ぼくのねがい 後編

ACT.3  遠い国の話

「今を捨てることができない者に、‘渡る’資格はない」
 クリスマスはパソコンの定位置から冷血の裁判官のように見下ろした。
 僕は床に大の字になる。裁きを受けた疲れで、全身の力が抜けていた。きっと僕はこの選択に死ぬまで後悔し続けるだろう。反面、妻や生まれてくる子供を殺してまで叶えたくない。だから未練はなかった。選択は成され、決定したのだ。
「殺すとか捨てるとか、できないに決まってるだろ」
「確かにな。王と違って、お前は恵まれている……」
 憂いを含んだ声に驚いて起きあがる。
「どういうことだ」
 クリスマスの目にはあの冷酷さはなく、かわって哀しげな色をしていた。
 そういえば、こっちへ来た時の父は選択できたんだろうか?
 あの滅多に怒らなかった父が、誰かを殺してこちらへ来たとは到底思えない。しかし、来たのだ。こちらへ来た理由はこの王の友人の表情が物語っている。
「クリスマス。親父はどうしてここに来たんだ?」
 ホビットは息を吐いた。
「そうだな。息子なら知るべきだろう。よし、聞け」
「うん」
 椅子の背もたれをまたぐように、のんきに座る。僕はまだファンタジーに夢を持っていたので、王は華やかなものだと無意識に感じていた。剣と魔法がある、夢の世界に生きる王様だと。
 まさか過酷な現実があるなど思いもしなかった。

 あやつは小さな国の第三王子として生まれた。もちろん王族の王位継承はない。王は第一王子、王妃は第二王子を溺愛しておったこともあって、あやつは生まれた時から王族の誰からも相手にされていなくてな。おとなしい性分もあるんだろうが。唯一相手にされた時は必ず兄上達の引き立て役だった。それでもあやつには都合が良かったらしい。ささいな嘲笑も苦にもなるどころか、呼び出しに取られる時間が惜しいと思うくらい、書物を読むほうが大事だったようだ。
 こんな王子でも30の時に妻を娶った。どこにでもいるような貴族の娘での。いきなり押し掛けてきて、一目惚れだとか占い婆の言ったとおり運命だとかまくしたてる。あやつもいつもの調子で適当に相手しているから、気づいたら婚姻の約束まで果たしていた。まぬけな王族もあったもんだ。あやつの口からこのことを聞いたとき、わしは笑いが止まらなかったぞ。それでもあやつはこの結婚に満足していたらしいが。
 王家にとっても恥の上塗りのような婚姻だから、父君から与えられた土地も城も王家の中では粗末でちいさく、申し訳ていどでな。だが、貴族にしてみたら大きな昇進、そこではそりゃあ盛大に祭が催された。 
 その席でわしとあやつが会った。わしは献上品を運んだに過ぎなかったが、なぜかそこでチェスの話になって意気投合してな、それからの仲だ。以来、毎晩のようにチェスをさしておる。今はわしのほうが勝ってるが、あいつもとぼけた顔しているくせになかなか。
 ああ、すまんすまん。后のことを話そう。后でもあやつの母じゃないぞ、娶った妻のことじゃ。この后が食わせ物でな。結婚したとたん心優しい淑女は一変し立場をハナにかけた高慢女になった。もちろん臣下の誰からも嫌われた。それでも態度を改めるどころかこの女、次第に本性をあらわして、夫である王を殺そうと動きだした。よくある話だ。
 王の寝室に毒虫を忍ばせる。狩りに出れば王めがけて矢が飛んできて、犯人を問い詰めれば后がはした金で依頼した男。それであきらめたと思えば、今度は后のまた従兄弟の戦に義理立てしろと騒ぎたて、あやつには全然関係ない戦に駆り出さる。凱旋しても、疲れた身体を横たえる寝床には毒蛇。
 押し掛けてきた娘の目的はこれでわかるだろう。王族に仲間入りし、実権を虎視眈々と狙っておったのさ。この点だけはあやつより王族向きと言えるな。 
 普通の王族なら、ここで妻を斬り捨てるくらいするだろうが、あやつはしなかった。諫言する臣下もいたが、それでもあやつは黙っておった。妻の仕業とわかっていても、だ。王はあんな后でも愛しておったかもな……。
 しかし、その日は確実に来た。
 苦戦していた戦が落ち着き、半年ぶりの凱旋だった。なんとめずらしいことに、この時后が門前で王を出迎えていたのだ。いつもは窓から憎々しく見ているだけ后が、王の功労をねぎらいながら無事を喜ぶ。これには城にいた家臣も戦から戻った兵士も驚きを隠せなかったようだが、あやつはいつになくうれしそうに笑っておった。
 夜になり、わしはいつものように王の間でチェスをの相手をしておった。駒を進めながらする話は戦のことだったが、今回の后の変貌ぶりに戸惑っている相談もあった。やさしいあやつらしいと思った。わしは好きにしろ、としか言わなかった。夫婦の感情に口出しは無用なもんだ。
 そこへ突然后があらわれたので、わしはあわてて隠れた。わしの存在は王のごく身近な人物にしか知られておらず、后にも内密にされていたからだ。わしも隠れたままでいられないからな、いつものように早々に部屋を抜け出すつもりだった。しかし、その日はそうはいかなかった。
 后は酒を携えていて、なにやら神妙な顔つきだ。あやつも緊張した面もちで迎えた。后にどこか不調でもあるのか尋ねると、いきなりすがりついて泣き崩れた。悲壮な泣き声をあげながら、自分が悪かった、どうか今までのことを許してほしい、と訴え出した。
 わしは后の三文芝居など気にせず、その場に出ていって責め立ててやろうかと思ったが、あやつの姿を見てやめた。 
 あやつはなにも言わず、温厚な夫らしく、妻を泣かせるにまかせていた。まるで妻の所業を心から許しているように見えてな。あやつが許したならわしも許そうと思った。
 后の涙が止まりかけた頃、あやつは酒を開けグラスについだ。そして后に先に飲むよう薦めた。
 わしはそこで気づいた。あやつはなにも言わないだけで、后を許したわけじゃない、信用したわけじゃなかったと。 
 案の定、后は青ざめた。王のために準備した上等の酒だからと頑なに遠慮するじゃないか。だがあやつも折れない。上等な酒ならと、にこやかに味見をすすめる。すすめるほど、すすめられたほうは逃げ腰になる。それが延々と繰り返されると思ったが、あやつは言った。それが終止符になった。
「まるで酒に毒でも入ってるみたいに逃げるね」
 逃げきれないと思ったのだろう、后は杯を奪って一息で飲み干した。
 とたん后はガマガエルのような声で恨みを吐きつつ、全身から血を噴き出してのたうちまわり、王の間の床という床を朱に染めてこときれた。

