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①それはOSARTから始まった

 国際原子力機関(IAEA)運転安全評価チーム(OSART)による査察は、1992年3月22日から4月10日の期間、東京電力福島第二原子力発電所において、日本国内で初めて実施された。
 前年の1991年10月に東京電力 総務部長より連絡があり『専門的な対応は技術部門が行うが、それ以外のロジ関係については総務部が担当することになり、準備に取り掛かり始めた。相談したい。』とのことだった。総務部長が新エネルギー財団に出向している際に我々の存在を知り、今回の協力依頼に至ったようだ。
 話を聞くと、『初めてのことでもあり会社としても重要なプロジェクトと位置付けている。査察評価によっては、今後の原子力発電開発に大きな影響を及ぼす恐れがある。査察チームが何名で来日するのかも未定で、おそらく5~10名だろうと思うが、当該チームがスムースに作業できる環境を整備したいと考えている。ロジ関係において懸念される状況としては、原子力発電所そのものが人里離れた場所に立地しており海外からの賓客を長期間に渡って受け入れた経験が乏しいため、その対応に苦慮している。準備段階において何から手を付け、どう対応したら良いか、相談しながら進めたい、アドバイスが欲しい。』とのことだった。
 『食事、宿泊、交通輸送から始まって、全ての面において受け入れ態勢をチェックし準備したい。例えば、発電所内の食堂の料理担当は、帝国ホテルといった一流ホテルでの研修も考えている。また、宿泊ホテルについても、要件を整理し適するホテルがあるのかどうか、週末や余暇時間の対応をどうするか?レクリエーション施設として適合する施設があるのかどうか?』
 本査察の趣旨を鑑み、最終的には発電所を挙げての社員対応とするべく我々は、あまり表に出ることなく黒子として機能することが求められた。
 実施計画書と運営マニュアルの作成が考えられたが、まずはチェックリスト、全体スケジュール素案、運営マニュアル目次案を作成し、現地発電所担当者との打ち合わせに入った。それ以降、ほぼ一週間に一度打合せを行うため、上野駅から富岡駅までの特急スーパーひたち号を利用しての出張が始まった。
 準備期間中の印象的な出来事を記しておきたい。
①第二で良かった、第一だったら大変だったはずだ。多くの職員の方から内々に聞いた話だった。第一は、GM中心のアメリカからの押し付けの技術が多く、日本の会社と上手くかみ合っていないんだ。第二なら日本の企業群で仕上げているから、そんな懸念はないんだよ。
②発電所前の海には温水を流しているが、立ち入り禁止区域内となっており、誰も漁をしないので魚介類が豊富でおいしいんだ、という話をよく聞いた。
③準備期間中に職員の方の運転で広域にロケハンして回ったが、地元への地域振興策が行き渡っているエリアは、直ぐに判別できた。道路等が良く整備され、公共施設やパチンコ等の遊興施設も充実していた。原子力行政を垣間見るシーンでもあった。発電所でトラブル等が発生し地域住民の方にご心配をおかけするようなことがあれば、菓子折り持って戸別訪問して説明し理解を得るのも、地域で運動会や祭りがあったら率先して地域の人の中に入って親睦を図るのも我々の仕事ですと、しみじみと語る職員の方の姿が印象的だった。
 OSARTは無事終了した。査察評価は、一部改善点を指摘されたポイントがあったものの、概ね高評価だったようだ。経営幹部からも労いの言葉が多く寄せられ発電所全体が安堵感に包まれた。関係者から我々にも多くの感謝や労いの言葉があった。この達成感を共有できたことからだったのか、OSART終了後もしばらく発電所関係者との交流は続き、所長からは定年終了後も時々連絡があり、お付き合いがあった。

上埜ヒデユキ「福島第一原子力発電所」
 

復興支援 
 東日本大震災が、2011年3月11日14時46分頃に発生。三陸沖を震源とするマグネチュード9.0の地震だった。私は、地震発生時は明治記念館近く(権田原交差点)の路上でタクシー乗車中だった。当初、タクシーが縦にバウンドし始め三半規管がおかしくなったのかと思い、揺れが地震によるものと分からず、交差点信号機の揺れを見て地震を確信した。タクシー運転手にラジオをつけてもらい状況を確認。これは只ならぬ事態ではないかと判断して、タクシーを引き返し帰社。しばらく余震が続いたが、社員にはしばらく社内に留まるよう指示。ラジオの臨時ニュースで余震がおさまるとの速報を確認して社員を屋外に退避させる。1時間後には余震もなくなり社員も社内に戻るが、携帯電話の繋がりが悪くなっており、社員には家族に安否確認連絡を積極的にするよう促す。その後、近くのコンビニ等に食料の買い出しに行かせるが、宴会のおつまみ程度のものしか買ってこず、愕然とする。緊急避難時に何が必要なのか、頭になかったようだ。テレビでは、津波が押し寄せた映像が引っ切り無しに流れている。夕方近くからは、各地で発生した火災状況が刻々と報告されテレビでは赤々と燃え上がる映像が流されていた。その日は、会社内で一夜過ごすことを前提に私は考えていたが、オフィス前の青山通りでは歩いて移動する人々でごった返していた。全ての社員が深夜までに歩いて帰宅することを希望。危険なので社内に留まるよう説得したが強く希望するため、自宅に到着したら私に連絡することを条件に許可する。最後の社員から帰宅の連絡があったのは、午前3時半頃だった。午前8時頃だったろうか。地下鉄が運行しだしたので、私も外苑前駅から帰宅。車内アナウンスでは、電力の省力化のため空調を止めていることの説明があった。車両には座席の半分くらいの乗車率だったが、ほとんどの乗客がどこかで一夜を過ごした様子で疲れ切った表情だった。また、社内の匂いは、これまでに感じたことのないものだった。
