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週末の余談⑧ 「This is it」

ファンの望みは、日常を忘れる体験だ。
未知の領域に連れていこう。
未体験の才能を見せよう。

これは、マイケル・ジャクソンが最後の公演とも言われていたロンドン公演を控え、リハーサルの最後にプロデューサーに促されてスタッフ全員に話しかけたコメントの一部です。(ドキュメンタリー映画 “THIS IS IT”の日本語の字幕より)

プロデューサー感覚がある言葉だなあと感嘆しました。
この“THIS IS IT”は、記者会見でのニュアンスは、「これが最後だ!」に近い意味と説明されています。

リハーサルでは、それぞれの曲の発表当時の音や演奏、演出に拘っていて、「これこれ、まさにこれ」といった意味にも感じられました。
「This is it」には、どちらの意味もあるようです。

また、This is itには、「さあ、いよいよだ」という意味もあるそうです。

この映画を通して、マイケルジャクソンは、入念な準備を行い本番に臨もうとしたのが良く分かります。
皆で一緒になって創り上げていこうと(プロデュース)するプロセスは、興味深く参考になりました。

最近、プロデュースするという言葉が広く使われ一般的になっています。
英語の意味にはあまりない、「クリエイティブに作品を制作すること」が日本語には含まれています。

プロデューサーとは、どんな職種なんでしょうか?プロジェクトチームを目標に向かって導く役割を果たすのがプロデューサー。プロジェクトリーダーで良いのに職業として捉えるとプロデューサーになります。

現在、どんな組織でもプロジェクト型チームが多くなりました。
選抜された人によりチーム編成し、具体的な成果目標を明確にして、期限を区切って実施した方が、効率的で人材育成につながると考えられています。
プロデューサーは、プロジェクトの総責任者として、企画立案、資金調達・予算管理、チーム編成・人事管理、制作の進行・管理、広報プロモーションなど、全てに関わります。従って、プロデューサーは経営感覚が求められると言われてきました。大局観をもって全体最適の判断が出来なければ務まりません。

私も、プロデューサーにあこがれました。
どうしたらなれるんだろうとも考え、プロデューサーご本人に聞きました。

小谷正一 伝説のプロデューサーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E4%B8%80

同じ毎日新聞出身で、井上靖の芥川賞受賞作「闘牛」のモデルでもある。
プロデューサーとして一人前になるにはどうしたら良いかという私の問いの答えは、「血尿を3回流してからだな」と、言われた。
プロデューサーは、黒子であるべし、「黒子は、花道つくりて華を見ず」が信念。各界の著名人が発起人になって日本プロデューサー大賞を制定した。当初、小谷正一賞と命名する案があり当人に打診したところ、固辞した。ご本人に理想とするプロデューサーは?と問うと、安芸の宮島に海の中に鳥居を建立した人とのこと。名前も残さず、その後の地域経済支えてきたことが凄いと語った。
人を動かすことが仕事だから、人に興味を持ち、まず観察すること。
新しいモノ(製品、ビルなど)に興味を持ち体感してみることが大切。

服部庸一 オリンピックやサッカーW杯の現在のベースを築いた方https://dentsu-ho.com/articles/3430

https://dentsu-ho.com/articles/3431

会うたびに、どんなことに興味を持っているのか?どんな企画を考えているんだ?と問われる。社会動静を把握して新たなアイデアを常に考えていることの大切さを学ぶ。時代を読み、時流に先んじることの重要性を常に示唆され、考えさせられる。下請けの仕事ではなく、共にプロデュースする仕事を心がけよとアドバイスされる。

後藤達彦 TVプロデューサーhttps://www.mercari.com/jp/items/m78902578144/

進行管理、時間に厳しく、事前準備は念入りに、徹底。
プロジェクトに関わるチームメンバーが、情報共有することも徹底。

多くのプロデューサーとご縁がありましたが、薫陶、感銘を受けた3人の方々です。

我々も、入念な準備により万全の態勢で、大会に臨みたいものです。
「素人は本番で頑張ろうとするが、プロは準備に余念がない」とも言われます。
一人ひとりが、プロデューサー感覚をもって総合的に最適な判断が出来るよう皆で一緒にプロデュースしたいですね。7月の大会前には、皆で一緒になって声を大にして叫ぼう!