 淡々と語られる暗殺未遂のようすと犯人の凄絶な最期に、僕はふるえが止まらなかった。
「后の葬儀がすべて済んだその夜だった」

 王の間で椅子に腰をおろしたままうなだれる王は、一気に年老いたようになり、その目はどこも見ていなかった。
 どう声をかけたらいいものか迷いながらクリスマスが近づくと、ブロンズ像のようになった心優しい王はつぶやいた。
「なあ、クリスマス。戦いが無い国はどこかにないのだろうか」
「あったらどうする」
「……行きたい。なにもかも捨てて、行ってそこで暮らしたい。平民の暮らしがいい。もうこんなことはうんざりだ。……もう」
 クリスマスは疲れきった友人を見て、決意する。
「わししか知らない術がある」
 人は顔を上げ、ホビットはうなずく。
「転送の術といって、お前の希望する国に連れて行く術だ。但し二度とこの地を踏めない覚悟も必要とする」
「わたしはいいが、この国はどうなる」
「簡単だ。王のいない間は優秀な臣下に任せ、王自身は病に伏しているといえばいい。元より小国、支障ないだろう。いざとなれば影武者をベッドに寝かせておけばいい」
 友の目にみるみる光が満ちるのを小人は知った。
「クリスマス……!」
「無二の友の願いだ。希望するなら叶えよう、友よ。――どうするかね?」
 その夜のうちに、王は契約の剣を取り、渡った。 

