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あなたと過ごす日々が、少しでも長く続きますように


こんばんは🌙

もうすぐ5月も終わりだね。
田んぼに水が入って、ちょこんとした稲が顔を出す。夜になるとカエルの大合唱が始まる。晴れた日には田んぼの水に空が映って、いつも以上に空が広く見える。そんな心地いい季節。


私はというと、季節の流れを感じる余裕はありつつも、バタバタと忙しく感情の波が激しい日々を送っている。今日は資格の勉強をしようと思っていたけれど、どうしてもエネルギーが湧かなくて手がつけられなかった。
今日は何もできなかったけれど、1日の終わりに今の気持ちを残しておこう。明るいものではないけれど、私にとっては大切なことだから。




5月半ばに、病気を患っているお母さんの定期検診があった。数年前に手術を2回してからというもの、時間をかけてゆっくり回復していき、今では元気に生活をしているお母さん。
けれど、この病気はとても再発率が高いから全然油断はできない。


検査の前日、いつも通りに見えたお母さんだけれど、寝る前に気持ちを打ち明けてくれた。
「みんなに心配をかけて申し訳ない。悪いなと思ってる」「もし再発していたらこういう気持ちでいよう、って今から考えてるんだよね」と。

私は簡単に言葉を返すことができなかった。ただ、やっとの思いで「もし病気が再発したとしても、私たちの関係は何一つ変わらないよ。相変わらず側にいるからね」と伝えた。


検査当日は、朝からソワソワして落ち着かなかった。
掃除をしたり、日記に今の気持ちを書いたり、双子の相棒とLINEをしたりしながらお母さんが病院へ行くまでの時間を過ごす。
ふと、母の日のプレゼントを今渡そうと思い立った。実際の母の日はもう少し先だったけれど、お守りになったらいいなという思いで手紙と手作りポーチを渡す。出発前にぎゅっと抱きしめて、祈るような気持ちで見送った。

電話が来た時、私はお別れを描いた吉本ばななさんの小説「ミトンとふびん」を読んでいた。もし悪い知らせだったらすぐには受け入れられないから、せめてもの悪あがきで心の準備をしたかったのだと思う。
「異常なしだったよ」と聞いた瞬間、体から力が抜けるように気が緩んだ。
まだ一緒に生きられるんだ。




いつか一緒に過ごせる日々に終わりが来ることを、お母さんが病気になった時からよく考えるようになった。だから1日1日を大切に抱きしめて生きていこうと。
けれど、いざ別れの時が来たら。再発していることがわかったら。頭ではその時が来たと理解できても、心はのろのろといつまでもその場にとどまって、簡単に受け入れることなんかできやしないんじゃないか。

それを薄々と感じているから、私は日々の中でたまに死に触れる。そうすることで近い未来に自分の心が壊れてしまわないように予防線を張っているのかもしれない。

そんな時には、「ノルウェイの森」か「キッチン」を読む。


「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育くんでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。
直子の死が僕に教えてくれたのはこういうことだった。
どのような真理を持ってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。
我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみ対しては何の役にも立たないのだ。
僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えていた。

ノルウェイの森(下)


なぜ、人はこんなにも選べないのか。
虫ケラのように負けまくっても、ご飯を作って食べて眠る。愛する人はみんな死んでゆく。それでも生きてゆかなくてはいけない。
……今夜も闇が暗くて息が苦しい。とんとん滅入った重い眠りを、それぞれが戦う夜。

キッチン


ついこの間までのことすべてが、なぜかものすごい勢いでダッシュして私の前を走り過ぎてしまった。ぽかんと取り残された私はのろのろと対応するのに精一杯だ。
断じて認めたくないので言うが、ダッシュしたのは私ではない。絶対違う。だって私は、その全てが心から悲しいもの。

キッチン


大きな悲しみに飲み込まれて、大切な人の不在を受け入れるには何回季節を巡らなければならないのだろうか。
身近な人との死別をまだ経験したことがないから、怖くてたまらない。


いつも、「私が幸せだったこと、覚えておいてね」と言うお母さん。それを聞くと、「何で過去形なの?」と思わず突っ込みながらも悲しくなってしまう。
私たちは日々をゆるやかに生きながら、お別れの準備をもうすでに始めているのかもしれない。





仕事で子供たちと対話する時や友達と話している時、noteやSNSを見ている時、本やニュースに目を向ける時、私の知らない苦しみや悲しみに出会うことがある。いくら想像してみても、その苦しみを完全に理解することはできない。

あなたの苦しみはあなただけのもの。けれど、私はあなたがその苦しみに向き合うのをずっと見守っているし、時には一緒に立ち向かう。

これが私にとっての真理なのです。


私の苦しみなんて軽いし、世の中にはもっと苦しんでいる人もいる。そう考えて罪悪感と悲しみを感じることが、過去に何度もあった。けれど今は、苦しみに大きいも小さいもないと思っている。

私の苦しみは私だけのもの。


苦しいことも思いのままに綴れる場所があること、読んでくれる人がいることは私の救いです。



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