JovanottiのPino Danieleへの追悼文。

現在発売中の「MusicaVita Italia」誌でPino Danieleが特集されてますが、2015年彼の訃報に接して、当時、盟友JovanottiがFBに記した追悼文をいまさらですが訳してみました。(*)は訳注。

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ピーノといると、口では説明しがたい現象が起きたものだった。彼といたら数分もしないうちに、ちょっとナポリ風のアクセントで話している自分に気づく。まじめな話、いちにち一緒に過ごしていたら、夕食が終わる頃には「uè(*ciao)」だの、しまいには「guagliò (*giovanotto)」みたいな言い方までするようになったりね。それこそ彼がもつ影響力で、その場の空気をまさにピーノ・ダニエレ化してしまうんだ。彼の音楽がそうさせていた──というより、よく考えてみると、彼自身がまるごと音楽だけでできていて、その彼すべてをもって、まさにそうさせていたんだと思う。ぼくは、ピーノ・ダニエレという宇宙船にのって、離陸、着陸、エアポケットの乱気流といった《フライト》を長い時間してきた。でもなによりそれは、彼と知り合う前から、忘れることのできない人生と音楽の時間だったんだ。

ぼくが行った初めてのコンサートこそ、ピーノ・ダニエレだった。正直にいうと、彼のまえにレットーレとジャンニ・モランディがゲストの「ジロ・マイク」(*各地をまわって公開収録していた番組らしい)がコルトーナの広場であったのが初めてだったけど、それは母さんに連れられていったやつだからね(まあとにかくそれも楽しくはあったけど)。でも、1981年にローマのパラロットマティカでやったコンサートには、自分で行ったんだ。前売りチケットも貯めてたお小遣いで買った。バンドはもうとんでもなくて、何が何だかわからなかった。まるでパーティのようだけど恐ろしくて、夢ごこちだけど突きつけられてるような、怒りと喜びが入り混じった空間におかれた気分になっていた。でもそのあとわかったのは、素晴らしい音楽はいつもそこからやってくるんだってこと。それはもう、これまでとはまったく別の、勇気に満ちた、自由で、野性的で、知的で、はじめて知る音楽だった。どこからやって来たのかわからないなにかが、ぼくのなかに入り込んで、連れて行かれてしまったんだ。その場の空気をピーノ・ダニエレ化してしまう、そんな音楽だった。

アルバム「Nero a Metà」は、どんな時代にあっても究極の名盤といえるけど、そのあとにリリースされた「Vai mo'」という、このさあ今だぞって感じのタイトルのアルバム、ここからぼくは夢中になっていった。「Yes I know My Way」って曲が入っていて、ぼくはこの曲ではじめてイタリア人でもファンキーになれるってこと、そして笑顔を保ちつつガツンとやれるんだって知ったんだ。

それから数年して、ぼくは「ジョヴァノッティ」になって、それでもピーノの一ファンであり続けた。彼はずっと偉大なピーノ・ダニエレだった。名うてのミュージシャンたちからも調子っぱずれのやつらからも愛され、尊敬され、もっともっと偉大になっていった。ピーノと知り合ったのは1994年。彼とエロス(*・ラマゾッティ)とぼくとでツアーをしようとオファーされたんだ。信じられなかった。
ピーノ・ロレンツォ・エロス。ポスターのデザインはぼくがやることになった。マーカーで建物のうえに太陽を描いたんだ。それは自分の人生を変えるであろう経験を道しるべとしてイメージ化するため自分なりのやり方だった。なにしろイタリア音楽界の大物二人とスタジアムの舞台をともにしようっていうんだから。まるっきりバラバラだけど、太陽の光で鉄筋コンクリートをぶちやぶろうという意志で集まった3人だった。

エロスとは、エージェントが同じだったから以前から知り合いだったし、ピーノとはとても気が合った。ぼくを気に入ってくれたし、ぼくは、こんなすごいアーティストと親交がもてるなんて自分が選ばれた存在になったように思えたものだった。なにしろピーノは、音楽でできてるような、音楽のことだけをいつも考えて、余計なことは一切せず、なんであれその真ん中に音楽がある人だった。そして血の通った、兄弟のような友情をぼくにくれたんだ。ピーノはとても感じのいい人で、お腹がよじれるほど笑わせてくれたり、その気になれば、いろんな話をしてくれた。ブルース、文学、コメディア・デアルテ、彼の歌のなかにあるように美しく、そして、トトの映画みたいにおかしかった。ピーノにとってトトは神様みたいなものだったからね。きょうはいろんな感情が、あまりにも一挙に溢れかえってしまう。

