J・J・エイブラムスの速度に賭けろ!

 執筆者:ジョン・グッドさん

 とにかく楽しい映画が見たい――そんなあなたは今すぐJ・J・エイブラムスの映画を見るべきだ。この文章を読み終わったら今すぐゲオとかツタヤに走ろう。大学なんか行ってる場合じゃない。会社には火を放とう。上司を燃やそう。今すぐ家に引きこもろう。天国はそこにあります。J・J・エイブラムスとは何者なのか。製作・脚本・テレビドラマと、とにかくなんでもやる人だけど、監督映画は今のところ5作。今からでもすぐ追いつけるはずです。
 ――『M:i:III』(2006)
 ――『スター・トレック』(2009)
 ――『SUPER8/スーパーエイト』(2011)
 ――『スター・トレック イントゥ・ダークネス』(2013)
 ――『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015)
 とにかくこの5作を立て続けに見てしまおう!(ついでに『クローバーフィールド/HAKAISHA』も見ましょう)
 J・J・エイブラムスは天才なのだ。そのことはまだあまり気がつかれていない。あまりに純粋な娯楽というものは、いつでも当たり前のような顔をしてそこにいて、奇跡はあっけらかんと起こってしまう。イーサン・ハントは妻を救助し、宇宙艦隊は地球を救い、エイリアンは宇宙へ帰還する。すべてが劇的に、めまぐるしく、なおかつ緻密に正確に、こじれた物語も約120分で元通り、あたかも最初から何も起こらなかったかのように、運動の快楽を網膜の残像に焼きつけ、しかし痕跡は消え去っていき、手品師は最後に自身を消して、呆気にとられた顔の観客だけが残される。観客たちは「ああ、面白かった」のひとことですべてを忘れ去ってしまうかもしれない。それどころか、私にはある不届き者の声が聞こえる。「面白かったが、しかし、何もない映画だった」――そう、まったくもってその通り、これは私の声でもあるのです。透明で、純粋で、完璧で、見たあと何も残らない。J・J・エイブラムスの映画には、何かぞっとするような空虚さがある。実際、なんだか面白いものを見たような気はするのだが、あのときスクリーンの中では何が起こっていたというのだろう?
 確かに、そこには迷走しかけていたシリーズ(ジョン・ウー監督の二作目はそこまで嫌いじゃないが、あまりにジョン・ウーだった……ハトが出るし、バイク乗るし、スパイ映画のくせしてなんか砂浜で殴りあってるし……)を復活させたミッション・インポッシブルの三作目がある。スター・トレックのリブートがある。スピルバーグと組んだ映画作りの映画がある。スター・ウォーズの新作まであるじゃないか。何が不満だというんだ。殴っちゃうぞ。殴られてはたまらないが、そういうのってまあ大枠の話というか、商品のパッケージの話でしかないじゃないですか。もちろん旧作を踏まえた総合的なデザイン能力だってJ・J・エイブラムスの恐るべきところなわけですが、包装紙を剥いてしまえば何が残るのかということが言いたいのです。面倒なのでさっさと結論を言ってしまうと、映画だけが残るのだ、ということになるんですが。ある人がハワード・ホークスの映画を評して「何もない映画の可能性を示した」と言いまして、この言葉はJ・J・エイブラムスにもそっくり当てはまるように思われます。J・J・エイブラムスの映画がどのように「何もない」「何も残らない」のか。それはまさに、運動しながら運動の痕跡をみずから消していく〈帰還者の冒険〉の原理によるのです。
 サイモン・ペッグは、J・J・エイブラムスの映画で〈辺境の救助者〉というただ一つの役柄を演じています。『M:i:III』で裏切り者に仕立て上げられたイーサン・ハント/トム・クルーズを電話を通じて遠隔救助するサイモン・ペッグは、〈距離を解消するために、むしろ遠いところにいる男〉なのです。捕らわれた妻を救助に向かうトム・クルーズは、どのように一キロ半の距離を解消するのか。それはサイモン・ペッグに指示されながら、上海の路地を(変な声を上げながら)ひたすら水平に走り抜けることによってでした。サイモン・ペッグはわめいたり愚痴ったり急に弱気になったりしながら、それでも忠実にテロリストかもしれないイーサンを助けようとします。この事情はたとえ舞台が宇宙になったところで変わりありません。『スター・トレック』でジム・カーク/クリス・パインが宇宙船外へ追放されたとき、流刑の星で待っていたサイモン・ペッグはワープ装置の発明者、彼らがふたたび宇宙船に帰還するまでのドタバタのおそるべき効率のよさに驚かなければいけないのです。無限の暗黒空間も、かけ離れた過去/現在/未来も物ともせずに、ひたすら正確に作動する装置に身を任せ、ひとつひとつの疾走に宇宙を従わせてゆく彼らに、私たちはただ唖然としていればいい。『スター・トレック イントゥ・ダークネス』で、せっかく宇宙艦隊の船員になったサイモン・ペッグがジム・カークと喧嘩別れして、変な材木みたいな宇宙人と地球に取り残されてしまったのは、これは驚く必要はなくて、むしろ当然のことです。サイモン・ペッグはジム・カークに告げられた座標へ向かい、ある別の宇宙船に乗り込みます。敵の船の中でちょこまかと走りまわる彼は、エアロックを勝手に操作してジム・カークと超人カーンを招き入れ、またしても〈辺境の救助者〉を演じるのです。〈辺境の救助者〉が主人公と同じ船に乗っていてはいけない。三作目『スター・トレック ビヨンド』でJ・J・エイブラムスが監督から製作にまわったのは、きっと、三作続けてサイモン・ペッグを船から追い出すわけにはいかないからでしょう。私はそう踏んでいます。「宇宙、それは最後のフロンティア……」のナレーションと共に、光の軌跡を放って宇宙へ向かっていくラストで『スター・トレック』『スター・トレック イントゥ・ダークネス』は終わりますが、この二本の映画があくまで地球への帰還にこだわっていた〈帰還者の冒険〉の映画であることを忘れてはなりません。オープニング・アクションで赤い植物まみれの星で走りまわっていた『スター・トレック イントゥ・ダークネス』でも、焦点となっていたのはジム・カークやスポックたちが彼らの宇宙船にどう帰還するかという問題なのでした。フロンティアを求めての冒険など、最初からJ・J・エイブラムスの映画で望むべくもないのです。
