場違いに読むアガリビトになる
水木しげる作詞の曲「ゲゲゲの鬼太郎」(1967年)には、学校や試験、会社や仕事、そして死や病気から解放された「おばけ」が登場する。ひとは時折そうした「おばけ」になることに憧れるが、もちろん現状でひとが「おばけ」になることには端的な無理がある。「おばけ」らしく振る舞うために周りに何かを無理強いするなら、愚かというより醜悪だと判断されてしまうかもしれない。しかし「おばけ」として生きうる世界を想像するのは必ずしも馬鹿げたことではないはずだ。人間が鳥になれないからといって、鳥になる夢とともになされる試行錯誤が全て馬鹿げていたわけではないように。
水木の歌から40年以上あとに生じ、やはり学校や試験、会社や仕事、そして死や病気から解放されて映るが、それへの憧憬より恐怖が強調され、それになることを嫌忌される、ある「おばけ」の話を以下でする。すなわち、アガリビトの話を。
アガリビトは、2010年頃に電子掲示板で広まった都市伝説のひとつだ。深山幽谷で世間の目を忘れた街の市民が怪人に変ずるとされる。その怪談にまぶされた通俗性や、山人描写(どこか初期『進撃の巨人』(2009連載開始)めいてもいる)ほかの俗流民俗学的疑似地方風習意匠などの粗さは、ここでは措く。そこで対置される町と山、人と獣、人工物と自然などのイメージの粗さも、渓流釣りや祭儀などのデティールの粗さも、ここでは措く。まず、ひとつの科白を取り上げてみる。
語り部は、ふだん街中で自身がどう感じても「ど真ん中で背伸びしたりすがすがしいなんて思わないだろ?」と問いかけてくる。反論は色々できる。例えば、現に自分はどこでも山岳部の景勝地にいるように背伸びしたり、すがすがしいと感じたりするのだが、との声も上がろう。私もそう思うが、それで済まないところもあった。というのも、こうして画面上の文字列を見ている己の身が、街中で何気なく背伸びしたり四つ這いになったりする瞬間、街中の蠅や空き缶をも山中の蝶や石筍のように眺めたりする瞬間の記憶を、どれほど持っていただろうかと、その科白に触れて自問したくなったのも、確かだったのだ。ふだん、できるはずだけれど、現にしないことを、すること。しなくてもよいこと、してはならないこと、せずにすめばよいが現に起こってしまうこと、それらの入り乱れる領域へと考えが引きずられたのだ。
街中での背伸びと爽快感の代わりに、山中での注視と美感を考える。登山道に落ちている空き缶に見入って美感を覚えるのは、どうかしている振る舞いだと思われがちだ。もちろん環境保護や景観保全、あるいは公衆衛生などに関する相応の知識などが備わっていれば、その空き缶に少なからず見るに堪えなさを覚えることは確かだろう。けれど、それと同時に、存在しなければよかったはずのものが現にあることでもたらされる意味がそこに見出されてしまうとしたら、どうか。
そこには、この空き缶でもたらされなくてもよかったはずだが、事実としてこの空き缶で初めてもたらされてしまった感触が、見出されるかもしれない(さもなくば、それはやはり存在しない方がよかった何かにしかなれないだろう)。環境や景観を損なう廃棄物でもなく、人間の営為の痕跡物でもないような、いくつかの空き缶の捉え方、いくつかの使用法に思い至る瞬間がもたらされるかもしれない。それは登山者に相応しい感じ方や振る舞い方ではないとされるかもしれない。しかし、山中のゴミ拾いをしながら、そうして登山道に落ちた空き缶に感じ入ることもできてしまうし、現に起こるのではないか(さながら街中の落書きを掃除しつつ、つい鑑賞してしまう瞬間のように?)。そこで予感が訪れる。何に着目して、どう評価するのかという心身の習慣が、変わるかもしれない予感。それが訪れる瞬間を、より多く持つこと。それは、例えば、予めの目的を持って何かを見る構えではなく、目に映じるところから多種多様な目的が産まれるのを思考する構えを、この身体に培うだろう。
しかし、そのように物を見、そうして物を扱う者は、それ自身が不可解で見るに堪えがたいものに、近しくなるとみなされるのではないか。
アガリビトのように。
アガリビトは山中で「コーラの炭酸が徐々に抜けてくみたいに常識とかモラルがどんどん抜けて」しまった人間が変ずるとされている。そしてアガリビトの恐怖描写は、その目つきと不意の暴力に特徴づけられている。例えばこんな風に。――山林で語り部が落とし物を探していると、無着衣で笑顔の人物が現れる。「んでその人が「ンー」とか言いながら岩をふっとどかしたのね。/岩の下を覗き込むようにしながら岩を大切そうに持ち上げたの。/俺は「いやいや、そんなとこにはないですよw」って突っ込んだら/その人は「ンンンー」って言いながらニコニコ笑って俺に岩を投げた。/頭の横スレスレを横切った岩の意味を理解するのに2秒くらいかかった。/その人の顔を見ると目に全然覇気がないって言うかギラギラとした目ですごく怖かった、/まさにこんな感じ→<●> <●>」(誤字と思しき表現は修正した)。つまりそれは同じものを同じように見ている〈わたしたち〉がいるという思いなしが破砕される瞬間の、また〈わたし〉もまた〈わたしたち〉を外れたアガリビトになってしまうかもしれないと現に示される瞬間の、もたらす恐怖感なのだ。
