メモ(ある身体には何ができるのか)



はしがき

・ある昼下がり、喫茶店で、建築学を修めているひとに現代思想の流れをかいつまんで話す機会がありました。これは、そのとき話した内容を元にしたメモ書きです。「ある身体には何ができるのか」という問題設定の下で、主に5名ほど哲学者の名を挙げました(マルクス、サルトル、レヴィ=ストロース、フーコー、ドゥルーズ)。
・上で現代思想の流れと呼んでいたのは主に、20世紀のフランスの思想家を中心とした、実存主義から構造主義へ、そしてポスト構造主義へという思潮の変遷のことでした。思弁的実在論や新しい唯物論、新実存主義など今日日語で注目の思潮に目を向けている方から見ると古びた整理だと思います。
・以下のメモ書きには、勉強によって解体すべき臆見や補うべき疎漏が含まれています。また、言語論的転回、(フレンチ・)セオリー、精神分析、現象学、ほかの様々な哲学者・思想、1968年、政治運動・社会運動、などなど、扱えていない観点や項目も多かったです。ご承知おきください。私は、よくて初学者、というより半可通です。
・プロによる整理としては、例えば、岡本裕一朗『フランス現代思想史』(2015年 中公新書)のような著作を読むことをおすすめします。また、下記に付した専門家の論文や、専門家の手になる入門書、百科事典項目などをおすすめします。あるいは、哲学(や現代思想)が、つい気になってしまうが本当に不可解で体が受け付けない、という方は、もしよければ戸田山和久『哲学入門』(2014年 ちくま新書)を読んでみてください。また、整理や入門ではありませんが、小泉義之『「負け組」の哲学』(2006年 人文書院)を読んでみてください。
・メモ書きで挙げた文献(日訳)の情報と、記述を整理しながら目を通した論文(WEB上で閲覧可能なもの)を、おわりに記しました。
・このメモをnoteに挙げようと思ったひとつのきっかけは、以下のyoutubeを視聴したことでした。

メモ書き

0.
 ある身体には何ができるのか。この問いかけは以下のように聴き取られるかもしれない。私を世界にアクセスさせている、この身体には、何ができるのか。しかし、この問いかけにそのような肉付けを施すのは不適切である。ゲームの中のキャラクターをプレイヤーが操作するように、世界の中の身体を私が操作するというわけではないのだ、と考えておく。私が身体を介して世界にアクセスしている、と言い表せるような構図、すなわち私(内面)―身体(表面)―世界(外界)という構図は、いわば思弁上の錯覚であって、この構図を前提にするような(三つの各項それぞれの)操作の試みは、そこに映る月の像を掻き消そうと水面を叩くのにも似た徒労に陥る他ないのだ、と考えておく。そのように考え、私があるという事態を捉えなおしてみる。――このとき、私、身体、ないし世界と呼ばれていたもの、それらで示そうと試みていたもの、それには何ができるのか。――ここで、ある身体には何ができるのか、という問いかけで示そうとするのはこのようなことである、とする。

 ある身体には何ができるのかという観点から、現代思想の潮流を整理してみる。ここでいう現代思想とは、大まかに言えば、主に大陸哲学系の諸思潮がおりなす流れのひとつである。次に示すような二極間での振幅としてその流れを整理する。一方の極には実存を置き、他方の極には構造を置く。何かをしてはいけないのは、それができないからとは限らないはずだ。実存の極に向かう思潮は、禁止が不可能と取り違えられていることを、批判的に検討する。禁止を自然で自明だと見せかける策略を警戒する者は実存を重んじることだろう。他方で、構造の極に向かう思潮は、不可能が禁止と取り違えられていることを、批判的に検討する。できもしないはずのことを禁じられていると煽り立て、駆り立てる。そうした策略を警戒する者は、きっと構造を重んじるはずだ。このように実存と構造という極を想定しておく。一方へと寄った思潮が人口に膾炙し、硬直した極言(教条化)や通俗道徳の意匠(骨抜き)と化すと、他方に向かう思潮が、状況への対抗として前景化してくる。不可能と禁止を見極め、後の祭り(過去へ向かう悲しみを伴う反実仮想)と青写真(未来へ向かう喜びを伴う反実仮想)はそれとして把握し、――それらは慰みになるが、慰みの機能、できることとできないこととは厳密に把握した方がよい――それらとは別に、現にある今および今把握している来歴と予測とを銘々に捉えること、入り乱れるそれら一切を選り分けていくこと。おそらくは、現代思想を、そのような見極め、見分けが洗練されていく過程として、ひとは知り、学びなおすことができるはずだ。マルクス(構造)、サルトル(実存)、レヴィ=ストロース(構造)、フーコー(実存)、ドゥルーズ(構造)と見立てて、その振幅を記していく。