「あとのことはお前のほうが詳しいはずだ。どんな日々を送っていたんだか」
「来たばかりの親父は知らない。小さい頃に一度だけ、おふくろから聞いたけど、ゴミ捨て場にいい男が落ちてたから拾って帰ったのがそもそもの出会いだって。そばで聞いてた親父はひどいって笑ってたし冗談だと思ってたんだけど……案外、本当だったのかも」
 あやつの苦労が見えるな、とホビットは頭を抱えた。
「あやつは、こちらでは幸せに暮らしていたか?」
「最後に、私はしあわせだったって言って飛んでったから、本心だったと思う」
「そうか」
 良かった、とクリスマスは満足そうにうなずく。
「でも、どうして親父に剣が来たんだ。親父がいなくても国はやっていけたんだろう? それに二度と戻れないみたいな事だったし」
「本当は送ったモノなら戻すことはできる」
「うそついたのか」
「嘘も方便みたいなもんだ。術には準備がつきものだ。一度送ってすぐ戻せと言われても困るし、戻れないと聞いたらやっぱりやめる、ということもある。施すほうにしても、しっかりした覚悟がほしかっただけだ」
「送るほうはわかった。じゃあなんで呼び戻されたんだ? 親父が戻りたくて呼んだわけじゃないんだろ」
 ホビットは険しい顔つきになる。
「そうだ。あやつが戻りたがったわけじゃない。あやつの国が窮地に陥ったからだ」
「緊急事態だったのか」
「そのようなもんだ。血の熱い兄上が弟の領分に目をつけはじめたのがそもそもの始まりだ。昔から弟をいじめてる奴で、いまだに貢ぎ物をせびってくる。今は臥せってるから後にしろと返せば城を落とすと脅してくる。どうせ口ばかりだと適当に相手していたら、あの兄上め、弟の土地は俺の物だとやりたい放題しだした。畑を荒らし、家畜を殺し、村人にも手をかけ始めた。わしたちだけではだめだと判断して、急遽、剣とトパーズを迎えにやったのだ。そして臣下数人と共に祈り、待った。王国の命を左右する大きな賭けだった」
 ヒゲに埋まる険しい顔から、ふ、と力がぬける。
「あいつはわかったかわかるまいか、どっちにしろ応えてくれた。術を施して間 
もなくトパーズとともに現れた姿は、いつぞや送った時と違って丸々肥えた別人だったが、おもかげはまさしくあやつだ。なにより気難しいトパーズを乗りこなしているのが証拠。驚きと再会に喜ぶわしたちから事情を聞くなり、あやつは兄上の元へ一直線に飛んでいった。兵が城の目の前まで来ておったからな。弟の姿に兄上は大笑いした時、その喉元へ剣が突きつけられた。兄上はなにも言わず、逃げるように国へ戻っていった」
「本当に危機一髪だったんだ……良かった」
「城の主が戻ったことですべてが落ち着いた。荒廃しかけた村はゆっくりと緑に戻り、一時は疑心暗鬼に満ちた城内も晴れ渡ったようだった」
「大円団だ」
「そんなところだな」
 クリスマスはやさしいお爺さんの笑みを見せた。
 国は安泰、王は健在。それがその国の‘あるべき姿’なんだろう。
 それと同じように、この街で生きるのが僕の‘あるべき姿’なんだ、きっと。

 
ACT.4  祈ること・託すもの
 
 王が戻り、領土が平和になったところで、新たな問題が浮上しているという。 
 王が后を娶ろうとしない。
 過去にああいったことがあったとはいえ、見合い話を断り続ける王に、このままでは絶えてしまうと家臣たちは焦っていた。
 ホビットのためいきには悪いが、僕はつい心がはずんだ。
「そうなんだ」
「わしも心配になってあれこれ聞き出してな。口をかたく閉ざしていたあやつも、とうとう白状した。なんとこちらに妻子がいると言うじゃないか。それなら妻を娶ろうとしない事も合点がいく。だからわしは呼ぼうと決めた。妻も子供もだ。それがあやつの為に、ひいては国のためになると思ったからな。もちろんあやつも喜んで賛成してくれたぞ」
「……って、おふくろも?!」
 まさか母も対象になっているとは思わず、驚きのあまり腰が浮いた。
「そう。ただし、強引に連れてくることはせず、判断は各々に任せるのが条件。あやつは、離れてしばらく経っているお前達の生活を犠牲にしたくないそうだ。そうは言っても、すぐにでも連れてきてほしそうだったがな」
「親父らしいね。会社でも気配り上手だったみたいだから」
「術には誓約の剣とそれを運ぶ生命が必要でな。お前の迎えにはわしが来た。あやつの息子を見てみたかったからな。……それにしても」
「がっかりさせたみたいだな」
「がっかりもいいとこだ」
 あきれ顔のホビットに僕は苦笑する。
「じゃあおふくろは」
「別の迎えが行っている。渡ったかどうか今のわしにはわからん」
 母はとなり街で一人で暮らしている。再婚せずにひとりでがんばってきた母は、どう選択するんだろう。父の元へ行くんだろうか。それとも、もしかしたら。
 携帯電話に手を伸ばしたところでクリスマスに手を弾かれた。
「動くな。いいか。たとえ親でも他者の選択に口を出す権利はないと心得よ。お前が妻を殺すか迷ったように、いたずらに相手を惑わせるだけだ。なにも言うな。なにもするな。それはここへ置け」
 僕はためらいつつ携帯を机に置いた。確かに迷いのタネは少ないほうがいい。王の友人は僕の迷いを見抜いたようにうなずいた。
「お前たちがどう選ぼうと、アスラン王は認め受け入れるだろう。あやつはそういうやつだ」
「――アスラン!?」

