしたソグド文字
⇩(ほぼそのまま)
ウイグル文字

モンゴル文字(13世紀に)
⇩(少しく工夫・改良されて)
満州文字(16世 紀末~17世紀初に)

 それゆえ中央ユーラシ ア型国家・清朝にさえソグド文化は受け継がれたのであり、中国の内蒙古自治区で使われるモンゴル文字は現代まで残るソグド文化の遺産なのである。

          誓願図、第二十号窟第九寺院


以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?