「満たされないことがあって当たり前」という自然界の生態システムから
ジャックアンドベティへ映画「杜人」を観に行ってきました。
ここ数年間取り組んできた大地の再生。
実践を通して体感してきた断片的なことがあって、
身体に矢野さんの言葉が沁みてくるようなそんな言葉のつまった映画でした。
いくつか印象的だった言葉と感想を書き残しておきたいと思います。
ここに書いた矢野さんの言葉は映画「杜人」のパンフレットにシナリオが掲載されていたので、そこから引用させていただきました。
矢野さんが「そういう状態がちゃんと保たれている」ということ。
人間界で言えば、満たされなさー弱さ、怒り、惨めさ、悲しみの居場所もちゃんとあるよということなのかもしれない。
社会では負の感情の居場所がなくて窮屈だなって感じる時がある。
「前向きでポジティブで成長してより良く」の一辺倒というか。
もちろんそれはいいけど、どんな感情も居場所がちゃんとあって、
見て見ぬふりをするんじゃくて、つながってあげて「そこにいてもいいよ」って感じた時にふと軽くなる感情もあると思うんだ。
悲観することでも、愚痴でもなく、だけど排除するわけじゃない。
ハッピーエンドじゃないこともあるし、
喜びがあったら、悲しみがある。
道があれば、外れたりもする。
それが自然なことなのだろうと感じている。
そして矢野さんはこう続ける
人だけが自然の中で「完璧でないんだけど、ほどほどでしょうがないね」と言えない。
人だけが地球の生態システムの中で「満たされないこともある」ということを 前提にしていない。
私たちは 安全や安心、快適さを追い求める中で どれだけのこの母なる大地の身体をどれだけ分断してきたのだろう?
だから大地の再生の作業は、空気と水の循環のために分断されていたものを繋いで行く作業をする。すぐに大きな結果が出るものじゃないかもしれないけれど、自然は確実に応えてくれている、ってやっていて感じている。
息をしている限り可能性があって、その命をどうするかなんて、人が決められることじゃないって。あきらめるわけにはいかないんだって。絶対に無理だということはないっていうのは、生きようとする命の力を信じているからだと思った。生き抜こうとする命を前にした時の畏敬の念みたいなものは、命を敬うということそのものだなと思った。
矢野さんのいう「いのち」とは植物など生きとし生けるもののこと。全てのことは、つながっている。自分を愛せるようになって、バラバラな自分が統合されていくことで目の前の人、遠くの人、地球の裏側まで、そして未来まで考えられるようになるのだと思う。私は今、目の前の大地、目の前の人、自分、愛せているかな?この愛おしい地球を。そうじゃなかったら、綺麗事で終わったら、人類と地球は100年後どうなっているだろう?
産まれてきた赤ちゃんや子どもたち。まだ心と身体は人としての自然の身体感覚を持っている。この人間らしい感覚を大切にしていきたい。地球や子どもたちが深呼吸できて、のびのび暮らせる世界を創りたい。時間がかかるかもしれないけれど、現代社会に息苦しさやストレスを感じてきたからこそ、変えていきたい。満たされなさも含めて、自分の五感の居場所とスペースがある世界で共存すること。
そうそう。ついつい私たちは頭でっかちになっちゃうけれど、自然に倣って、自由自在にプラスに向けて柔軟に、そんなにこだわらずにいきたい。
実践あるのみ。今週末は大地の再生作業。だいぶ鈍っている自分の感覚を使っていこう。自分の真実を生きること。そうやって命を全うしていけたら本望。