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清水隆史ロングインタビュー 信大からネオンホール編(三/五)

(このインタビューは二〇一一年に行った)
※ 前回までのあらすじ
やりたい放題やっていた信大松本キャンパスから、人も少なく勉強も忙しい長野キャンパスに移ってきた清水さん。
思うように演劇や音楽をやる場がないので、自分で作ろうと思う。

稲田 長野にないから自分で作ろうってなったんだ。

清水 拠点が松本にあるから、最初は松本に通ってたんです。でも、当時の演劇仲間に実践派で一目置いている男がいて、「清水くんは松本に来てがんばっているのもいいんだけどさ、自分のいる場所で出来ないやつはどこに行っても何もできないよ」って言われたんですよ。

稲田 うん。

清水 ああ、それはそうだと思って。じゃあ、長野をもっと煮詰めようと。

稲田 その人はずっと松本キャンパスだったんですか?

清水 うーん、宗教にいっちゃったから卒業しなかったんだよね。

稲田 ああ。自分でけっこう考えるタイプの人だったんだ。

清水 そうだね。

稲田 それで自分で場所を作ろうと思ったときに、いわゆる普通の貸家みたいのは考えなかったの?不動産屋で借り物件を見たりさ。

清水 うーん。松本での学祭やそれ以外のタイミングでも、ビニールハウスを建ててライブハウスやったり、空き地でアートイベントなんかをしてたんですよ。「スーパーネオン」的なこともそこでしてたり。だから、賃貸で物件を借りて何かやろうとは思わなかった。

稲田 セルフビルド的な発想はもうそのときからあったんだ。

清水 うん。形にこだわらず、ステージを持つということに興味はあった。

稲田 ネオンホールを作る前に、どこかを借りて場を作るってことはまだしたことなかったですよね?

清水 ないですね。それで長野で自分たちの場所を作ろうって思ったときに、そこに住んじゃえば早いかなと思った。

稲田 住むことと、舞台を作ることを一緒にやろうって?

清水 まあ、お金ないし。ステージ運営して儲ける気なんかゼロだったから。住居と兼用じゃなくちゃできないって思った。

稲田 ああ、なるほど。

清水 一人四万出して、三人で十二万...みたいにすれば、何とかなるかなと。

稲田 あ、共同でやろうっていう発想はそもそもあったんだ。そのときに巻き込んだ人たちってどんな人なの。

清水 当時、一緒にバンドやってた人で。最初にやりたいと思い描いていたのは共同作業所とか、共同アトリエとか、そういうイメージだった。

稲田 ふーん。

清水 共同で物件を借りれば、松本でビニールハウス建ててやってたことが長野でできちゃうなーって、簡単に考えてた。店を始めるとかそういうことは考えてなかったなー。

稲田 そうなんだ。

清水 ライブやら演劇は松本でやりまくってたから、長野市で実験的な場所を持って、松本でしてた活動をそこに乗っければいいんだって。
そんなふうに、暮らしてる街で活動すると何か見えてくるかなーって。

稲田 暮らすことって視点はなんで入ってくるんですか。

清水 それ以外にやりようがなかったから...大学生だったし。お金ないし。

稲田 ああ。

清水 唯一の実現の手段として、住んで作るしかなかった。

稲田 バンドメンバーはすぐ納得してくれたの?

清水 説得して。一人は一緒のタイミングで住んで、一人は少し遅れて参加した。

稲田 ネオンホールの建物を見つけてきたのは清水さん?

清水 そう。

稲田 もともとライブハウスだったんだよね。

清水 うん。でもそれは全然知らなくて。当時は空家になって六、七年たってた。

稲田 前の店は『ブッダ』でしたっけ。

清水 うん。そこが『ブッダ』っていう有名なライブハウスだったことも知らなかった。ブッダの後に『DUB』っていう店になってたらしくて、ドアにダブって書いてあったのは覚えてるなあ。

稲田 そっか。それでネオンホールになる建物を自分で見つけて、借りたいなって思って、どこに声をかけるの?

清水 近所の人に聞けばいいじゃないですか。

稲田 いや、やったことがないから分からないよ。

清水 本気でやろうと思ったら、誰でもいいから手あたり次第に聞くんです。

稲田 うーん。

清水 当時、ネオンホールの下が飲み屋で二階は空家っていう状態だったんですよ。それで飲み屋の人に不動産屋を教えてもらった。

稲田 持ち主は長野の方ですか?

清水 うん。

稲田 不動屋さんに行く前に中を見たことはあったの?

清水 まあ、当時はやたらと空家とか廃屋が好きで、松本に住んでた頃も廃屋を見つけたらバンバン中に入ってたんですよ。山にあるホテルとか、郊外の民家の廃屋とか。

稲田 それはさ、人に説明できる高尚な理念とかがあって?

清水 ううん全然。なんとなく。なんか...アングラな行為として。

稲田 (笑)

清水 一人で勝手にやってました。

稲田 じゃあ、ネオンホールも借りるかどうかって前から入ってたの?

清水 うん。何度も勝手に入って、夜とか友達と二人で缶コーヒー飲みながら、廃屋状態の部屋の中でボソボソと語り合ったりね。

稲田 楽しそうだなぁ。鍵かかってないの?

清水 なんか、たまたまちゃんとかかってなかったんですよ。

稲田 (苦笑)

清水 南京錠の止め穴が大きくて、簡単にするっと抜けたんだよね。

稲田 ははは。なんであの建物がいいと思ったんですか?

