チャックと稲妻
「先輩」
彼は無邪気にわたしのことをそう呼んだ。
「なに」
「先輩って意外とおもしろいよね」
あの頃のわたしはいつもすましていた。つんとした顔で彼を一瞥して、あなたの言葉はわたしの心に届いていませんよ、少しも揺さぶられることなんてないんですよ、という体を装う。
「きみもね」
その時も彼に借りた新世紀エヴァンゲリオンをすでに読み終えていたにも関わらず、まだ最後のページを開いたまま眺めていた。わたしが彼の話を聞くために本を閉じたと思われたら癪だからだ。
「おれと一緒にいると楽しいですか?」
「そうね」
「じゃあ結婚してください。子ども産んで!」
飛びついてきた彼はしっぽを振る大型犬のようだった。いつもは無口でクールな彼が、どういうわけかガンガンしっぽを振っている。すぐさま彼の体をひっぺがすが、彼の新しい一面を見られたこと自体は満更でもない。
とはいえ、わたしはすましているのだ。勿体ぶって丁寧に漫画を閉じて机に置いてから、碇ゲンドウさながら指を組み机上に肘を乗せて答える。
「無理」
しかし、彼はわたしの返事なんて聞いていなかった。なんならわたしの決めポーズも見ちゃいない。それどころかいつの間にか手にDVDを持っている。
「あ、漫画読み終わりました?次はアニメ観ましょ!」
強引で自分勝手で、犬っぽくてちょっと可愛い彼は、わたしがとっくに漫画を読み終わっていることに気付いていた。出会った頃から今に至るまで、彼はずっとそういう人だ。
「先輩は子ども何人欲しいですか?」
一度言ってしまえば恥じらいなどないのか、彼はことあるごとに求婚してきた。結婚する気などないと伝えてもふたりの関係は変わらないままだった。
「なんで子どもが欲しいの?」そうわたしが尋ねると、彼はわざわざキリッとした表情を作って「先輩のことが大好きだからです」と言った。ちょっと何言ってるかよくわからない。
実を言うと、わたしは子どもが嫌いだった。どう扱っていいかわからないし、空気は読めないし、自分本位だし、うるさいし。多くの人が言う〝子どもが欲しい〟という願望は、わたしにはおそろしく理解しがたいものだった。
(少し考えれば、それらの特徴はまさにわたしそのものなわけで、そんな事実に気付かないということも含めて、わたしは子どもだった。)
更に言えば、わたしは生まれながらに自己肯定感が低く、子どもの頃は特に生きるのが辛かった。人は悲しい生き物だと本気で思っていたし、こんな不幸な生き物を無責任に産み落とすことなんて出来ないと、得も言われぬ恐怖がわたしの心にこべりついていた。
欲しくない理由をひとつひとつ数えたら10はかたいけれど、欲しい理由はひとつもない。これが草野球だったらもうすでにコールドゲームだ。もともと勝ち目なんてなかったのだから気にするなと、わたしは彼の肩にそっと手を置こうとしたけれど、彼はそんな手をひらりとかわし、わたしを優しく押し倒して言った。
「先輩とおれの子、可愛いと思わない?」
なんて自由な男なんだ。わたしは驚いた。点差コールドなんてルールを知らないどころか、彼は鼻から得点板など見ていなかったのだ。もしかしたら彼にとっては勝負ですらなかったのかもしれない。
「先輩、結婚しましょう」
「先輩、結婚してください」
「先輩、結婚しよーね」
「ねぇ、先輩」
来る日も来る日も飽きずに彼がそう言うものだから、わたしはネガティブな思想を語る間もなかった。彼の前ではわたしのコンプレックスもトラウマもまるで歯が立たない。
「先輩が10幸せだったら、おれは12幸せなんですよ」
「わたしもうだいぶ幸せなんだけど」
「おれはもっとなんです。結婚しましょうか」
すましたわたしはもういなかった。いつだってわたしが泣きそうになると、彼が笑わせてくれた。わたしが笑うと、彼はもっと笑った。
自分では手の届かない背中のチャックを下ろしてくれるみたいに、彼は口笛を吹きながらわたしの恐怖心をひっぺがした。強引で自分勝手で、かと思えばこちらの準備ができるまで待っているような彼だから出来たことなのかもしれない。少し癪ではあるけれど。
そして、ある晴れた日に、彼はわたしの夫になった。
その子がわたしたちの元にやってきたのも晴れた日のことだった。わたしは母になり、夫は父になった。
ほにゃあ ほにゃあ
分娩室に響くと思っていた産声は思っていたより小さかった。
「女の子だね」と助産師さんがわたしの胸の上に赤ちゃんを乗せてくれた。初めて自分の娘を見たわたしは「うわ、わたしにそっくりで可愛くない」と思ったが、それと同時に夫が「可愛い」と呟いて、わたしはひどく安心した。このことはきっと死ぬまで忘れない。
3時間おきに全く母乳の出ない胸をひっさげ授乳室へ行き、痛む股を庇いながら慣れない手つきで授乳の手順を踏んだ。娘は分娩中に羊水を飲んでしまったせいか、他の赤ちゃんたちよりも浮腫んで、ミルクを飲む気配は微塵も感じられなかった。
何もかもが初めてで、事前に調べたことも大した役に立たず、守るべき命はこの世で一番弱々しく思えた。
ふと気を抜くと誰にも見えない大きな手が天から降りてきて、わたしを霧の立ち込める暗い谷底へ落とそうとするのだ。もうすでに周りもよく見えないのに。
日が差したのは、娘を産んでから3日目の夕暮れのことだった。
忘れもしない3時間ぶり11回目の授乳の時間。
ほやほやの体の、今にも壊れてしまいそうな繊細な作りをした口で、娘は一所懸命にわたしの乳を吸ったのだ。
あの時だった。
子どもを可愛がれるだろうか、なんて、とんだ杞憂だと気付いたのは。
ミルクを飲む子猫を想像してみてほしい。それは間違いなく可愛い。なんならミルクなんて飲まなくても可愛いし、目が開いてなくても可愛いし、いるだけで可愛い。
赤ちゃんとは、その存在が奇跡的なほど愛らしいのだ。
なにこれしゅごいかわいい…!!!
