「ユーモレスクの旅人たち」



お昼ごはんの時間を過ぎた頃合いを見計らって、笹川さんはギターを担いで校庭に出る。

適当な場所に座り込んでチューニングをしていると、いつものようにぱらぱらと人が集まって来る。まず、子どもたちが。続いて大人たち。私も配給所の段ボールを潰しながら視線を送る。今日は、スピッツのロビンソン。

笹川さんの一曲目にはスピッツが選ばれることが多い。もともとスピッツが好きなのか、それとも時期的な、場所的な理由からなのかはまだ聞けていなかった。  



私の地元が洪水被害を受けてから二週間が経つ。

都内の大学に通っていた私がテレビで見た久しぶりの故郷は、水浸しだった。  

家族の安否確認が出来るまでのあの心境を、私は二週間を経た今も、生々しく覚えている。濁流が這う町の、あの映像のどこかに、世界でたった一人ずつの私の家族がいるかもしれないという恐怖と、私だけが「外側」にいる罪悪感。「故郷を離れる」ということの意味。反対を押し切って決意して、それでも笑顔で見送ってくれた家族の記憶は、家族の無事を確認できないままの私に、何よりも残酷だった。

そうこうするうちに家族と連絡が付き、どうやら家屋が無事であった親戚の家に身を寄せていることを確認すると、気づけば私は故郷の土を踏んでいた。家族が身を寄せている親戚宅から一番近い中学校に、ボランティアとして。

日を追うごとに、東京に置いてきた学生生活に後ろ髪をひかれながらも、あらゆる交通手段を駆使して帰ってきたこの町から、私はまだ出られずにいる。



「ちいちゃん、笹川さん見なかったかね」

ボランティアとして中学校で動き出してからしばらくすると、続々と県外から手伝いを買って出てくれる人がやってきた。“笹川さん”というのもそのうちの一人で、三十三という年齢にしてはひどく童顔な男性だ。

「さあ、見てないけど。」

夕飯分の配給品をチェックしながら答えると、顔見知りのおばちゃんはあらまあ、とひとりごちた。

「外のテント新しく出すって言うんだけど、男手が足りなくてねえ。ちいちゃん、悪いんだけどそれ終わったら、ちろっと探してもらっていいかね。」

「ん。わかった。あぁ、おばちゃん、その辺散らかってっから、足元、気い付けてね」

「はいはい、どうも」

おばちゃんが安全に部屋を出ていくのを見送ると、私は配給品の数をもう一度確認し、用紙に記入していった。小さなため息はそっと飲み込む。 圧倒的に足りない若い力が、この高齢化が進む町では浮き彫りになる。みんな「外側」へ行ってしまった。育ててもらった恩も忘れて、かけられた愛情もそのままにして―――私も含めて。

「ちいちゃん」という、庇護の対象であることを具現化したような呼び名も、私はこの町で当たり前に享受する。私が勝手に飛び出したのに、「よく帰ってきた」と何故かほめられる。私はそれに甘んじながら、十分に満足して、また東京に帰るのだろうか。私の町をこのままにして―――。


「金子さん」

配給品の前で立ち尽くしているところに声をかけられたので、思いの外心拍数を上げて振り返ると、笹川さんが立っていた。

「救急用品ってここで保管しているんだっけ?腕を擦りむいたままの子がいて、せめて消毒だけでもって…金子さん?」

「え?―――あぁ、消毒ですね。体育館にいくつか運んであるので、そっちから使ってもらえると助かります。」

「体育館か。ありがとう」

「あ、笹川さん」

外で男手が必要である旨を伝えると、笹川さんは快く頷いて教室を後にした。



笹川さんは不思議な人だ。三十三歳という年齢はずっと上のはずなのに、何故だかとても近しい。どんな人の横にもするりと入り込んで自分の場所を確保してしまうような、そんな人だ。聞けば東京出身、東京育ちという。

「田舎でのびのび育ってきた人はおおらかで人の懐に飛び込める」、なんてイメージがまことしやかに流れているが、本当に田舎でのびのびと育った私からしてみれば、あれはただの「イメージ」に過ぎないと思っている。「東京」というジャングルで、「のびのび」を可能にするために日夜社交性を否応なしに磨かれている彼らと、山や川を相手にしてきた私たちとでは土俵が違いすぎる。東京の、それも都心とは少し離れたキャンパスに二年通った私にとって未だに、東京は得体のしれない場所。  