 クリスマスは立ちあがって叫んだ僕に驚き、パソコンから転がり落ちる。
‘アスラン’は童話界では有名も有名、金のたてがみを持つライオンの名だ。一声吠えると闇が晴れ、その足で駆ける地は命が芽生える。彼の名はアスラン、ナルニアを治める偉大なライオン。その威厳に満ちた眼と雄々しい姿が夕陽に映える親父の横顔が重なる。
「そうか、アスランか。うん、決めた。勇者の名前はアスランにしよう!」
「なんの話だ」
 クリスマスは興奮する僕を怪訝顔で見る。
「今、童話を書いてるとこなんだ。主人公はトパーズみたいなドラゴンに騎乗する勇者。名前をどうしようか悩んでて」
「トパーズに乗っているって、まるであやつでも書くみたいな口ぶりだな」
「親父が……その王がモデルだから」
 とたんにホビットは笑い出した。僕は恥ずかしいのを通り越し、憮然となる。
「そんなに笑うことじゃないだろ」
「子供とは名ばかりの腰抜けのお前が!? 王の城すら見たことすらないお前が!! 王を語れると思っているのか!?」
「見たことなくても親父の姿くらいわかってみせるさ」
「どうだか。いったいどんな話にするのか聞きたいもんだな。どうせ荒唐無稽な話に決まってる」
 売り言葉に買い言葉、僕は頭が熱くなるのを抑えられない。
「ああその通りさ。好きなだけ笑ってろ。ついでにあらすじも教えてやる。勇者が王様になるまでの物語だ。勇者の頃は冒険に次ぐ冒険の日々で、強敵を倒し、困っている人を救ったりするんだ。もちろん騙されたり怪我を負うし、出会った仲間と一緒に生きていくんだ。波瀾万丈に満ちた経験から、最後に彼はすばらしい国を作るんだ」
「それはおもしろい。その王には、ぜひ一度お目にかかりたいもんだ」
「これは童話だ。子供が読む本だ。それに親父もそんな王様になりたかったんじゃないのか」

 小人は笑いをやめた。

 言い切った僕も肩の力が抜けて、そのまま椅子に腰を下ろした。
「くだらん。夢のまた夢。そんな腰抜けの王は塔にでも幽閉しとけ」 
 吐き捨てる口調のわりにどこか照れがある横顔。この王の友人も同じ事を考えていたのかもしれない。僕は苦笑する。
「クリスマスってホビットのくせに冷たいよね。陽気な一族だって聞いたけど」
「わしは祭が嫌いな変わり者だ。だからこそあやつとウマが合う」
「変わり者同士ってことか」
 そんなところだ、と小人は笑った。
「物語の中ならそれもいいだろう。あやつもどこかでそんな国を求めていたかもしれん。書いてやれ」
 静かにうなずくのを見て、かえって胸が詰まる。
 華やかであろう王族のはずなのに、生まれてからずっと日陰で生きてきた彼の結婚生活は、心安らぐどころか后の血に染まる寝室で終焉を迎えた。アスラン王の現実を知ったことで、書こうとしていた童話に新たな目的ができていた。
――そんな父を子供の僕がすこしでも救えたらいいと思う。
 クリスマスはにやりとした。
「王の半生を書くなど、まるで吟遊詩人だな」
 吟遊詩人という肩書きに、くすぐったく、すこしいい気持ちになった。
 夕陽の向こうにいる王のすべてを、子供の僕が文字に託して歌い上げる。
「それとも道化か」
 とたんにむっとする僕を、クリスマスはくすくす笑う。
「好きに言ってろよ。僕は書くだけだ」
「好きに書けばいい。あやつも喜ぼう」

