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後悔からはじめよう。

POOLOを活動的に取り組み、楽しむことができたのは5月からだった。空白の4ヶ月、特段仕事が忙しいわけではなかった。

それなのに、なぜスタートダッシュが遅れたのか、反省の意味も込めて振り返りたい。

結論はこれ。

満足を得るためにPOOLOへの期待値を下げ、低いコミットを自分に許可したから。

弱いなぁ。

後悔することが怖いからって、先に予防線張ってしまってる。残念。

POOLO卒業の時期は、POOLOの卒業が差し迫っていて後悔が食らわしてくるダメージが強いので、後悔をするのをやめといた。避けといた。

卒業noteも、ぜんぶうまくいった風、というかあまり自分に向き合わずにやりすごした。(やりすごすという意識すらないけど)

卒業してから1ヶ月弱が経ち、ようやく後悔ができるようになってきた。

時間は心のクッション。時間よ、ありがとう。

もう一度言う、POOLOの最初の4ヶ月の間、影を潜めていた理由は

「満足を得るためにPOOLOへの期待値を下げ、低いコミットを自分に許可したから。」

じゃあ、満足を得るために期待値を下げるってどういうことか。

まず、15万円ほどの自己投資をすると決めるにあたり、その判断を後悔したくなかった。
(ここまでは普通かな。)

そこで自分が出した後悔しない方法は、「POOLOへの期待値を下げること」だった。

具体的には、山口周さんと太田尚樹さんの講義を聞ければ満足。というゴール設定に落ち着いた。

POOLOで大活躍した人のnoteを見ると、どれだけマインドセットに差があるか、笑えてくる。悲しい。

(厚かましいけど、このnoteはPOOLOを始めるマインドセットとして必読書として薦めたい)

「後悔しないために頑張る」のは、正攻法なんだと思う。

にもかかわらず、そんな正攻法すら最初から挑めなかった。

理由はひとつ。

頑張りたくない。

基本的に頑張るのが好きでは無い。
というよりはがんばらない姿勢が板についてしまっているからだ。

POOLO初期に掲げた自己ビジョンがそれを如実に表している。
「日々楽しいことをやっていこう」
なんとも浅はかな。

以前よりは、「頑張る」価値を認めているので、頭では「頑張る」を是とするし、頑張りが必要なことももちろんあると理解している。(まだこれの解像度は低いけど)

