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「放課後クロニクル」

西日が射し込む校舎で、およそ10年ぶりに聞くチャイムの音に耳をすませた。

卒業してすぐに建て替えられた新校舎はどこへいったのか。老朽化が心配されていたなじみの校舎の中で、鈴子は困惑していた。
目の前に広がるのは、確かにあの頃自分たちが通っていたままの校舎だった。

ーーーーー既に壊されて、存在しないはずの。

鈴子はなぜ自分がここにいるのか必死で思い出そうとした。
確か、昨日は遅くまで同期と飲んでいたのだ。次の日が休みなのをいいことに、調子に乗って何本もワインをあけた…気がする。同期に酒豪扱いされているなんて、当時の自分には想像し得ないだろうな、と、鈴子は少しだけ口角を緩めた。

下駄箱前にある大時計が、軋んだ音をたてて16時の鐘を鳴らす。
遠くで吹奏楽部の練習する音がする。
グラウンドからは野球部の掛け声も。
一つ一つに耳をすましながら、鈴子は考えていた。
もう一度この風景の中に戻れるなら、自分は何がしたかっただろうか。

制服を着て、何事もなかったように準備をして、通学路を通って門をくぐれば、いつでもあの頃に帰ることが出来るような、そんな馬鹿げた妄想を、未だに鈴子は考えていた。
そんなことをして母校に返り咲けば、ただの不審者になることは重々承知していたし、実行にうつそうと考えることもさすがになかったが、"いつでも戻れる"ような気がしていたのは、事実だった。

ゆっくりと校舎を歩きながら、鈴子はふと、自分の足元が上履きであることに気がついた。一体どこから引っ張り出してきたのか。見覚えのある自分の筆跡で苗字のかかれた上履きがそこにあった。上履きの中には特にダサいと思っていた白い短い靴下、その先にはグレーの長いスカート。
一瞬何が起きたかわからないまま、ガラスに映る自分に目をやると、ひどく髪の短い、中学の制服を着た少女がこちらを見つめていた。
恐る恐る、右手で自分の髪に触れようとすると、窓ガラスに映る少女も同じように動きだし、到達した指先には艶々とした短い黒髪が刺さった。昨日まであったはずの、胸元までのアッシュベージュの髪はどこにも掴めない。

中学時代そのままの自分の姿だった。

もう存在しないはずの旧校舎で、制服を着て、上履きを履いて、ひどく短い髪で、よく日に焼けて。

「中原」

誰もいない廊下に、自分の名前がよく響いた。

振り向くと、当時の担任教師が何やら紙をひらひらさせながらこちらへやってくる。

「お前この前の感想文、名前書かずに提出したろ、ほれ。」

手渡された紙には確かに見覚えのある字で、職業体験で訪れた老人ホームについての感想が綴られていた。

「私の字、ですね…」

「そうだろ?今名前かけ。ペンあるか?」

「いえ…。」

「あぁ、じゃあこれ使え。時にお前さん部活は?」

「えっと…」

部活も何も、まず自分の現状ですら理解していない鈴子にとっては何も答えようがない。

「あ、この時期は委員会か。お疲れお疲れ。名前書いたか?よしよし。じゃあ頑張れよ。次回からは名前、忘れないように。」

用紙でぺしっ、と、鈴子の頭をはたくと、勝手に自己解決をして、担任は来た道を戻っていった。
やり過ごせたことを安心したような、また一人になって不安なような複雑な気持ちでまた廊下に残された鈴子は、これはどうやら夢だな、という結論に行き当たった。

これはきっと、夢なのだ。
しこたま飲んだお酒のおかげで、とても懐かしい夢を見ている。

夢だと自覚してしまえば不思議なもので、突然この異質な空間にも慣れてきた。
この際存分に母校巡りをしてやろうと、鈴子はとりあえず自分の教室に戻ることにした。
この髪の短さ、職業体験のことを考えると、今私は中学2年生だ、と、そこまで推理して、2年A組の教室へ足を進める。

ーーーーただただ、懐かしい。

二度と手に入らないものの魅力に気づくのは、いつだって、ちゃんと、手のひらからこぼれたあとだった。「失った」と、感覚として理解して、失うことを完了してからでないと、その重みや価値には気づかない。そして、気づいてしまってからは、少しずつ少しずつ、ゆっくりと諦める方法を探すしかないのだ。

そんなことを考えながら教室に辿り着くと、ずらりと並んだ灰色のロッカーが目に入った。
四桁のダイヤル式の鍵が一つ一つについている。
防犯のため、と、1年生で一人一つ配られるのだが、だいたいの生徒は面倒で、一番下のダイヤルを1つ横にずらせば鍵が開くようにしていた。
自分のロッカーの前に立って、鍵のダイヤルを1つずらすと、番号は覚えていなかったけれどすんなりと開いた。
ロッカーの中は上下二段にわかれていて、教科書が丸ごと置き勉されている上段と、体操着や運動靴が雑多に詰め込まれた下段とがあった。各教科見事に揃って置かれている教科書の背表紙を眺めながら、『勉強しろよ自分…』と、少しだけ苦笑する。