 大地震の発生、津波襲来後の被害状況は、12日、13日と時間が進むにつれ明らかなものとなり、かつてない大災害であることが認識された。
 3月12日5時44分には、福島第一原子力発電所では1号機の圧力上昇等を受け、政府が半径10km圏内の住民に避難を指示した。1号機ではベントが試みられていたが、同日15時36分、1号機の原子炉建屋で水素爆発が発生した。この瞬間の様子は、福島中央テレビが福島第一原発から約17km離れた富岡中継局に2000年より設置していた情報カメラが撮影していた。その映像によれば、1号機から火炎を視認できない透明な爆発と同時に地面を這うような白煙が広がった。この映像は世界に配信されたものの、発生当日に国内で放送されたのはNNNのみであった。この爆発を受け、同日18時25分には、避難対象区域を20km圏に拡大した。
 この大震災の復旧支援ボランティアとして、活動したいとの思いは強かったものの、自社の経営対応にほとんどの時間、エネルギーを取られ、それどころではなかった。震災発生半年後の秋頃になってようやく落ち着てきたので、状況把握に務めた。ボランティア活動にも参加したが、東北に支援人材を送り込むため現地でのボランティア活動とは別に、都内で支援団体の説明会が行われていることも知り参加した。地元の支援活動団体だけでなく、関東周辺の団体が積極的に活動していることも知った。多くの団体、関係者が復興支援に関わっていることに感銘を受け、やはり日本は素晴らしいなと実感した。
 多くの団体、関係者にヒアリング、面談を繰り返した。私のこれまでの経験からだろうか深掘りして分析し始めると、全ての団体が純粋に支援活動しているとは思えない状況が見て取れ、懐疑的になった。既にメディアでも取り上げられていたが、支援金や補助金等の悪質な使途だけではなかった。 ある市町村では、補助金を任意団体に直接提供できないため、わざわざNPO法人を立ち上げてスルーさせる仕組みを考えたようだが、どう考えても無駄とした思えない。震災前は経済的に苦しかった状況をこれを機に挽回しようと単に補助金欲しさにアプローチしているとしか思えない団体もあり、その争奪戦が起こっている実態も見えてきた。その補助金を割り振り調整するNPO法人まで存在することに愕然とした。
 メディアに数多く取り上げられている人物にも注目し機会があれば面談も行ってみた。震災発生時に東北にたまたまいた人、あるいは発生後駆けつけて被災者支援を精力的に行い地元の方々の信頼を得た人など様々ではあるが、大丈夫かな?と懸念する人がいたのも事実だった。震災発生時の混乱期から徐々に落ち着いてきたとは言え、被災者支援がメインであるはずなのにメディアに出過ぎではないか、方向性が違ってきているのではないか、ましてやあなたが主役ではないはずなのに・・・そう思ってしまう人が結構いた。面談時にそういったことを投げかけてみると、決まって『被災者、被災地の実情を知ってもらうためと敢えて我々が代わりにお知らせしている』とのコメントがあるが、言葉とは裏腹の野心が私には透けて見える。そういった人物と純粋に被災者支援を行うため、これまで勤務していた組織を退職してきた人、海外勤務を投げ打ってチームに加わった人等と、現場で軋轢が生じているとの話も多く聞いた。これも巨額の補助金が生み出した復興支援活動の裏面でもあった。メディアもじっくり取材し、もう少し深掘りした発信をしてほしいもんだとも感じたが、メディア取材クルーの現場での動きを見ていると安直な取材で、注目を浴びている人物へのインタビューを済ませてサッと切り上げていく姿をみると、空しく感じることも多かった。
