見出し画像

「さらば夕方。」



BGM/パスピエ「贅沢ないいわけ」




―――*―――*―――


学生時代「一日の終わりは夕方だ」となんとなく思っていたんだけど、どうやら社会に出るとそんなことはないらしい。会社を出た空が墨を吐くように真っ黒で、閉じこめられていた間に誰かに一日を奪われたような、そんな不思議な気分になる。誰が奪ったかと言われれば、まあ、たぶん、会社に奪われたんだろう、きっと。お給料と社会的立場のために、交換条件で。


失った「今日」がひとつひとつ降り積もる。マナーやら礼儀やらコンプライアンスやらが頭の上からどろどろと降ってきて、昨日はファミレスで水を持ってきてくれた店員に『ありがとうございます!』なんて、元気に口走っていた。いいことだと思うような、これまでの自分が全部否定されたような、なんだか学生時代までのきらきらした思い出たちが悪いことをしていたみたいに、まるでサボっていたみたいに思えてきて、ごはんがおいしくない。

新入社員同士でプレゼンテーションをやれという人事様の有難い提案のおかげで、私のグループも他のグループも、研修後に連日会社近くのファミレスに夜遅くまで詰めている。もちろんこの時間に残業代が発生するわけではないし、これは私たちの自主性なわけだけれど、その「自主性を求められる」ことが、「脅迫」と同義な気がする私は、きっと立派なゆとり世代なんだろう。

「誰よりもやる気がある顔」の仮面をカバンの奥底から引っ張り出して、上手に顔に乗せ、意味のない発言をメモに取る。同期のやる気が私のように仮面なのか、それとも本当に仕事にすべてを捧げたいと思っているのか判別がつかなくて、未だに聞けずにいるけれど、後者だったらと思うと恐怖で身震いがした。その辺に転がる怪談話より、人間のほうがよほど怖い。



「ねえ、玉井さんはどう思う?」

キラキラ、というよりはギラギラした目で同期が話しかけてきた。いかにもコミュニケーション能力が高そうな、休みの日にも休まずにバーベキューに海に繰り出して、モヒート片手に踊っていそうな同期が身を乗り出してくる。どう思うかと言われれば、もうそろそろ帰りたい。さっきから意見が堂々巡りしてるよ、煮詰まってるよ、同じことばっかり話してる―――とは言えないまま、

「そうだね、私はさっきの寺崎くんの意見が今のところ一番よかったと思うな。」

と、仮面をつけたまま微笑んだ。さすがだね、すごいね、そんな案なかなか出せないよ、完敗。みたいな顔を作った。まんざらでもないみたいで、「そうかな。みんなの意見も良かったけど…」と、寺崎君は謙虚な笑顔でコーヒーを啜った。その後、「でも確かに、今回のコンセプトには一番近いよね。」と付け加えるのも忘れなかった。このモヒート野郎、と思いながらも、「うん」と笑った自分は意外と社会人しているな、と思った。




「頑張れないあたしが悪いの?」

我慢できず学生時代の友人にLINEを送ると、「悪くないでしょ普通でしょ」と返ってきて、帰りの電車で少しだけほっとする。あたしにとって、会社でお金を稼ぐことは「手段」だ。「目的」じゃない。宝くじで高額当選したら、その手段はいらなくなるから、たぶん迷いなく会社をやめると思う。

そりゃ、仕事は楽しいほうがいいと思う。楽しければ、意義を見いだせれば、人生はもっと楽しくなるだろうし、明るくなると思う。だけど、仕事は目的にはならない。あたしには仕事以外で目的がある。あの、目をギラギラさせた子たちは仕事が「目的」なんだろうか。それはそれで良いんだけど、うらやましいんだけど、ああでも、押し付けないでよ。電車の窓ガラスに額をつけると、ひんやりとおでこが冷まされる。何だか、あたしってものすごく怠惰な人間だったのかな。なんて、夜の街を見下ろしながら泣きそうになった。




プルルルル


最寄りの駅で、電話を手に取る。誰でもいいから話したくて、学生時代の友人に片っ端から電話を掛ける。こういう時に限って、誰もつかまらないんだよなあ、なんて思っていたら、やっぱりつかまらない。


薄暗い空の下で、桜が嵐のように舞っていた。そういえば、あたしは春生まれなんだ。桜はあたしの花だと思う。それが、散っている。すごい勢いで。思わず唇をかんで息を止めた。鼻のあたまがずきずきする。あたしはこのまま、社会の歯車の中で何でもない人生を送るんだろうか。後悔ばかりするんだろうか。出来なかったことばかり、指折り数えては、「これが自分の幸せだ」なんて言い聞かせて、無理やり納得するんだろうか。そうしておばあちゃんになって、自由な若者を眺めて泣くんだろうか。


「やだなぁ。」



桜の下で思わず声が出た。

真っ黒のスーツが窮屈だ。タイトスカートは歩きにくいし、慣れないヒールは就活中も物凄く嫌だったけれど、これからは問答無用で毎日だ。すっぴんは好きだけれど、化粧をするのはマナーだって言われた。「お前のすっぴんなんか見るの苦痛だわ」って言ってるようなもんじゃないのか。それって一種の悪口じゃん。せっかく大学までで手に入れた個性とか、アイデンティティーとか、捨てろっていうのかな。意味ないじゃん、何それ。無駄じゃん。学生時代、無駄じゃん。あたしの宝物、きらっきらした宝物、無駄じゃん。



「ばあーか!」



思ったより大きな声が出た。

それと同時に横を電車が轟音で駆け抜けた。線路沿いは、人通りが少ないから、ひどく上手に声がかき消された。もう何に対しての台詞なのか、なんでこんなに悲しいのかも訳が分からなくなって、ヒールでタイトスカートのくせに、全速力で電車を追いかけた。汗をかいても前髪が崩れてももう気にならなかった。心臓がバクバクして、呼吸と一緒に変な声が出る。地元の知り合いに見られたらただの不審者だけど、もう今はそんなことすらどうでもいい。



20代の体力の限界はすぐに来た。

あっという間に減速して、肩で息をしている間に電車が遠のいていく。ぜえぜえと吐いた息の中に、どくどくと脈打つ心臓の奥に、大事な何かがある気がした。あたしは、染まってやるもんか。あたしはあたしのままでいてやるんだ。ゆとりだっていいじゃないか。それがあたしと、あたしの大好きなものを作ってきたんだから。文句言うな。あたしたちだって勝手に決められて、だけどその中で、いろんなもの見つけたんだから。あたしの大好きなものの悪口を、言うな。




もう夕方にバイバイは出来ないけれど、あたしたちは夜にだってなんだって明日を蹴飛ばしに行ってやろう。あたしの大好きなもの。置いていかない。離さない。一緒にずっと連れていく。道連れだ。



じわじわ歪む視界を拭うと、家までのまっすぐな道を月が照らした。

カバンを肩にかけなおして、もう一度、あたしは大きくアスファルトを踏み込んだ。





〈了〉




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?