1.マルクス(構造)Karl Marx 1818-1883
 カール・マルクスは『経済学批判』の序言で、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」と述べている。この言に、ジャン=ポール・サルトルが『実存主義とは何か』で述べた「実存は本質に先立つ」との言を対置させるところから始める。マルクスは、ある身体が既に何らかの状況に置きこまれていることを強調して、ある身体には何ができるのかを問うたと言える。例えば『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』第1章の序盤には、ある身体のなしうることがその身体の自由意志に依拠するわけではないとの主張が記されているように映る。「人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする」。あたかも、身体は、階級闘争という構造の担い手であり、それに尽きるかのようだ(マルクス自らは、それに留まらないことを言わんとしたように思われるが、その一方で、マルクス主義が伝播し流行した理由は、マルクスの著作がまるで何か法則のごとく抵抗しても無駄であるような、しかしそれゆえ普遍的な指針を提供してくれると信じられたからだったように思われる)。

2.サルトル(実存)Jean-Paul Charles Aymard Sartre 1905-1980
 他方サルトルはある身体が何らかの状況に置きこまれているからといって必ずしも同じことをするわけではないと強調する。サルトルは『実存主義とは何か』において、ペーパー・ナイフと人間を類比している。「神は職人が一つの定義、一つの技術に従ってペーパー・ナイフを製造するのと全く同じように、さまざまの技術と一つの概念とに従って人間を創るのである」。この比喩を通してサルトルが語ろうとするのは、実のところ人間に対しては、「製造」の責任を請け負う「職人」に相当する審級はない、ということである。「このように人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。[……]人間は自らつくるところのもの以外の何物でもない。以上が実存主義の第一の原理なのである」。人間をデザインし製造した職人は、いない。ある身体は目的に沿って制作された、用途の定められた道具、ではない。階級は身体の用途を決定しない。実存における決断が身体を道具のように機能させる。ここに構造の極(マルクス)から実存の極(サルトル)への転換を見出すことができるだろう。なるほど、ある状況の中に置きこまれた身体は、その状況から逃れることはできないかもしれない。しかし、そうであってもなお、ある状況を把握して、その状況を引き受けなおすと決断するとき、身体はすでにその把握以前とは別のことをなしているはずだ。何をして何者になるのかを決断する、自由の契機がつねにすでにそこにある(これに関連して、サルトルがパートナーシップを結んだ相手でもあった、ボーヴォワールの著作『第二の性』の一節も確認しておきたい。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」。この一節は、ただ既成の「女」らしさを引き受けるよう強いてくる力を批判するのみならず、それを引き受ける契機がなお新たに「女」らしさの内実を己で刷新し打ち立てなおす契機としても役立てうると示唆しているようにさえ映る)。