 復興支援に取り組む多くの人の中で問題意識を共有できると感じた担当者には、私が見聞きしてきたことを率直に話し意見交換した。そんな一人に内閣府NPO法人ETICの担当者がいたが、その彼から思わぬ相談、打診があった。それは、農業の6次産業化に取り組むテーマパーク的な東北復興プロジェクトが計画されている。地元経済界から10億円近い拠出もあり若いプロデューサーを中心に準備が進んでいるが、現場を統括する支配人となる人材を探している。そのプロジェクトに加わり、対応してもらえないか、私への報酬も復興支援としての金額ではあるがETICが負担する予定だとの内容だった。簡単な資料(パンフレット)に目を通すと主旨や方向性に共感する内容で興味が湧いてきた。とりあえず受諾する前提で、そのプロデューサーと連絡を取り合った。震災から一年となる2012年3月11日には、追悼式も含めてイベントを計画するエリアで行うというので、私も出向いて参加した。本プロジェクトの中心的な存在である俳優の伊勢谷雄介氏や彼の東京芸大時代の仲間も参加していた。建築設計は彼らが行うことになっているとのこと。オープンは一年後を予定しているというので、実施設計、実施計画内容についてヒアリングしたが、具体的な説明を聞き出すことができない。農業の六次産業化と言いながら、単にこれまである産地の素材をかき集めてレストラン、食品街を形成するとしか思えないような説明で、スタッフとイタリアに取材旅行に出かけてきたという。それは単に、現在仙台市内で彼が運営しているベーカリーのための取材、少し穿って見れば遊興旅行としか思えず、どうも財務管理も曖昧ではないかと感じた。私に主導権を握られること、これまでの経緯等詮索され掘り起こされることに警戒感を持っているようだった。私からすれば、これまでの事情が分からず状況を把握出来ぬまま、支配人を受諾することは、本プロジェクトを支えている方々に大変失礼だという思いがあった。民間の一企業を立ち上げる話ではない。復興支援として、幅広い影響力をもたらすであろうプロジェクトと認識していたからだった。 そんな折、元経産省幹部で東北経済界に詳しい方から偶然にも連絡があり、本件について話をしたところ、しばらくして連絡があった。地元の方に連絡を取りヒアリングしてくれたようだった。地元も期待していると同時に進め方等について懸念しているようだ、果たして上手くいくんだろうか、このままでは私が加わった場合には詰め腹を切らされることになるのではないか、従ってプロジェクトに加わることには慎重に考えた方が良いのではないか、との意見だった。私も、同様の考えであること、熟慮していることを伝えた。
 しばらくしてETIC担当者から連絡があり、プロデューサーが私の報酬額について私から提示された額は払えないと言ってきたとのことだったが、どうもおかしい。彼からは、一般論として今回の支配人としての報酬額はどのくらいが相場なんでしょうね?と、聞いてきたので幅を持たせて相場観を伝え、今回は復興プロジェクトでもあり、相場感は関係ないでしょうと伝えた。それを彼は、私がその報酬額を提示したと詭弁、これは彼の排除の論理でしかないと思い憤慨し呆れた。これでは信頼感を築き一体感を醸成することにはならない。先方から是非一緒に取り組みたいという連絡がない限り、私から連絡しないことにした。組織内部のトラブルや対立があることを前述したが、まさに私の実体験でもあった。損害賠償 政府は、福島第一原発事故による避難対象地域を指定し、10万人以上の住民が避難したと言われている。原子力発電所における深刻な事故は、1986年4月のチェルノブイリ以来で福島第一原発事故の2つのみで、廃炉が既に決定。2012年4月以降、放射線量に応じて避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域に再編され、帰還困難区域では立ち入りが原則禁止された。2014年以降、一部地域で徐々に避難指示が解除され、避難指示解除準備区域・居住制限区域では2020年3月に全て解除されたが、帰還困難区域では一部地区を除き避難指示が続いている。
 OSARTで福島第二原子力発電所と関りがあったこともあり、事故発生時から私の心痛や興味関心は大きかった。事故から6年ばかり経過したタイミングで、損害賠償業務に関わる機会があった。東京電力社員は、本業務には必ず対応する全社的な人事体制となっていた。損害賠償の開始当初の時期から比較すると落ち着いて来ているとは言え、業務の性質もあり根底には張り詰めたものがあった。勤務場所は東京ビッグサイトに近隣するビル、その後内幸町の(私が10年ばかり勤務したオフィスがあった)日本プレスセンタービルに隣接するビル内にあったが、表札もフロア図の表記もなかった。 損害賠償請求は、現地の拠点事務所で原則対応するが、内容の審査は東京サイドで行っていた。損害賠償の指針や基準は政府内で協議・決定され、個人、企業、地方公共団体(地公体)の3つのカテゴリーに分かれて審査を行う。私自身は漸く業務に精通してきたと思っている頃に、地公体カテゴリーに配置換えがあり、内幸町に移った。地公体カテゴリーは、3グループに編成分けされていたが、しばらくして3つあるグループの一つのグループリーダーを任せたいとの打診があった。グループ運営の手法に多少疑問があったこともあり、改善の余地ありと考えていたので受託した。2週間ばかり経過した頃、私が担当するグループの雰囲気が改善され生産性が上がった為、周囲から私のマネジメントが注目されるようになった。
 責任者からマネジメントのポイントを会議や朝礼等で機会を作るので、話をしてくれないかと打診があった。口頭で短い時間内で要点を伝えられるテクニックを持ち合わせていないので難しいと伝えたが、是非お願いしたいとの強い要請もあり、メモ等で伝えるならば可能と考え、関係者にメール送信した。その一端を今後紹介したい。