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伝えておきたい。ここだけのブランドストーリー

inBlueは、世界ではじめてデニムスーツを誕生させました。しかし完成までの道のりは華々しいものではありませんでした。誕生までの過程で、何を思い、どう行動したのか。今回は、そんな物語を皆様にお伝えしようと思います。


Since 1991
生地屋発祥としての誇り

1990年代後半~2000年代前半にかけて、日本のファッションはアメリカンカジュアル全盛の時代を迎え、ジーンズが若者のファッションの中心でした。

古着のネルシャツやパーカーをミックスし、ジーンズとスニーカーを履いた若者が街にあふれていました。そんな時代の真っ只中、1991年に創業した当社は、国内大手のジーンズメーカーに向け、当社で企画したデニム生地を販売することをメインビジネスとしていました。

90年代は、「色落ち」「ダメージ」「リペア」などの加工を加えたレプリカのヴィンテージジーンズが市場を席巻していた時代。創業者で現在の会長でもある光本琢磨は1990年代の終わり頃から、加工ジーンズ一辺倒になる市場に違和感を覚えていました。

「加工ジーンズ偏重の時代は必ず終わりを迎える。何か新しい生地を生み出さなければ、時代に取り残される。」

光本はそう考えるようになり、デニムが持つ本来のインディゴブルーの美しさを生かした生地開発に乗り出し、逆転の発想のもと究極に色落ちしないデニムを完成させました。これが、エバーブルーデニムのプロトタイプです。

フォーマルを纏うデニムスーツの誕生

早速、ジーンズブランドに企画を持ち込んでみるものの、当時は加工ジーンズが主流の時代。やはり、色落ちしない生地の魅力は全く伝わりませんでした。しかし、「何とかしてこの美しいエバーブルーデニムを商品化したい」という強い想いに変わりはありませんでした。そこから悩みに悩んだ末、

「本来の生地の美しい魅力を引き出せるのは、従来のカジュアルアイテムではなく、フォーマルな世界にこそあるはずだ」

またもや発想を転換させました。そこで、エバーブルーデニムで仕立てたデニムスーツの試作品を光本自ら着用し、大手スーツ量販店に売り込みに行きます。しかし、百選百敗、、、。

「シャツにインディゴ移染したらどうするのか?」「今までデニム生地のスーツなど見たこともない。スーツはウール素材と決まっている。」大手スーツ量販店の担当者の意見はネガティブなものばかりでした。

光本は数々の失敗を重ねながらも、エバーブルーデニムのコンセプトには絶対的な自信をもっていました。デニムスーツの可能性を信じ、生地屋としてのプライドをかけ、「スーツ=ウール素材」というステレオタイプの牙城を崩す挑戦が始まりました。

イノベーションの集積が歴史をつくる

生地のみを企画・販売するというビジネスモデルから、生地の企画からスーツの製造・販売まで自社で行うというモデルに切り替えました。今まで存在しなかったカテゴリーをゼロから作るべく、エバーブルーデニムの質を大幅に向上させ、デニムスーツ専門店を立ち上げました。

2007年、デニムスーツ専門店 inBlueは倉敷児島の地でスタートしたのです。しかし、それは同時に苦難の連続の始まりをも意味しました。

世界発のデニムスーツ専門店ゆえ前例もなく、またアパレルブランド経営の経験もない。そのため、ブランディング、マーケティング、接客方法、プロモーションなどすべて手探りの状態。一日の来店数がゼロの日もしばしばありました。しかし、児島の店舗で営業した4年間はブランドコンセプトを醸成するには必要な時間でもありました。

築き上げてきたデニムスーツ専門店としてのポジション

転機が訪れたのは2011年。倉敷の美観地区内にある、林源十郎商店より店舗移転のお話をいただきました。そして、倉敷美観地区に移転してはや10年が経過しようとしていますが、全国にもファンが増え、世界初のデニムスーツ専門ブランドとしてのポジションを確固たるものにしています。

「私たちのチャレンジはまだまだ続く」

デニムスーツという新しいファッションカテゴリーを生み出したように、我々の存在意義は「誰もやらないことをやる」ということです。

デニムスーツを、”着る人の人生を豊かにするマジックスーツ”と定義し、新しい世界観やライフスタイル、これまでに無いカルチャーを創造し続けます。

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