This is it!(さあ、いよいよだ)

2020年9月2日


追記
(1)小谷正一氏とのエピソード
 プロデューサーについて、小谷氏から自らの経験をもとに何度も語ってくれたことがある。小谷氏は早稲田大学を卒業して記者志望で毎日新聞に入社する。配属されたのは事業部で、同期入社のメンバーが事件現場を走り回っている頃、事業部の新人の仕事は今でいうDM用の封筒貼り作業だったらしい。悔しいやら空しいやら、そんな状況が2年間続く。転属願いを出したものの実現しそうにない。3年目を迎えるにあたり、今年一年頑張ってみてダメなら辞めようと心に決め、あいつも良く頑張ったなと言ってもらえるところまで、何でも引き受けてやってやろう。先輩連中は、それならばと、どんどん仕事を振ってきた。冬場を迎える頃、疲れが溜まっていたのか、風邪をこじらせ寝込んでしまう。2~3日休むと、下宿先に皆が押しかけて来るようになった。全て分かっているのは自分だから聞きに来た。自ずと指示するようになる。「君、これだよ、これこれ」禅問答のようなことを言う。
何でも経験を積み、その立場の人が何を行いどう思いながら仕事を進めているのか把握できていることが大切だということだろう。要するに、プロジェクトの全ての業務を経験し把握しておけば、各担当に的確な指示が出せる。
 私がこれまで経験したことのない新しい仕事に取り組むべきか、迷って相談したところ、遠慮せずにチャレンジすべしと勧められた。野球で外野フライを取りにいってキャッチできればファインプレー、取りに行かなければ、ただのポテンヒットでしかない。行動して結果を出した者が勝ち。禅問答のように諭された。
 新しいモノには興味を持ち、体感した方が良い。新しいビル、新製品など社会の動きを常にウォッチしておくこと。その時代の新たなコンセプトが込められており、トレンドが判る。
 小谷氏は1979年の大阪万博のプロデューサーを務めたが、当初は何も分からず悩んだ。それなら前に開催されるモントリオール万博を見てみようと行って帰ってきたら、専門家に祭り上げられた。世の中そんなもんだよ。ただし、何を見てチェックするか重要で、観に行けば良いというもんじゃない。
悩み深く考え抜いていたかが、問われる。
 そう言われて、カンヌ映画祭の視察チームに加えていただき見てきたが、今思い起こすと深く考えていたか疑わしい。視察中、小谷氏から君はメモを書いているのを見たことがないが、書いているか?と問われた・・・?。

「国際事件記者」大森実、「日本のバルザック」山崎豊子の作品を私は愛読していたこともあり、二人の作品の背景や人となり等逸話を、話していただき私にとって刺激的であった。井上、大森、山崎とも毎日新聞出身。
 1966年に国交回復前の中国への26日間の視察(大宅壮一団長、大森実、梶山季之など作家やジャーナリスト)に随行した小谷氏からの話の中で強く印象に残ったのは、視察に参加した誰もが移動中の列車から観る風景を細かくメモしており無駄口を叩く人はおらず、プロ中のプロだった、との話。
 不毛地帯を書き終え脱力感も伴い作家をやめても良いとの思いを吐露した山崎氏に、第二次世界大戦後に苦しんでいる人々を取り上げるべきテーマは未だあるよ、とアドバイス。その結果、書き上げたのが「二つの祖国」と「大地の子」で、小説もプロデュースしていたことになる。
 
