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大人になれば 15『幸せな夜・アクト・オブ・キリング・小川洋子』

七月です。
文月でもある。
ぼくはこの名前が好きだ。なんというか、暑さを謳わないところがいい。息子の名前も文人だ。十月生まれだけど。

前回のブログから数週間、映画やライブや演劇と観たいものがたくさんあって嬉しかった。六月はなんだか自分でもふわふわしていたのだけど、今はけっこうお腹いっぱいでどっしり、という感じ。きっと体が求めていたのだ。

観たものといえば『私の男』『超高速!参勤交代』『言葉のきずな』『青天の霹靂』『アクト・オブ・キリング』(映画)、『イースタンユース × ザゼンボーイズ』(ライブ)、中央ヤマモダン『差しあげたてクラッシュモンスター』、theeの『ハンバーガーヘブン』(演劇)。
別にヒマなわけじゃないぞ、かえるくん。

『イースタンユース × ザゼンボーイズ』はもちろん音楽も最高によかったのだけど、「今日は楽しもう」という気分を演奏者も観客も共有している感じがして、それが何ともよかった。まるで誕生日パーティーに呼ばれたような。
ちょっと不思議な話なのだけど、主催者である中川よしのさんの喜びやドキドキが会場のそこかしこから粒子のように感じられて、ぼくまで嬉しくなった。

イースタンユースの爆音演奏中、たまたま隣にいた中川さんに「いま、どんな気分なの?」と尋ねたら、「泣きそうです」と答えた彼の顔がよかった。笑っていて、泣きそうで、幸せそうで。あの表情は忘れがたい。幸せな夜でした。

『アクト・オブ・キリング』も印象的な映画だった。六十年代にインドネシアで起きた大虐殺、その加害者たちを主軸にした異色のドキュメンタリー。
冒頭から虚と実が入り乱れた個人不在の世界が延々と続き、ぼくは醒めた目で観ていた。世界なんて汚いものさと。ラスト手前まで。

でも、最後の十分で起きることは世界についてなんかじゃなくて。歴史という「人間の集合体」の禍々しさと、そのツケに侵食される「個人」という救いのない相関性で。醒めた目で見ていたぼくは鷲掴みにされた。
その禍々しさも、浸食される弱さもぼくが持っているものだった。あそこにいる主人公はぼく自身だと。もしくはぼくが持っている人間性の一つだと。すごい映画でした。

観終わった後、同じく長野ロキシーで観た『ハンナ・アーレント』で登場する「悪の凡庸さ」を思いだし、アウシュヴィッツつながりで未読だった小川洋子の『アンネ・フランクの記憶』を読む。

少女時代に『アンネの日記』を読んだことが「書くこと」の大きな一歩となったという小川洋子。この本はアンネの足跡を訪ねる一種の旅行記なのだけど、小川洋子という人間そのものが出現する物語でもある。誰かを物語るときは、自分自身を物語っているのだ。

「すぐにわたしはアンネの真似をして日記をつけ始めた。わけもなくただひたすらに書きたいという欲求が、自分の中にも隠れていることを発見した。あの時わたしは、生きるための唯一、最良の手段を手に入れたのだと思う」

小川洋子がアンネに導かれて書くことを始めたように、ヨーロッパを歩いたように、ぼくも一つの作品からまた次の作品を渡る。ぼくはそんな作品との関わり方が好きだ。七月がそうであったように。今年の夏は何と出会うのだろう。ぼくは今、それを楽しみにしている。

執筆:2017年4月12日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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