興亡の世界史17\大清帝国と中華の混迷\著)平野 聡

ー感想ー
春秋戦国時代に、孔子(孔丘)が遊説して、都市国家の支配階層の師弟を対象に、道徳の修得による立身出世と国家運営を説いた。その言行録が「論語」である。ということについて、改めて知ることができて驚いた。今までの歴史の教科書では、孔子がまとめた論語について、さわりだけ学んできたので、その出来た背景について、重視した政治論までも、深く知ることができて、嬉しかった。
乾隆帝が北京に造園した頤和園と円明園という二つの巨大な庭園では、英仏戦争の壊れてしまぅたが、頤和園のみ修復して円明園は、戦争の屈辱を後世に残すため、修復されずにあることについて、中国の政治的意味を感じられた。

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<裏表紙>
 北東アジアの雄・ヌルハチ率いる満州人の国家は、長城を超えて漢人を圧倒し、未曾有の大図版を実現した。「中華の文明」ではなく、チイベット仏教に支えられた、輝ける「内陸アジアの帝国」が抱え込んだ苦悩とは。「近代東アジア」と「中華民族」はいかに作り出されたか。

内陸アジアの帝国・大清帝国

 現在の中国北東部に興った満州人の国家は、明帝国が滅ぶと長城を越えて北京を都とし、やがてかんじんにとっては「外国」でしかなかったモンゴル・新疆、チベットをも従えた。この巨大な版図に「近代中国」のさまざまな矛盾が生じることになる。
「近代中国」のさまざまな矛盾とは?

第1章 華夷思想から明帝国へ

 北京の天安門は、明が造営して清も利用した皇帝の宮殿である「紫禁城」の入り口に位置している。
 臙脂色(えんじいろ)の分厚く長大な城壁を従え聳え立つ天安門には、まさに威風堂々という表現が相応しい。

万里の長城、東から西へ

 現存する明の長城は、東は渤海の岸辺にそびえたつ老龍頭から、西は万年雪を頂く祁連山の麓まで、直線距離にして約2,000kmにもおよぶ。そして地形の関係や要地と結ぶ都合によって複雑に曲がりくねっているため、総延長は約6,000kmにも達する。漢語は一里500mなので、「万里」という呼び名は決して誇張では

華夷(かい)思想とは何か

 華夷思想は俗に「中華思想」と呼ばれることもある。人間を「華」と「夷」の2種類に分類し、「華」は正しく完全な人間存在であるがゆえに「夷」を排除したり「夷」の「華」への転換、すなわち「華」の側による働きかけ=教化を正当化し、そのような立場から秩序を構想する。
「華」ー完全な人間存在である
     ↓(優越感を主張)
「夷」ー「文明」「文化」を共有していない点んで正し
    く人間となりきれていない不完全な存在
 その背景にあるのは、何といっても黄河と長江(揚子江)という巨大な河川とその支流によって育まれた、生産力に恵まれた農業経済環境であろう。
 こうして文化の香りが漂う都市国家は、漢字の源流にあたる甲骨文字を用い始めた。そして自らの周囲に城壁を築き、その外側いいる「洗練されていない人々」、具体的には言葉や衣装、髪型などが異なる人々を区別し始めた。
 今日の河南省平原部=「中原」に都を置いた殷(いん)、周といった古代都市王朝がその源流にあたり、彼らは優れた存在としての都市国家住民を「華」「夏」「華夏」そうでない存在を「夷」(東夷、南蛮、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき))と呼んだ。
 すでに文字文化を持っている「華」の都市国家権力は、「夷」としばしば激しい抗争を繰り返したものの、「夷」の側が次第に「華」の文化に対する憧れを抱くようになったことから、結果的に「華」の文化や行動様式は広まっていった。それとともに「華」「華夏」と表現される文化的、地理的な範囲も拡大していったのである。この結果、かつては「夷」と呼ばれていた人々を次々に巻き込む形で、今日の漢人に至る大まかなまとまりが形作られた。

