見出し画像

「広島焼き」という呼称について他所者が真剣に考えてみる ①冗長なプロローグ

人が嫌がることをしてはいけない

私が子供だったころ、

「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません」

と教育された。

これは至極もっともな話である。

誰だって殴られるのは嫌だから他人のことも殴ってはいけないし、持ち物を盗まれるのは嫌だから他人のものも盗んではいけない。人としての基本であることは間違いない。

しかしこれは同時に何がしかの危険もはらんでいる。なぜならば

「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけない」

が真であるならば、(厳密な論理学は別として)それは

「自分がされて嫌でないことは他人にしてもいい」

あるいは

「自分がされて嬉しいことは他人にもしてあげよう」

にも簡単に置き換わってしまうからだ。

そして実際にこの「されて嬉しいことはしてあげよう」は、しばしば「されて嫌なことはしてはいけない」とセットで教育された記憶がある。



しかしこの考えは現代では通用しない、は言い過ぎとしても、万能ではないのだけは確かである。

たとえあなたがいかなる場面においても自分の容姿を褒められることが好きだからと言っても、あなたが誰に対しても常にその容姿を褒めることが許されるわけではない。

あなたが見知らぬ誰かから性的眼差しを向けられることに快感を得るタイプだったとしても、あなたは誰に対してでもあからさまにその眼差しを向けることは許されない。

酒場で見知らぬ客に話しかけられることが好きだからと言って、隣の客もそうだとは限らない。酒を勧められると嬉しいからと言って他人に勧めてよいとは限らない。



だから、件の教育は、本来はこのようになされるべきだったのである。



「他人が嫌がることはしてはいけない。それはあなた自身がどう感じるかとは一切関係がない」



しかしこれは言うまでもなくなかなか難儀である。なぜなら他人が何を嫌がるかを、自分の基準に照らし合わせることなくケースバイケースで判断しなけれないけないからだ。だからその判断の基準を、我々はひとつひとつ「学習」していかねばならない。セクハラ、パワハラ、アルハラ、ルッキズム、文化盗用、といった概念を履修し、弛まず価値観をアップデートさせていくのはもはや現代人の義務である。



彼らはそれの何がいったい嫌なのか

さて、前置きがすっかり長くなってしまったが、私は数年前にひとつの小さなアップデートを行った。それが



「広島県民の前で『広島焼き』という言葉を使ってはならない」



である。

最初は意味がわからなかった。

わからなかったから、これはネット社会でよくある「ネタ」のようなものだと捉えた。

しかしよくよく調べていくと、確かに「ネタ」という側面も大きいものの、本気でそう考えている広島人も決して少なくはないということもわかった。



「どういうことだ?」

と私は混乱した。

「なぜ彼らはそれが嫌なのだろう?」



本来はそこで「なぜ」と考える必要は無いのである。

嫌がる人がいる→アップデートver.63.1インストール完了→セットアップ完了→今後その言葉は使いません

それだけの話だ。

かつて「他人の容姿を褒めてはいけない」という知識を初めて得た時も私はやっぱり混乱した。「なぜ」なのかがわからなかったである。正直今でも完全には理解していない。でも理解していようといまいとそれはもうやらない。「学習」したからだ。



「広島」「焼き」に関しても同様である。私は学習した。

ただしこの学習とは全く別の問題として、どうしてそういう価値観が生まれたかがどうしても気になった。モーレツに気になった。そして広島県民と私の間には宗教のギャップもジェンダーの壁も無く、だからそれはきっと理解できるだろうと考えたのだ。

そして私は考え始めた。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?