足下のイラク情勢

●INDIGO MAGAZINE 2017年4月7日掲載
在イラク日本国大使(当時) 岩井 文男
 *現サウジアラビア日本国大使
 *記事の内容は、掲載当時の情勢になります。

1 はじめに
2015年10月に始まった今回のイラク在勤は、私にとって3度目のイラク勤務となる。初めてバグダッドに住んだのは1988年であるから、足かけ30年近くイラクを追いかけてきている計算である。本稿では、政治と治安のそれぞれの側面から現下のイラク情勢を概説してみたい。なお、本稿に述べる見解は筆者個人に属するものであり、筆者の属する組織の見解を必ずしも代表するものではないことを予めお断りしておく。

2 政治情勢

 2003年にサッダーム政権が崩壊し、1年ほどの連合暫定施政当局(CPA)による占領統治を経たイラクは、翌2004年6月にCPAからの権限委譲という形で主権を回復した。それ以降現在に至るまで、暫定政府(イヤード・アッラーウィー首相)、移行政府(イブラヒーム・ジャアファリー首相)、ヌーリー・マーリキー政権、第2次マーリキー政権、そして現在のハイダル・アバーディー政権が成立してきた。これらの政権はいずれも、「国民統一政府」あるいは「国民パートナーシップ政権」と呼称されてきた政府であり、その特徴は、基本的には野党が存在しないオール与党政権であることであった。

 オール与党であれば各政治勢力が首相を支え、もって安定した政権運営が期待されるところである。しかし、現実は宗派・民族を基盤に構成される各政治勢力が閣僚をはじめ政府諸機関のポスト、それに付随する権限と予算を相互にいがみ合いながら分け合うという仕組(ムハーササ)が深く行政機構に浸透するばかりで、「宗派・民族は異なれども我々は皆等しくイラク人である」という国民意識は政治エリートの間に拡がっていかなかった。

 2003年から月日が経つにつれて、アイデンティティ・ポリティクスの弊害のみが目につくようになっていった。そこでは、政治が行政サービスの提供を通じて本来仕えるべき国民は置き去りにされ、政治と国民の懸隔は日ごとに拡大していった。

 過去13年もの間続いてきた、いわば国民不在の政治、国民をないがしろにする政治に対し、ついに不満が爆発する。国民の間で政治家による腐敗の追及が叫ばれ示威行動がしばしば組織されるに及んだ。

そして、昨年4月にはついに政治の中枢であるグリーン・ゾーン内の国会等にデモ隊が乱入し、居合わせた国会議員数名が難に遭うという事態にまで発展した。

 来年の春には国政選挙が予定されており、国民の強い政治不信の中でイラクは政治の季節を迎えることになる。政治の側でも、国政に関して国民が抱える強烈な不満を前にして、オール与党体制からの決別、すなわちアイデンティティ・ポリティクスからの脱却を図るべきではないかとする意見が垣間見られるようになってきた。具体的には、シーア、スンニ、クルドという民族・宗派単位で選挙を戦うのではなく、一定の政策プログラムを軸に民族・宗派横断的に政治勢力が合従連衡し選挙を戦い、多数をとった側が政権を担うというわけである。

我々、民主主義諸国にとって、上記のような仕組みはごく当たり前のことであるが、イラクにとってはこれまで13年間続いてきたアイデンティティ・ポリティクスとは次元を異にすると言えるほどの抜本的変化である。仮に実現すればイラク民主主義における画期的な進展と評価できよう。

民族・宗派横断的な多数派政権の誕生は、裏を返せば政権をとれなかった民族・宗派横断的な政治勢力(野党勢力)が産まれることを意味する。13年間もの長きにわたって続いてきたムハーササによって一定のポストと権力と利権を手中にしてきた政治家たちは、野党になることでこれらを一切失うことになる。果たして彼らはこれに耐えられるのだろうか。