山中の美を語るべき場で、何気なく打ち捨てられた空き缶の美を語り始める者の帯びる不穏さは、はじめは落とし物を探すために退けられたかのように見えた障害物を、投げるための凶器に変えたかのようなこのアガリビトが見せるのにも似通ったものだろう。不穏な手つきと目つきの下で、目的のずれが突発的に露呈する。それは何ほどか、恐怖を醸しだす。たいていの恐怖は目的が裏切られたとき、悪意と無邪気の混合した梯子外しから生ずる(おそらく、笑いもそのような梯子外しだ)。
同じような不穏さを、例えば修辞学者ポール・ド・マンが哲学者カントを論じた、次のような箇所にも見出すとができる(以下ド・マン「カントにおける現象性と物質性」『美学イデオロギー』所収を参照する)。カント『判断録批判』の一節、天空や大洋を眺める「詩人」の描写を、そこにある家屋を使い方も知らずに眺める「野蛮人」の描写(カント『論理学』の一節)と重ね合わせるド・マンは、天空や大洋であれ、家屋であれ、それらが目的のもとに組み合わされたというような合目的性を斥けて、目に映るがままを見なければならないとするようなスタイル、つまり「カントの物質的な視覚」を論じ(これをド・マンは『判断力批判』内部の不統一と解し、脱構築的読解に話は進む)、人間の身体における美や崇高も身体の合目的性なしに判断されねばならないという『判断力批判』の一節をさらに引いてから、こう述ベている。この場合の合目的性とは有機的な統一のことだ。なので、「要するにわれわれは、詩人が大洋のことを地上における地理的場所から切り離して見るのと同じようなやり方で、四肢や手や爪先や胸、[……]のことを、身体の有機的統一から切り離して、それ自体としてばらばらに考えなければならないのである。[……]クライストに近いやり方で、身体の節合を解除してずたずたにしなければならないということである」。有機体を有機体とも思わないような目つきでモノを見、文を文とも思わないような手つきでバラバラにする。寸断されたピースのように世界のアレコレを鑑賞することは、世界の四肢をもいでつまみ食いすることだ(作品と世界と身体を、有機的統一を持つべきものだとする、イデオロギーに乗っかって私は書いている。そういうイデオロギーはボディ・ポリティックと呼ばれたり国体と呼ばれたりする。最近だと、企業が人間と同じく、人格を持っていることになっていることなども含んでよいかもしれない。その裏返しには身体の諸部分の擬人化としての「はたらく細胞」のような物語が考えられる)。
悲劇を、喜劇を、風景を、自然を、日常を、家屋を、身体を、無情に、バラバラにして、眺める。そのようにあたりを眺めるモノはもう”ひと”の形を保っていないかもしれない。むしろ別の形がふさわしいとすら言えるかもしれない。
例えば、蠅。
横光利一の「蠅」を見てみよう。「車体と一緒に崖の下へ墜落して行く放埒な馬の腹」を目にする蠅は、馬車に集まっていた人々がほの見せていた物語の断片など気にしない。初めから、深めるにはあまりに断片的な情報だけが提示されていた。終盤、気づけば蠅自体が擬人化されてあたりを眺めている(「乗客の中で、馭者の居眠りを知っていた者は、僅かにただ蠅一疋であるらしかった」)。そうして物語の結びでは、ふたつの軌跡がリンクさせられる。――読み終えた本を閉じ物語から離れて顔をあげる読者の眼線と、墜落事故現場の「圧し重なった人と馬と板片との塊り」を離れて青空へ飛び立っていく「眼の大きな蠅」の飛行。そこでは、ある照応が生じている。かくして、蠅のように無感動にキャラクターの「塊り」を眺める、「眼の大きな」この世界の読者の姿が浮かび上がる。
(「蠅」本文は、青空文庫を参照した https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2302_13371.html )
評論も、物語も、極限状況や”あってはならない”状況を疑似体験できるシミュレーターのように使える(思考実験とは異常思考疑似体験ツアーでもある)。”おばけ”になること、”アガリビト”になること、”野蛮人”そして”詩人”になること、”蠅”になること。様々な”なること”を列挙しながら私はあるスタイルをいま語ろうとしてきた。つまり、ある目つきと手つきを。あるホラー的感覚の説明であり、説明自体がホラーであるように。
しかし、なぜアガリビトの話を引き合いに出さねばならなかったのか。「アガリビトのこと」と題するには、あまりにわずかな検討しか加えられていないのではないか。これでは、アガリビト自体が、山中の空き缶のようではないか。アガリビト自体が、なりたくない「おばけ」で、当世風に歪んだ山人イメージで、すぐに旧びるネットロアなのではないか。言いたいことがこれならば、もっと適当な事例があったのではないか。そんな疑問の余地は残る。もっと深めて何かよりよく書けたのではないか、何か残留していないかとの予感も。
余地も予感も、いつでも残る、と私は感ずる。しかし、ともあれ、アガリビトの話をするためにこの文は書き始められていた。それはどうしようもなく事実だった。
[了]
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