夕飯が済んで日も暮れると、出来ることはぐっと減ってしまう。  

明かりが少なくて片づけをするにも厳しいし、かといって高齢の人は就寝が早いので、騒ぐわけにもいかない。毛布の数が足りているか、寒くはないかなどの確認だけはする。外に出ると、真っ黒な町の上にスパンコールのような星が散らばっている。風が冷たいけれど、体育館のもわもわとこもった空気の中から抜け出すと、心まで風が通る気がした。

私はこの町が好きだ。

ここは「私の町」だという認識があるし、「故郷」だと思う。けれど、この小さな町に永遠にずっといるのかと想像すると、途端に心臓が縮こまり、胸を張れなくなってしまう。私の人生はここで、この町で、終わってしまうのか。

東京に生まれた人がうらやましかった。「故郷」も「世界」も、一つの土地で兼ねているのだから。


ざり、という土を踏む音に気づいて振り向くと、笹川さんが立っていた。

「ごめん、なんだか考え込んでいたようだったから、驚かさないようにと、思ったんだけど―――。」

心底悪びれた顔で慌てる笹川さんを見ながら、私は首を振る。

「そんな大したこと、考えてないです。」

ごめんね、と謝りながら、たばこをぐしゃりとポケットにしまう姿が見えたので、私が「吸ってください、大丈夫です」と言うと、笹川さんはしばらく考えてからもう一度、ごめんね、ありがとう、と言って、たばこを口にくわえた。

しゅぼっ

真っ黒な町に、小さなオレンジが灯る。ふー、と白い煙が一筋、立ち上るように吐き出された。

「笹川さんは、東京生まれですか?」

「そうだね。」  

たばこを吸っているせいか、今日の仕事がすべて済んだせいか、気の抜けた声が返って来る。綺麗な標準語。どことなくお洒落なパーカー。ワックスを付けていなくても、形の整っている髪。それらすべてから「東京」が透けて見える気がする。

「いいなあ。」  

思ったことが、ふっ、と口からこぼれた。

「どうして?」

星にむかって煙を吐きながら、笹川さんがちらりとこちらへ視線を向けた。

「なんでもあるじゃないですか、一つの土地に。家族も、友だちも、ものも―――未来も。」

そうだ。この町には未来がない。同じ日々がただただ待っているだけだ。繰り返して、繰り返して、そして終わる。この町でしか「私」が存在することはなくて、「世界」の中に「私」はいないのだ。 このままだと、永遠に。

「未来はね、ないよ。」

ぽつり、と吐き出された笹川さんの言葉の温度は、ひんやりとしていた。

「え?」

「いや、なんていうのかな―――少なくとも僕にはないんだ。東京に“未来”が。」

携帯灰皿に、くしゅ、と吸っていたたばこをもみ消すと、校庭にはたばこの残り香だけが漂った。もの言いたげな私の空気に気づかなかったのか、もしくはそれを察してか、笹川さんはゆっくり伸びをし、まるでたばこの火とともに会話を終了させたみたいに、さっきまでの内容について何一つ触れようとしなかった。

「冷えるから、早めに戻っておいでね。」  

風邪ひくよ、と付け足して、笹川さんは体育館の中へ消えていった。きっと私の町には売っていないであろうお洒落なスニーカーで。ざりざりと土を踏んで。  



人間とは本当に単純なもので、好奇心というものにすこぶる弱い。あの日を境に私はいつも視界の端に笹川さんを捉えては、あの時の会話の続きを想像するようになっていた。けれど、私が察するに、どうやらあの日の会話は笹川さんにとって都合の悪いものだったらしく、一向にその話題に触れることは許されなかったし、私自身を避けられている様子すらあった。  

あれはいったい何だったんだろう。笹川さんには、どうして「東京」に「未来」が「ない」のだろう。あれだけたくさんのものがあふれた街で、何が足りないのか。東京にない未来がどこにあるというのか。考えに考えたけれど、答えが出る事はなかった。 そうこうするうちに、私は大学の単位的に戻らねばまずい時期になっていた。このままいつまでも、答えの出ないままここにいることは許されなかった。両親だけでは飽き足らず、近所の人やボランティアの人まで「こんなにここにいて大丈夫なのか」と心配しだしたので、私は重い腰をあげて、ようやく「東京」に行く決意をした。




