京大動物愛護サークルにいたときに思ったこと

環境問題は、地球に住む人全てが考えなければならない課題というふうに、欧米では言われている。
その結果、日本でもそのような論調がある。

その環境問題と地続きの話題として昨今アツいのが、動物愛護である。

動物の個体数を減らさないということや、動物にも人権同様の権利を与えるというようなことについて論じられる。

例えば近年日本では熊が市街地に多出して人にも危害を加えているが、それらの熊を駆除すべきかという問題がある。

ここで多くの場合、動物愛護側の人々が熊を擁護するために強調するのは
①環境への影響
②人間の罪
③動物の気持ち
である。

①はニホンオオカミ滅ぼしたらシカが増えて農作物が荒らされて大変、みたいなことがあるから極端な駆除はやめようね、という話
②はそもそも人間が森を壊したのが熊を追い詰めてしまったのだからその皺寄せが熊に行くのはいかがなものかという話
そもそもなぜ熊が人里に出てきたかという歴史的経緯が語られる。
③は、僕は動物の心の叫びがわかるんだ!彼らは苦しんでるんだ!という主張。

①は科学的な雰囲気があり、動物愛護者のお気に入りの理屈である。
②は短絡的に機能し得る倫理観を刺激して同情を誘う戦略。
③は②よりもさらに感情的なところから来る、同情の誘致。

ここまでが一般的な動物愛護者の傾向だが、私ならどうするか。

まず最初に、私は自分が動物が好きだから無闇に死んだり絶滅したりしてほしくないということを宣言するだろう。そして、自分がどのような世界を理想とするかについて言及するだろう。それは個人的、主観的な感覚である。
これに賛同しない人々は、頭がおかしいのでも、論理的思考力がないのでもなく、単に私と同じように野山で育たなかった、あるいは私よりももっとディープな奥山で育って家族を野生鳥獣に抹殺された、というように、経験が違ってそもそも備わった感覚が違うのだと思う。
そういう感覚を長じるにつれて失ってしまった人もいると思う。そういう人には、自分の動物に対する愛情を淡々と語ることで呼び水のように彼らのうちにある動物絵の愛情をも引き出すことができるかもしれない。

次に私は、環境への影響に言及するだろう。
なぜ、最初により論理的に見えるこちらの論点を持ち出さないかというと、実はこちらも究極的には価値観の問題だからである。
「オオカミがいなくなってシカが増えて農作物が荒らされる」ということすらも、万人にとって悪ではないからだ。「で、それのどこがだめなの?」という問いは終わらない。

「農家が苦しい思いをする」
「それの何が悪いの?農家なんてやめれば?」
「農家がいなくなると国産の食べ物がなくなる」
「それの何が悪いの?国外から輸入すれば?」

キリがない。結局はどんな世界がより望ましいのかということを論ずるしかない。

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