「放課後を越える」


バス通学の私にとって、自転車置き場は禁足地だ。

何しろ足を踏み入れるための正当な理由が何一つとして、ない。どうして自分はバス通学なのだろうかと、今からではどうしようもないことを再三考えていると、階段の踊り場からやかましい声が近づいてきた。    


これは一種の能力だと思うのだが、どれだけ離れていても、私は彼の声を間違えない。ひんやりとした廊下に、穏やかな西日が差す。がやがやと騒音とともに階段を下りてくる彼らに。彼に。茶色のダッフルコートを縁取るように。ずっと見ていたい気持ちと、決して見られていることを悟られたくない気持ちを天秤にかけながら、何食わぬ顔で、さも、誰かを待っている風な顔を装って携帯をいじる。

白状してしまえば誰を待っているわけではないので、もし知り合いに突っ込まれたらと思うと気が気ではない。私のそんな心配をよそに、やかましい集団は、まるごと吸い込まれるように駐輪場の方へ続く扉をくぐっていった。  



「うらやましい。」



気づけばうっかり声に出していた。慌てて周囲を見渡すが、ひと通りの生徒が部活か、帰宅かで行動を起こしてしまった後なので、私のひとりごとを拾われる心配はなかった。   

生徒を吐き出した後の廊下に、部活動をする生徒の声と、吹奏楽部のチューニングの音がうっすらと満ちていく。放課後を迎えた校舎は、帰宅部の私にとってどこか所在無い。


“うらやましい”と、今度は声に出さないように気を付けながら、私は心の中で思った。

あの笑い声の理由を私は知らない。私の知らないことで彼らは笑っているし、その楽しげな空気の中に私が入れることは恐らくこの先もないだろう。年季の入った靴箱がぎいっ、と軋む音を聞きながら、私は上履きを脱ぐ。 靴箱から取り出したローファーを地面に放る。二月の空気は靴底まで寒い。  



朝は、この寒さがひどく嬉しかったことを突然思い出す。これが夏だったら、私の通学鞄の奥底でチョコレートはどろどろだっただろう、なんて、柄にもないことでうきうきしていた。鞄に手を入れて中を探ると、がさっとした袋に手が当たる。見なくてもわかる。クマと、ハートの柄がちりばめられた透明の袋に、アイシングが施されたチョコクッキーが入っている。取り出してみると、人型のクッキーのアイシングが溶けて、泣いているみたいだった。


そういえば、電車もバスも、教室も、じっとり汗ばむほど暑かったっけ。


昨日はこんなことで徹夜したのに、朝は誰よりも早く起きてしまった自分。それなのに、今日一日彼に声すらかけられなかった、自分。  





禁足地への扉をもう一度見やると、そこは十分に明るかった。

私は、今朝までの自分に義理がある。泣き顔のクッキーを手に持ったまま、私は光の向こうへ飛び込んだ。                                                 

〈了〉





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