35、その後のお話
フェルセン亡き後、彼の周りの世界はどのように変わったのでしょうか。
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フェルセンの死から数時間後、遺体は簡素な木製の棺に納められました。
未だ興奮状態の群衆はガムラスタンに広がっており、フェルセン家の『毒殺者』を捕らえるつもりだと叫んでいます。
群衆はウグラスという総督の邸宅を焼き払い、フェルセンの邸宅も狙っています。しかしそこで軍が介入したことによりフェルセンの邸宅はなんとか守られました。
フェルセンの妹ソフィーは使用人に扮し、ストックホルムから逃げ出すことに成功しました。そしてフェルセンの名誉回復のために奔走することになります。
弟ファビアンは一種のショック状態に陥っていました。彼もまた兄同様に暴行されそうになっていたのでした。
フェルセンが殺害されたことは彼の友人たちにも衝撃を与えました。
「ストックホルム人の残忍さはパリ人を超えている!いったい軍隊は何をしていたのだろうか? 公式の葬儀の最中に、白昼堂々、何故そのようなことが起こり得るのか」
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その後、新たなスウェーデン王太子として選任されたのは、フランス元帥だったジャン=バティスト・ベルナドット(スウェーデン名カール・ヨハン)です。
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1810年6月20日に起きた忌まわしい事件で、約900人もの暴動関係者に対し尋問が行われました。現代に例えるとその数は1万人以上に値します。
彼らの大多数は中産階級の労働者たちでした。
翌年1811年8月、裁判ではわずか4人のみに有罪判決が下されました。
彼らは「暴動に加担」したことで鞭打ちの刑が科されたり、「公の広場で酩酊し、立退命令に従わなかった」ことで罰を受けました。
フェルセン殺害に関しては、何千人もの目撃者がいたにもかかわらず『殺人』で有罪判決を受けた者はいませんでした。
肝心のタンデフェルトは「暴力行為を自白」したとして有罪となりました。しかし後にカール13世によって赦免されアメリカへ渡っています。
フェルセン殺害に関する直接の責任はシルヴェスパーレ将軍にあるとされていますが、カール13世によって免罪されました。(また、カール13世には道義的責任があるとのことです。)
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フェルセンとソフィーの無実がようやく証明されたのは、フェルセンが殺害された年の11月5日でした。その4日後にはカール・アウグストの死因が脳卒中であったと正式に発表されました。
身の潔白が証明されたフェルセンは高官として葬られることが許されます。
1810年12月4日に国葬が執り行われ、両親が眠る墓地へと埋葬されました。
後にソフィーは亡き兄を悼んで記念碑を建てています。
『忘れられない兄弟へ
1810年6月20日の
最後の瞬間における勇気は
彼の美徳と心の平穏の証となる』
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やがて時は過ぎ1879年──。
長い歴史を持ち数々の栄光を手にした誇り高いフェルセン家は、ついにその血筋が途絶えることとなります。
ファビアンの娘がフェルセン家最後の人物でした。
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『フェルセンの生涯』完
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