「明日、帰ります。」  

忙しそうに走り回る笹川さんをようやく捕まえて、私はそういった。

「大学に戻るの?」

「はい。これ以上いると、単位が、まずいので。」  

「そうか。元気でね。」  

田舎の娘が一人、故郷から東京に行くくらいで、この「東京の人」の心を開くことは難しいだろうか。穏やかに、いつものように笑う笹川さんに、何故か苛立ちを感じる。

「お話が、あります。」  

苛立ちからつい口をついて出た言葉は、何だかこれから告白するみたいだった。

「お時間とれませんか。」  

真っ直ぐに笹川さんを見ると、向こうは少し驚いたような顔をして、視線を不自然にそらした。そして、ようやく力の抜けたような声で、いいよ、と言った。

「夕飯が終わったらこの前みたいに、たばこ、付き合ってくれる?」  

どうしてこうも、標準語はきらきらと響くのだろう。  




夜がずるずると裾を引いて町に覆いかぶさった。日が落ちるのをこんなに待ち望んだことは、数えるほどしかない。前にここで一緒に話した時は、こんなに心臓は鳴らなかったのに、今日はやたらと胸を叩く。  

おまたせ、と、笹川さんがやってきた時は、突然話しかけられた時よりも数百倍、心拍数が跳ね上がった。  暗くて、よかった。きっと表情はそんなに見えないだろうから。  

しゅぼっ  

暗闇に一点のオレンジ。空に続く煙。

「明日は、何時にここ出るの?」

「―――朝のうちには。知り合いが通勤がてら、車で駅まで送ってくれるので。」

そうか、と言いながらゆっくり煙が流れていく。たばこはまだ長いけれど、妙に焦ってしまう。この長さの分、煙の分しか、一緒にいられないような気がした。

「―――この前の続き、聞いてもいいですか。」  

ようやく絞り出した声は、自分の思っている以上に変な声だった。それだけで顔に血が上る。

「―――続きって?」

「東京に、未来がないって話です。」

もし、どうしても言いたくないなら、いいですけど、と、重い空気に耐え切れず、慌てて付け加えたが、気になって仕方がなかった。しばらく間があって、たばこはちりちりと短くなって、何だか泣きそうになったころ、ようやく笹川さんが口を開いた。

「大切な人がいないんだ。東京には。」





「何よりも大切な人がいたんだ。もう6年くらい前になるけど。結婚もしたいね、なんて話しててね。」

「結婚」なんて言葉がふいに出てくると、私の心臓にちくりと痛みが走った。痛みの所在がわからないまま、神妙な顔をつくってみる。笹川さんはどこか遠くを見ながら話をつづけた。彼の目には、その時の光景一つ一つが映し出されているのだろうか。   

大切な女の人が、実は別の男の人と婚約していたこと。その事実を知らされた時にはもう既に諦められないほど好きだったこと。いつか一緒になれると信じていたこと。そして、向こうの婚約者についに事実を知られたこと。弁護士を挟んでの話し合いや、両親に勘当を告げられたこと。友人たちに責められたこと。最後まで信じていた彼女に、裏切られたこと―――。

「女の人は、上手に嘘をつくよね。」  

笹川さんの横顔からは、どんな感情も読み取ることが出来なかった。せめて、瞳の中に映る記憶のカケラだけでも見つけたくて視線を向けたけれど、ただただ真っ黒に染まる瞳には、何も映されていなかった。

「あれだけ僕を好きだといっていた彼女が、弁護士の前で、婚約者の前で、僕の知らない顔をするんだよ。“私はずっと別れたかった”なんて、僕の目の前で、平気で言うんだ。」  