「中原?」

その声に心臓が跳ねた。
さっき同じように担任が呼んだときはそれほど動かなかった心臓が、突然全身に血液を送り始める。

ーーーーああ、覚えてるもんだなぁ。

直後に少しだけ冷静になる。
一度好きになった人の声は、たぶんこうやってずっと、一生、間違えないのだろう。

振り返ると、そこには案の定、春山が立っていた。
春山が苗字の、彼のあだ名は「ハル」だった。
学ランのボタンをほとんど留めずに、ワイシャツも出しっぱなしで少し寝癖のついた髪からは、とてもそんな穏やかなあだ名は想像できないけれど、言葉を選んで、大抵筋の通ったことを言う彼のことを、鈴子は好きだった。
後ろから見た頭の輪郭も、たぶん上手に思い出せるだろう、と、謎の自信が未だにある。襟足が長くてよく叱られていた、この校則の厳しい母校では少しだけ不良だった、ハル。

「お前なんでいるの、部活は?」

部活が終わるまではあと30分以上ある、という頃合だった。大抵の学生は、帰宅か部活か委員会か、という所在をはっきりさせている時間なので、一人で教室にいることはまず、ない。

「いや、ちょっとね、先生に呼ばれてて。」

担任と話していたのは本当だったので、鈴子はもっともらしく答えた。

「まじか。おつかれ。」

「春山こそなんでいるの、部活は?」

「ああ、俺さ、この間部活で足怪我してさ、だから今日はこれから整体行くからって、はや抜け。」

ガチャガチャとロッカーを開けると、春山はバレーシューズをその中に放り込んだ。

「え、大丈夫なの?」

思わず足元を見ると、春山は驚いたような顔をして、

「お前がそんな心配するなんて珍しいな」

と、こちらを見て言った。

「まぁそんなに痛くないし、たぶん体育祭も出れると思うんだけどさ。俺去年も一回膝やってるから、一応な、念のため。」

「そうなんだ…」

教室に2人っきり、という状況は、25年人生を生きた後もどきどきするのだ、と、鈴子は知った。

この日からずーっと遠ざかって、遠ざかって、中身が25歳の、14歳の私は、今、春山にどう映っているのだろう。
荷物を整理している春山を見つめながら、鈴子はぼんやりと思った。

「春山にはさ、あたしのことどう見える?」

荷物を整理していた春山が、え?という顔でこちらを見た。

「どうって?」

「いや、なんていうんだろう、ちがう、ほら、人間として?人柄っていうか、性格っていうか?」

言葉の文脈がいろいろな取られ方をする可能性に思い当たって、ひとしきり慌ててから、鈴子は言った。

「春山から見るあたしって、どういう人間なのかなぁって。」

「ーーーお前どうしたの、突然」

春山は、しばらく沈黙し、けれど茶化したりせずに、うーん、と考えるように唸った。ロッカーの前で、自分の首の後ろに手を置いて考え込む姿を、鈴子は、もう失わないように、縋るように目に焼き付けた。

「ーーーーお前さ、職業体験の場所決めのときのこと、覚えてる?」

「場所決め?」

「うん。誰がどこ行くか、総合の時間に決めたじゃん。あの時、お前最初は本屋に職業体験行くはずだったじゃんか。」

ーーーそこまで言われて、ようやく徐々に当時の記憶が戻ってきた。
鈴子は本が好きで、どうしても書店に行きたかったけれど、感情を容易く吐露する同じクラスの別の女子がジャンケンで負けてしまったあとに、「好きな人と同じ場所に職業体験に行きたい」という理由で泣き出してしまったのだ。
それが、ちょうど鈴子の行くはずだった書店だった。

「お前ずっと楽しみにしてたのにさ、あいつのために代わってあげてたじゃん。あれ見た時、最初、ああこいつ馬鹿だなぁって思った。」

「ははは…。」

その子は泣き止みそうになかったし、教室には「可哀想」という空気と、「わがままいうなよ」という空気が交互に溢れて、その時はもう鈴子が身を引くしか、解決策が思い浮かばなかった。

「で、その後にさ、お前と仲いい吉田がさ、これでよかったのかって中原に聞いた時にさ、お前、なんて答えたか覚えてる?」

ーーーさすがに、そこまでは思い出せなかった。

首を振ると、春山は心底面白そうに、

「本当にやりたいことは自力でやるからいい!って、笑いながら言ってた。」

お前本当、優しいんだか頑固なんだかわかんないわー、と、春山が言っている横で、鈴子は高校大学と続けた書店のアルバイトを思い出していた。

ーーー悔しかった、たしかに。悔しくて、悔しかったけれど、自分の力で何とかしてやる、と、あの時強く誓ったのだ。今の今まで忘れていたけれど、私はちゃんと、自分の約束を守っていたんだ。

