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パーティーメニューと盗めるアート展

こんにちは。一人称です。

一昨日は起きて、都心に行って、面談して、帰ってきて、寝て、昨日は昼過ぎまで寝て親とドラマ(東京女子図鑑、やまとなでしこ)を見て、本を読んで、寝て、今日は起きて、買い物に行って、シフォンケーキを焼いて、ゼミを受けて、ご飯を作って、食べて、現在。

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今日は母親の誕生日で、特にプレゼントを欲する感じの人でもないということもあり、パーティーメニューを私が作りました。オリーブとサーモンのサラダ、えびとたこのトマト煮込み、カリカリポテト衣のフライドチキン、ほうれん草とトマトのキッシュです。母親はこういうメニューがとても好きです。私も好きです。ここまで多くの料理を同時並行的に作るのはやはり難しいですね、2時間半くらいずっと料理していました。キッシュをちゃんと作ったのは初めてですが、母がよくかんたんキッシュ(生地を準備するんじゃなくてパン粉で外側覆うやつ)を作っていたということがあり、じゃあちゃんとしたキッシュを作ってみようと思い立ち、やってみました。生地を練って、寝かして、広げて、オーブンで焼いて、そのあとほうれん草を茹でて、具を炒めて、もう一回オーブンで焼くというなかなかの手間でしたが、めちゃ美味しくてよかったです。オーブンって素晴らしいですね(自分の部屋にオーブンがない人)。オーブンを開ける時のワクワク感、玉手箱っぽいし。実家には低温調理器もあるので、近いうち低温調理もやりたいと思います。サラダのオリーブが多すぎるのはオリーブだけ弟に任せたせいです。多かったです。

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シフォンケーキも作りました。手前のケーキは市販のメロンのケーキです。シフォンケーキは小学6年生の頃によく作っていて、メレンゲが固まるということが神秘的で大好きでした(なお軽い卵アレルギー)。今回はややしぼんでしまいました、紅茶を入れたからなのか、メレンゲの泡立てが足りなかったからなのか、こうしていろいろ失敗しながらその理由を考えていくということも好きでした。小5〜6は本当にお菓子作りのピークで、ケーキやらパイやらグミやら色々作っていたのですが、シフォンケーキは特に好きな料理で、今日シフォンケーキを焼いたことを学校から帰ってきた弟に伝えたところ「まだあったんだ」「このシフォンの型が?それとも私の技量が?」「両方」というコミュニケーションがありました。

この数ヶ月、自分で食べるために料理を作ってきたわけですけど、やっぱり人に食べてもらうとまた違いますね。特に今回はまあまあ美味しくできたというところもあり、美味しいと言ってもらえるのはやはり嬉しいですが、その分、美味しくないものを作ってしまった場合の責任みたいなものも感じてしまいそうです(?)。

続いて、盗めるアート展についてなんとなく思ったことを軽く書きます。どちらかと言うと7月9日というよりも7月10日の日記の内容っぽいですけど、実際数十分前倒しになったようなので、これでもよいでしょう。

盗めるアート展、初めは、と言ってもSNSでバズってから見かけただけですが、かなり面白そうだなという気持ちでした。なるほど案外アートを盗むってあまりない視点だな、そういう展示って見たことないな、と。アニメの中に出てくる「怪盗」はよく芸術品を盗んでいるし、たまに本物の名画が盗まれていることもあるけど、それを演出するような展示ってたしかにない。学生レベルならあるのかもしれませんが、今回の展示では普通に名だたる現代アーティストが参加していますから、内容についてもそれなりのものが確保されているだろうな、と。ただ、その後「盗めるアート展」でTwitterを検索した際、「女の子にコスプレさせてキャッツアイにして盗ませようかな」とかいうおじさんのツイートがあり、うわあ…と思って、しばらく距離を開けていました。

そして7月10日午前0時に開場ということでしたが 、会場の前に人が密集し、警察沙汰になり、実際は20分前くらいに開場し、15分で全て盗まれ、終了。集まった人の中には、ルパンやキャッツアイはもちろん、ミッキーマウスのコスプレや、金色の全身タイツの人もいたようです。

