聖書を読もう
あなたは神を信じますか?
いや、まだブラウザバックはしないで欲しい。 (激寒)神を信じるかどうかはこの際あんまり関係ないんです。
みなさん、「聖書」って知ってますか?世界一売れてる本なんですけど、読んだことありますか?ない気がしています。ないと想定します。次の質問です。なぜ読まない?
「俺は宗教なんかに興味ねえんだよ、二度と来るんじゃねえよ」という倉地くんスタイルのため?恐らくそうでしょう。まあ聞け。宗教はいいぞ。巷では反出生主義やら死は救済だとかのニヒリズムが跋扈しているようですが、いいえ、宗教こそが救いです。我々に与えられた唯一の救い。古今東西、何万年に渡ってそうであったように。……これではカルトか。
まあ宗教を買う(I'm not buying it的な意味で)かどうかはさておき、聖書は読みましょう。一般常識として読みましょう。これはあえて日本人を動かしやすそうなワードを使っております。卑怯者と呼びたければ呼ぶが良い。
最近バズっているツイートにこんなものがありました。
まったくもってそのとおりです。「宗教を知らない者は文化を知らない」のです。というか、文化どころではすみません。なんもわからん。身近なところでいうと、英語を本気で学ぼうと思うとキリスト教がある程度分かってないとけっこう詰まります。特にイディオムとかは聖書リファレンスだらけです。例として、The crown of thorns(いばらの冠)という言葉がありますが、これはイエスが十字架に付けられる前に被せられた、受難の象徴です。故に転じてこの言葉は「つらい境遇、苦難」を表します。Sacrificial lamb(生贄の羊)でスケープゴートを意味しますし、Kill the fatted calf(太った牛を殺す)で「歓待の用意をする」になりますし、Salt of the earth(地球の塩)で「善良な人」を意味します。リストアップしていたらきりがないほどの聖書から引用された熟語があります。他にも、くしゃみをした時は「Bless you」という言葉をかけますし、神の名を呼ぶのが畏れ多いのでOh my God をOh my goshと言い換えたりします。この行為のことをminced oathと言います。……こんな風に、宗教の中では比較的マイルドなはずのキリスト教圏ですら神に関すること尽くしです。イスラム圏とかになると、クルアーンを知らないと人権がないです。宗教知識がないととてもじゃないけどやっていけません。
しかし、聖書に関しての知識がないのも、まあわかります。イスラムにしてもキリスト教にしても、海外では子供の頃から教育を受けるものなので、そういう文化がない以上は自分で学ぶしかないわけですが、まあ~~~~長い。ちょっと正気じゃないほど長い。聖書は旧約聖書と新約聖書の二冊があるのですが、そのうちの一冊「旧約聖書」には大きく分けて全部で37つの話が収録されており、最初のお話である「創世記」だけで6時間以上はかかります。めちゃくちゃです。二冊のうち一冊の1/37で6時間も取られてはたまりません。しかしご安心下さい。私、よいものを見つけました。
これだッ!
子供向けということで、相当端折ってる部分もありますが、核となる部分はちゃんと新旧ぜんぶ収録してくれているので、とりあえずこれ一通りやればまあいいでしょう。これなら多分旧新約全部通しても3時間以内で収まります。あと日本語訳とボイスオーバーがかなり分かりやすいです。読み手がいい声してるんだまた……(何?)
というわけで、聖書を読みましょう。神を信じる信じないは自由ですが、それを決めるのに充分な情報量がないのではあまり合理的とは言えません。「ゲームはやってから批判しろ」と同じ理論ですね。それに、何度か言っているのですが、「神を信じる」ことは必ずしも「神の実在を信じる」こととイコールである必要性はないのです。詳しく説明すると相当長くなるのでやめますが、のらきゃっとが顔バレしても未だに楽しんでいる人がいるのと同じ理屈です。(何?)