3.レヴィ=ストロース(構造)Claude Lévi-Strauss 1908-2009
 「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という一節の有名な『悲しき熱帯』や、『野生の思考』のサルトル批判などで知られるクロード・レヴィ=ストロースは、各々の文化が数学的構造を擬していると捉えて、その時間も空間も超えた同じさを強調した。例えばレヴィ=ストロースは『親族の基本構造』の中で、数学者のアンドレ・ヴェイユに協力を依頼し、ムルンギン族の婚姻制度を整理して群論的に定式化している。西洋数学の知識なしに「未開人」は代数的構造をいわば身で示し素描する。この立論の衝撃は、「未開人」と西洋人の知的平等という文化相対主義的な含意と、婚姻制度の意義は伝統よりむしろ集団間で女性を交換する機能にこそ求められるべきだという(問題含みに思える)主張にしばしば求められてきた。だがここで着目すべきなのはむしろ、ある身体のなしうることが、その身体から把握しえない外の領域にある、(数学的)構造によって規定されているという知見の示唆であろう。すなわち、ある身体とそれが置かれた状況を一面的に把握するだけでは不十分であり、その状況を引き受ける意志を持つだけでは捉えきれない規定、制約があるのだ。例えば、『今日のトーテミスム』の中で、レヴィ=ストロースはこう述べている。「慣行は、内的感情を誘発する以前に、外的規範として与えられている。そして、これら無情な規範が、個人の感情、および、個人的感情が表われてうる、ないしは表われるべき境遇を決定する」。意志、欲望、決意、これらが「個人的感情」であるとすれば、「本質」を選び取るはずの「実存」自体が、ある身体の置きこまれた「無情な規範」の産物であることになろう。おそらく、レヴィ=ストロースいわくの構造の衝撃は、それが「無情」であるところに求められる。ただし、意志力の否定には留保が必要だろう。例えば階級を自覚的に引き受けなおすか否かという決断は現になされるように映る。「無情な規範」を強調するあまり現に作用している(ように映る)自由意志を否認するのは、さながら錯視などありえない現象なのだから研究するに値しない、と強弁するかのような愚行に映る。それは決定論への不信の証であろう。というのも徹底的な決定論者は、自由意志を、水面に映る月影のように、ただそうである錯視として肯定するであろうから。

4.フーコー(実存)Michel Foucault 1926-1984
 どうも、群論的な定式化の試みに代表される数学的構造への言及は、(レヴィ=ストロースの提示した)構造なるものこそが身体のなしうることを決定する、という予断を強化する修辞としても機能してしまったように思われる。構造主義は、イマヌエル・カントから続くとされる超越論的な批判哲学、つまりある身体のなしうることの限界を画定しようとする、――そして、限界からの逸脱を不正として禁じる――そのような立場のものが多用するところの常套句の一種と化してしまった(ごくささやかな例かもしれないが、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』には、認知科学をカントの試みと関連付ける箇所があった)。そして硬直的な俗流カント主義、なしうることの画定されつくした、そうあるべきとされる身体の型を提示する営み、ここではそれを人間学と呼んでおくが、その人間学への抵抗を試みたのが、ミシェル・フーコーであった。あらゆる身体がなしうる限界を画定するモデル、すなわち人間という名のモデルの制作過程をカントの『人間学』に見出すフーコーは、そのモデルを解体する手引きとして(逆説的に)カントを読解しつつ、フリードリヒ・ニーチェの語る「超人」の生成こそが、人間というモデルを解体し再構築する、脱人間学を示唆していると指摘する。

 ある環境下で身体がなしうる限度、いわば「歴史的ア・プリオリ」を測ることがフーコーの試みだった。例えば、フーコー『言葉と物』は、様々な文献をコラージュして、「人間」という名のモデルの開発過程をシミュレートする著作である。以下の結びの言葉が、フーコーの姿勢を端的に示しているといえよう。「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。[……]もしもこうした配置が、現れた以上消えつつあるのだとすれば、[……]そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」。フーコーは、諸身体の記録を取り上げて、そこに、限度が設定されているはずのモデルから逸脱する身体の例外性を見出すこと、そして、例外となる力を身体が発揮する瞬間を焦点に諸身体の記録を再編集することを試みていた。やがてフーコーが辿り着いたのは、古代ギリシャ・ローマの一種の自己啓発本であった(ある身体を能力の束として捉えて、諸能力の組み合わせと各能力の度合いを変容させていくようにと試みることが、自己啓発と呼ばれるならば)。フーコーの試みは、一貫して、貼り付けられるレッテルを逸脱するという否定的な仕方で、身体のなしうることが、人間学によって想定されるよりもずっと、多種多様なのだと、証し立てることにあったといえよう。フーコーは、『快楽の活用』の序文でこう述べていた。「自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?」。フーコーの試みは、ある身体がこれまでとは「別の方法で思索すること」をなしうると、身を以て証し立てようとするところまで進む。