随分昔になくしたものを、春山が手のひらに、もう一度のせてくれたような気がした。

ぼーっとしている鈴子を見ながら、春山は学生カバンを肩に掛け、ロッカーを閉めた。

「中原」

鈴子が視線を上げると、西日に照らされた春山がこちらを向いて微笑んでいた。

「たぶん、お前は何歳になってもずっとそうだよ。馬鹿みたいに親切で、でも自分の約束を裏切ったりもしない。」

がらっ、と、教室の扉を開けると、春山はもう一度振り返った。

「だから、たぶん大丈夫だ。今のまんまのお前で、そのまま頑張れよ。」

馬鹿みたいにな、と、最後に茶化すように付け加えて、春山は扉の向こうに消えていった。なによ!と、お決まりのように返してから、春山の消えていった視界が、じわじわと滲んだ。

「あー、やっぱり、かっこよかったなぁー…。」

ひとり言のように呟いた。

何年も何年も会っていない彼の記憶は、どんどん美しく美化されていった。
あまりにも美化されすぎて、途中から鈴子は不安だった。今自分の記憶にいる春山は偶像でしかなくて、実は大したことなかったのではないか、とか、同じ記憶をもっているのだろうか、とか。

けれど、もう、たとえ夢の中でも、関係なかった。

鈴子の好きだった春山は、何よりも素敵な人だった。自信を持って言える。これだけは、もうずっと、変わらない。

化粧をしていない頬に涙がぼろぼろと流れた。
すっぴんの顔を、強く手で拭った。

ーーーーーーーーーーーーー

涙を拭って目を開くと、見覚えのある天井だった。

ああ、やっぱり夢だった。
そりゃそうだ。

と、鈴子は笑いながら体を起こした。
時かけちゃったかと思った、なんて、友だちに言ったら笑われるに決まっている。

起き抜けに冷蔵庫をあけて、麦茶をグラスに注いで飲んでいると、携帯がブルブルと振動していた。

【吉田愛】

と、液晶に表示されている。
タイムリーだな、と、鈴子は携帯をとった。

「もしもし?」

『もしもし?鈴子?よかったー、繋がった。あんた大丈夫?無事に帰れたの?』

「え、何。なんで昨日めちゃくちゃ飲んだことバレてるの」

鈴子は笑いながら、夢の話をした。

「時かけちゃったかと思ったよね、我ながらホント、びっくりしたわー」

ここで、一笑い起こるはずだった。少なくとも鈴子の計算では。
電話の向こうがふっ、と、沈黙になり、愛が気まずそうに口を開く。

『鈴子さ、昨日のこと、あんまり覚えてないか。』

「え?うん。めちゃくちゃ飲んだみたいで…」

『昨日もさ、言ったけど、あのね、ハル、死んだよ。』

少し記憶がフリーズして、けれど、鈴子の頭はすぐに冷静になった。

ああ、そうだーーーーー。
ハルは死んだ。
中学以来会わずにいたハルは、死んだ。
正確には、死んでいた。
昨日一緒に飲んでいたのは、同期ではなく同窓生だった。

同窓会の話を聞いたとき、鈴子はずっと聞きたかったことを、春山に聞くつもりでいた。
社会人になって、いろんなものを見失って、忙殺されていく自分を、春山はなんていうだろう。
春山の言うことは、たいてい筋が通っていた。だから、彼の言葉だったら、もう一度、鈴子は鈴子自身を見つけられるような、何か拾えるかもしれないような、そんな漠然とした想いで、彼に会いたかったのだ。

けれど、同窓会に彼は来なかった。

来ることができなかった、という方が正しかったのかもしれない。
春山の家族はとっくに、身内だけでひっそりと、彼とのお別れを済ませていた。
春山と家が近所の友人が、ようやく口を割ったのだ。

ああもういないんだ。

そう思いながらしこたま飲んだワインだった。

ボジョレーが解禁したわけでも、同期との憂さ晴らしでもなく、ただただやけ酒したのだ。

『ーーー会いに来てくれたのかもね、ハル。ーーー鈴子に。』

愛が、感情をなるべく入れないように、淡々と言った。
全面に労りを押し出すわけではないその淡々とした声が、何だか有り難かった。

電話を切ってから、しばらくぼーっとして、そして、とっくに日が昇った窓際に行ってカーテンを開けた。

『だから、たぶん大丈夫だ』

何の根拠もないくせに、と、春山の台詞を思い出しながら、鈴子は毒づいた。

窓を開けると、ひんやりとした、秋と冬のちょうど真ん中の風が部屋に入ってきた。
夢の中とひどく似た西日は、まぶたの向こうで笑う春山をゆっくりと思い出させた。

世界中のオレンジを思い切り零したような空を見ながら、鈴子はもう一度だけ泣いた。

〈了〉

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