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14、革命のはじまり



フランスではいよいよ革命が起ころうとしています。





フェルセンがフランスへ戻って来た時には、彼が愛したアンシャン・レジームのパリの姿は消えかかっていたことでしょう。
もはやヴェルサイユにも以前と同じものは何もありません。

1788年12月10日、父宛に手紙を書きました。

皆の心は混乱に陥っています。 あるのは新しい憲法の問題だけです [...] 実に狂気的です。誰もが自分は弁護士であり、事態の進展についてしか話すことができないと思っています。 守衛は控え室でパンフレットを読んで時を過ごしています。1日に10冊から12冊出てきますが、どのようにして記者がそこに来るのかわかりません。 ここでは冬が厳しく、小麦が不足しています。8月以降雨が降っていないため、製粉所は水不足で製粉できません


ちなみに、ほぼ同じ時期にスウェーデンではグスタフ3世が独自の革命を起こします。この時フェルセンの父は一時逮捕されますが、グスタフ3世との対立は個人的なものだったようです。 


その後、フランスでは至る所で血なまぐさい争いが起こるようになります。

1789年6月4日には王太子ルイ=ジョゼフが亡くなり、ノルマンディー公ルイ=シャルルが新たに王太子となりました。


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バスティーユ牢獄が襲撃され、1789年7月14日、ついにフランス革命が始まります。



この時のフェルセンはヴァランシエンヌにいて連隊と合流し、地方にも広がる恐れのある暴動を阻止しようとしていました。

10月5日にはすでにパリに戻っています。

この日パリではデモが勃発しました。女性たちを中心とした群衆がヴェルサイユに向かいます。彼女たちはパンや食料品の値下げを要求し、経済状況を国王に訴えようとしているのでした。
武器庫まで略奪した挙句、武器を手に加わる者までいました。こうしてデモ参加者は数千人規模に膨れ上がりました。


何も知らない国王は狩猟に出かけており、王妃はトリアノンにいます。しかし緊急に呼び戻され、宮殿内は混乱状態に陥ります。
王党派の大臣サン=プリースト伯爵は、王はヴェルサイユを離れるのが良いと提案しました。
ルイ16世は賛成しましたがマリー・アントワネットはそれを拒みます。



その場にいたフェルセンもサン=プリーストの意見に同感します。

9年後、彼は日記にこう記しています。

あの日のことはよく覚えている。どの場所も恐怖に支配されていた。もし国王と王妃が逃げ延びる事ができていれば、彼らは命を救われたかもしれない



バスティーユ襲撃以来、多くの貴族たちが外国へ亡命したにも関わらず、忠実なフェルセンは国王一家を救いたい一心でそばを離れることはしませんでした。

もっとも、フェルセンはグスタフ3世からフランスの情勢や王室の様子を探るための『スパイ』として送り込まれているのですが……。



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