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Maison book girlの配信ライブを観た

こんにちは。一人称です。

今日は昼過ぎに起きて、病院に行って、買い物して、本読んで、配信ライブを見て、ゼミのレジュメを作って、現在。なぜか体を動かした日(昨日)は寝るのが逆に遅くなることがよくあって、次の日が起きるのも遅くなれば体もあまり休まってないというひどい状況になります。ゼミの本も何言ってるのかよくわからないし…。

今日はMaison book girlの配信ライブ、Solitude Box Onlineを見ました。Maison book girlは一応アイドルということになっていますが、アイドル然とはしていません。アートというかパフォーマンスというか、そういうものとして見ています。

最近はもうMVすら実写にならなくなってきました。私にとってMaison book girlは唯一好きなアイドルで、それはアイドルらしからぬグロテスクでスタイリッシュな世界観、変拍子を多用しつつメロディアスな音楽、そしてめちゃくちゃかわいい矢川葵さん(大好き)、この3つの要素を備えており、私にとってはどれ1つとっても他のアイドルが勝るところはありません。ライブも毎回演出に趣向を凝らしており、ある種の映像芸術として見ています。音楽、映像、ダンス、詩などの統合体として、ワーグナーの言うところの総合芸術の一つの現われだと思っています。

ということで今回のオンラインでのライブ配信。いつもは距離こそ離れていても一つの空間に観客と演者がおり、そうした実体の上に仮想としての映像が加わって演出されていたわけですが、今回は演者はもうディスプレイ上の存在になっているので、演出の映像と同じくディスプレイからの光として現れる存在になっていたわけですね。コロナ禍下でのライブ配信と言うと「カメラの前のみんなが楽しんでる姿が目に浮かびます!」みたいなMCとかが想起される(アイドルならなおさら)と思いますが、そういうことをする人たちではありません。映像をリアルの単なる代替と捉えているわけではありません。ライブ配信の映像だけではなく、以前行ったライブの映像なども交えながらの構成だったため、ライブ配信であることを示す「LIVE」の文字こそついてはいるものの、本当にそれが今どこかのライブハウスで踊られているものなのか、あるいは遠い昔に観客の前で踊られたものなのか、判断する余地はありませんし、そもそもこの2つを異なるものとして認識することも不可能のようにも思えます。

「レインコートと首の無い鳥」が4回も連続で演じられたことにはクラクラしました。同じ曲が何度も再現され、曲という枠線や、ライブのアウラ性が残酷にも引きちぎられる。同じ曲を2回やるとかは以前もあったので、2回目には特になんとも思わずに「お、またやってるな〜〜」位の感覚だったのですが、3回目、4回目と続けられるごとに、このまま永遠とこの曲が続けられ、アポカリプティックサウンドと化すのではないかという気すらしました。

2回目の「レインコートと首の無い鳥」にて、終盤までは1回目と特に変わらないパフォーマンスだった(ように見えた)のですが、アウトロでメンバーの一人が立ち尽くして床に置かれたカメラの方を見つめ、指差していました。画質の良くないカメラに映る彼女は、防犯カメラを見つめる犯人のようで、あるいは防犯カメラの映像を見て犯人を決めつける警察官のようで、あるいは指差し作業員のようでもあり、空恐ろしいものでした。そして、曲が終わると、別のメンバーがそのカメラを手に取り、3回目の「レインコートと首の無い鳥」へ。そのカメラ(実はスマートフォンだったのですが)を各メンバーが手渡し合いながら踊り、ステージにいるメンバーの視点での映像が配信されました。4回目では、再び普通のカメラの視点に戻り、別の映像が重ねられた演出になりました。

アイドルの配信というと、インスタライブなどでファンと楽しくしゃべるなどのゆるい配信が想起されます。そうした状態では、そのアイドルは自律的に会話をしているために人間として認識することが容易です。ただ、ステージに立っている状態では、もはやそれは人間的というよりもプロデューサーによって演出され(アイドル=偶像という言葉がしっくりきます、ブクガオタクのみんなはサクライケンタのことを崇拝していますか?)、演者としてなにかに憑依された一つの舞台装置でしかないと考えてきました。Maison book girlはMCもほとんどしないし、各メンバーの本性はみんな可愛らしい女の子(?)なので、なおさらです。しかし、アイドルはステージ上でも人間であり、身体的な動作を通して(あくまで能動的な主体として)積極的に演じているということに、今回のスマートフォンを手持ちで配信するという形態を通して、初めて根源的に理解ができました。息を切らしながら踊り、腹の底から歌う。確かにプロデューサーによって作られた虚構の存在であっても、ステージ上の彼女たちは<ライブ>な存在としてそこで躍動しているわけです。神の啓示みたいなものでしょう。ドキドキが止まらなかった。とはいえ、もちろん先述のように、これもただの映像。本当にライブ配信かどうかを見極めることはできませんし、すべてCG合成の可能性だってなくはありません。

私は握手会とかチェキ会とか一切参加したことがないし、今後も参加することはないと思うのですが、直接会って話をするということが非常に恐ろしく感じているのだと思います。もちろん眩しすぎて、可愛すぎて、ちゃんと喋れなそうとかもあるとは思いますが、上記のように、Maison book girlという存在を一つの有機的な(=完全な=それ自体として美しい)装置として捉えているため、その装置に対してこちらから主体的に介入することがありえない、許されないと感じています。もしかしたら今日の体験は、その自分の中で禁じていた行為にすこしだけ足を踏み入れるものだったかもしれません。皆さんはルーブル美術館に行って、モナリザに触りたいと思いますか?

というわけで、今まで見たコロナ禍下のライブ配信のなかで一番有意義な時間になりました。なんなら今後全て映像だけで活動してほしい、というか映像になってほしい、映像だけで活動するアイドル、良さそうじゃないですか?(Vtuberの興隆にも呼応して)

最後にめちゃくちゃかわいい矢川葵さんのTumblrを紹介して終わります。改めて、絶対会いたくないな、と思います。トップ画像はワタリウム美術館でやってたフィリップ・パレーノ展より。特に理由はありません。それでは。

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