 クリスマスはおもむろに立ちあがった。

「じゃあわしは行く」
「クリスマス」
「なんだ」
「僕はここから親父、いや、アスラン王を見てることにするよ。ここから親父とその国に住む人たちがしあわせでいられるように、アスラン王の息子として書きながら祈ることにする。……それしかできないけど」
 重く息苦しい沈黙がおりる。
「そうか」
「うん」
「二度と王に会わなくてもいいんだな」
 間をおいて、僕はうなずいた。
「本当は会いたかったよ。たくさん言いたいこともあったし、トパーズに乗りたかった。おふくろが再婚しないで、今も一人でいる事も言ってやりたかった――もしかしたらもう知ってるかな。二度と会えなくても平気。昔からそう思っていたから、今こうして親父の本当の名前を聞いただけでもラッキーだったと思う。ほかにもいろいろわかったし。クリスマスのおかげだ。ありがとう。だから」

 涙がこみ上げる。

「もう、いい」
「決意は固いようだな」
 ホビットにも自分にも決意を示すようにうなずく。
 僕は今やっと、もうひとつの故郷を切り捨てた気がした。これで本当に未練はない。もう二度と行きたがらないだろう。
「――そうだ。クリスマス、親父に渡してほしいものがあるんだけど、頼んでいいかい?」
「わしが持てるものならな。なんだ」
「家族の写真。親父に渡して」
「シャシン」
 僕は本棚から小さなアルバムを引き抜いて渡す。小人は自分の顔くらいある大きな本にすこし難儀したようだ。
「絵みたいなものかな。僕もおふくろも写ってるし。こちらの思い出があってもいいだろう」
「しかと引き受けた」
 クリスマスはよろよろとしながらも小さな手でしっかりと持ち、パソコンを軽く蹴った。
 僕はゆっくりと浮きあがるホビットを見つめる。
「親父に伝えて。僕はここで親父を書いてるから……ずっと書いてるから」
 天井間際で小人はちいさな背中を向けた。そこで消えると思ったが、おもむろにズボンからなにかを取り出し、投げてよこした。
 親指くらいある牙だ。軽くて堅く、荒々しい雰囲気が恐竜を思わせる。
「トパーズの抜け落ちた牙だ。ドラゴンの牙は幸運をもたらす」
 これが夢に見たドラゴン、その牙。
 涙が頬を伝い、ごまかすように牙を手の中に包んだ。
「ありがとう」
「アスラン王は妻を殺めなかった息子を誇りにするだろう。これは必ず渡しておく。達者でな。さらばだ」
「さよなら」
 クリスマス、と言おうとした時にはもうちいさな姿は消えていた。
 剣の跡とトパーズの牙を残して。

 僕はしばらくしてから寝室に向かった。とにかく彼女のぬくもりが愛おしかった。あどけない寝顔を見ていたかった。未練はなくても後悔はある。それを少しでも軽くしたかった。彼女の寝顔は僕だけの女神のように優しく、すこし微笑んでいて、つい涙が滲んでくる。
 選択は正しかった。これで良かったんだ――これで。

 次の日。母は僕たち一家へ短い手紙を残して姿を消した。最後の一行は特に親戚を騒がせたが、僕は最後までなにも言わなかった。行き先を言ったところで誰にもわからないだろう。

‘ごめんなさい。おとうさんの所へ行きます’ 
 
 僕はもう夕陽を恨みうらやむこともないだろう。だけどあの日も一生忘れない。そのためにここで言葉に思いを託していく。書き出しはこうだ。 
 
<ぼくのお父さんの話をしよう。お父さんの名前はアスラン。そう、あの伝説の勇者だ> 
 

 (2003年6月15日up/2020年5月6日改稿) 
 
参考文献  C.S.ルイス「ナルニア国物語」