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「負けないこと。」

『負けないように頑張りなさい。』

と、ある日子どもたちを前にして言った。

もう修子はいなくなった後だった。
たしか、二人の初めてのミニバスの試合を迎えた日曜日の朝に、玄関で声を掛けたのだ。
なぜそんなことを言ったのか、今となってはもう思い出せない。

『負けないって、相手のチームに?』

真っ直ぐな瞳は、揺らぐことなく僕を見た。
唐突で、恐らく何かを深く考えているわけではなく、ただ聞いてみただけだったのだと思う。
けれどその時の僕は考えた。
ああ、何か答えなければ。
この子たちの心に、ちゃんと届く言葉を選んで。

『自分に、だ。』

『自分に?』

『そう。"疲れたー"とか、"もう走れないー"って思う自分に負けないように、頑張りなさい。』

『そっかー!』

二人は良くも悪くも単純だ。とても素直に僕のいう事に頷くと、踊り出すように玄関の扉をくぐっていった。眩しい朝日が靴箱に当たって、仲の良い兄弟二人が一足飛びに扉の向こうに立つ。

『おとーさん!はやくー!』

『試合始まっちゃうよ!』

あれは、あの台詞は、自分に言い聞かせたんだ。
二人のきらきら光る瞳の中に映る、頼りなさそうな自分自身を見ながら。

"負けないように頑張りなさい"

あの時は、色々なものに負けてしまいそうだったけれど、君たち二人には随分と助けられたなあ。

ーーー*ーーー*ーーー

最近、果歩がどことなく考え込むことが多くなったような気がした。

クリスマスが終わるとともに、嵐のようにツリーやサンタが片付けられ、お正月用品が所狭しと街に溢れだす中で、いつも通りの『いってきます』に微量に混ざった変化に気づいたのだ。

どうやら2人で出掛けたらしい、とこっそり教えてくれたのは果歩の兄である優人だった。果歩本人から聞いたのではなく、優人曰く、『遼太から聞いた』とのこと。

「いくつになっても仲が良いのは羨ましいな。」

缶ビールのプルタブを風呂上がりにあけながら言うと、優人が首を捻りながら答えた。

「いや、俺も最近遼太とはそんなに話してなかったんだよな。突然呼び出されて言われてさ、何かと思ったわ。」

「ははは。なんだそれはーーーなんだろうなあ。」

男2人、キッチンで答えを探すが、蛍光灯の元、何一つ出てこない。

「12月の頭くらい?中旬?だったかなー、LINEで呼び出されてさ、ほら、昔よく遊んでた公園あるじゃん?あそこで会ったんだよ。」

「呼出されて、遼太君は、何て?」

「すっげー真剣な顔してさ、『果歩とクリスマスに2人で、川越に行こうと思ってるんすけど』って。」

ーーー川越?

思い当たることが一つあって、心臓がドキリとした。ビールが思いのほか口の中で引っかかって、ごくり、と、固い音とともに喉が鳴る。
僕の焦りが伝わったのではと不安だったが、優人は何も気にしていないようだった。

「さすがにクリスマスに川越行く奴はそういないんじゃねーの?何で川越?って笑ったら、『人多いとこ苦手なんで』ってさ。アイツ、昔から頭良いけど何か抜けてるっつーか、あほだよなぁ。」

優人が牛乳をラッパ飲みしながら笑った。優人の解釈としては、果歩も女の子だから、家の人に二人で出かける事を言っておくべきだと思ったのではーーーということだった。父親に言うよりも、昔から遊んでいた兄にいう方が気楽だったのでは、と。

上手にカマをかけたな、と思った。
もし僕の予想が当たっているとしたら。

あの子は昔から頭のいい子だったーーー我が家の事情に勘づいたとしても何ら不思議ではない。穿ったところを突いてくるなと思った。優人であれば、仮に家の事情を知っていたとして、"川越"というワードが出た途端に挙動不審になっていただろう。

そういえば以前、たしかあれも12月の中旬頃だったか、彼は果歩に不思議な質問をしていた。

"お前母親に会いたいとか思うの?"