ではまた75年後。
【書いたはいいが使い所を失った文章】
日本人って本当に異質で、けっして無宗教ではなくむしろ無意識に信心深い方なんです。森羅万象に神が宿るという考え方(アニミズム)が骨の髄まで浸透していて、例えばamazarashiの「命は美しい」でドールを大量破壊したMVが公開された時けっこう物議を醸した。それはドールに命を見出しているからです。科学的に考えれば荒唐無稽ですが、「罰当たりだ」と思ってしまう。これがアニミズムです。(宗教版DAIGO)
ただ、我々の場合問題なのはこれらが「無意識な信仰である」ってことなんですね。自らを信心深いと思っていない。つまり、ほとんどの人は実態としてはリリジャスであるのにも関わらず、自分を無宗教だと思っているのです。これ、実は一番危険です。だって、信仰から来るものを信仰と思っていないということは、頭の中で勝手に「別のもの」に置き換えるわけですよ。「自由意志」であるとか「科学」であるとか「道徳」「礼儀」「常識」であるとかね。宗教を科学と勘違いしている状態と思えばどれほど危険なのか分かるでしょう。信仰がある人はそれに自覚的でなければならない。ではなぜ我々は神に向き合おうとしないのか。それは「神を信じる」という行為を「弱い人がすること」だと思っているからです。(弱い人ポインタ)これは逆説的に言うと自分を比較的強い人だと信じ込んでいるというわけで、どう考えてもこっちの方が危険なんですが、どういうわけか宗教と聞くと新興宗教だとかカルト宗教だとか、頭にアルミホイルを巻いている連中のイメージしか浮かび上がってこない人が多い。あえて言おう――無知であると。
知ってますか?アメリカ人の約半数は「創造論」を信じています。創造論とはダーウィンの進化論と対照的に、「創造主なる神によって天地万物の全てが創造された」とする理論です。日本だとあまり聞かない説ですが、キリスト教圏では進化論を否定してこっちを信じている人も全く珍しくありません。「頭お菓子引火?」と思ったかもしれませんが、なぜ否定できよう?どこからともなく生命が生まれては不自然ですか?ビッグバンは完全に無から発生したのに?進化論にはミッシングリンクがあるのに?もちろん、私もそこまでこの分野に明るくありませんし、どっちの理論が正しいとか言うつもりはありませんが、現状我々はこれらの正誤を断定する術を持ちません。言えても「科学的に考えて、創造論と比較するならば進化論が正しい可能性の方が高い」くらいです。進化論だって穴だらけですし、そもそも我々の叡智など大体は数百年もすれば愚か者の妄想になるのです。今から400年前、天動説をほとんどの人が信じており、地動説を唱えたコペルニクスは笑い者にされ、ジョルダーノ・ブルーノは処刑されました。その理由を「その頃の大衆はバカだったから」としか思えない人々は、同じく数百年後の人間にバカにされるでしょう。なぜ自分が「数百年後にとっての天動説信者」ではないと言えるのか?「人類が間違っていたこと」というのは常に「未来」からの観測によって決定されるわけで、ナチスによるホロコーストも日本における大東亜戦争の開戦も「行われている時点」では支持を得ていたのです。結果論として誤りであったとされていくわけで、その運命からはたとえ科学とて逃れられません。科学が常に進化していくのなら、未来から見れば我々は旧式の欠陥理論で世界を覗いているにすぎず、豊穣や雨乞いのために人身御供をやっている異民族と相違ないかもしれません。
科学的知識は、単に、観察可能な現象に関する、仮の説明(すなわち仮説)にすぎない。しかも、科学哲学におけるポパーの反証主義や、クーンのパラダイム論の考え方を借りれば、そういった科学的知識や世界像は常に暫定的なものでしかなく、いずれ別の説明や世界像に取って代わられる可能性がある。だから、離れた物体同士が引き合うという説明とか、光の早さは常に一定で、むしろ時間や空間が相対的なものであるとか、量子の位置は確率的に決定されるといった、一見すると常識はずれの説明であっても、それが観測可能な経験と整合的でありさえすれば、それでよいのである。そもそも科学は、この世の本質とか真実を映し出すための道具ではないのだから。それらの常識はずれの説明は、それがこの世の本質なのではなく、そう説明するのが現時点では最も都合が良いというだけの話なのである。
https://sekiguchizemi.hatenablog.com/entry/20170104/1483469468
つまり、科学とは姑息的(その場しのぎ)なのです。いつ何時でも簡単にひっくり返る事ができる。
なぜこんな話をしたかというと、宗教否定の根源は「行きすぎた科学信仰」にあるからです。科学こそが世の理を示す唯一絶対の存在であるという考えそのものがひとつの「宗教」なのですが、信仰対象が「真実」であるだけに中々気づきにくい。科学ってそもそも哲学や神学から発展した分野なんですけどね。科学への固執が弱くなると宗教も認めやすくなると思ってとりあえず洗脳を図ってみました。
そもそもなんのために我々が科学を採択しているのかといえば、人の生活を豊かにしていくためであって、なんのために人の生活を豊かにするのかといえば我々が幸せになるためですよね。要するに最後の部分だけ満たせればそれが「科学」だろうが「神学」だろうがなんでもいいわけですから、神への信仰を採択していた時代も決して間違いではないんですよ。
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