サクラ前線、走る。

 そのサクラに出会ったのはコントル河の中州だった。コントル河は広くて浅い河だ。水も澄み流れもおだやかで、夏となれば水遊びの地上種でいっぱいになる。
 しかし今年のコントル河は、まだ肌寒い時期だというのに地上種でいっぱいだった。それも水遊びではない。全員「サクラ前線」である。中州を陣取る大木を囲むように、誰もがめいめいのスタイルで一本の大木を見つめているのが証だ。
 サクラは樹齢二十年も超えると自走する。理由はわからないが、花が咲くと幹を揺らして地に這う根を自力で抜き、どこかへ向かって走る。そして、誰にも止められない。
 この自走サクラを追う地上種を「サクラ前線」と呼ぶ。追う理由は様々で、ただサクラを見たい者もあれば、なにか研究のために追う者もいた。共通することは、サクラの季節になると居ても立ってもいられなくなり、それぞれ装備してサクラを追いかけること。
 今やってきた男は、十年以上自走サクラを追いかけている、古いサクラ前線のひとりだ。長年愛用しているカメラをなでながら拠点を探していると、小高い野原に知り合いを見つけた。サクラ色の望遠レンズを調整している体格のいい背中といえば、あいつしかいない。
「よ」
「おう。やっぱり来たか」
「当たり前。いやいや、ここは混雑してるな」
「おう。あいつのおかげで、季節はずれの夏休み状態だ」
「だな」
 いつも会う顔と一年ぶりに交すやりとりに、どこかほっとして笑った。自分も側でカメラのコンディションを確認する。異常なし。
「いやいや、また見事なサクラだな。どうだ」
「おう、もうすぐだろう。咲き始めたし、しばらく晴れるようだ」
「いいね」
 サクラを見つめながら、知り合いと今までの話をする。引っ越した先におもしろい湖があること。意外なところから仕事の話が来たこと。飼っている猫の癖。他愛のないことばかりだが、この時間がなかなか楽しい。
 言葉が途切れたあと、知り合いが真顔になった。
「サクラの唄って知ってるか」
「知ってる。でも伝説なんだろ。あればいいよなって思うけど」
「ある」
 は。と聞き返すが、知り合いは真顔を崩さず、声を落とした。
「サクラは歌う。ほんとうに歌うんだ。満開になって、機嫌がいいときに、あいつらは歌う」
「いやいやいやいや、まさか」
「こっちだってそら耳かと思ったんだ。でも、聞こえたんだ。しゃらしゃら言った」
「ほんとうにそういう音だったのか」
「おう。そういう音だ」
 うなずく。
「去年、一度だけだが、聞いたんだ。しゃらしゃらって、ちいさな貝かなにかの音かと思った。でもそこは丘のてっぺんで、そんな音を立てるもんはない。でもはっきり聞こえた」
 話し続ける真顔が、より話に真実味があるように思えた。
「唄が途切れて。あれっと思った。そしたら、一気に、ぶわっと、花が散った。気づいたときには、花びら一枚ついてないサクラの樹があるだけだった」
 おかげで咲いてる写真は撮れなかったよ、と知り合いは遠くを見て言った。
「すごかった。忘れられない。唄を聞いたのはそれ一本だけだ」
 サクラは歌う。だがそれは伝説だ。
 しかし、ほんとうにあるのなら。
「いいな」
 漏れた言葉に、知り合いが笑う。
「おう。そっちもいつか聞けるかもしれないぞ」
「いやいや無理」
 そんな話をして二日が経っただろうか。
 ずず、と地鳴りがした。
「来た!!」
 誰かの声とともに、サクラ前線たちはとたんにあわただしく荷物を持ちはじめる。
「おう、はじまった」
「いやいやまいったね。まだ八分咲きだろ」
「あれだけの樹だからな。いろいろペースがあるんだろ」
 ぐぐぐ、と根が地面から身を起こし、ぎしいと幹がゆれて花びらが舞った。
 いよいよ自走が始まる。
 誰もが息をのんだ。
 しかし。
 期待をよそに、大木はそこで動きを止めた。
 間をおいて、いぶかしがる面々が大木に近づいていくのが見えた。知り合いは遠くの集団に向かって手をふる。
「いやいや。まだ近づくのは危険だろ」
「おう、こっちもそう思うぜ」
 うなずきあったとき、どん、と地面が揺れた。ふとい根が地面から突き上げ、半数のサクラ前線が吹っ飛ばされていくのが見えた。見せつけられた状況に、丘の上のふたりも顔がひきつる。
「いやいやいやいや」
「お、おう」
 ずん、ずん、と根を器用に動かしながら、大木は方向を変える。
「いやいやいやいや?」
「お、おう、おおおおおお?」
 大木が急激に近づいた。
 いや、違う。
 こっちに来たのだ。
「いやいやちょっとちょっと!!」
「ううおおおおお、逃げろ!!」
 周囲にいたサクラ前線たちは散り散りに駆けだした。ふたりはそれぞれわずかにくぼんだ草地に入り、荷物を抱きかかえて身を伏せる。とたんにふとい根が頭をかすめ、土が激しく降りかかった。
「そっち、気をつけろ」
「おまえ、うしろ、根」
「でかいだけに迫力あるな」
 ドン、ズズズ、ドン、ズズズ
 根をふりあげ、おろし、ひきずるの繰り返し。ぎしぎしと幹や枝を揺らし、花びらを舞散らす。
 轟音が遠ざかったのを確認し、立ち上がった。
「おおおおう」
「いやいやいやいや」
「お。だいじょうぶか」
「いやいやいや、なんとか。そっちはどうだ」
「あのう、そこの折れた枝、それです。取ってくれませんか。あ、どうもどうも」
 声をかけられた知り合いが、足元に落ちていた枝を取って渡した。折れた枝を集めているらしく、彼の手にはすでに数本の枝が握られていた。
「杜之宮(もりのみや)さん、こっちです、こっち。ほら、でっかい巣」
「はいはい。わあ、いっぱいいますね。うれしいなあ。あ、でも容器足りるかな」
 掘り起こされた地面だけに貼りつくサクラ前線は、虫の採集や地層研究組だ。撮影組も機材を背負い直す。
「いやいや、はやいね」
 痕跡に圧倒している間に、当の大木はコントル大橋の向こう側を自走していた。早く追いつかないと見失ってしまうだろう。知り合いは組み立て終えたマウンテンバイクの上で笑った。
「そいじゃ、サクラの下でな」
「おう。サクラの下で」
 手を打ちあって、マウンテンバイクを見送った。こっちは徒歩だ。自分に合ったスタイルで自走樹木を追う。
 サクラの下で。
 サクラ前線同士の別れの言葉だ。サクラ前線なら、離れてもいつかまたサクラの下で会う。同時に、また次の季節にサクラが咲くことを願うという意味もある。
 強い風が吹いた。はるか遠くでサクラの花びらが舞い上がる。
 あそこか。よし。
 写真家は大木めがけて走り出した。