(2)服部庸一氏とのエピソード
1970年の大阪万博では「お祭り広場」は別組織で運営された。その別組織の代表は渡邊美沙氏(ナベプロ)、催事企画・タレント招聘は服部氏(電通)、管理部門は芹田貢氏(フジ産経グループ)のトライアングル体制。その芹田氏から私のことを頼む、アドバイスしてやってくれと頼まれたこともあったからだろう、何かと気を遣っていただいた。
 ロサンゼルスオリンピックの関わり方や裏話を聴いているタイミングで、共に取り組んだロサンゼルス支局のジャック坂崎氏が来日していて服部氏より紹介され、詳しく説明を受ける機会もあった。坂崎氏は、服部氏は見かけと違って繊細な人ですよと耳打ちされ、ロスと東京本社との連携にも苦慮し心配りしていた。単独で判断して行動することは決してなかった。だからこそ、上手くいった。当時のマスメディアの書きぶりは、服部氏が独断専行したという書かれていたので、私はそのイメージを強く持っていた。
また、ある時訪ねたところ部屋が移動し小さな部屋の表札には「ISL」という文字があった。聴く術もなく、他の話をしていると、君はサッカーに興味があるか?と聞かれた。強く興味がありますとは言わず曖昧な返事をした記憶がある。後で判ったことだが、電通がサッカーW杯に組み込む端緒だったと思われる。少しでも動静を理解していれば、裏話等聞けたはずなのに残念ながらサッカーの話は素通りしてしまった。私の興味関心、問題意識のアンテナの低さを露呈する出来事でもあった。

(3)後藤達彦氏とのエピソード
初めて仕事を一緒にした際、NHKホール地下ロビーで打合せがあり私は遅刻した。私はその前に先約があり、打合せ開始時間に間に合わないかも知れない旨は伝えていたが、結局20分程度遅刻した。NHKホール正面玄関に迎えのスタッフがおり、「あんたを呪うよ。後藤さんが時間に厳しいことは知っているだろう!」と小走りに移動しながら厳しく叱責される。打合せの場所では後藤さんは腕組みして仁王立ちで厳しい顔をしていた。他のメンバーは、座ったまま俯いて顔を引きつらせている。私の顔を見ると後藤さんは、何も無かったかのように打合せの会議は始まった。
私の担当は、プレスセンターの運営と海外渉外だったので関係がないと言えば無いという状況だったが、声が掛かれば興味本位で何でも首を突っ込んだ。後藤さんは、私の担務は無いが何か役立ちそうだという思いがあったらしい。このイベント名は、第一回東京国際映画祭。NHKホールでの打合せは開会式で、関係者が緊張した面持ちだったのは今思い返せば無理もない。
実は、本番当日に映画祭事務局長の所在が不明となり、開会式の進行や運営について把握できていた私が陰で動きバックアップしたポイントがあった。事務局長はイベント経験がなく、プレッシャーでNHKホールの倉庫に一人潜んでいたことが後に判明するという事態だった。
またウェルカムパーティが、東京プリンスホテルで開催され、テレビが生中継で放映。演出も凝っていて、海外の映画スターと日本の三船敏郎などトップ映画スターがレストランでマッチングして、ホテル裏手に用意したオープンカーに乗り込み、正面玄関では映画評論家の小森のおばちゃんと片岡鶴太郎が出迎えてインタビュー、パーティの司会進行はタモリと明石家さんま、沢口靖子というキャスティングだった。(司会進行の2人タモリとさんまは大失敗だったと自虐的にしばらく言っていた)ところが、それぞれスターがレストラン会場にそろったにも関わらず、テレビ局のディレクター他スタッフが誰もスタンバイしていない。私は海外渉外担当でもありそのレストランで、出席予定のタレントの到着を確認している状況だったが、配給会社の女性役員の方が見かねて大きな声を張り上げる。「あなた進行は分かっているんでしょ、あなたやりなさい!」
我儘なスターたちは、シナリオ通りのペアリングではなかったが、オープンカーに何とか乗り込ませることが出来た。と思ったら主賓の一人、ジャンヌ・モローが来ていないことが判明。彼女はホテルの一室を借りて準備していたが、メイクに手間取りこれからレストランに向かうという。オープンカーは使いきっており来てもらっても、車はもう無い、足りない。機転を効かした私は、我が社の社長の車ベンツに乗せることにして事なきを得た。断りもなく誰かを乗せることを禁じられていた運転手を口説いたが、後で知った社長は、ジャンヌ・モローが乗ったということを自慢していたらしい。
 映画祭も終了し後藤さんの事務所を訪ねたところ、感謝されると共に、「これもリスク管理の一つかなあ」とニヤリと微笑んだ。

※私が、何でも興味関心を持ち、関われたのも優れたプロデューサーに乗せられた結果でもあり、その方々の手腕でもあった。

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