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みっともなくったって、これが私だ。

以前、私が父の会社を手伝っていた頃。

日系の中小企業で、どこまでも男性社会な会社。そこの海外事業とやらを娘という立場で手伝っていた。

一時は英語の専門学校の教育部と広報部を卒業後もパートで手伝っていたが、様々なきっかけで父の会社だけに専念すると意気込み、正社員になった。自分のプロジェクトももらい、海外出張にも行った。しかし、私はそこで現実を見た。娘という立場、男性社会での女性という立場の弱さ。

すごく長い話を、少しだけ短くまとめてみる。

私は結局、きっと心の奥底ではどうしても父を助けたかったのだと思う。息子のいない父、女性では進出できない産業。海外のお得意先では「問題はそう難しくもない。今時は雇われ社長もいる。お前は女だが、何もせずにそこにいればいいだけだ。それくらいできるだろう。」という”アドバイス”をもらった。母国に帰ったら帰ったで、「お父さんはもう歳をとっている。君は覚悟を決めたのか。僕たちは知る権利がある。君は、腹を括ったのか。どうするんだ。会社を引き継ぐなら、姉妹の中では君だろう。なら、女だけれど、きちんと今から数年準備すればいい。僕たちは待っているんだ。」と上司から言われた。

そして気づいたら、毎朝、ベッドから出れなくなっていた。

寝坊して会社に行くと父に呼び出されて、本気で怒られる。なのに感覚が鈍ったかのように、それが一般常識の人間だったら「やばい。」と悟る自分の行動にもボーッとし、すみませんといい、2分後には罪悪感も消えていた。そして重要な打ち合わせがない限り、私は定時に出勤できなくなった。父はあくまでも私が寝坊助で救いようもない、とんだ娘だと思ったのだろう。精神の問題だと思われるより、そう思われていた方が楽だし、救われていた。

イベントがあると40連勤する時もあった。女性でいることを舐められるためスーツも、ずっとパンツスーツを履いていた。海外出張の際は、日本語しか話せない男性陣たちを引き連れて若い私が飛行機からホテル、工場に会議、毎晩の会食や1日中通訳をするのに、そのプレシャーに毎回必ず不正出血が2週間止まらなかった。トイレに行く暇さえなく、もはや膀胱炎とは親友レベルだ。朝ごはんでさえ、日系の会社ながら毎朝6時にスーツで集合。ホテルでみんな一緒に食べた。酔っぱらった上司に「お前食べて聞いてねーでちゃんと訳せよ」と顧客の前で叱られたこともあったけれど、出張で苦しくて泣いたことはなかった。女々しく泣いて降参したくなかったし、”お前はなんか違うよな、まるで男みてぇだな”という言葉をもらうたびに、手応えを感じた。出張の最終日、やっと空いた空き時間で「ねえ、キャバクラのこの子にあげるネックレス選んでよ。」というおじさんたちにも付き合った。奥様へのお土産だって、全部一緒に選びお店を探した。どんな形だって、NOと言わなかったし、ぶりっこも一切しなかった。指示されたら「はい!」だけだ。そんな生活をしていくうちに、自分にも仕事に対する男性陣との間の「絆」や「プライド」が生まれてきた。

母に一度、申し訳なさそうに、「ごめんなさいね。こんなに忙しくて全く暇のない仕事を娘にさせちゃって。こんなことになるとは思っていなかった....。」と言われたのを覚えている。

基本怠けているのに、日に日に責任感と共に悲しみを感じるようになった。

本音を言うと、こうやって仕事をしてきて私は、父親としてはともかく経営者としての父をとても尊敬していて、娘として頼りにして欲しかった。それでも、ずっと頑張ってもそれは無理だとわかっていた。おじさんだらけの役員会に私が父の代わりに出るのは、会社として成り立たない。株主総会なんてもってのほかだ。肌でも感じたが日系はどこまでも特殊で、男性社会の根が深すぎる。

プライドなんか感じちゃって、何をしているのか。私は結局ここまでやってきても、何も役に立ってない。きっと上司をはじめとした大好きなこのチームも、私が娘だから優しいのだ。きっと飲み屋ではボロクソ言われているのかもしれない。いくら褒められても、絶対に調子に乗らないようにしよう。そう決めていたから、いくらうまく何かをして褒められても一瞬の感動だけで、その嬉しさはすぐに消去された。「どうせ本心じゃない。」