 デ・パルマが裏切りの映画にしてしまった『ミッション・インポッシブル』を、元のテレビドラマに忠実にチームプレーの映画として再構成したJ・J・エイブラムスは、正しくチームプレーの監督であります。『SUPER8』は、映画作りの少年たち版ミッション・インポッシブルなのです。廃家で夜のシーンの撮影中、列車が走ってきて「クオリティ上がるぞ!」とデブ君が叫んでからのドタバタの楽しさ! 彼らは映画を作るだけでなく、化物に奪われてしまったヒロインのアリスを救助するために奮闘します。軍の監視をすり抜け、学校に忍び込み、戦車が暴れまわる町の中へ――これもまた一つのミッション・インポッシブル。『グエムル/漢江の怪物』というなかなか優れた映画がありましたが、『SUPER8』はそれに『未知との遭遇』を掛けあわせ、さらにその先を行ったものだといえるでしょう(『SUPER8』と『グエムル/漢江の怪物』はぜひ比較してみてください)。チームプレーはかけあいの台詞の面白さで成り立っています。『SUPER8』の子供たちが車を待つ夜の中で、レストランで、家の中で、無線機をこっそり使いながら、紡がれる会話のおもしろさ。トレーラーをこじ開けようとする場面、「ダメだ、無理に決まってる!」「こんな鍵、どんな大泥棒でも開けられない!」とか言いあってるあいだにひょろっとした眼鏡君があっさりこじ開けて、デブ君がひとこと、「俺がゆるめた」。彼らは幼いながらすごく粋なんです。また、『スター・トレック』でバルカン星に打ち込まれたドリルを破壊しに向かう場面、敵にバレないようシャトルからこっそり射出される役を担ったジム・カークとスールー。接近戦の経験があるからと選ばれた彼に、ジム・カークが「何の経験が?」と聞くと、スールーは「フェンシング」と答えます。このときのジム・カークのなんともいえない顔が素晴らしい。フェンシングかよ! この宇宙時代に! ところが、スールーは絡まったパラシュートの紐を剣で華麗に断ち切って、ビーム銃を持った宇宙人相手に大立ち回りを見せるのです。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で敵に追われているレイとフィン、爆撃に体が吹っ飛んでぶっ倒れたフィンに駆け寄ると、目を覚ましたフィンがレイを見て「大丈夫か?」と聞く場面。お前が言うんかい! でもレイさんは困惑した顔で「ええ」と言い、彼の手を取ります。J・J・エイブラムスの映画の会話のおもしろさは、ひたすら職務に忠実であるチームのメンバーが、ひたすらハードなシチュエーションと綾なして生まれるユーモアなのです。
 とにかくこのスピードに身を委ねればいい。シートベルトをしっかりとお締めください。『クローバーフィールド/HAKAISHA』で崩れかけて歪んだビルの中を移動する場面は『スター・トレック イントゥ・ダークネス』ではさらに激しくなり、地球へ墜落してゆく宇宙船の中を、制御室を目指すジム・カークたちが、床から壁へそして天井へ、回転していく重力に沿ってアクロバティックに大疾走することになります。クリンゴン星人に追いかけられるジム・カークたちの円盤状の探査船はまた、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のミレニアム・ファルコンになるでしょう。宇宙船の床下に隠れてヒューズをいじり回し、敵を攻略しようと思いきや閉じ込めていた宇宙怪獣たちを目覚めさせてしまうレイとフィンの姿は、『M:i:III』のバチカン市国でのマンホールからの奪取を目指す仕掛けや、トム・クルーズがかつての教え子を救助しに無国籍なビルへと向かう任務とも重なり、地下空間が映画作家J・J・エイブラムスにおける事件と陰謀の渦巻く場所であることを明らかにするでしょう(『SUPER8』の怪獣はどこに隠れていましたか?)。通過していく道のりにトム・クルーズたちは次々と爆弾を仕掛けて、運動の痕跡はかき消されていき、フィリップ・シーモア・ホフマンの誘拐と妻の誘拐、反復される二つの事件が〈帰還者の冒険〉の原理によってみごとに解消されたとき、すべては先送りにされたまま――「ラビットフットとはなんです?」「IMFを辞めないと約束したら教えてやろう」「絵葉書送ります」――幕を閉じ、かくして「何もない映画」が完成します。〈不可視の王〉と呼ばれたハワード・ホークスの称号は、あるいは、J・J・エイブラムスにもまた相応しいものとなるでしょう。〈不可視の王は帰還した。だが彼はふたたび姿を消した。かくして映画だけが残されたのだ……〉

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