ぐしゃ、とたばこをもみ消すと、校庭は余計に、しん、と静まり返った。どんな言葉を返せばいいのかもわからない。私だって、笹川さんを裏切った彼女と同じ「女の人」だ。

「こんな話、ごめんね。」

「―――私こそ、すみません。」

無理矢理話させちゃって、と、うつむくと、笹川さんはようやくいつものように微笑んだ。

「いいんだ。もうとっくに、過去の話なんだから。」

こんなことにずっと、足を取られている自分がいけないんだ。笹川さんは小さい声で、確かにそういった。

「だから、もう僕の未来は、東京にはないんだ。―――気持ちの問題なんだけどね。」

「気持ちの?」

「うん。もう、東京で何かを出来る気がしないんだ。」

笹川さんがもう一本、たばこに火をつけた。延長戦だ、と、何故か私はこっそりと嬉しくなる。

「―――私は、何を大切にしたらいいですか?」  

今火がついたばかりのたばこの先を見つめながら、私は言った。家族と、友だちと、過去と、未来と。私たちには天秤で量り切れないほどの大切なものが、多過ぎる。

「自分を大切にすればいいよ。」

するり、と答えが返って来る。あまりにも簡単に返されたので、少し拍子抜ける。そんな空気が伝わったのか、笹川さんが慌てて付け加える。

「別に、適当に答えたわけじゃないよ。」

同じように質問したことがあるんだ。と、たばこの灰を落としながら、笹川さんが答えてくれる。

「一番つらかった時に、今と全く同じ質問をしたら、ある人が答えてくれたんだ。」

「―――自分を大切にしなさいって?」

「うん。」

自分が世界だから、って。


夜の風に乗るこのたばこの香りを、私はもう覚えてしまった。言葉ごと体に刻まれる。


「自分が、世界だから―――。」

「きざっぽいよね。これ言ってくれたの、その時通い詰めていたバーのマスターなんだけどさ。」

そういいながら、柔らかく笑う笹川さんを見ていると、自分でも気づかないうちに涙がこぼれていた。あからさまに、やばい、という顔をした笹川さんが、たばこの火を消そうとしたので、慌てて止めた。初めて触れた、手。どうやったって無理なのに、この人が人生で一番つらかったその瞬間に、どうして自分が居合わせなかったのだろう、と後悔した。そして、彼がその瞬間に恐らく救われたであろう言葉に、何故か私も、今、救われている。その奇妙な感覚が綯交(ないま)ぜになって、私は涙が止まらなかった。  かろうじてたばこを消すのをやめた笹川さんは、私の頭に、ぽん、と手を置いた。ごめんね、と聞こえた気がしたので、思い切り首を横に振った。

「ここは、いいところだよね。」

空から溢れそうな星を見上げながら、笹川さんが本当に愛おしそうに言ってくれたので、また泣きそうになった。  




夜が明けると、いつものように朝が来た。冷たい空気を肺いっぱいに満たす。私はこの空気を、ちゃんと東京に持っていこうと思う。いつもより深く息を吸う。  

見送りはいいと言ったのに、朝早くからたくさんの人が出てきてくれた。

「おねーちゃん、またね。」  

学校に身を寄せているちびっこたちが駆け寄って来る。近所のおじちゃんおばちゃんも、家族も友人も、笹川さんも。

昨夜のことを思い返すけれど、あの瞬間のことは何となく、「秘密」な気がして、この朝の空気のどこにも隠せないような気がして、心の奥深く、深くにしまい込む。 ひと通りの人と言葉を交わして、ようやく笹川さんが目の前に来る。

「じゃあ、元気で。」

「はい。笹川さんも。」

ありきたりな言葉しか出てこない。そろそろ行くか、という同乗者の声が、ぴんとした新品の空気に響く。

「笹川さんは、スピッツが好きなんですか」

いつもギターで、一曲目に弾くから気になっていて、と、慌てて言うと、一瞬きょとんとした顔で、そのあとすぐにまた、いつもの笑顔で、うん、好きだよ、と、答えた。

「ありがとうございました。」

私は丁寧にお辞儀して、いってきます、を繰り返した。

東京に向かう新幹線が、流れるように、窓の外に映る故郷の景色を早送りにする。どんどん遠ざかる。遠ざかっていく。でも、大丈夫。私は世界を移動するだけだ。

「私自身が、世界だから。」

口元で小さく言葉にする。本当だ、すごくきざっぽい。思わずほほが緩む。


久しぶりにIpodを取り出して、イヤホンを耳に入れる。流れてきたのはスピッツのロビンソンだ。「新しい季節は、何故か切ない日々で」。  

充電された携帯で、SNSを開くと、離れていた世界がぐっとこちらへ押し寄せてくる。楽しそうな写真、お誕生日おめでとうのメッセージ。

イヤホンからこぼれる耳元の穏やかな歌声は、携帯の向こうの世界と不釣合いに優しかった。なんだか笹川さんの歌い方と、少し似ている気がした。


〈了〉




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