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「ひとりぼっちの夜の底」


仕事帰りに寄ったコンビニで、お酒と、おつまみと、何となく体のことを考えて野菜スティックと、デザートにプリンを選んでカゴに放り込んだ。店員さんはたった一人で品出しとレジを受け持っていて、私がレジの前に立つと、走ってこちらへやってきた。


ピッ

ピッ


バーコードが読み取られ、値段が表示されると、「あれこんなに買ったっけ」と突然不安になる。こんなこと毎日してるから貯金だって貯まらないし、いざというとき困るんだよなぁ、と、じわじわ後悔がにじんでくる。それでも飲まなきゃやってられないし、と考えてから、うわ、私って今ぎりぎりなんだな、と思った。ポイントカードと千円札を二枚出してお釣りを受け取る。深夜のアルバイトの間延びした「ありがとうございましたぁ」を背中で受けながら帰路に着く。


会社で嫌なことがあった。たぶん、課長は私のことあまり好きじゃない。面白くないから。最近入ってきた新人は、ノリが良くてサッカーに詳しくて、すぐさま飲みに誘われていた。昨日その飲み会があって、今日はいつまでも楽しそうに昨日の話ばかりしていた。スポーツバーに行ったとか、カラオケに行ったとか、終電を逃して漫喫に泊まったとか。聞きたいわけじゃなかったのに、拷問かと思うほど「昨日は~」しか言わないので、あまりに腹が立って最後は愛想笑いも上手く出来なかった。

課長も新人もノリがいいわけじゃない。あれは、調子がいいだけだ。そうやって言い聞かせて、お昼ごはんも味がしないまま、やっと帰ってきた。金曜日。



家に着くと、家族はみんなとっくに寝てしまっていた。

一人のリビングに足を投げ出して、コンビニの袋をがさがさしながら、買ったばかりのお酒のプルタブを引く。日付変更線は私が地元の駅に着いた頃、頭上を通り過ぎて行った。テレビをつけて、どうにかして雰囲気を明るくしようとした。立ち上がることが億劫で、遠くのリモコンを取ろうと、手近なティッシュ箱を持って腕を伸ばす。

あともう少しで届く、というところで、自分のひじが缶ビールにぶつかった。嫌な予感が体中をかけぬけて、「あ」と思ったが、もう遅かった。あけたばかりの缶ビールが、ごとりと倒れたかと思うと、とくとくと中身を垂れ流した。


しばらく時間が止まったみたいに動けなかった。

ようやく最初に動いたのは涙腺で、零したビールを見ながら気づいたら泣いていた。ビールこぼしたぐらいで何泣いてるんだ。自分で自分に突っ込みを入れながら、せきを切ったように涙が止まらなかった。この、誰が聞いても何の得にもならない愚痴を、私はどうすればいいんだろう。毎日毎日、この行き場のない小さな愚痴は積もっていって、処理に困ったまま、いつまでもいつまでも。自分の器が小さいのか、それとも、世の人々は上手にやり過ごせているのか。Facebook上の友人たちはみんな楽しそうで、きらきらしていて、誕生日のお祝いや、仕事の業績や、結婚の報告や、子供の誕生を、親指ひとつで送って来る。私にはなんにもないのに、なぜ彼らはあんなにたくさん持っているんだろう。「いいね!」の数が何十、何百とついている友人に、タグ付けされることもない自分。何が違うんだろう。どこで間違えたんだろう。羨ましくて、妬ましくて、自分がどんどんみじめになって、ビールがカーペットに染み込んでいくことすらどうにもできない自分に、ただただ涙が出た。ああ、ひとりぼっちだ。気づかないように、意識しないようにしていたのに。いつから人は、家族に愛されるだけじゃ満たされなくなったんだろう。「隣の芝は青い」というけれど、最近の世界は「隣」が多すぎて、心がついていかない。


恋人がいたら、違うだろうか。

唯一無二の大親友がいたら、違っただろうか。

部活動やサークルをちゃんとやっていたら、違っただろうか。

有名企業に入っていたらもっと人望があっただろうか。



取り戻せないものと、今からどうにもならなそうなことがあたまの中を駆け巡った。恋人は2年前からいない。大親友と呼べる人もいない。友だち、はいるけれど、彼氏もいて、私以外にもたくさんの友人を持つ彼女たちが私のことどう思っているのかは正直よくわからない。部活もサークルも、ちゃんとやってなかった。就活だって、内定を最初にもらったのが今の会社だっただけで。


小さい子どものように泣いたのは、すごく久しぶりだった。寝ている家族を気にして、最初は声を押し殺していたはずなのに、いつのまにか嗚咽をもらして泣いていた。28歳の、深夜2時の泣き顔は本当に醜いし、悲しい。みじめなひとりぼっちの夜の底は、どこまでも深くて、毛足の長いカーペットに顔をうずめたまま、お酒のにおいが立ち込めたリビングで、私はどんどん沈んでいった。ひとりぼっちの夜の底。救われないまま、あっという間に週末は過ぎて、また月曜日がやって来る。そう思うとまた喉の奥がきゅっと苦しくなって声が出た。







「何してるの、お姉ちゃん」


あまりにも泣きすぎて、意識がぼんやりとしてきた時、リビングにやってきたパジャマ姿の妹がおどろいた顔をした。カーペットに染みたビールにもいち早く気づいて、「うわ、なにこれ」と声を上げる。真っ暗だった夜の底に、ぱっと光が差し込んだような、明るいはっきりとした声だった。テレビやFacebookみたいに、不特定多数の誰かに向けられたものではなくて、「私」に向かっている声。マスカラも落ちて、あれだけ泣いたのに、自分より年下の妹の前で私はまたわんわん泣いた。「なに、酔ってるの?」ときく妹が、手際よく私をあしらって、倒れたビール缶を起こして、ぞうきんとティッシュを持ってきて、カーペットを洗濯機に放り込む様子は、ぱきっとした朝の風のように、私を夜の底から救ってくれた。



カーペットを取ってしまうと、フローリングはひんやりとして冷たかった。結局口を付けないまま無駄にしてしまったビール缶を横に振ると、小さな水音がした。傾けて口につけると、ひと口ぶんのぬるいアルコールが喉をすーっと通っていった。私が何も言わないまま、カーペットを片づけた妹が「まったく」と愚痴をこぼしながら、コンビニ袋から私のプリンをとりだして勝手に食べ始めた。「野菜スティックもあるよ」というと、「ビール、新しいのあけていい?」と嬉しそうに袋の中をあさった。


「話、聞くからさ」

ビールのプルタブをひきながら、妹がにんまり笑った。



〈了〉




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