5.ドゥルーズ(構造)Gilles Deleuze 1925-1995
 そして、先の引用部分を含む『快楽の活用』の一節を、フーコーの葬儀の場で弔辞として読み上げたのが、ジル・ドゥルーズだった。フーコーが実存を見出すために構造からの逸脱を探り続けたとするならば、ドゥルーズは逸脱を内在する構造を見出すために実存の発生を探り続けたと言えるだろう。ドゥルーズは、現にある私の身体に開かれた世界を、また、現にある世界に巻込まれた私の身体を、通例、私や身体や世界という語で説明されるリアルを、各々に類似するモデル、言い換えれば、交換可能な誰かの私や、誰にでも当てはまるとされる一般的な身体や、現実とも一致しうる例としての世界というモデルには、落とし込まないようにしながら、いかにして説明するのか、という課題を追究していた。ドゥルーズの思想を宣揚する際に、一頃は盛んに用いられていた表象=再現前化の批判とは、要は、現にある身体を、私―身体―世界のような既にあるモデルの引き写しのように捉えることの批判である、と言いなおせるだろう。

 ドゥルーズは、この意味で、ハイデガーそしてニーチェを読むフーコーと同じ問いかけを裏からしていた。フーコー『カントの人間学』も、(ハイデガーを経由して摂られた)ニーチェの語彙そして着想を下地に、カントの議論を批判的にまとめあげ、そこで提示される人間にはおさまらない、超人と呼ばれるものの到来の予感をほのめかす著作であった。ただしフーコーがいかにして逸脱を見出すかに専心したとすれば、ドゥルーズはいかにして逸脱とされるものさえもこの世界から生み出される自然なものであるかを示すことに専心したと言ってよいだろう。後年の著作、『シネマ』第二巻でもドゥルーズはこう書きつけていた。「私たちは倫理や信仰を必要としている。こう言えば馬鹿どもは笑うだろう。しかし私たちが必要としているものは、別の何かを信じることではなく、馬鹿どももその一部としてあるこの世界を信じることなのである」。私が身体を道徳的に正しく操作すれば馬鹿が世界からいなくなる、のではない。道徳に世界や身体や私を従わせるのではない。そのような仕方ではない倫理や信仰が必要であり、それが練り上げられねばならない。

 いみじくも、おそらくハイデガー『存在と時間』を念頭に置き、「存在」と「時間」の発生を「差異」と「反復」から説明するような哲学史になることを志していたであろう『差異と反復』のはじめにおいて、ドゥルーズは、SFそして黙示録への志向を、書きつけていたのだった。「わたしたちは、どの個体化も非人称的であり、どの特異性も前個体的である一つの世界を信じる。《ひと》、それは何と素晴らしいものであろうか。そこにこそ、あのエレホン[注 : nowhereを逆転させた造語。サミュエル・バトラーによる19世紀イギリスのユートピア小説の題名]から必然的に派生するサイエンス・フィクションというアスペクトがある。この書物が現前させるべきはずであったこと、それは、以上からして、神のものあるいは世界のものでもなければ、わたしたちのもの、すなわち人間のものでもないような、或る一貫性へのアプローチである。その意味で、この書物は、ひとつの黙示録的な書物になるべきはずのものであった」。人類ならざる「《ひと》」。転倒したユートピア=いま・ここ。そこですでに、ひとは、ニック・ランドの見せる(あるいは、ランドが見てしまった?)抽象的ホラーの世界の、とば口に至っている。

