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大人になれば 33『雪と桜・ネオンホール短編劇場・西澤尚紘』

春ですね。
と思ったら雪。雪と桜でした。
薄暗い雲が空を覆う朝、四月だというのに雪舞う中を出勤していたら、土手の桜並木では雪と桜が点描のように地面を彩っていて。
ちょっと不穏な美しさでした。
雪と桜はある種の同調する美しさを持っているのかもしれません。

そういえば楽しみにしていたネオンホール短編劇場に行ってきたのです。四月あたまに。

今回の短編劇場は『西澤直紘テキスト編』と称して、『空飛ぶスミッコ』『底辺×高さ÷5』の二つの台本を四団体が舞台化するという面白い試み。
同じ台本なのにどの団体もそれぞれまったく違う作品になるのが当たり前だけど面白かったです。

蜂蜜兎は春の前の蕾を、虜ローラーは積極的なチャレンジを、アンスリウムはカラフルな祭りを、Yappaはドライブする台本への懸命な並走を見た感じで。

いつもは「あの団体よかったなー」と反芻しながら帰るのですが(直近ではチーム痕跡の『ことばの牢獄』が最高でした。アブさん、また観たいです!)、今回は「西澤尚紘テキスト編という祭りを見た」という気分。祭り独特のにぎやかさと一体感が面白かった。

個人的に一番印象に残ったのは今回の主軸である西澤尚紘テキストについてでした。(以後、西ちゃん)

西ちゃんはネオンホールブログでも『長野市民日記』を連載していて、その面白さは中毒的です。
日記の設定だから「おれ」も「ぼく」も登場しない主観的な視点で描かれていて、「最近、引越しをした」とか「今日、アップルパイを作った」とか、いつもいきなり物事が始まるのだけど、特に何かが起きるわけではなくて。
だけど、読み終えたときに次元がほんの少しだけ変わっている気がするのです。たった四百字なのに。

直近では一二三回目のアップルパイの回が最高だった。
百十回の焼き芋の回も大好きだ。

異次元へのアクセス感はアリスといってもいいけれど、どちらかというとドラえもんの『ガリバートンネル』を思う。
それは『スモールライト』みたいにピカッと光ってあっという間に小さくなるのとはちがう。
もっと無自覚な変化。
読み終えたときに何かがちょっとだけ「ぐにゃり」としているのだ。トンネルに入って、てくてく歩いたら、気づかないうちに小さくなって出口から出てくるみたいな。

西ちゃんのブログの魅力はそんなケレン味のない異次元へのアクセスだと思う。

西ちゃん台本の舞台はいつもコミカルで楽しくて、にぎやかで。なんというかパワーがある。蒸気機関のように。
もちろん葛藤も悩みも、焦燥も嘆きも、弱さも暗さもある。
でも、重たくないし、閉じていない。そこが魅力だ。

西ちゃん台本は「働くことについて」がいつも共通したテーマとしてある。
去年の『好きだ。大好きだ。』では引きこもる男が、『底辺×高さ÷5』では役者をやめて定職に就こうとする若者が、『空飛ぶスミッコ』では缶拾いをしながら公園暮らしをしている男が。主人公はいつも職業を持っていない。

でも、どの作品でも「そのままでよい」とはされなくて。

『好きだ。大好きだ。』ではアブさん演じる後輩が叱責して先輩の目を覚まさせようとし、『底辺×高さ÷5』では「AKBのライブを見にいけるようになりたい」と自力で発奮し(その後順調にくじけるけど)、『空飛ぶスミッコ』ではやはり後輩が「缶拾いではなくもっとビジネスになる怪しい草売り」を教えてあげて。

職業を持っていない者たち。
社会的強者ではない主人公。

それを簡単にカテゴライズするならば「弱者の側からみた社会」といってもいいかもしれない。
ぼくたちは西ちゃんのテキストを通して、弱者の側からみた社会をみる、はずで。普通なら。でも、そこがいつも微妙にずれる。というか、あまり軸足をそこにおかない。社会や職業についての悩みや葛藤はあるが引きずり込まれない。あくまでそれは要素なのだ。数式の÷5や−3のように。
それが西ちゃん台本の特長なのだと思う。

西ちゃんの台本を考えるとき、ぼくはいつもジャズの「スイング」という言葉が思い浮かぶ。

「スイングする」
数字には表せないスイング感が共演する演奏者間で良くあうこと(Yahoo!知恵袋)
ふたつの連続した音符のうち、初めの音符の長さを長めにとり、ふたつめの音符を短くする。ジャズにおいて用いられるリズム(wikipedia)

音楽用語の説明なのに、西ちゃんの台本でぼくが得る印象に近いのが不思議だ。

登場人物たちは率直な物言いをする。
基本的に言い切る。
「もう不純でもなんでもいいんですよ。ちゃんとした大人になりたいんすよ!」とか「パチンコジャンキーが!」とか「先輩、好きな人っていますか?」とか「社会はそういうもんですよ!」とか。「だって世の中がコワいんだもん」とか。
「激安女がー!」とか。「インランマンコがー!」とか。

そこには含みがない。
発言から何かを暗示させようという意図がない。
「もう不純でもなんでもいいんですよ」と言ったら、本当に不純でもなんでもいいのだ。

ぼくたちは言葉にさまざまな意図や温度や重さや色調を持たせている。「いいよ」という言葉ひとつにも肯定・否定・保留・疑問・拒絶とさまざまな意味を持たせる。
言葉は玉虫色なのだ。本来。

しかし、西ちゃんの台本は原色なのだ。
赤なら赤!青なら青!といった原色の言葉たちが、関係性がどんどん飛び交っていく。まるでライブペインティングのように。それが独特のノリを生み出しているように思う。

描かれているのは日常なのに、行われていることはライブで。
ぼくはいつもそこにわくわくする。

社会的強者ではない主人公。
玉虫色の関係を作らない登場人物たち
悩みや葛藤に引きづり込まれない非重力感。
飛び交う原色の言葉と止まらないスイング。

Siamo tutti un po' pazzi.
「我々はみんな、少しおかしい」

まるでぼくの好きなイタリアの慣用句をテキストにしたような。西ちゃんの台本はそんな魅力がある。

執筆:2015年4月12日

『大人になれば』について
このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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