儒学思想における「華夷」

 漢人の形成・拡大原理と華夷思想がどのように政治・思想的に精緻生かされ、「周辺」にすむ他者との上下関係を再生産したのかという問題について、非常に大きな意味を持ったのが、紀元前6〜5世紀の思想家・孔丘(孔子)の存在である。
 孔丘が生きた春秋戦国時代、その中でもとりかへ周王朝は、漢字文明の正統を受け継いだ存在として重視・尊重され、伝説の諸帝たちから周王朝の名君(文王・武王など)に至る理想の支配を再現しうる者が真の王者となりるという観念が生まれつつあった。
 また当時は、覇権を争う諸都市国家の支配者への助言を通じて自らの立身出世を目指そうとする教師が、各国を遊説して歩くことが盛んであった。孔丘は、まさにそのような時代の申し子として、理想の政治を再興するための遊説に励み、都市国家の支配階層の師弟を対象に、道徳の修得による立身出世と国家運営を説いた。その言行録が「論語」である。

孔丘が特に重視した政治論

①商の紂王(ちゅうおう)による残虐な政治を反面教師としなければならない。君主が悪逆非道を尽くせば天命は失われるのであり、民衆がその王朝を打倒するために起こした反乱は、その成功によって正当化される。そして、天命が新しい指導者とその血統に下ることになる。(易姓革命)
②それゆえ、統治者は善政に努め、知識人から助言を受けると同時に、国家と祖先の儀礼を重視し、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の関係をよりよく処理できる道徳的人間が担うような、正しい支配を強化しなければならない。(修身斉家治国平天下「大学」)
→特に漢の時代になると儒学が正式に官学として採用され、統治や社会の安定に関心を持つ者の一般教養としての地位を決定的にしていった。

朱子学の形成と問題点

 儒学思想が強めてきた特定の文化的価値への信念と、その裏返しとしての他者に対する偏見を強化することになったのが、孔丘の時代から約1,600年下った宋代の儒学者・朱熹(しゅき)と、彼の思想を中心として形成された朱子学(宋学)である。
 朱子学は、「礼」の遵守と望ましい人間関係の構築を通じて天下国家を運営し「文明」を実現しようとした儒学思想の基本的理解に、さらに「正しい」人格と宇宙の法則との結合を盛り込むことによって、儒学を学び実践することへの宗教的な信念を盛り込もうとしたものであった。

第2章 内陸アジアの帝国

 16世紀末、北東アジアの地で大きな変革が始まろうとしていた。ジュシェン(女真)人の国家・後金の台頭である。16世紀後半以後、ジュシェン諸部族間の合従連衡(がっしょうれんこう:その時々の利害に応じて、結びついたり離れたりすること)や抗争を制しつつ、明の遼東総兵宮・李成梁(りせいりょう)と渡り合うことで台頭してきたのが、建州女真・マンジュ部のヌルハチである。マンジュ部→一般的に、彼らが信仰する文殊菩薩(もんじゅぼさつ)にちなんでいるとされる。この名と、その音に漢字を当てた「満州」が、ヌルハチの
台頭とともにジュシュンに代わる民族名称となってゆく。
 ヌルハチは、ジュシェン=満州人社会を統合し、さらには明軍との戦闘を通じて支配地を拡大しながら、獲得した土地を配下の軍人達に分配すると同時に、捕虜とした漢人を奴隷として扱い、あるいは漢人の農民を支配に組み込んでいった。そして、明の軍人のうち後金に投じた者については満州人と同じように待遇し、軍功に応じて所領や給与を与えた。こうして、満州人社会と後金に組み込まれた漢人社会は、八旗という軍事・政治単位へと偏制されてゆく。
 この八旗は、黄・白・紅・藍の4色に、それぞれ正・鑲(じょう:ふちどりの意味)のパターンを組み合わせることによって各軍団の旗印とするものであり、各旗7,500人の軍人から構成され、実際にはすべての満州人、そして八旗に組み込まれた。漢人とその家族はいずれかの旗に所属することになった。
 さらにこの八旗n枠組みは、のちに有力な騎馬兵力として取り込んでいったモンゴル人に対しても適用された。