1994年6月13日、サン・パオロ・スタジアム。あのナポリの日の思い出はずっと心にあるよ。故郷の街に姿をみせなくなって数年経っていたピーノが、ナポリに帰ってきた日だ。ぼくと“ラマッツァ”(エロスのことを仲間はこう呼んでいた)は、ピーノとナポリの人たちにとって世界で一番大切なこのことに相伴するわけだ。しかもほんの数日前にマッシモ・トロイージが亡くなったばかりだった(*ピーノとも親交が深かったナポリ出身俳優。主演した映画「イル・ポスティーノ」撮影終了直後に41歳の若さで急逝)。まだまだ激しい感傷が押し寄せていたこの日にあったものは、考えごとの雲のなかにあったピーノをも取り囲んでしまっていた。ピーノは心かき乱され、押し黙ったまま。ときどきちょっとした話をして深刻になりすぎないようにはしていたけれど、それでもこのコンサートは、ピーノにとって、もうただのコンサートじゃなかった。街じゅうが待ちかねている。チケットは入手困難。ピーノがどこに宿泊しているかナポリでは誰も知らなかったから、がっちりガードしてスタジアム入りしても、ファンの過剰な愛ゆえにそこでトラブルが起こるかもしれない。こうしてピーノはまだ街が眠っているうちに、夜明けとともにスタジアム入りしていたんだ。ローマからやって来て、一日じゅう楽屋にいた。知らされていたのはぼくたちとごく一部の内輪のみ。

その日、ぼくは楽屋に入ることを許された3人のうちの一人だった。そして、これから起こることについてを除けば、なんでも話し合った。いつものように、ピーノは深刻になりすぎないようにしていたけれど、それは伝説になってしまっていた彼が、その伝説ならではのことをする時に、いつもやっていたことなんだ。ステージに上がったとき、ぼくはピーノの横にいて、ピーノを見ながら、観客たちがこのアーティストにこれ以上ない愛情を注いでいるのを目の当たりにした。ほんとうに歴史的で、こんなの見たこともない、というより二度と見られるものじゃないと思った。絶対に忘れるなんてできないことだった。まさにナポリは、ピーノ・ダニエレのなかに自らを見たんだ。仮面を通してではなく、リアリティや詩情によってナポリを価値化できたこのアーティストのなかに。ナポリをステレオタイプから解き放ってくれた、カルチャーやヒューマニズムを失うことなくナポリを現代に導いてくれたこの男のなかに。ジャマイカにボブ・マーレーがいるように、ナポリにはピーノ・ダニエレがいる。だけどナポリの人たちはナポリの人たち、ナポリはナポリだからこそ、すべては増幅され、すべてはより大きく、より複雑に、よりやかましく、より燃えたぎり、より言葉にならないものがなっていった。

このコンサートのあと、ぼくたちは本物の友達になった。たとえあの日のことを書いたものが明らかにピーノについてだけだったとしても、ぼくたちは歴史の一シーンをわかちあったんだ。連絡をとりあったり、いっしょに音楽をし続けていた。そして会うたびに、なんでも笑いあった。

この頃、彼もぼくもちょっと前から付き合ってる女の子がいて、かわいい彼女たちにもう夢中になっていた。そしてツアーのあと、 カップルから家族になるっていう時間もまた共有していて、こうしたこともまた、ぼくたちをつよく結びつけたものだった。

何ヶ月か前に、ピーノは心臓発作をおこしていて、健康には注意しなきゃいけなくなっていた。ぼくは不摂生とかする方じゃないから、ぼくがつきあうことで、彼にとっていいように、冠静脈に負担かけるような誘惑もなくリラックスして過ごせていたんだ。とにかく一緒に音楽をした。音楽の話をしたし、音楽を聴いたし、音楽の計画をたてた。ぼくがほとんど始めたばかりのコンピューターの新しい音色に、彼もまったく初めてながらも興味をもって、ポップスの可能性を感じていた。ナポリ方言をちょっと抑えた曲を書きたいと言っていた。ぼくに話していたのは、イタリア北部のラジオ曲でももっと曲をかけてもらいたいこと、もっとたくさんの人に届くようにね。バリアを壊すために、偏見をこっぱみじんにするために、時代はかわりつつあって、彼の使命はいつだって新しい人たちと新しいものにチャレンジすることにあったんだよ。彼を有名たらしめてたものに執着なんてしないんだ。彼は20年ものあいだ斬新なコード進行を研究してきたけれど、いまはラップにもすごく惚れこんでいたんだ。一曲のなかに和音が二つも使われてたら多すぎだよってジャンルに。