国政選挙は1回限りではないので、野党勢力は次回選挙に向けて拳々服膺、捲土重来を期するというのが本来の民主主義の姿であろう。現状に対する国民の不満に応え、イラクの政治エリートが成熟と度量と勇気をもって政治を変えていくことを望みたい。

3 治安情勢

(1)ISILとの闘い

 イラクは、2014年以降ISILが占拠した領土を回復すべく闘いを展開してきている。その一環として、同年6月にISILの指導者バグダーディーが「カリフ国」樹立を宣言した地であるイラク北部の街、モースルの奪還作戦が昨年10月から進められている。

モースルはチグリス河によって東西に二分されているが、東側は今年の1月後半にISILの支配から解放された。西側の早期解放に向けた作戦が進んでおり、執筆時点(2017年3月)で面積にして西側の約5~6割が解放されたと言われている。

東側に比べ西側には旧市街が位置し、街路も狭隘であるため戦闘車両の侵攻が困難であることに加え、民間人の被害を最小限にとどめるべく重火器の使用が制限されていると言われ、イラク政府治安部隊はISIL分子の潜む家屋や小路を虱潰しするという、猖獗を極める白兵戦を余儀なくされている模様である。

しかしながら、モースルや同市の所在するニナワ県においてISILが劣勢にあるのはもはや誰の目にも明らかで、遠くない将来にモースル完全解放の日が迎えられるとみられる。

モースル陥落後は、ハウィージャやタルアファルなど国内にエアポケットのごとく残されたISIL支配地域を一つずつ取り返していくことになる。

(2)イラク全体の治安状況

 図1をご覧いただきたい。これは、イラク・ボディ・カウントというNGOが月次で発表するイラク民間人死亡者数の推移をサッダーム政権が倒れた2003年から今日まで取り纏めたものである。

人にはそれぞれに家族があり友人がいる。その死を単なる数字で語ることに割り切れなさを感じるが、このグラフから明らかなことは2つの山、すなわち、06年から07年にかけての山と12年から増加傾向だった死者数がISILの侵攻で頂点を迎える山である。なお、現在はおおむね1,200~1,500人のイラク民間人死亡者数で推移してきている。モースルが奪還された後にこの数値が08年から12年に記録されていたのと同じ低いレベルにまで下がるかどうかが注目される。

(3)県ごとの治安状況

 図2をご覧いただきたい。これは、昨年および本年のそれぞれ1月に発生した治安関係事件数を比較したものである。

 一見して明白なのは、一口にイラクといっても事件発生数には大きなばらつきがあることである。イラクは現在18県(ハラブチャを県とする場合には19県)に分かれているが、その半数の県では事件数が極度に少ないことが見てとれる。

 また、発生事件の種類も県ごとにばらつきがあることにも注意を要する。例えばバグダッド県では即製爆弾(IED)等による爆発事案が過半を占める一方で、バスラ県では主として拳銃や小銃による銃撃事件が圧倒的である。アンバール県やモースルの所在するニナワ県ではISILとの戦闘の最中であるため空爆事案が多い。

(4)治安状況の見通し

 上記(3)はあくまでも過去2年間の各県ごとの状況を示しているに過ぎず、近い将来においてISILがイラクから駆逐された後に治安状況がいっそう改善の方向に向かうとは現時点で確言できない。

 上記2で述べたように、イラクはこれから政治の季節を迎える。その中で、ISIL掃討のために主に南部地域から戦闘員として動員されていた人たちが地元に帰ってくる。残念ながら、地元では失業が蔓延している状況にある。加えてイラクは、新政権下の米国とイランとの間で板挟みの状況となっていくのではないか、とも思われる。

 これらの諸要素がイラクの治安状況に今後どのように影響を与えていくこととなるのか、引き続き注視していかねばなるまい。

<執筆者紹介>
岩井 文男大使
京都府出身。現・駐サウジアラビア日本国大使。駐イラク日本国大使を歴任。
駐イラク大使時代から現地アラブ人に絶大な支持を受け、Twitterでは、6.7万人のフォロワーがおられる(2022年2月現在)。





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