清の興隆と「終焉」の地ー撫順

 ヌルハチをはじめとしたジュシェン諸勢力と明が交易を行う場所としては、遼河の流域に広がる広大な平原と、満州人が居住する遼寧省東部から吉林省東部にかけての山岳地帯の境界にあたる場所が選ばれた。
 その最も代表的な交易都市として急速に発展したのが、今日石炭の露天掘りで広く知られる撫順(ぶじゅん)である。
 撫順とは、まさに明が「夷」出会った満州人を「撫して順わせる」ために開いた年であることを意味しており、それ自体は華夷思想の表れである。
 しかし、ここで生み出された富がヌルハチの部族と国家を潤してゆき、やがては明の権力に取って代わることから、まさに撫順の地は清の権力を生み出した揺かごであるといえよう。
 ここは、日本の近代史においても重要な意味を持っている。なぜなら撫順はその莫大な石炭・石油資源の埋蔵ゆえに、日露戦争以降1945年まで南満州鉄道の一大財源となり、満鉄、そして満洲国という支配システムを作った日本人が新たな「華」として満州人・漢人を「撫して順わせる」ための新たな富の源泉となったからである。
 さらに、日本の敗戦後、幼くして皇帝として担ぎ出されながらもすぐに辛亥革命でその座を失った宣統帝(せんとうてい)・溥儀(ふぎ)は、戦犯として満洲国関係者とともに収容され、中華人民共和国の公民として新たに生まれ変わるための労働改造の舞台となった戦犯管理所があった。
 1619年、撫順の東郊に広がる山岳地帯を戦場としたサルフの戦いで、後金軍が明と朝鮮の連合軍に致命的な打撃を与えて以来、もはや明が遼東以北の地で後金の勢いを止めることは不可能になった。そこでヌルハチは1621年に遼東全体を支配下に置いて遼陽に遷都し、さらに1625年には今日の瀋陽(しんよう)に遷都して盛京と命名した。

<未曾有の版図とチベット仏教>
明と近現代中国の落差を埋めるものは何か?
・上座仏教ー個人の悟りと救済を重視
・大乗仏教ー多くの衆生の救済を重視(日本にも輸入された漢地仏教と同じ:中国仏教)

第3章 盛世の闇

悩める雍正帝(ようせいてい)

 じっさい清の皇帝たちは、モンゴルやチベット人のためにチベット仏教を保護することを漢文で説明する時、必ずといって良いほど儒学経典のひとつ「易経」のなかの「神道を以て教を設ける」という一句を好んで用いる。そこで近代中国のナショナリスト達は、皇帝の態度の中に「本心ではない作為」を読み取り、「中華世界の主としての皇帝が、おkれた辺境の民を従順させるために、神秘的な宗教の力を借りて彼らを教化しようとしたのだ」と説明してきた。それはもちろん「モンゴルやチベットがなぜ中国の一部なのか」を歴史的に「実証」するためである。「中華」皇帝の絶妙な支配が成り立った以上、自ずと「独立」はありえない。
 雍正帝n完璧志向は彼が創始した文書行政の枠組みである奏摺(そうしゅう)制度に表れている。
 これは、機密性の高い函(はこ)に納めた「奏摺状」によって皇帝と各地に派遣された総督・巡撫・欽差大臣などの高官を直接結ぶものである。
「巡撫」は各省のトップとして派遣され、さらに広域行政を行う必要から数省を管轄する「総督」がおかれる。欽差大臣とは、特定の政策目的のために字面通り皇帝の命を受けて各地に派遣された大臣のことを指す。

華美への断罪

 特に雍正帝は、八旗の軍人や漢人社会に対して、贅沢の風潮の廃絶と厳しい倹約を求めていた。雍正帝が即位した1720年代の当時、清n官界は康熙帝(こうきてい)の長い治世の間に染まった贅沢と腐敗の深い淵に陥っていた。しかも、華北では干魃(かんばつ)、華中では水害が続いたにもかかわらず、八旗の軍人や科挙官僚は、婚礼や宴席の場で一般大衆の家産に相当するhどの費用を食い潰す浪費にふけっていた。しかも、そのような放逸個そ面倒見の良い「礼をたっとぶ君子のふるまい」としてもてはやされるという悪循環があった。
 とりわけ雍正帝を大いに苛立たせたのは、康熙帝の時代に年々頻繁になった、皇帝の恩に感謝し長寿を祈るために各地で催された行事や法要の数々であった。
 雍正帝からすれば、それは一見忠誠の表れであるように見えながら、じっは皇帝の名を笠に着て官僚や在地の士大夫たちが自らの享楽や慰安を追い求めるものに過ぎなかった。しかも、それらは一般の民衆から集めた貴重な税収を浪費しており、挙げ句の果てには税負担を超える過重な金銭負担(攤派:たんぱ)を民衆に押し付けて私服を肥やすという由々しい事態に他ならなかった。 それが「皇帝のため」であるとすれば、悪質極まりないではないか(ちなみに、現代中国でもこの手の「官」による「民」への必要以上の金銭負担要求は深刻な問題である)
 そこで雍正帝は「我が心を安じるのは、民衆に本当の恵をもたらすことのみであり、いたずらに自らに向けられた崇拝に酔うつもりなど全くない。天下の人々はただ自らの職業や本務に忠実でありさえすればよく、いたずらに贅沢や浪費に走り、朕の福を祈るなどという心にもないことを言うべきではない」という、極めて厳しい調子の上諭(じょうゆ:君主のおさとし)を発することによって、科挙官僚や士大夫、一般にはびこる贅沢と浪費を封じ込めようとした。

