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家族と間主観性

こんにちは。一人称です。

土曜日に実家に帰ってきて、昨日は選挙の後に少し買い出しに行き、今日はひたすら家にいました。

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昨日母が麺から作った生パスタです。簡単に作れるしめちゃくちゃおいしいので、小麦粉ってすごい。

自分の部屋はあるにはありますがあまり使っておらず、また今までも使ってきておらず、基本的にいつもリビングにいます。他の家族も同様。弟は14時に学校から帰ってきて、母親は17時にバイトから帰ってきて、普通に一つの空間でテレビやYoutubeなどを観ながら過ごしています。そうなると、基本的にはなんかしらについてずっと喋っている。何を話したかは覚えてないけど、なんとなくしゃべってなんとなくテレビ画面を観ている、そして時間が過ぎていきます。

昨日も日記を書こうと思ったのですが上手く書けず、なんだろうなと思っていたのですが、まず、人と一緒にいると、その時考えたことや喋りたいことをすぐ口に出してしまって、消費されてしまうので、日記を書くまでトピックもモチベーションも残っていないということがあります。ましてや日記といえども自分で書いて自分で読むためのものというよりも、こうして敬体で発信するかのように書いているわけですから、なおさらです。SNSもあまり見ないというか、見ていてもなんだか眺めるだけであまり頭に入ってこなくなります。

それともうひとつ、何をしていたか、何をしゃべっていたか思い出そうとしてもあんまり思い出せないなということがありまして、これがなんでなのかと考えた時に、人と話すときは間主観性が成立しているからだろうなという。

今まで(特にこのquarantineで)私が部屋で一人でいる時は、ちゃんと勉強や作業をしていようと、ダラダラとひたすら動画を見ていようと、全てわたしの主観の中でしか世界が形成されていないわけです。だから、夜にこうしてパソコンの前で日記を書こうと思って何を考えていたか思い出そうとしても、同じようなプロセスを経て記憶を持ってくればよいので、難しいことはありません。だけど、人と話す場合は自分の予想を外れていろいろな方向に進んでいってしまうわけです。話している間にポンポン話題が飛んで、思ってもなかったようなことを言ったり、言われたり。しかもその「会話をしなくても良いけど会話をすることができる環境」が期限もなくずるずると続いているわけですので、自分の主観、自分の環世界が現れ、そこで生きるというのは今こうして親や弟が寝た後、あるいは相手の言ったことに疑問や疑念を覚えても「お互いに機嫌悪くなるのも嫌だし口に出すのやめよう…」と封じ込める時くらいです。言わば、私が私として、「一人称」が一人称(単数)として、目に見えて存在することが多くない。改めて「今日何してたっけ?」と問うてみても、今までの一人での生活のときと同じようには想起することができない。ここ数ヶ月、もちろん就活の面接はしていましたが、面接だと質問と応答の繰り返しですから、何を聞かれたか、何を答えたかというモジュールで捉えることが可能です。オンライン飲み会だとたしかに何話してたっけなってなることはありますけども、それも数時間という時間的制約があるし、しかも「話さなきゃいけない」わけですから、会話ということに意識を集中すれば思い出すことも可能です。しかし、同じ空間において、家族という気の置けない人との会話が、あったりなかったり、自分の様々な行動や相手の様々な行動と同時多発的に起こる、これは一人暮らしとはかなり違う。家族といる自分と、一人でいるときの自分というものがかなり違う(これは人格が違うとかではなくてものの見え方が違う、これはまた友達、とか恋人、でも違うのだと思う)ということに改めて気づきましたし、特にこの家族と過ごす特段変化のない日常については日記が書きづらいことこの上ない(もちろんプライベートな話題が多くて日記に書くようなことがないということもある)。コミュニケーションの偶発性に困惑しています。

私は一人暮らしをしてから結構いろいろなことへの見方が変わったなあと思っています。都心に近くなったから長期インターンを始めてみたとか、あるいはジェンダーに意識を向けることでリベラルな人間になったとか。(具体的に言うと、2016年の都知事選では田母神さんを推していた、選挙権はまだなかったけれど)。もちろん家族と一緒に過ごしていたときもいろいろ考えて、それなりの自我というものは持っていた気はしたのですが、いざこうして一人暮らしと実家暮らしを比較してみると、実家暮らしのほうが自己に対する思考をする機会がない。というか、家族との分節がなく、自己というものが表れ出てこない。もし自己について考える時間をとって悩んでいたとしても、なんだかんだ時間になればご飯が出てくるし、脱いだ服は洗濯機に入れておけばいいし、というようなことで、その「考える」は頭でのみ遂行されるのです。一人暮らしによって、洗濯するとか、ご飯を作るとか、あるいは掃除をしないことでどんどん部屋が汚くなるとか、自分の生活というものを他人に(ほぼ)頼らず行為を通して考え直すことって、なかなか人との暮らしでは体験できないことだし、私にとってはとても重要なことだったなと思います。一人暮らしを始めると実家暮らしに戻れないというのはよく聞く話ですけど、私もそうです。

ということで、おしまい。実家はWiFiの調子が悪く、またなぜかAirDropも上手く使えず、画像のアップロードに時間がかかりました。ネット世界との間主観性がうまく行っていません。トップ画像はうちの犬です。母しか呼んでいませんが、名前はミッキーちゃんです。それでは。

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