 そのサクラが自走を止めたのは、山奥の山奥のさらに奥の、切り立った崖の底。暗い谷底でぽっかりとひかりが当たるその場所で、ひなたぼっこでもする動物のように、大木はぶるっと花を揺らすと、そのまま動きをとめた。
 ひとりのサクラ前線が、数メートル離れた場所で息を切らせて汗をぬぐう。背中の荷物が疲れたようにすべり落ちた。
 長かった。ここに止まるまで、サクラは岩を乗り越え、川をのぼり、杉をなぎ倒した。こっちは飛んでくる小石をよけ、川を泳ぎ、倒れてくる杉をかわし、かろうじて追いかけてきた。その間に知り合いの姿を見失い、ほかのサクラ前線も数を減らし、とうとう自分ひとりとなってしまったらしい。
 最後まで粘った自分も、さすがに限界がきている。次に大木が動き出せば黙って見送ることになるだろう。ここで見る姿が見納めだ。
「いやいやいやいや……」
 水を飲んで、やっとひと心地ついた。あらためてサクラを見やる。じゃあ撮り納めといこうか。
 レンズを覗き込んで、言葉をうしなった。
 暗い谷底で鮮やかに照らされた鮮やかな薄紅色は、今まで見た色が褪せるほど、はるかにうつくしかった。
 ところどころの花はちぎれ散り、枝は折れ、ほそい根はちぎれて先がない。それなのに見事に花を咲かせている姿は、このサクラの勇姿そのものに思えた。
 そのときだった。

 しゃらり、しゃらん

 たくさんの鈴が鳴りだした。ここは山奥の谷底だ。鈴などどこにもない場所のはずだ。
 しかし小鈴の澄んだ音は谷間に響きわたり幾重にもひろがり重なっていく。

 しゃら、しゃらら

 サクラの唄だ。
 手の中のカメラがずり落ち、我に返った。撮らなければ。

 しゃん、しゃらしゃらしゃらしゃら

 サクラの唄を聞きながら撮影する。フィルムが終わったら手早く入れ替え、またシャッターを押した。

 しゃらしゃらしゃらしゃらしゃん
 しゃん。

 始まったときとおなじように、まえぶれもなく唄は止んだ。
 レンズから顔を上げたときだ。

 すべての花びらが散った。
 空を舞った薄紅色は、ゆっくり、音も無く、地表に沈んでいった。

 大木はそれきり動かなかった。
 花びらをすくっても鈴の音を立てるわけもなく、静かな谷底で、薄紅色の上で枝を広げたまま、射し込む光を浴びて、眠ったように見えた。
 ほんとうに眠ったのかもしれない。

 それからも多くのサクラに会いに行ったが、サクラの唄は聞こえなかった。

 しゃらしゃらと谷間に響く唄は、薄紅色に染まる谷底の残像と一緒に、耳の奥に残っている。花よりも唄を求めている自分がいる。あの知り合いもこういう想いを抱えて追っているのだろうか。自分も聞いたと言ったらどんな顔をするだろうか。
 サクラの下で。
 またいつか。


(2010年7月26日up/2020年5月2日改稿)