「ももちゃん、うちらのことはなぁ、お兄ちゃんともう一人のお父ちゃんと思っときぃ!ここまできたら、海外出張も乗り越えた感動のチームや!」

「ももさん、この手紙を書いているのは、あなたがこの2週間どれだけ私のリクエストに忠実に答え、全てをこなしてきたかを伝えるためです。」

そんな言葉たちも、本心じゃない。会社を継げない娘と、この会社を信じて前線で頑張ってくれている彼ら。私はそんな彼らに「大丈夫です。父に何があっても、この会社は私がどうにかして面倒みます!ついて来てくれる皆さんと!」そうも言えない。この時間はなんなんだ。あまりにも失礼じゃないか?.....違う。

本当は。

本当のところは。

私は彼らが大好きだった。大好きで、褒められたら心の中でウサギのように喜んでいた。一緒にずっと働いてきて一番認められたかった存在、支えてくれて、大好きな上司たちだった。だからこそ、素直に喜べないこの数年が、素直に喜べない私が、自分を気づかないレベルで苦しめたのだと思う。


3年目、私は逃げるように会社をやめた。

3年目過ぎて4年目に入ったら、社員のみんなはきっとももちゃんが社長になる決意ができたと思って扱うと思うぞ。そう言われた一言を忘れず、社員全員の生活を保証できない自分に気づき、覚悟ができず逃げるように転職をした。それもギリギリまで、父に何も気づかれないように準備した。

私は、父になにかあった時、会社を引継ぎ、そして.....社員全員の人生を抱えたまま倒産をしてしまうかもしれない...そんな責任、考えただけで涙が出てきた。

ごめんなさい。本当にごめんなさい。朝もちゃんと起きれずごめんなさい。怠けてごめんなさい。本当にごめんなさい。でも、あれ以上にはどうしても本気にはなれなかった。だって、本気になったら、もっと苦しんでいた。私は、あの姿じゃないと、あのペーペーな娘でいなければ、きっと心を病んでいた。だから、ごめんなさい。何にも答えられなくてごめんなさい。娘としてだけじゃなく、会社でずっと私に対して希望を与えてくれていたのも知っている。ごめんなさい。裏切ってごめんなさい。チームのみんな、ごめんなさい。

「ももちゃん、次はなんや、外資系からオファーか!すんごいな!でもあれやな急やな!ま、俺はな、色々あるけど応援してんねん。外にでんとわからんこともいっぱいや。だから学んでおいで!これでええんよ、こっちは大丈夫や!」上司は肩を落としていたが、先輩が最後にこう言ってくれた。

一瞬、肩の荷が落ち感謝の気持ちでいっぱいになった。でもすぐに「本心じゃない。」と意識が戻り、冷静な面持ちで丁寧にお礼を言い、退社した。

もう、疑わない場所で仕事がしたい。自分の能力を、褒めてもらったことを、100%疑わないで素直に感じれる健全な環境で再スタートしたい。それは果たして可能なのだろうか。私は、この会社以外でも通用するのだろうか。そんな事を考えていたら、未来に対するドキドキどころか動悸でアドレナリンが出てきた。なぜなら、退社したその晩、私は羽田空港にいた。休暇もとらず、週末休みもせず、新しい仕事の研修で5週間シンガポールに飛ぶために。

なんでそんなドラマクイーンなの?そんなタイトなスケジュールじゃなくてよかったでしょ。と思われるかもしれない。でも正直に言うと、私は、退社して、その晩どう父親に家で顔を合わせればいいかわからなかった。だから、退社と同時に父の前から5週間消えたかった。3年も働かせてもらって、こんなにも機会をくれた後、合わせる顔なんて、持ち合わせていかなった。

家族に挨拶もきちんとせずに、一人で深夜の便でシンガポールに向かう。大学も卒業していない。外資でも働いたことはない。留学経験もない。ただ、男性社会で数年揉まれただけの小娘だ。でも、シンガポールについて翌朝ホストファミリーとソファーで撮った写真の私が言っている。

みっともなくたって、これが私だ。

罪悪感も、希望も、悲しみも。
全部感じた最後は、満面の笑顔だった。 

もも





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