文献(日訳)の情報

・メモ書きで引用した文献(日訳)の情報です。訳版多数の場合、基本的に自分の引用したもののみあげました。網羅的ではない旨ご承知おきください。
マルクス
『経済学批判』(武田隆夫ほか訳 1956年 岩波文庫)
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日[初版]』(植村邦彦訳 2008年 平凡社ライブラリー)
サルトル
『実存主義とは何か』(増補新版 伊吹武彦訳 1996年 人文書院)
ボーヴォワール
『第二の性』(決定版第二部「体験」上巻『第二の性』を原文で読み直す会訳 2001年 新潮文庫)
レヴィ=ストロース
『悲しき熱帯』(第二巻 川田順造訳 2001年 中公クラシックス)
『今日のトーテミスム』(新装版 仲澤紀雄訳 2000年 みすずライブラリー)
フーコー
『言葉と物』(渡辺一民・佐々木明訳 1974年 新潮社)
『快楽の活用』(性の歴史第二巻 田村俶訳 1986年 新潮社)
ドゥルーズ
『差異と反復』(上巻 財津理訳 2007年 河出文庫)
『シネマ』(第二巻「時間イメージ」宇野邦一ほか訳 2006年 法政大学出版局)
*メモ書き中の『シネマ』の引用は、小泉義之『「負け組」の哲学』(2006年 人文書院)から。

論文の情報

・以下では私がCiNii Articlesで検索し閲覧した論文を、各哲学者ごとに3本ずつ挙げます。なお、各論文のpdfファイルがダウンロードできる、諸々の機関リポジトリへのリンクを付しました。
・各論文に対する、研究共同体の中での評価はうまく把握できておりません(論文によっては、あまりオーソドックスではない内容かもしれません)。
・自身がうまく消化できているかはともかく、私が読んで、勉強になった、勉強しようと思った、勉強した、などなどの論文を挙げました。

マルクス
植村邦彦(1997)「マルクスにおける歴史認識の方法 :『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』をめぐって」(『関西大学経済論集』第47巻第5号)
井上康+崎山政毅(2013)「商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(1) :『資本論』冒頭商品論の構造と内容」(『立命館文學 』632)
清水真志(2017)「労働力と商人(1)」(『専修経済学論集』第52巻第2号)

サルトル
永野潤(2012)「怪物と眩暈 : サルトルの怪物的ヒューマニズム」(『青山総合文化政策学』第4巻第2号)
森功次(2012)「サルトル『聖ジュネ』における不道徳作品の「善用」」(『美学』第63巻第1号)
シモーヌ・ペトルマン(2016)「デカルトの自由とサルトルの自由」(『津田塾大学紀要』第48巻 丸山真幸訳・解題 原著1946)

レヴィ=ストロース
河野敬雄(2008)「親族の代数構造 : レヴィ=ストロースが残したもの」(『人間環境学研究』6巻)
出口顯(2010) 「文字通りでない意味への問いかけ : レヴィ=ストロースの比較」(『国立民族学博物館調査報告』no.90)
*2020年3月5日現在、Ciniiでは上記論文の共著者として三尾稔が挙げられているが単著。両名が同no.90の共編者で序を共著しているゆえの混同か。
白石嘉治(2018)「大学と文学 : 現代思想はレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』からはじまる」(『上智大学仏語・仏文学論集』第52号)

フーコー
箱田徹(2004)「夢と痕跡から夢見る主体へ : 後期フーコーの主体概念への一考察」(『社会思想史研究』28)
蒲生諒太(2018)「ミシェル・フーコーの道徳思想に関する予備調査 : 『人間学』序論におけるカント理解とフーコーの領域」(『教職課程年報』第1号)
柴田秀樹(2018)「ミシェル・フーコーの文学論におけるフィクションの問題」(『フランス語フランス文学研究』113巻)

ドゥルーズ
西川耕平(2014)「ドゥルーズにおける欺瞞の告発としての哲学」(『哲學』133号)
黒木秀房(2016)「ドゥルーズと「フィクション」の問題 : 「ドラマ化」を中心に」(『フランス語フランス文学研究』106巻)
近藤和敬+野元達一(2019)「ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論」(『 鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集』vol.86)

以上.

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