たしか、そんな内容だった。その時もどきりとした。僕はその横で遼太君の父親である奏太(かなた)さんと話していた。横で聞き耳をたてていた、そんな僕の存在も勘定に入れて話していたのかもしれない。
果歩は、確かーーー会っても顔を知らないからわからないだろうーーーと、言っていた。
そこに微量の『会いたい』が混ざっていたのを、僕の耳はちゃんと捉えていた。
きっと世界でこの小さな差に気づけたのは、長年この子の親である僕だけだろうと、その時は思っていた。

ーーーああ、あの子も気づいたのか。

自分の『親』という立場に、思っている以上に酔っていたことをようやく理解した。恐らく、僕以上に果歩のことを、そして優人のことを、理解してくれている人はこの世に少なからずいるのだ。どの分野において長けているかは置いておいて、少なからず、僕だけでは、ないのだ。2人のことを理解しているのは。

修子のことを思い出した。
修子の昔付き合っていた幼なじみも、果歩にとっての遼太君だったとしたら。今二人の間に邪魔が入れば、僕はどんな理由であれ、余程のことがない限り二人の味方をするだろう。二人の邪魔をする者を許さないだろう。

その邪魔者は紛れもなく、二十年近く前の僕だったのに。

ーーー*ーーー*ーーー

新年は瞬きする間に訪れた。

ここに引越しをしてから毎年恒例である、隣の家と合同の新年会は、今年も例年通り行われた。主催家をその年ごとに交互に変えていて、今年は遼太君の家での開催だ。
それぞれの子どもたちの友人たちも夕方から遊びに来ると言うことで、いつもより多めに買い出しをする。

「日に日に新しいコミュニティを作って帰ってきますね、これくらいの歳になると。」

買い出しをしながら、奏太さんが笑った。ふくふくとした優しげな右手でいつもより多めのジュースをカゴの中に入れていく。

「本当ですね。僕なんかはもう、これ以上新しいことってそうそうないんですけど、あの子たちはこれからが始まりというか。」

父親同士、ははは、と笑い合う。奏太さんは僕と同じくサラリーマンだ。ふっくらとした安心感のある見た目に、笑うと眼鏡の奥で思い切り目尻が下がるので、人の良さが容貌の節々に出ている。

「でも、子どもが出来た時は、また新しいことがはじまったなって、思いませんでした?」

「ああ、確かに言われてみればーーー思いましたね。また違う人生のステージにきたなというか…。」

「私が思うに、子どもの頃は強制的に外に出されることが多かったんですよね。それこそ今のように金銭とは関係なく、誰かとの接点がところせましと用意されていた。」

「確かに、そうですね。」

「大学を卒業したとき、そういう強制力から離れてしまったとき、ああ、あれは『義務』ではなく『権利』だったんだなって。後になって初めて気がつきました。」

「『義務教育』って、確かに『権利教育』ですよね。我々からしてみれば。後にならないとわからなかったですけど…」

「ええ。子どもが出来た時、またその『強制力』を得たような気になりました。子どものミニバスの試合やら、運動会やら。ああ、戻ったなぁ、とーーー感謝しました。思い出させてくれて。」

奏太さんの言葉の一つ一つが滲みてきた。その過程に出会わせてくれた修子に改めて感謝した。僕らの出会いが悪いことばかりではなかったと、思ってくれているといいなと、心の底から思った。

「あ、おとーさーん!買い出し終わったー?」

遠くから果歩が駆け寄ってくる。紙コップや紙皿、クラッカーの入った百均の袋をガサガサと提げている。

「わ、何、目赤くない?大丈夫?」

「え、赤いか?め、目に何か入ったかな…」

隣で奏太さんがくすくすと笑っている。最近しょうもないことで涙脆くて困る。

「ほら、ハンカチ貸してあげるから、トイレ行って鏡見てきなよ」

果歩が肩にかけたカバンから桜の刺繍が施されたハンカチを取り出した。

「そういえばこれね、この前出かけた時に落としちゃったんだけど、親切な人が拾ってくれたんだよ。すごい綺麗な人で。」

「え、川越で?」

「うん、川越でーーーえ、なんで知ってんの?」

果歩が怪訝な顔をしたので慌てて目が痛むふりをした。桜の刺繍は唯一彼女が残した私物だった。文字通り、『形見』の。

「ちょっと!なんで知ってんの!?」

果歩が顔を真っ赤にして僕に掴みかかってくるのと、もしかしたら、と考える自分の御都合主義が面白くて、ようやく、涙腺よりも頬が緩んだ。

〈了〉

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