「大義覚迷録」について

 雍正帝が、漢人の華美や「文弱」から官僚制度と財政、そして満州人らしさを守り、漢人に対してはあらためて儒学思想に基づく人格の陶冶を求めようとした折もおり、漢人の満州人への反感という問題が破裂した。
 そこで雍正帝自ら、華夷思想に伴う民族差別への徹底した反論として示したのが、清の最盛期きっての政論「大義覚迷録」である。
 民族や文化の違いによって人間性や能力に本質的な違いがあるという見方を排除した雍正帝は、自らの上諭や言行録の中で「中外一体」という表現を積極的に用いるようになった。一人の皇帝の下で平和を享受する様々な人々を、出自の違いによって差別する必要などなかった。そこで、もともと「中国」であったか「外国」出会ったかを問わず、今や皇帝の実力と公正な支配に服して平和を享受する人々はすべて臣民として平等であり、一君万民であることを強調するために、「中外一体」という表現が生じたのだと考えられる。この「中外一体」は、皇帝が君臨する天下が最終的には全ての生霊に及ぶという観念にもとづけば、潜在的には全世界を対象としていた。しかし実際には、朝貢国や通交を持たない国に対して用いられることは管見の限りまれであり、むしろ満州・モンゴル・チベットなどの内陸アジア諸民族を念頭において、もともと「中国」「外国」として隔てられた彼らと漢人が、皇帝の元で一体となったことの譬えとして用いられることがもっぱらであった。
 そして、雍正帝の後を嗣いだ皇帝たちと、その周囲にいる政策決定者たちが、清という帝国の正しさや偉大さを表現しようとして「中外一体」という表現に親しんだ瞬間から、漢人中心の土地=中華十八省(中国)と、満州人の故地や内陸アジアの藩部(外国)が、他の周辺諸国・諸地域からはっきりと区分・分離され、一体の版図として強く自覚され始めた。この版図の範囲は、今日の中華人民共和国とモンゴル国の領土を足した範囲にほぼ相当する。したがって、近現代中国の領域主権(一定の領域に対する排他的な支配権)は、実は18世紀における華夷思想批判の中から、当時の表現で言う「中国」と「外国」の和として姿を現し始めた。華夷思想からは、異なる存在を対等なものとして共存させる発想は生まれない以上、「大義覚迷録」こそ、主権国家・近現代中国を産むきっかけになった聖典である。

第4章 さまよえる儒学者と聖なる武力

 そもそも儒学とは、宗教というよりもまず政治哲学である。その上で、天に認められて社会を担って行くという人格の陶冶を目指し、精神的に満たされた状態=天人合一を得ようとすることで、次第に宗教的な性格を帯びていった。したがって、政治哲学としての儒学が重視するのは、現実の世界に積極的に働きかけて社会を変えてゆこうとする「経世致用」という価値である。
 清の専制支配を正面から批判的に論じるよりも、むしろ古典に焦点を当て、その典拠を様々に探求する動きが活発になっていった。これが清の最盛期における考証学の一大流行である。
 19世紀前半んから中頃にかけて考証学がさらに発展した「経世儒学」と呼ばれる学問が沸騰する。
 それは、主に「春秋」を中心としt歴史経典の中に流れている精神を汲み取り、それと同じ精神を今あらためて再現して「復古」を実現させようとするならば、果たしてどのような政策が新たに必要になるのかを論じようとするものである。しかもそれは、必ずしも額面通りに全ての制度を昔に戻すことを説くものではなく、いまを取り巻く状況に積極的に対応するために、儒学と士大夫のあり方を一新させようという気迫をはらんでいた。経世儒学は、古典の内容ではなく古典の精神を最大限に活用することを目指していたのである。
 19世紀中頃の経世儒学者たちは、人々の気風を正して国家を再建しようにも、先立つ費用が欠乏している問題がった。何もないところに自給自足の農耕を基盤とした新しい社会を創り出し、同時に軍事訓練を施すことによって、地に足がついた、自ら耕し自ら守る気風を大いに盛り上げようという「屯田論」と呼ばれる議論が熱い注目を集めた。
屯田ー兵士が辺境の地を守りながら、ふだんは農業に従事すること。