ピーノは、なんてアンビリーバブルなミュージシャンだったんだろう。ネアンデルタール人のような大きな歯をしていて、巨大な新生児のように生命力にあふれていた。まさにまんなかに傷跡があったから、傷のついた用心棒みたいな胸をしていた。おいしいもの、とりわけメインディッシュのメニューに「フリット(*揚げ物)」って書いてあるやつが大好きだった。ひとたびギターを手にすれば、ファルファッレのなかでしか見たことがない軽やかさがあったけれど。だって、もし即興でなにか奏でてたとしても、美しくない音色のシークエンスをつくるなんて、彼には絶対できないんだ。これは断言できる。絶対できやしないんだよ。いつでもギターの練習をしていた。ギターの練習も、ギターを愛おしむことも、その指先でぼくたちを踊らせることも、さもなきゃ拳で叩くことも、決してやめなかった。ひとたびギターを抱えれば、その完璧な形は、だれ一人としてそのなかに入らせなかった。均衡のとれた宇宙であり、象徴的十字架だった。大げさなことを言ってるつもりはないよ。ピーノはギターを抱えていなければ、不完全なんだ。そして、あの骨太の体からでてくる、天然のファルセットについても話をしようかな? たくさんある美しい歌の歌詞については? なんでかわからないけど「Putesse essere allero (*potesse essere allegro)」が頭に浮んだ。この曲で、ぼくはナポリ弁をすこし覚えたのだけど、もっというと、大衆文化においても「詩的芸術」は成しえるってことを学んだんだ。

Putesse essere allero e m'alluccano  
dint'e recchie
e je me sento viecchio
putesse essere allero cu mia figlia mbraccio
che me tocca 'a faccia e nun me' fa guardà

陽気になれたら みんなが叫んでいる
耳のなかまで
ぼくは年寄りになった気がする
陽気になれたら 腕のなかの娘は
ぼくの顔に触れて 見えなくしてくれる

ぼくたちは友達ではあったものの、彼の才能への敬虔のすべてを一秒たりとも脇に置くことはできなかった。いつでもぼくに強い影響を与えてくれて、一緒にいるときよく言われのがぼくの一部になっている。「よう、ニイちゃん、ピーノだよ。ほっぺたどうしたって?冗談だろ?ue guagió, chist'è Pino Daniel'...te rendi conto còcchi stai a pazzià?(*ciao giovanotto, questo è Pino Daniele...ti rendi conto gote stai a scherzare?」

ピーノの音楽こそ、高校生のぼくを解き放ち、照らしてくれた。そしてピーノの友情が、大人になったぼくをミュージシャンにしてくれた。ぼくの潜在力を信じて、ぼくが成長できるって可能性を信じてくれたんだ。
ここしばらく電話もしていなくて、去年の9月にヴェローナ・アリーナでのコンサートのゲストにでないかって誘ってくれたんだけど、そのときぼくは遠くにいてそれは実現できなかった。先日の大晦日にテレビをつけたらライ1の番組に彼がでて歌ってたんだ。話したくなって、この2、3日のうちに電話しようって思ってた。「チャオ、ピー、元気にしてる?また会おうよ!このところちっとも話できなかったじゃないか」って。それから今朝になって、起きたらラマッツァからメールが来てたんだ。「ピーノが死んじゃったよ、兄弟。おれはパニクってる」

ピーノ・ダニエレは、とてつもないアーティストであり、まさに巨人だった。時代ができることは、音楽に対する、そして私たちの国の文化に対するピーノの計り知れない重要性を確固たるものにするほかにないだろう。ナポリは、息子をうしなってしまった。まちがいなく戦後最大のミュージシャンである息子を。もちろん全時代を通しても、もっとも偉大なミュージシャンの一人だと、ぼくは全力で言い切れる。

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(下記の動画は、94年の3人Pino Daniele, Jovanotti, Eros Ramazottiのツアーライヴ映像ではあるけど、話題に出てるナポリのではないようです。雰囲気的にどうぞ)