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『日記』

こんにちは。一人称です。

今日も普通の日常を送っていたら一日が終わってしまいました。起きて、YouTube見て、洗濯して、昼寝して、ゼミを受けて、買い物行って、ご飯作って、現在。変わったことと言えば、なぜか朝6時に目が覚めてしまったことくらいです。

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夜ご飯は海老のチリソースと、たけのことしいたけの中華スープでした。”料理の略称で人口に膾炙ランキング”があった場合、「エビチリ」はかなり上位に来ていそうですね。ちなみに「人口に膾炙する」はなますと焼いた肉が美味で多くの人の口に合うことが由来なので、件のランキングでエビチリが一位になった場合には「人口にエビチリする」になると思います。

書くことがないときはメディウムを疑えという言葉を今作ったので、今回は「日記を書くこと」について書いてみようと思います。

私はいわゆる日記を書き続けられた記憶がありません。強いて言うなれば、去年の夏に1ヶ月留学していたときの日記くらい。それも最終日分は書いていないので、その日記の中の私はまだ帰国できていません。ましてや、期間の定まっている「留学記」だったので、日々を書き記す「日記」ではないように思います(自らその期間の最終日を放棄しているわけですが)。

そもそも日記を書こうとした記憶もあまりありません。高校3年生のときに高橋是清の自伝を読み、彼は毎日日記をつけていたということを知ったので私も日記書くか〜と手を付けてみたことがあります。5日くらいで諦めました。

この日記はどうなるのでしょうか。楽しみですね。

日記を書くことは出来ませんが、文章を書くことは頻繁にやってきました。小学生高学年の時「街道歩き」という特異な趣味を持っていた私は、道路や地蔵、寺社の写真を撮っては「自学ノート」なるノートに紀行文を書き、担任の先生に毎週提出していました。中学生になってからはその紀行文をブログやホームページにあげたり、あるいは小説や歌詞を書いて友達に見せてみたり(若気の至りですね)。Twitterを始めとするSNSは中学生の時から基本的にずっと絶やさず続けています。大学に入ってからはInstagramで長文を書くというこれまた特異なことをやってきています。

つまるところ、日記のような文章を書くこと自体はまあまあ好きではあるものの、内的な動機に従う力が弱いということなのでしょう。他人に見られることによってモチベーションが保たれるタイプなのだと思います。

ただ、SNSはタイムラインというその大きな性質上、過去の発言が見づらいということがあり、自分の過去の投稿など自分しか見ないものと考えると、日記に近いものとしてひそやかにアーカイブされているのかもしれません。実際、「この日なにしてたっけ…」と自分の過去の行動を振り返るために過去のツイートを検索することはありますので、日記を書いていると言うこともできるのかもしれません。「from:<TwitterのID> until:2019-05-15」と検索すると、一年前の今日はパナソニック汐留美術館と資生堂ギャラリーに行って、スピッツの"魚"を聴いておりましたことがわかります。

一年前の今日という表現は興味深いですよね、「今日の一年前」であるはずなのに、なぜか一年前にも「今日」が存在している。日付が同じということはもちろんそうでしょうが、季節のリズム感を理由に、一年前にも今日が存在しているものだと想像してしまうのだと思います。

「この海は僕らの海だ 隠された世界をつなぐ」というのは前述のスピッツの”魚”の歌詞ですが、今回の話につきあわせてみるとインターネットの持つ空間的自由性と時間的重層性、パブリックとプライベートの境界線のゆるさともつながるものがあるように思います。Twitterのアイコンは小鳥ですが、魚だったらどうだったんだろう、とか思ってみます。海老でもいいと思います。

それでは。


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