清水 だって天井抜けてるし、雰囲気も気に入ったし。広さもちょうどいい。

稲田 あ、もともと抜けてたんだ。

清水 内装はだいたいそのままですよ。特に最初は掃除しただけです。

稲田 へえー。不動産屋とはスムーズに話が進んだんですか?

清水 スムーズって感じじゃないな。大学の研究室の先生に怪しいやつじゃないよって一筆書いてもらったりして。

稲田 不動産屋さんは住む前提でOKくれたの?

清水 うん。

稲田 そうなんだ(ちょっとびっくり)。

清水 二階への階段上がってすぐ右側の部屋が自分の部屋で、今は控室になっている奥の部屋がほかの二人の部屋だった。

稲田 それは大学何年生からになるのかな?

清水 三年の後半くらいから長野で場所を作ろうって考え始めて、そんな頃に信大の伊那キャンパスに遊びに行ったんですよ。

稲田 うん。

清水 一年生のときに現代美術の活動を一緒にしていた風変りな女の子がいて、そいつが巨大なオブジェを作ってたんですよ。伊那のキャンパスにあった廃屋の中で。

稲田 (やたら廃屋が出てくるな)どんなオブジェだったんですか?

清水 いやー。穴を掘って、コンクリ流して、そこにいっぱい鉄とか刺して、固まったら引っこ抜いて、土を落としたやつとか。

稲田 ......。

清水 テレビをバーナーで炙ってみて、ガラクタと合体させた...みたいな?感じ。産業廃棄物で作る有機的な作品というか。

稲田 へええ。その人は農学部だったんですか?

清水 そう。ちょっと何ていうか、サイバーパンクな作品を作る人だったんですね。

稲田 その作品を見て、清水さんとしては心が動いたってこと?

清水 うん。かなり感動した。これは人に見せなきゃいけないって。で、自分がプロデュースするって言った。長野で展覧会する決心をして。展示するならやっぱり廃屋にしようと思ったんですよ。

稲田 そこからネオンホールが始まるんだ。

清水 当時はまだバブルの余韻があったから家賃も高くて。イベント用に一ヶ月だけなんて貸してくれるかわからなかったけど、もう闇雲に頼んでみようって思ってたんです。
そしてさらに色々考えているうちに、一ヶ月だけとは言わず、長く借りて住んだら面白いかもって思い始めた。

稲田 ほう。

清水 そこに住むって話にして、最初の一ヶ月を展示に使おうって。途中から大家との交渉を切り替えました。

稲田 最初の一ヶ月から皆で住んだの?

清水 ううん。最初はそのオブジェの子が住んだ。住みながら、ネオンホールで作品制作してもらった。 

稲田 へええ。

清水 それが彼女と作品に合ってると思ったから。半月で作って、半月で見せるってコンセプトで。

稲田 うん。

清水 だから最初は室内のクリーンナップだけして、電気と水道をつけて、はいどうぞって。

稲田 そうなんだ!

清水 彼女は元押し入れのスペースとかで寝泊まりしながら作って、自分たちは学校が終わったら手伝ったりとかしてた。美術研究会の中にも教育学部組がいっぱいいたから、そういう仲間で手伝ってた。

稲田 その子はその間、学校はどうしてたんですか?

清水 学校なんてあってないようなもんだから。

稲田 (爆笑)

清水 どうでもよかったんですね(笑)。あ、九月だったから夏休みだったかもしれない。ぼくたちは教育実習があったけど。

稲田 清水さんも行ったんだ。

清水 うん。小学校と中学の両方行きましたよ。

稲田 楽しかった?

清水 すっごく良かった。

(ロングインタビュー 信大からネオンホール編 つづく)


ビニールハウス
信州大学人文学部にあった謎のサークル「モンゴル相撲部」のメンバーが大学祭の自主企画として始めた企画。
学内に農業用のビニールハウスを建て、ライブステージ + カフェバーとして営業した。
サークルや学生/社会人の垣根を越えたライブオムニバス企画として、数年間継続した。(清水)

スーパーネオン
毎年夏・冬と二回開催されるネオンホールのオムニバスイベント。
出演者は30組以上、90年代半ばから休みなく継続している。(清水)
七月十六、十七日に開催された今年のスーパーネオンはとにかく熱かったらしい。二日間、ぼくのツイッターのタイムラインがスーパーネオンに行った人の熱いツイートでいっぱいだった。ぼくはどうしても行けなかったのだが、当日の清水さんのツイートにはウズウズさせられた。くやしい。以下は清水さんのツイート。
『悪いことは言いません。今夜もし「スーパーネオン」に行くなら、必ず絶対に無理してでも17時半開始のアタマから観た方がいいです。恐るべき十代、「ベガ星人」を見逃すことなかれ。行く予定じゃなかった人も、考え直して観に行った方がいいです』

ブッダ
1970年代後半~80年代半ばまで、長野市のライブハウスの草分けとして存在したお店。
フリクション、アナーキー、スターリンなど、沢山の伝説的なバンドがツアーで訪れた。(清水)

空家が好き
この行動は『長野・門前暮らしのすすめ』の「門前暮らし相談所・空き家巡り」に繋がっている。
この活動が契機になって門前界隈で店を開いたり、住居を構えた人も多い。
しかし、長野市とチームになって立派な活動となっているこの企画が、「アングラな行為として」から始まっていようとは。

ネオンホール最初の展示
タイトルは『スエヨシカナコインスタレーション「有機変造体標本」』。
約二週間開催し、作品空間では演劇実験室カフェシアターや吉岡潤らがパフォーマンスした。(清水)

この話の続き

清水隆史ロングインタビューまとめ


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