若者が身体を壊すのは「社会のためになっていない」というお話

昨今、「社会のために自分を犠牲にしましょう」という流れをよく聞きますねー。
それはね~。どうでもいい人に対する対応だよ~。
「その人が健康であることによって利益が発生している人」に対して、自分を犠牲にされて健康を害されてしまうと、本来発生しているはずの利益が発生しなくなっちゃいますからね~。さらに、本来使われる予定でもなかった医療者の手がその人にさかれるようになってしまうので、余計足を引っ張られてしまうんですよね~。そう、つまり迷惑になってしまうのです。

姥捨て山って知ってる?
これはね~。大昔、日本の農村部にて、貧しかった村落の人が、「村の人口を支えきれない」ってなって、足腰そのほかが弱って日常仕事をできなくなってきた高齢者の方を山に捨ててきていた、という太古の風習だよ~。くちべらし、も似たような意味を持つ言葉だね。
高齢者の方をそんな扱いをするなんてひどい!というのはもっともなんだけど、その村落にとっては、そういう人を支えるほどの収穫や労働世代の人手が足りなかった、だからその小規模な社会集団を維持するにはそうすることが合理的だった、という側面があるのも事実なんだ。

ところでところで、いま日本の風潮はどうなっているかといえば、それとはちょっと異なる様相を呈しているねー。いまの日本の風潮では、高齢者も若者も等しく病気になるべし!って感じなんだ。それも、「社会のために若者も病気になるリスクを負いましょう」って宣伝してるんだ。それは、上述の大昔の日本の村落の「姥捨て山」の非道だけど合理的な風習と比べると、変な話だよね。

姥捨て山はひどい話だけれど、支えるべき高齢者の人口を減らすことで、若者世代が相対的に豊かに生活できるようになるという合理性があった。ところが昨今の風潮の流れはどうだったっけ?「高齢者も若者も等しく痛み分けして苦しみましょう」っていう風長じゃ、なかったかな?これはさ、おかしいよ。
だって、高齢者と若者の命が等しく平等で、「一緒に痛み分けで苦しみましょう、病気になりましょう、健康を害しましょう」っていうなら、その苦しみ始めて仕事ができなくなった若者たちがやっていた仕事はだれがやるんですか?いなくなった分だけポコポコ人材が湧き出てくるんですか?人間って育てるのに20年もかかるのに?

だから若者も一緒に死ぬべしってなるのは理屈が通ってない、純粋に合理的じゃないんですよね。「社会を守るために」という言葉と矛盾している。君たちはむしろ健康でありつつ社会を支えることこそが「社会の役に立つこと」なんじゃないのか~。「社会貢献」の意味を取り違えてるぞ~。

「あ、このくそな社会のために自分が労働力を提供するなんて御免まっぴらだ!」っていう社会を支えるためについての積極的な自棄の意志ならまた別ですよ。これについては、若者よ大いに悩み給え!てかんじ。

戦争において、若い人が武装して戦地に赴いてどんぱちやってくる歴史がありましたね。それはいいのかといえば、彼らは祖国を護っていたわけです。祖国に子供や奥さんを残して、祖国に敵が直接乗り込まないように、自分たちが盾になるべく、自分の生命を削っていたってたわけなんですよね。

はい、ところで今の風潮についてです。

「若い男女」が、とくに他人のためでもなく、ただ自発的に体調を崩す行為を行う、というのは労働人口の減少につながるわけです。その人が体調を崩した分別の人がその分の仕事を請け負わなければいけなくなるんですよね。これって社会を維持するためということを第一義に考えるなら、とっても迷惑な行為じゃないですか?

だから、現在健康な学生~勤労世代において、「社会のために、体調を崩す犠牲を負いましょう」ってのはそれが既存の社会の維持にとって合理性があるかどうかで考えると、とても理屈が通っているようには見えないんですよね。
よくWW2の神風特攻隊にたとえられますが全然違いますよ?最初のチーム以外の特攻隊はシステム的にはひどいシステムでしたが、当時の敵はあれに恐れおののいたのです。つまり効率は悪いにせよ、「敵への威嚇」という意味ではある程度の意味はあったんですよね。あと、そもそも、集団の利益争いに集団の中の攻撃向きの人たちが出て行って争ってより集団にとってメリットのある状態に導く、ということ自体は、人間が有史よりずっと前から、そして人間ではない他の多くの哺乳類などの動物もとっている極めて普遍的な現象でもあります。

フツーに考えて、例えば野生の雄鹿どうしがツノで戦いあったり、チンパンジーの集団が別の集団に攻撃を仕掛けたり、防衛したりすることはよくありますが、彼らみたいなヒト以外の動物種の集団の中で、集団を護るために自分たちの中の若者世代の多数派の個体の身体を自傷する集団ってあるんですかね?人類だとバンジージャンプとか装飾的な身体加工など、成人になるための通過儀礼としてある程度の身体的な攻撃を負わせる文化とかもありますが、それにしたって、「この程度は大丈夫」というラインは越えてきてなかったわけです。バンジージャンプで村の青年がほとんど死にましたみたいなわけわかんない通過儀礼は聞いたことないですね。むかしのひとはかしこいですからね。

で、そういう視点でいうと、今起きてるのはよくわかんない自滅でしかないですよね。

つまり、合理的に意味が生じないタイプの自己犠牲というのは、社会の役に立つどころか、役に立ってなかったりするのです。むしろ、今回みたいに若者(勤労年齢世代)が大量に自発的に不定愁訴と病気になっていくみたいなタイプの自己犠牲っていうのは全然美しくないし、周りからしたらとても「迷惑」な話なんだよ~。何が「役に立ってること」で、何が「役に立たないこと、むしろ迷惑なこと」なのか、よく自分で判断しようね~。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?