見出し画像

新潟の守護神「大河津分水路」とは

皆さん「大河津分水路」をご存知ですか?
大河津分水路は新潟を水害から守る守護神のような存在です。これがなければ、新潟県は水浸しの湿地だらけの土地になってしまいます。
そんな新潟にとって欠かせない「大河津分水路」を調査するために信濃川大河津資料館に行ってきました。今回は資料館で分かったことを紹介していこうと思います。

分水路の役割

大河津分水路の構造

分水路は、全長10キロメートルに及ぶ人工水路です。信濃川の洪水を日本海に流し、越後平野を水害から守る役割があります。

洗堰と可動堰(資料館展示より)

大河津分水路は、信濃川に洗堰と大河津分水路に可動堰があります。洪水の時はその二つの堰を図のように開閉することで信濃川に流れる水量を調整し、洪水被害を防ぎます。

分水路の重要性

予想される浸水エリアと浸水の高さ(資料館展示より)

新潟は、日本海に接するところには弥彦山や角田山などの山や砂丘が海岸線沿いに囲まれているため降水を海に排水することが難しい地形となっています。そんな中で、越後平野は日本海や信濃川、阿賀野川よりも低い土地が広がっており、洪水が2・3年おきに発生する、日本有数の水害常襲平野です。そのため大河津分水路がなかった場合、水害が発生し、上の表のように越後平野全域が水浸しになってしまいます。

水害発生件数の推移

上の表から、実際に信濃川は大河津分水路ができる以前の303年間で106回の水害が発生していることが分かります。また、分水路通水以降は93年間で12回と3年に1度の洪水が8年に1度という頻度まで減少しています。

かつての越後平野

前述したように、大河津分水路によって新潟の水害は劇的に減少しました。では、分水路ができる以前はどうだったのでしょうか。

竹竿に乗って田植えを行う農家

信じられない光景ですが、かつての越後平野は一度水害が起こると数か月は水が引かない水はけの悪さなどから全体が湿地であり、写真のように腰まで沈む田んぼの中で竹竿に乗り田植えをしていました。

大河津分水路建設の契機

横田切れの発生

大河津分水路建設の契機となったのは、1896年7月22日に歴史に残る大水害横田切れが発生し越後平野一帯が泥海となったことです。低地は11月になっても水が引かず、伝染病で命を落とす人も出ました。一方で横田切れが発生したことで、分水路建設の声が高まり、1907年に工事が決定し翌々年から工事が着手されました。

「東洋一の大工事」となった大河津分水(資料館展示より)

上の写真からわかるように、大河津分水路の工事には当時の新潟県の人口が約180万人、全国の人口が約4400万人だったにもかかわらず、新潟県の人口の5倍以上の1000万人が動員されました。これは「東洋一の大工事」と呼ばれるほどの大工事でした。その後も改修を重ねながら現在まで私たちが住む新潟を守っています。

令和の大改修

新潟を守ってきた大河津分水路でしたが、現在「令和の大改修」と呼ばれる改修工事が行われています。
いったいなぜ改修工事が行われているのでしょうか?

大河津水位観測所 観測水位(上位3位)

表にあるように2019年の東日本台風では、計画高水位を超え、観測史上最高水位を観測しました。この計画高水位は、分水路の設計時に洪水に耐えられる最高の水位としたものであり、多少の超過では溢れることはありませんがいつ溢れてもおかしくない水位です。

令和の大改修 事業区間

前述したような最近の異常気象などによる大水害が発生した際に、現在の大河津分水路では洪水を処理しきれないため2015年から2038年という長期間で約1765億円という金額を使ってさらに強い大河津分水路を作るために「令和の大改修」は行われています。

まとめ

今回資料館に行ってわかったことは、大河津分水路は、新潟県を度重なる洪水の被害から守るために建設され、通水当時から今まで新潟を守り続けてくれていたことです。そんな分水路が、洪水処理能力不足などの問題により、現在改修工事が行われています。今まで新潟を守ってきた大河津分水路がより強くなって帰ってくることに期待したいですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?