これを見たとき、うお、すげえ、と思いました。まず、このアートの展示がコスプレをする場として捉えられているのか、と。Twitterを見てみても、「こんな作品盗んできました〜」という文面とともにコスプレをしている画像が投稿されていたりします。単純に、このコスプレイヤーたちの想像力と、場を乗っ取る/場を作り出す力が超強い。そこはもう、まるでコミケのように、彼らの場所になってしまうのです。ランドアートなんかよりよっぽどすごいですよ。コスプレについて詳しいわけではないですが、コスプレイヤーはそのコスプレをしている時点でキャラクターとなり、社会の文脈から外れ、「浮いた」存在、特異な存在になるわけですよね。現代アートの閉鎖性、社会との不連続性がここで呼応するのか、と。

この盗めるアート展、そしてこの会期中のsame galleryは、展示、作品を見る場所としては機能していなかったことでしょう。盗めるという事後的に作品に付与された特徴によってのみ把捉されるということは、「展示」という文脈が作品そのものを暴力的にも破壊するという、芸術の現在の受容のあり方をラディカルに表していると思います。作品が取り合いになったから、じゃんけんで分割して持って帰ってきたというようなツイートもありました。作品が死に、文脈のみが生きるというこのような芸術のありかたは、街にあふれるランドアートには目もくれず(ランドアートはインスタ映えという文脈で、”望まれない形で”復権しているようにも思いますが)、美術館という文脈設定でのみしかアートを語ることができない人たちに対する大きな警鐘であるといえるでしょう(めちゃくちゃ自戒を込めて)。

そしてもちろん、盗めるアート展がこのようになったのはSNSにおける情報拡散によるものでしょう。より質的に、SNSによって盗めるアート展が生まれ、SNSによって盗めるアート展が一瞬で終了するような社会が作り出された、と言うこともできます。一見繋がっているようにも見える、それぞれの狭い狭い世界が、実際の世界において交差することによって、さまざまな齟齬(もしくは感染)が起きる。そして私はそんなSNSをみてnoteというSNSで文章を書いている。転売もされているらしいですが、情報をSNSから得ることと、実際の<作品>をメルカリというある種のSNSから得ることと、特に違いがあるようには思えません。

今まではなんとなく真面目に書いてきましたが、私にとって一番嫌だな(ということは三周回って面白いということでもありますけど)、と思ったのは、芸術を見たくて、あるいは芸術の文脈の中でアートを盗むことをしたくて展示に行った人と、そうではなくコスプレをして盗むことを楽しむ(もちろんこれも一つのアートの受容ではありますが)人との交差が起こることでした。それが、おそらく後者のみで終わったということには、私にとっては驚きを感じたとともに、少し安心もしました。芸術の世界はある意味で、狭くない、SNSは閉じられていると同時に開かれているんだ、と。主催者がこのような顛末を予想していたか、期待していたかはわかりませんが、おそらく、「盗めるアート展」は今後もいくつか展開されるのではないか、と思います(ブラックボックス展のように訴訟などが起きてその展示名自体がスティグマになってしまえば別ですが)。SNSで告知せず、それどころか展示をやることすら公表せず、ただ展示をやり、「ご自由にお持ち帰りください」と書いてある、だとか、それをスーパーや百貨店の中、あるいは野菜の無人販売所で突然やるだとか。もしくは、福島第一原発事故での立入禁止区域において「Don't forrow the wind」という展示が行われていますので、ここで盗めるアート展をやってみるとか(監視カメラで常に見られているというのはあの指差し作業員(本note2回目の登場)とも関連できてよいのではないでしょうか)。あとは「盗める音楽展」「盗める映画展」とかね。盗むって言った時、どうしても物質的なものを実際に持ち帰る(大きな袋を持っている人の写真も上がっていました)ことが予想されますが、「アート」と言われたとき、それが本当に持ち帰ることのできるものなのかはわかりません、それこそ美術館においてあるからこそ価値があり、盗んだ時点でなんの価値もないものになるのかもしれませんし、逆に音楽や映画はマテリアリティがないがゆえにポータブルであり文脈を問わずに価値が認められているのであり、それを盗むとはいったいどういうことなんだろうな、と。

といったような感じで、とりとめがなにもない感じの文章でしたが、私は今回のムーブメント、結構好きです。料理も楽しかったです。それでは。

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