武士は食わねどスーパー2シャーシ。
あの日夢を乗せて走った小さなRacing Car.
当時のわたしはミニ四駆なんてものは知らなかったし、墓参りのついでに寄った個人商店(たぶん墓参りするヒトたちを相手に商売していたのだろう)で、わたしの目はひとつの箱に釘付けになった。見たこともない形をした、車のような物体のイラストが描かれた箱に当時のわたしは心奪われ、これを買ってくれるまでここから動かないと駄々をこね、無理矢理買ってもらったのが、わたしの最初のミニ四駆、ソニックセイバーだった。当然当時のわたしは組み立てに必要な道具なんて持ってないし、そもそも説明書が読めないから組み立てられず、昔から手先が器用だった祖父がわたしの代わりに組み立ててくれた。ついでに段ボールでオーバルサーキットを作ってくれて、マンガン電池とノーマルモーターの弱々しいパワーで走る姿に、当時のわたしは熱狂した。
その頃はミニ四駆の全盛期。近くのスーパーの駐車場の1/4くらいを使って(田舎なので駐車場がクソほど広い)ミニ四駆のコースが敷かれ、大会が行われるようだった。
はじめて本物のミニ四駆のコースを見たわたしはすかさず、肌身離さず持ち歩いていたソニックをコースインさせようとした。そうしたら大きなお兄さんたちから「ガキが来てんじゃねえよ!」などと罵声を浴びせられ(お前たちだって充分ガキじゃねえか)、泣きながらその場を後にした。
本体より高いグレードアップパーツをねだってドチャクソに怒られたり、「速くするなら軽くすればいいだろ」と熱した針金でボディーの至る所を切り刻む祖父に恐怖したりした(ちゃんとやすりで整えてくれたのも覚えている)。
小学校に上がると、まわりにミニ四駆をする子供はいなくなった。過干渉でヒステリーな、生物学上、遺伝学上、社会通念上の母はこれ見よがしにわたしからミニ四駆を取り上げた。たぶん、捨てられてしまったのだと思う。「こんな子供騙しのおもちゃでいつまでも遊んでないで算数ドリルをしろ」と。祖父がせっかく作ってくれたマシンも、サーキットも、母にとっては自分たちの世間体を害するゴミでしかなかったのだ。
それから20年、わたしはミニ四駆に触れず、あんなに大好きだったミニ四駆のことすら忘れて生きてきた。やっと自由に使える時間とお金を手に入れて、わたしはようやく自分の手でミニ四駆を作ることができた。だが、その復帰第一号はソニックではなかった。ネットで聞きかじった小賢しい知識でMAシャーシのキットを選んだ。たしかにソニックでミニ四駆再デビューしたかった。しかし「S2は遅い、使いづらい」という情報に踊らされて、意図的に避けていた。
わたしのもとに、再びソニックセイバーがやってきた。スーパー2シャーシを引っ提げて。遅い? 使いづらい? 上等じゃねえか。
FMマシンがゼロシャーシなら、リアミッドシップはS2でいく。それも、じいちゃんとの思い出のソニックセイバーに、わたしの色を乗せて。……大会で入賞でもしたら仏前にマシンをお供えしたいところだが(祖母や曾祖父母が困惑しそうだ……)、そうもいかないもんでね。実家とは事実上の絶縁状態だし。あんなゴキブリだらけの家に上がる了見はない。あれはもう、わたしが好きだった祖父母の家じゃない。ただのゴミ屋敷だ。
いまから突然S2をはじめて、いきなり成績が残せるなんて思ってはいない。だが、自身のミニ四駆のスキルを試す、向上させるよい教材であることには違いない。まずは素組みで組んでみて、欠点を洗い出す。ひと目見てわかるのがカウンターギヤシャフトの支持方法で、設計担当者もこれにGOサインを出した上席も酩酊していたんじゃないのかというような作りになっている。まずここをどうにかするのが最初の試練だろう。酒もマシンも2合(号)までと言うし、まずはFMゼロシャーシの開発を先行させながら、S2シャーシの開発を開始してゆく。コジマの大会の地区予選には投入できるようにしたい。
……わたしもフレキを始める機運が高まってきているのかもしれない。
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