メモ(解釈の話、誤読讃)

解釈の話

どんな受容の仕方でも、それだけで解釈としての優劣がつけられるべきではないという姿勢を、私は取りたいと思っています。解釈のよしあしは、その解釈があるからこそ作品の特異な力がより精彩を増すと言えるかどうかで測れると思います。その作品があるからこそはっきり感受されるような観念や感触がある、と語れているのかということです(仮に、扱う作品が「けしからぬ」「存在すべきでない」という評価であれ、その低評価の理由となる、低劣な力が問題になっている、という立場を私は取りたいと思います)。

例えば、以下のリアクション記事の成否は、私のとりたい姿勢に即して言えば、大袈裟かもしれないけれど、「うまれisなやみ」に力がある、と示す力が「誤読」にある、とこのリアクション記事の読者に受け止められたどうかにかかっており、それが私の解釈する技能または力量の問題だということを私は思っています(もちろん、記事の読者がその記事をどう解するかというのは、その読者の領分でもあります)。

ポケモン(ゲーム)の文言でしばしば引かれるものに、「つよい ポケモン よわい ポケモン そんなの ひとの かって ほんとうに つよい トレーナーなら すきな ポケモンで かてるように がんばるべき」というのがあったと思います(ジョウト地方の四天王カリンのセリフ)。

ナイーブに言えば、私は、よい解釈とは、ある作品と己の出会いの特異さとよさを言葉で明らかにすることであり、それは「すきなポケモン」で「かてるようにがんばる」ことだと思っています(江川隆男『超人の倫理』第三章で説かれるような、解釈におけるパースペクティヴィズムを、私はそう理解しています)。鑑賞するだけならポケモンをひとりで愛でるのに等しいですが、鑑賞を言葉にして他に届けるのはポケモンバトル(またはポケモンコンテスト)のようなものだと思います。自分だから育てられたそのポケモンで勝つことができる。そう証し立てる振る舞いを、すぐれた創造的な解釈だと捉える立場が、自分の取りたいものです。

もちろん、解釈を競技と関連付けるなら、競い合いの生々しさについてを、もっと吟味すべきでしょう。闘争の遊戯化の効用、規則や定石の洗練(選手がすべき作業の固定化)に伴う悲喜交々、遊戯化された闘争が興行されることの明暗、そうしたテーマを、競技ポケモントレーナーによるエッセイという体裁をとって描いている、すぐれたポケモン二次創作として、rairaibou(風)「モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。」があります。分量はかなりあります(連載更新中で増え続けています)が、おすすめです。

作品は作者の思想や感性に同化してもらうためのものではなく、読者の思想や感性をはっきりさせていくためにあるのだと私は思っています。例えば、この作品は読み手に然々のような反応を引き起こす用途の製品で、そのために然々の素材や然々の技術を使っており、用途の評価基準に照らすと以下のような格付けになる、といった仕方の分析は意義深いと私も思いますが、私の関心は、ある読者がその読者でなければつくれないような解釈を生成するのに作品が寄与することです。

そして、そのままでは共有できない自由連想や、解釈者のパースペクティブありきの読み取りが、言葉にされて不思議と伝わったり理解したいと感じるようになったりする体験が、解釈を読む体験に求めるもののひとつです。

誤読讃

上に引用したのは自分の詩への感想記事ですが、それは誤読という題の連載のひとつに位置づけられています。その第0回記事には以下のように書いてあります。

そして、僕の楽しみ方を一つのサンプルにして詩歌を読んでほしい。僕が深読みするときは妄想に近いレベルでしている。作者の書いた意図をほとんど意識せずに、自由に読みを楽しんでいる。そういう意味ではまさに誤読であるが、その誤読を詩の豊かな可能性につなげていきたいと思う。そして、このようなやり方で詩を楽しんでいる人間の存在と、その様子を文章として残せば、ボルダリングで最初に手をかける石くらいの存在にはなれるのではないか考えている。

これは、ニュー・クリティシズムやテクスト論の、ある種の姿勢に親しみを持つ身として、とても、感じ入るところのある一節でした。「わかることを手がかりに詩を読み続けることで、次第に共鳴することへの感度が高まっていった」自身の体験に根差して、「共鳴に至るまでの、始動に必要な力の一部になりたい」という姿勢で詩の読みの実演例を示していく振る舞いには、詩歌小説などの一読者として、リスペクトを覚えます。

また、私は創造的な読み方の肯定を誤読の擁護と組み合わせるような議論に触れてきた身なので(極端な実演例を挙げると、クリスティ『アクロイド殺し』の「真犯人」を論じ出すピエール・バイヤールの推理批評などです)、それが誤読という名で打ち出されることにも、個人的には合点がいきます。

(余計な話2。なおニュー・クリティシズムが、どのように始まりどう広まったかを論じる越智博美「「南部」の新批評、新批評の「南部」」(2001)の議論に触れたり、通俗的に流通する"ポストモダン≒ポストトゥルース"式の非難の雛形となるようなテクスト論批判を、多元文化主義論における階級問題の後景化と関連付けて展開していたウォルター・ベン・マイケルズの議論――鈴木章能「テクストの「はぐらかし」に抵抗するとき 」(2007)の冒頭で内容が要約されている――に触れたりしてきた身として言えば、ニュー・クリティシズムやテクスト論が手放しに肯定できる理論だ、と言い切るのは難しいところもある。ただ、それらにはよい理念も託されてきたと思う。)

テクストの快楽というか、読みの姿勢を言葉にしていく営為は、作品の使用をより開きよりよくしていくことだと思いますし、個人の記憶や感受性に根差しつつ、何が読みこまれたかを書いていくのは、現に読解がそのようになされる以上、もっともなことだと思ったりします。

また、現に作品を吟味するのは、読者という無色透明な抽象物ではなく血と肉の通った人間である(これだと人間中心主義的すぎるので、言い換えると、読者は具体的な機械や動物である)ので、個別的な記憶に基づく連想など、作者が指定できない要素も含める「誤読」こそがリアルな読みだと思いますし、そこから記述されるものを書くのは有意義なことだと思います。実は、自分自身、そういう読みに関心がありました。

私は、それを読む己が意識されてしまうような作品を制作することにオブセッションがあったので、私語り的な作品体験の記述のなかで、作品の読み方を実演する「誤読」という企画のなかで自分の作品を選んでもらったことをとてもありがたく思っています。こういう書き方をすると、介入的に響いてしまうのではないかと思いつつ、どうしても思ったところを述べます。――読者のひとりとして、連載の続きをたのしみにしております。

[了]

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