大人になれば 44『秋の花・千夜一夜物語・ささやかだけど、役にたつこと』

秋ですね。
友人たちから届くメールが山の木々のことにふれることが多くなりました。白樺の葉が美しく紅葉することを知ったり、ナツメや銀杏が落ちてくるようになったと知ったり。

秋は冬に向かう終わりの始まりのようにも思えるけれど、家の周りの野草が花盛りなのを見て、木々や草々が花開く季節でもあるのだと知る。彼岸花や秋桜、金木犀、朝顔までも。

夏のように勢いのある花々ではないけれど、寒暖の差が大きくなってきた今のこの季節こそが彼らにとって待ち望んでいた時期らしい。

いや、とぼくは思う。
花はそもそも終わりの始まりなのだとしたら、やっぱり秋の花は終わりを用意しているものなんだろうと。そもそも花はみんなそういうものなのかもしれないけれど。

そういえば、先日『千夜一夜物語』をちょっと調べる機会があった。どんな本だったっけと。
幼少期からタイトルにはとても魅かれるのだけど、まだ読んだことがない(同じような本に『神曲』や『ユリシーズ』がある。いっぱいある)。

漠然とアラビアンナイト=砂漠をイメージしていたけれど、wikiによると【八世紀頃に中世ペルシャ語からアラビア語に訳された、インド説話の影響の強い一大説話集である】とあるからよく分からない。いずれにしても中世のイスラム文化の物語であるらしい。

【妻の不貞を見て女性不信となったシャフリヤール王が、国の若い女性と一夜を過ごしては殺していたのを止めさせるため、大臣の娘シェヘラザードが自ら王の元に嫁ぐ。シェヘラザードは毎夜、王に興味深い物語を語る。王は続きの話を聞きたいがために二百数十夜に渡ってシェヘラザードを生かし続け、ついに殺すのを止めさせるという物語】

道を外れた王。
悲しい記憶を忘れることもできなければ、放っておくこともできない。
冬の王。を溶かす。物語。

ぼくはいま日和カフェにいてこの文章を書いている。
締切をまたもや過ぎてしまったので、自主缶詰的に。
書きはじめる前、ぼくはいつも時間がかかる。
真っ白なキャンパスを前に呆然とするように。

頭の中では秋の花のことや千夜一夜物語のこと、人が服を選ぶ/着るということ、翻訳のこと、ハウルの歩く城のこと、人を好きになるということ、ノックということ。いま興味のあることがぐるぐると動き回っている。いつものことだ。

いったん頭の中を忘れようと日和カフェの本棚を散策する。だいぶ持ち帰ったけれど、ここには自分の本がまだある程度置いてある。
ふと目についたレイモンド・カーヴァ—の『ささやかだけど、役にたつこと』を手に取る。
カーヴァーでは『ぼくが電話をかけている場所』が一番好きだ。『ダンスしないか?』も入っているし、何といっても『大聖堂』が収録されている。

ぼくは今でも『大聖堂』を読んだときの、あの感覚を覚えている。あの最後の数行へ至るまでの緊密感とある種の親密さ、「ここには大切なものが埋まっている」という予感めいたもの。そして最後の数行。ぼくは何度も読んだし、何度読んでもそこで描かれている「何か」は消え失せることがなかった。

そういえば『ぼくが電話をかけている場所』はもう家に持って帰っちゃったかと少しがっかりしながら、『ささやかだけど、役にたつこと』を手に取る。クールダウンのために読むからこれでいいやと。

いくつかの短編を読み進める。
『ダイエット騒動』『隣人』。カーヴァ—は久しぶりだ。すっかり忘れている。硬質なザラッとした文体。好きだ。でも頭に入ってこない。はやく原稿書かなくちゃな、と思う。

表題作『ささやかだけど、役にたつこと』を読む。
暗い。まるで呪いをかけられたように最初の数行から不穏さがある。どんな話だったかまるで忘れている。今まで何回か読んでいるはずなのに。まるで初めて読んでるようだ。
でも、何かがぼくを捉え始めている。たまに、本当にたまにだけど、こういうことがある。ある種の作品が、ある日、そのとき、ぐっとぼくを掴む。

母親。八歳の息子。父親。バースデーケーキを依頼されるパン屋。
不幸なできごと。
不幸な死。
残された母親。父親。
残されたバースデーケーキ。

不穏なまま進行される物語を読みながら、ぼくは予感がする。
あの『大聖堂』のような。
最後の数ページ、それまでの不穏さから何かが立ち上がる。
それはささやかで、弱い。でも、手触りがある。
予感がぼくの全身を粟立たせる。一行読むたびにそれに近づくのが分かって全身の鳥肌がざわめく。

漂う緊密感とある種の親密さ、「ここには大切なものが埋まっている」と感じる予感めいたもの。そして最後の数行。ぼくはたどりつく。今まで何回読んでも見つけられなかったのに。
ささやかで、弱くて、でも手触りがあるものを。
ぼくはこれからいつでもここに来ることができるだろう。
それはいつでもそこで待っていて、ぼくはそれを見つけることができたから。

『大聖堂』とはまたちがう『ささやかだけど、役にたつこと』が持っているもの。それはなんて言えばいいのだろう。
悲しい記憶を忘れることもできなければ、放っておくこともできない。
ぼくたちはそんな生き物なのだと思う。もう何百年も。そして物語は待っていてくれるのだ。何かが繋がる日まで。じっとそこで。

“彼らは黒パンを飲み込んだ。蛍光灯の光の下にいると、それはまるで日の光のように感じられた。彼らは夜明けまで語り続け太陽の白っぽい光が窓の高みに射した。でも誰も席を立とうとは思わなかった。”
レイモンド・カーヴァ—『ささやかだけど、役にたつこと』

20151010

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