第5章 円明園の黙示録

 乾隆帝(けんりゅうてい)は北京に頤和園(いわえん)と円明園という二つの巨大な庭園を気前よく造営した。頤和園は、広大な人造湖である「昆明湖」と、その畔に佇む築山の「万寿山」(まんじゅさん)を中心に、主に漢人伝統様式の建築がちりばめられた庭園である。その佇まいは、日本人が思い描く「中華」のきらびやかな姿そのものかもしれないが、万寿山の頂上にそびえ立つ日ときは秀麗な塔の名称は「仏香閣」であり、その周囲も母の還暦を記念した仏教建築群が建ち並ぶなど、いかにも仏教を深く信仰した乾隆帝らしい趣味が溢れている。

頤和園 昆明湖 仏香閣

 いっぽう円明園も、元は様々な様式の建築が建ち並ぶ瀟洒(しょうしゃ)で広大な庭園であったが、とりわけ北東端にある「西洋園」の異国趣味には目を見張らざるを得ない。

円明園の西洋園の廃墟

 筆者には、北京や承徳の仏教寺院も、そして円明園の西洋建築も、どちらも満州人としての立場から、どんな「教」でも良いものは良いと言い切ろうとした雍正帝や乾隆帝の精神をはっきりと物語、今に伝える存在のように思える。しかし、重そも乾隆帝が格も贅を尽いた庭園や寺院群を造ったこと自体、きわめて矛盾した行為だった。彼は盛世を誇りながら、同時にその奥に巣食う病巣を見ていたからこそ、八旗の軍人には武勇を求め、科挙官僚には贅沢や腐敗との訣別を厳しく求めていた。しかし同時に、遠征の痛ましい犠牲や見苦しい失態の中で辛うじて得た「十全武功」を誇る彼のどこか楽天的な態度は、文化相対主義や極め付けの多趣味と重なり、いつの間にか途方もない蕩尽(とうじん)を引き起こした。たとえ余程の責任感の持ち主が担うとしても、最終的にそれが突出して暴走するのを止める手立てはない。
 
19世紀に国力を落とした清は、1860年になると北京を英仏連合軍によって総攻撃され、頤和園と円明園は略奪の限りを尽くされ、灰燼(かいじん:建物などが燃えて跡形もないこと)に帰してしまう。
 頤和園は、西太后の意向で巨額の海軍費を流用して大規模な修復が加えられた。一方、延命園は修復は加えられず、壮麗な「西洋園」は破壊されたままの姿を晒している。今やここは、外国に侵略された屈辱を青少年の間に知らしめ、「偉大な祖国n防衛と富強」を誓わせるための「愛国主義教育基地」の一つとして指定されている。筆者が訪れた夏の暑い1日も、円明園の廃墟は歴史教育を受ける学生グループや若者でごった返していた。しかし、彼らがあろうことか大理石の装飾群によじ登って記念写真に興じている光景は、思わず眉をひそめざるを得ないものであった。中国という国家は、近代史の過程で被害者であることが多かったことから、“歴史を鑑とせよ”と主張することは、熱心である。いかし同時に、これだけの歴史的遺産を尊重しない態度をも同時に生み出しているのは何故か?
 それはおそらく、「国家とは何のためにあるのか。なぜこうなったのか」という問いかけを一人ひとりの学生や国民に考えさせるよりも、単に英雄を讃えて敵を貶(おとし)めるだけの“愛国”の流布が目立つことと隣り合わせなのではないか。少なくとも、様々な現実をより冷静に、深くとらえる態度を人々に共有させることに失敗した国家や社会が辿る運命は古今共通であろう。世界史を学び諸文明や諸帝国の消長を知ることは、まさにこの運命を避けるためにあるのだと筆者は信じる。

 



 





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