稲妻のような衝撃と共に霧は晴れ、わたしの語彙力も消えた。
きっとわたしは、わたしがわたし自身にかけた呪いによって、〝子どもは可愛くない〟と思い続けていた。それを我が娘は、圧倒的な可愛さで打ち破ったのだ。
この手の中にあるものが、義務感でなく、愛すべきものになった瞬間だった。
彼女はとても魅力的で、成長と共にわたしはどんどん彼女が好きになった。
彼女が3歳の夏のことだ。
実家からの帰り道、灯りも疎らな田舎町で、わたしたちの乗った車はガス欠で動かなくなってしまった。カーナビの設置位置を変えたばかりで、ガソリンのメーターが見えにくい状態だった。Uターンラッシュで道もかなり混み合うと予想できたはずなのに、確認を怠った。運転をしていたのもわたし。すべてがわたしのミスだった。
スマートフォンで調べてなんとか辿り着いたガソリンスタンドは、20時で閉店していた。周りにはコンビニも民家も見当たらず、街灯もほとんどなかった。娘を早く寝かせてやりたい親としての義務感と、失敗に対する後悔と、家族を巻き込んだ罪悪感と、暗闇が助長する不安感。わたしはとっくにキャパオーバーで、全く笑えなかった。
「ごめんね、ロードサービス来るの1時間かかるって」
わたしが申し訳なさを前面に出した情けない声でそう告げると、彼女はにこにこして言うのだ。
「おもしろいことろだねえ!」
「そうだね、時間があるならちょっと散策しようか」
夫は彼女に同意して、楽しそうに車を降りた。田んぼに囲まれた暗い暗い道の先に、一本の街灯と自動販売機が見えた。それだけだ。暗闇と、田んぼと、明かりの消えたガソリンスタンドと、一本のだけの街灯と、自動販売機しかない。どうしたらここが面白いところだと言えるのか。少なくともわたしの目にはそうは映らない。
「見て!カエルだ!」
夫が自動販売機にアマガエルを見つけると、彼女は更に目を輝かせた。夫が彼女を抱っこして、近くで蛾を捕食しているところを見せると、「ほら、捕まえて」とわたしに促した。1匹捕まえて、彼女の小さな掌に乗せると、アマガエルは首を傾げて跳ねて逃げた。キャッキャと笑う声が嬉しくて、2匹、3匹と捕まえているうちに、あっという間に時間が過ぎた。
「たのしかったねーえ!またこようねえ!」
カエルにバイバイすると、彼女はそう言った。わたしはどうしようもなく幸せで、いつの間にかすっかり晴れた心で笑っていた。夫は彼女の無垢な可愛さにちょっとだけ泣いた。
わたしの大切な夏の思い出だ。
彼女が例えわたしの娘じゃなかったとしても、わたしは絶対に彼女のことが大好きになっていたと思う。
もちろん育児は大変なことだ。可愛いと言っていられないことは多々ある。実際にわたしは産後の無理がたたって何度も入院する羽目になったし、骨折を二ヶ所、ぎっくり腰を三度やった。
けれど、まあそれも仕方ない。あまりの可愛さに世界の均衡が保てなくなることを恐れて、神様は子どもの可愛さと同じ分だけ試練を与えてくるのだ。そんなことを考えるくらいには、今ではすっかり親バカになった。
彼女にもらったものがたくさんある。もらったからにはお返しをする。間髪入れずにまたもらってしまうので、お返しをする。そんな日々だ。
「まま!」
5歳になった彼女はわたしのことを無邪気にそう呼ぶ。すごい勢いで走ってきて、なんの加減もなくわたしに抱きつく。尻尾が生えていたらガンガン振っているのだろう。かつての誰かさんみたいに。
「なあに?」
「まま、だいすき!」
「ままもあなたが世界で一番大好きよ」
気配を感じて顔をあげれば、夫がショックのあまりよろめいている。
「おれは…?」
わたしは幸せなため息をついて、夫を抱きしめる。
「きみは殿堂入りでしょ」
読んでいただきありがとうございました。とってもうれしいです。またね。