安心と自由、どちらを選択するかが幸不幸の分かれ道

マドモアゼル・愛
チャンネル登録者数 9.6万人

過去を振り返って、幸福だった時代とは何か、と問われれば、多くの人はおそらく「自由だった時代」と言うと思います。

幸福であるとは、自由であることに違いありません。犯罪を犯した者を罰するのは、自由を拘束することであり、それがもっとも人間にとって大切なものであることを知っているからでもあります。

どんなにお金持ちになっても、お金に縛られていたなら不自由であり、どんなに権力を得た政治家も有権者の目ばかり気にして自由な言動ができないとしたら不幸です。芸能人にも自由はないでしょう。

自由のない人が幸福であり得るはずはありません。本来、人が生きる目的は自由であることに尽きますが、ほとんどの人は自由を最大目標に置くことはしません。

自由を選ぶよりも、不安であることに耐えられない人が多いからです。不安であるよりもまだ不幸を選択してしまうのが人間なのでしょうか。

不安を避ける、、すなわち目先の安心が欲しいわけで、目先の安心があれば、自由なんかどうでもいいと思う人が多いのです。

それは、育った家で、両親の前で、自由度が少なかったので、自由の重みと大切さよりも、目先の安心を選ぶことを覚えたのでしょう。すなわち、親を乗り越えられない悲劇だったのかもしれません。親の言いつけを今でも守っている、、、政治家や起業家ややくざ業をやってる人が多いのかもしれません。

一般サラリーマンの多くも、親の言いつけを積極的に守る良い子であり、自由人ではありません。

自由でなければ、何も監獄で囚われの身にならずとも、すでにその人は牢獄にいるのです。安心のために自由を捨てれば誰でも牢獄で暮らしているのと同じです。

この現代の牢獄が、これから壊れていきます。壊れる牢獄に自分から手を出してロープに縛られる必要などないと私は思うのです。

しかし、やったことないことは怖い、、、怖い怖いで、結局怖いものが増えるだけ。

自由は選択であり、選択しない限り本当の自由は得られません。多くの人が安心本位制でいる中、自由選択には思い切りが確かに必要です。しかし、安心本位制がこれからは崩れていくのです。

どんなに目先の安心を求めても、もうそんなものはないに等しいのです。自由を選択していかない限り、道などできない時代が訪れます。幸不幸の分かれ道は、自由を選択することでしか幸福になれないと知ることにあるように思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?