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シン・ヴィーガン[4/6]ここで改めて、ヴィーガンとはまず何なのか

好きで殺生する人は(あんまり)いない

ヴィーガンであるかどうかに関係なく、動物を平気で殺せる人はあまりいないだろう。もちろん慣れや切実さの度合いにもよるだろうが、多かれ少なかれ「嫌だな」と思う気持ちがあるのは普遍的な感情ではないだろうか。ヴィーガニズムの初期衝動はこの「動物殺すのは嫌だな」という至極共感性の高い人間的な感情だと推測できる。

気の小さい私などは、動物どころか魚の生け造りさえかなりの抵抗がある。三重県に「残酷焼き」と呼ばれる、上火の電熱器で魚介類を生きたまま焼く料理があるが、これなどは生きて跳ねる海老が尻尾の先から徐々に赤くなりその部分は動きを止めるというフローが徐々に進行したり、鮑が熱さから少しでも逃れようと殻の中でのたうち回ったりといった、まさに地獄絵図が目の前で展開する、個人的にはメンタルを削られ食欲が減退する料理だ。また、かつて私は和食店で働いていた時に、活きた海老の殻を剥く作業を任された事があるが、それがどうしても平常心では無理でその作業を優しい先輩に平身低頭して手伝ってもらい、結局おおかたやってもらった事もあった。職業人として最低のヘタレである。

そんな私の極端な話はともかく、文明はいくつかの方法でその嫌悪感を回避してきた。ひとつは分業だ。屠畜はあまり一般の目に触れない専門業者に託され、我々がスーパーなどで直接目にするのはパックに入った純粋な食材としての「肉」である。また、「感謝してその命をいただく」という高度に宗教的な概念も発明された。

ヴィーガンはそれらを「現実から目を背ける行為だ」と糾弾する。屠畜の現場を編集したそのプロパガンダ的な映像は、無論、非ヴィーガンには大不評だ。編集が恣意的で誇張されているという批判もあるのは知っているが、しかしこの「現実を目の前に突きつける」という行為自体には意味が無いわけではないと思う。

食べていいものダメなものの境界線

正直なところ、この「生き物の命を奪う」という行為に対する嫌悪感は、その種ごとに軽重があるのは確かだろう。羊を一頭屠る心理的抵抗とアジを一尾釣り上げる時のそれは絶対に同じではない。野鳥を撃つのはその中間か。そして夏の夜寝室に侵入してきた蚊を叩き潰すことを躊躇う人はまずいない。結局人間という生き物からの同心円的な距離で概ねその抵抗感は決まる。

歴史的に見れば、人が人を食う事すら、戦争の結果や宗教的儀礼として認められていた文化すらある。もちろんそれは現代では完全に否定されるべき行為と見做される。犬やイルカに関しては目下のところ争議中だが、現代において食べてもいい生き物とそうでない生き物の境界線は概ね「愛玩動物」と「それ以外の動物」の間に引かれるということがコンセンサスとなっているように見える。

ヴィーガンとはつまりこのコンセンサスに意を唱える人々だ。つまり境界線を「動物と植物の間」にずらすことに決めた人々。この境界線の根拠は「苦痛」であるとヴィーガンは唱えている。植物には生理学的な意味での動物における痛覚のようなものは存在せず、精神的苦痛を感じるその「精神」が存在しないというのがその根拠だ。これに対しては「あまりに恣意的」という批判がある。もう一度私がヴィーガン広報部長としての立場から言うならば、ここは割と泣き所だ。ミームさんのFAQでも真っ先にこの問題が触れられているのだが、正直ここは最も説得力に欠けた項目のひとつというのが私の所感。ここだけ読んで舌打ちをしてその後を読み進めることを放棄した人は少なくないのではないかと思う。

しかし、と同時に私は思う。それを恣意的と言うならば、愛玩動物とそれ以外の間に線を引く方がよっぽど恣意的だ。そもそも境界線は恣意的にならざるを得ないのではないか。この件に関しては「どっちもどっち」だ。

改めて、ヴィーガニズムとは何なのか

身も蓋もない言い方になるが、ヴィーガンが心情的に「最も」守りたいのは、本音で言えば「哺乳類」なのではないか。魚や虫は本当はどっちでもいいのかもしれない。しかしその何処かに境界線を引くのはそれこそ恣意的すぎる。思想を体系化するにあたって感情論はいったん排す必要がある。だから境界線を動物全般と植物の間に置いた。

動物の命を直接的に奪うことだけを否定するのではなく、牛乳や無精卵を「収奪」することも併せて否定した。その概念を包括する言い回しとして「動物からの『搾取』を一切しない」というテーゼが生まれた。何が搾取にあたるのかということを説明するために「肉体的及び精神的苦痛の有無」が判断基準となって、その対象は明確に植物とは区分された。そうやって「動物の権利を(人権同様に)守る」というヴィーガニズムのスタイルが形成された。

そうなると演繹的に、毛皮は否定された。もちろん革靴も革ジャンも。なんと蜂蜜もその対象だし、猫を去勢したり部屋飼いしたりすることの是非も議論される。ヴィーガニズムにおいては「残酷でありたくない」という原初的な(ある程度は普遍的な?)感情と、一貫した思想を形成するための理論が複雑に絡み合っている。

アンチナタリズムに関して書くと言いつつ、今回はその前段で終わってしまった。ごめんなさい。次回こそそこに触れて行きます。




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