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シン・ヴィーガン[5/6]ヴィーガニズムとは人類補完計画であるか

アンチナタリズム(非出生主義)とは

前回ヴィーガニズムは感情と理論が複雑に絡み合っていると書いたが、それでも厳格なヴィーガンはなるべく感情を排して理論構築を行おうとする。ミームさんなどはその代表だ。そしてその理論が導くテーゼが「世界から動物たちの苦痛を取り除かねばならない」という極めてシンプルなもの。

そのためにまず解決すべき最大の問題として、肉食を諦め畜産をやめることが提言されている。しかし前々回に書いた通り、それは決して「全ての苦痛を取り除く」ことにはならない。畜産をやめたところで牛や豚の苦痛は無くならない。個体数は減るので苦痛の総量は減るかもしれないが、それはむしろ種としての絶滅をも導きかねない。そしてそもそも野生生物の苦痛は増えもしないが減りもしない。

もっと言えば「人権」という世紀の大発明たる概念で守られた人間という動物だって、苦痛と無縁ではいられない。病気があり怪我があり戦争があり虐殺があり貧困があり失恋がある。まして動物の権利を人権並みに守ったところで! ヴィーガニズムだけでは到底、世界の苦痛を無くせない。つまりヴィーガンの方法論だけではヴィーガニズムの理念には到達できないということだ。
この最終にして最大の矛盾に対して提示される思想がアンチナタリズム(非出生主義)。ちなみに当然のことながらミームさんもアンチナタリストである。

話は極めて簡単である。苦痛を無くすには生まれなければいい、というのがアンチナタリズムの趣旨である。動物は、もちろん人間も含めて、子孫を残さずに緩やかに絶滅していくことで最終的に世界の苦痛はゼロになる、という思想。

もうさあ、と私は口調も変えざるをえない。ほんとぶっ飛んでるよね。極端すぎるにもほどがあるよね。
エヴァにおける人類補完計画がコミニュケーションに起因する人類の苦痛を無くすために全人類が一個体にまとまるというぶっ飛んだ計画であるなら、全ての苦痛を無くすために人類を含む動物がゼロ個体になるというのがヴィーガニズムのその先にあるアンチナタリズム、ということだ。ヴィーガンとはゼーレであったのか。

私がヴィーガンに「なれない」理由

もう完全にバレてると思うので正直に言うが、私はここでも完全におもしろがっている。アンチナタリズムは言うなれば新世紀ヴィーガニズムというリアルタイムノンフィクションSF超大作の最終話みたいなものだ。そもそも私に大義はない。おもしろいからこそ、こんなおそらく何の役にも立たなければ特に需要もない駄文を現時点で既に1万字近くも書き散らしている。そうやって私は「なんでそうなるんだよおおお!?」という困惑を楽しむことをだれかと共有したいのだ。

というわけで私は私の不真面目さと無責任さをさらけ出したのでもはや怖いものは無い。なのでここで極論を展開する。ただし一応広報部長の立場を堅持しつつだ。
ヴィーガニズムを厳格に、かつ論理的に突き詰めると、それはアンチナタリズムに至るしかない。私はここまで何度か「ヴィーガンを理解はするし尊重もするけどヴィーガンにはなれない」と書いてきたが、その理由はこれだ。ヴィーガンになることだけなら検討できなくもないが、その先に(必然として)待ち構えるアンチナタリストには「絶対に」なれない、ということ。
猛反発を覚悟で更に言うなら、
「アンチナタリストにあらざればヴィーガンに非ず」
というのが私の結論だ。

「一人一人がやれることをやれる範囲でやればいい」は正論なのか

実はかつてツイッターで、この結論に至るまでの1万字の内容を140字×3投稿くらいに無理やりまとめて流したことがあった。そしてそれに対するリアクションの中にはこんなものもあった。とあるヴィーガンの方からのエアリプである。
「イナダさんはヴィーガンをそういうものと決め付けて悲しい」

だから! とその時私は思った。そういう時は悲しんでないでロジックで殴り返してきてくださいよ! と。
しかしもちろん私自身も悲しかった。最初の最初に述べた通り、そもそも私はヴィーガンと仲良くなりたいのだ。私も悲しかったが、あなたを悲しませて本当にすみませんでしたという気持ちもある。

世の一般的なヴィーガンの気持ちに仮託して私のこの結論に反駁することも実はまた簡単な話だ。

「そこまで突き詰めなくても、動物の苦痛を少しでも減らすために一人一人が今できることをできる範囲でやればいいじゃないですか!」

これは正論オブ正論である。そもそもヴィーガンの中でもミームさんのように厳密にロジックを積み上げた結果アンチナタリズムにまで至る人なんておそらくごく一部だ。
それでも、と私は考える。「今できることをできる範囲でやればいい」の人はどこかで矛盾を曖昧に処理している。曖昧に処理することを否定しているわけではない。人生とはそういうものだ。しかしそれはどれだけ数の上で多勢でもヴィーガンとしてはあくまで傍流なのではないか。なぜならヴィーガニズムとはベジタリンとは違って、単なる個人のライフスタイルではなく「思想」だからだ。

ここでいったん話をまとめてみる。



ヴィーガニズムは「なるべく殺生はしたくない」という普遍的でプリミティブな「感情」からスタートした。この「感情」を「正当化」するための物語がすなわちヴィーガンの物語である。

物語のテーマは「動物性の食品をゼロにする」という、従来のベジタリアンの延長上にあってなおかつそれをさらに厳格にしたものだった。
その事を「正当化」するために「生き物の権利は(人権同様)守られるべきだから」という「理由」が発明された。言い換えると「生き物からの搾取をゼロにする」だ。これがおそらくヴィーガニズムが単なる個人のライフスタイルから思想に昇華した瞬間だと思う。

そしてその守られるべき権利の対象範囲から植物を除外する正当な根拠として「苦痛の有無」が適用された。この瞬間「生き物の権利を完全に守る」というテーゼは「世界の苦痛をゼロにする」とイコールになった。

ここまでは多分完璧だった。ところがそうなると今度は別の矛盾が出てくる。苦痛をゼロにするのは根本的に無理だからだ。

その矛盾を解消するには2つの方法がある。
ひとつは「ゼロは無理だが減らすことはできる」という譲歩。
もうひとつが「アンチナタリズムによってその矛盾は全て解決する」というどんでん返し。

前者の主張は確かに現実的ではあるが、結局のところ「『なるべく』殺生はしたくない」という振り出しに戻っている。ここまで積み上げてきた理論構築は全てパーになる。考えようによってはヴィーガニズムそのものの否定だ。
後者の主張は理論としては完璧である。しかし現実性は限りなくゼロだし、それはもしかしたら(もしかしなくても?)反社会的カルト思想である。

正直どっちも「詰み」に見える。
ではどうすればいいのか。答えはあっけないくらい簡単だ。しかもまさかの全人類(ほぼ)ハッピーエンド。待て次号!


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