ただ、思考の癖や行動においては長年のがんばらない癖が出てきてしまうのだ。

頑張りに対する苦手意識・拒否反応が出るのだ。

あまり頑張ることを重視していない価値観を持ってて、
しかも、頑張ってよかったという心理的な価値もそんなに染み込んでない。

価値観をもうすこし具体化すると、
「頑張る」自体には意味が無い
と思う節があるように思う。

頑張るのは自己満足のためであって、結局は頑張るか頑張らないかは関係なく、結果が出ればそれでいいんでしょ?って思う。

すごくドライに見えるし、完全なる結果主義タイプではないと思うけど、
自分に対して矢印を向けたとき、頑張るだけじゃねぇ…と、思っちゃう。

そしてもうひとつ、頑張りは必要ないとも思ってる。

頑張りが必要ってことは、向いていないんじゃない?
向いていないことをやっても無駄で、頑張らなくてもできる向いていることをやったほう良い。そう思ってる。

向いてる向いていないは、結果を出せる能力があるないというよりは、楽しめる能力があるかないかに近い。

向いているから頑張って苦しむようなことはなく、さらに結果もついてくるから、プロセスと結果の両面においてハッピーで最高じゃない?と思う。

頭ではこんな理屈をこねている。
では右脳的にはどう感じているのか。

心が先か、頭が先か、鶏と卵なような気もするが、

長い間、全力!とか気合い!とかいう精神論が、なんだかダサいと思ってしまっていたというのもある。昔ね。

これはなんとかしたいと思ってるけど。

いまは、全力なひとを見るのは素敵だなとは思う。

ただ、自分に向けて全力を求められると、応えられる自信はない。
頑張ることを求められると、楽しんじゃう世界に引きこもりたくなる。

余談だけど、
POOLO運動会は一応勝ち負けがある世界戦の遊びなんだけど、
「ちぇっこり玉入れ」という、踊り&玉入れという種目があった。

私の所属したチームは、アーティストが揃ってたのか、球を多く入れることではなく、踊りを美しくやることを目標に掲げた。

最高に楽しかった。
そこに向けて、全力で美しく、全力で楽しむことに徹することができたと自負している。

勝ち負けに異様な拒否反応が出るだけで、
だから頑張るは苦手だけど、
別の世界線で全力はできるのかも。

全力アレルギーは一部分は克服できてるのか。

振り返れば、ダンスを全力でやるのは体力的にしんどかったから、ある意味頑張ってた。

でも、頑張ってたと思われたら心外だ。

やっぱり、頑張るに込められた、「やりたくない」けど頑張る、「しんどい」けど頑張るっていう、マイナスなところに焦点を当ててしまってるのかも。

と思うと、「やる気あるししんどくないけど、さらによくするために頑張る」
という概念がきっとすっぽ抜けてる
んだろうな。

前向きに「頑張る」を使うなら、全然良い。
凄く良い。

「がんばる」使ってこか。

「頑張る」の漢字が、辛そうなのがだめなのかも。「がんばる」なら前向きな感じでいい。

どうでもいっか。

余談から変化の兆しを見つけてしまった。

余白って大事。ふふ。

未来は変わりそうだから、
せっさくなので過去を振り返りたい。

なんで、頑張るが嫌いになっちゃったのかってところを。

あまりやらない自己開示系。
勝手な挑戦ということで。

おそらく、これまでの人生で、

頑張って褒められた回数より、
無意識な行動の結果で褒められたことが多かったのではないかと思う。

出来ないことはたくさんあれど、目立つポイントは人並み以上にできたことと、井の中の蛙だったこと、その両方が理由なんだろうと思う。

例えば、中学校までは地元ののんびりとした校風もあり、誰しもが進学を優先している地域性でもなかったため、大した努力の結果でなくても、「勉強ができるね」とたたえられていた。

この後、井の中の蛙が大海を知ったのに、なぜか頑張りのエッセンスを得られなかった。

塾という別世界に触れ、
トップ高校と呼ばれる学校を目指す人たちだけが集まっていたクラスだった。

数学のテストで4点をとったり、ランキング表は下から数えたほうが早いという世界が目の前に現れた。

あまりの変化に、不思議なことが起きているなという印象を受けた記憶がある。

やるべき宿題をこなすことに一定のしんどさがあり、それを頑張ってやっていた面はあるが、
頑張っていい点を取りたい!ランキングで上位に行きたい!というふうにはならなかった。

根本的に、みんな頭がいい人たちだなあって思って、そこに努力で到達できるとは思わなかったから。

せっかく大海に出たのに、
「もっと努力すればいい」という思考が生み出されることがなかったのは
なんだか残念である。

目指したい世界がそこにあれば、
必死に理想と現実のギャップを埋めたかもしれないけど。(一旦、世界観の違いということにしとこう)

そしてもうひとつ、
自分には2歳下の妹がいる。これもひとつ理由かもしれない。

年嵩のアドバンテージから、当然、最初の段階では妹に比べていろいろできる。

だが、時間が経って、のめりこみがちな妹が自分よりできるようになることも多々ある。
そうなると、すぐに手を引くのが私の定石だったように思う。

オセロはやらない。太鼓の達人はやらない。

次々に、妹とやらないことが増えていった。

大人になって妹にきくと、
「いつも負けていた」と言う。わたしが勝戦しかしてなかったことなど知る由もないから。

そうやって、努力が必要な環境は避けて、有意である環境を積極的に選択してきた。

自分の選択の癖により、あまり努力が介在してこなかったということか。

過去の振り返りはこれまでにしよう。
前向きな「がんばる」を手に入れたのだから
今後の未来も安泰だと思う。(雑)

正直、「つらいけど頑張る」ことの良さはまだあんまりわかっていないけど、

もし、頑張りたくないからゴールを低くするという邪道が起きた時には、

「楽しむことを全力でやることによって高いゴールすらも対応できるんだ」と自分に期待をかけてみたい。

そして、つらい想いをしなくてもゴールに近づけるイメージをちゃんともっておきたい。

この意識、どれだけ持てるのか。
すぐ忘れてしまいそう。

実行には移せないかもしれない。

考え方を変えよう。

後悔したっていい。後悔してみよう。

急展開(笑)

まずはそこからか。

ぼんぼやーじゅ⛵️


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