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「奇跡は起きないって知ってる。」

独り身、バツイチの女にクリスマスの予定があるなんて、店長は随分疑うような目で見ていたなぁ。

修子は先週、シフトを出したときの店長の顔を思い出して、もう一度顔をしかめた。

何があるわけでもないのだけど、と、説明しようとすると余計に怪しく感じられて口を閉じたが、やっぱり話しておいた方が良かったかしらと頭を悩ませる。
気づけば12月も半ばだ。

シフトを、決められた用紙に記入しながら、それ以外の自分の予定のなさに驚いた。それは仕方のないことだ、と、修子は自問自答を繰り返す。

もし、人生をやり直せるとしたら、離婚しない道を選んだだろうか。

ーーーいや、たぶん、選ばない。


そんなことを考えること自体、私には許されない。

息を吸い込むと、一瞬で体内に冬が入り込む。
この冷たさが、体の内の内まで冷え込ませ、淋しさに負けそうになったことが何度かあった。

その度に、夢想した。
息子と娘と、透司さんに囲まれて、暖かな部屋で、シチューを食べている。
幸せな光景を想像しようとすると、なぜかいつも、食卓にはお鍋かカレーか、シチューが並んでいる。

そういえば、シチューは透司さんの好物だ。
『かぼちゃを入れてね』と、野菜を切る横で子どものようにねだっていた。

あれは、夢ではないのだ。
遠い昔のことすぎて、もはや夢よりも遠いのに。

透司さんとは、短大を卒業して、就職先で知り合った。
年上の彼は、すぐにでも結婚が出来た。
卒業して直ぐに父が亡くなり、姉も結婚を決めていた頃で、私は「家族」というものにひどく飢えていたと思う。
安定が欲しかった。
当たり前に帰ることのできる家が欲しかった。

父のいない家は、突然失った柱の大きさに戸惑い、急速に冷え込んでいった。
淋しさはどこまでも奥を目指して入り込んでくる。いるはずの存在を失い、男手の居なくなった家がこんなに心許無いなんて、誰が想像できただろう。
女ばかりの家でひとり佇むと、なぜ自分がここにいるのか、やり場のない苛立ちがふつふつと沸く。
父の遺影を見、そしてそのあとに、それでも必死に台所に立つ母を見て、ああもうここにはいられない、と思った。
みんな駄目になる。このままでは、と。

その焦りが、私と、もう一人の彼とを大きく切り離した。

正人は学生時代からずっと付き合っていた、私の彼氏だった。
短大を卒業した私が働き始める横で、彼は大学から、さらに院を目指すと宣言した。

ーーーあの時の絶望の色を、今でも覚えている。

私をあの家に、あと4年も置いたままにできるなんて、この人は私のことを、大切する気なんてないんだ。
自分が恵まれていることを何一つ理解せず、まだ自分のために勉強するなんて、これ以上やっていけるわけが無い。

その数週間後、私は正人と別れ、透司さんと付き合い、そして、結婚した。

結婚して直ぐに息子に恵まれ、その次に娘を授かった。
何不自由ないしあわせに当然のように慣れ、私は私の淋しさとどんどん決別することができた。

そして、自分以外の誰かの淋しさに、出会った。

息子が5歳、娘が3歳の時だった。
私が、軽い肺炎を起こして入院した。

今考えても、あれが人生の分岐点だ。
同じ病院に、懐かしい人が居たのだ。

病人として。

「正人」

と、声をかけた時、彼はこれ以上ないほど、慈しむような、哀しそうな、いろんな感情を綯い交ぜにして笑った。

あれだけサッカー部で鍛えていた体が、嘘のような細さだった。
頭部を隠すように、彼は目深に帽子をかぶりなおした。

もともと身寄りのない彼は、彼の叔父叔母に育てられていた。遺産だけは両親が残してくれていたので進学などで困ることはなかったが、病床に通いつめてくれるほどの親戚は、いなかった。

「たまに顔を出すね」

なんて、言ってしまった。
それ以外に言えなかったのだ。
むかしに愛してくれた人に、それでも裏切って自分の欲望を叶えた私が、これ以上突き放す言葉をかけるなんて無理だった。

来る日も来る日も、考えるのは彼のことだった。
どうすればいいのか、私のせいではないのに、けれどどこからか自責の念がやってきて、私を激しく追い立てた。

精神を病み、薬を服用し、もう生きることの全てに申し訳なさを感じだした頃、透司さんは静かに言った。

別れよう、と。

全ての手続きは、透司さんがしてくれた。
正人と何か関係を持ったわけでもなく、これから先も何かあるかなんてことは想像できなかったけれど、君の好きなようにやりなさい、と、透司さんは言ってくれた。

あんなに素敵な人を、困らせて、泣かせて。
『僕にはこの子たちがいるから』と、彼は言った。
君はあの人についていてあげなさい、と。

私は透司さんと、二人の子どもと別れ、彼の看病に通いつめた。
彼は頑張って生きてくれた。
私は彼の看病で自分の罪を償うように、生きる義務を取り戻した。

すべてを投げた君に、せめて家だけでも残したいと、彼が籍を入れようと言ってきた。
有難い話だった。
いい歳した女が、確かにこのままでは路頭に迷う。
彼の家を相続した。その他の財産に関しては、辞退した。

正人が死んで、何度も冬が巡った。
街で行き交う年頃の子どもたちを見るうちに、あの、鋭くどこまでも付き纏う淋しさが、ずるりと尾を引いて内に潜り込んできた。
発狂しそうだった。
私はこのまま死ぬんだ。
誰にも看取られず、たった一人で。
でも、その人生を選んだんだ。
この私自身で、選んだのだから。
自分で選んだのだから…!!!!

そして、ああ、気づけば、彼らの住む家の前に来ていたのだ。
何でこんなことしてしまったのか。
私は死んだことになっているのに。
でも、そうだ、親戚ということにして、会えたりしないだろうか。母親の親戚だということで、せめて、子どもたちにだけーーー

「何か用ですか?」

すらりと、背の高い少年だった。
大人の傍目にも、きっとモテるだろうなあという出で立ちで。

隣の家に住むという彼に、私はいたずらがバレた子どものように素直に白状した。

彼が、顔をしかめたのを見て、ようやく自分のしたことの大きさに気づいた。

それでも、彼はとても出来た人だった。
言葉を選び、私を遠ざけようとしてくれた。

そして、最後に、念のためにと私の連絡先を聞いて。

別れた娘に会う。

そんな一大事が決まったのは先週のことだ。
それこそ、シフトを出す直前に決まった。

娘と幼馴染みだという男の子の姿を思い出す。

あの子は、大丈夫だ。
あんなに素敵な人がそばにいる。

たったそれだけで、私は救われた。
奇跡なんか起きない。私はきっとこのまま一人だ。

けれど。

あの子に降る奇跡のすべてに、私は、心から感謝した。

〈了〉

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