メモ(文字、生、ゾンビ、批評ほか)
これは継ぎ接ぎの覚え書きである。各々の語が互いに崩れた比喩のようになってしまい、とくに、意味と生命の区別、作品と身体の区別などが、曖昧になっている。
1.批評、非人称性
私はある日アニメ『ゾンビランドサガ』を視聴した(監督は境宗久、シリーズ構成は村越繁、キャラクターデザインは深川可純、音楽は高梨康治とFunta7、アニメーション制作はMAPPA、TV放映は2018年10月-12月)。
私はアニメの映像や、アイドルの文化、等々を語るための、言葉を知らない。例えば、ライブの場面で使われている3DCGの技術、例えば、アイドルたちの歌唱や振付の技術、例えば、アイドル産業やコンテンツ・ツーリズムの状況や分析、どれも知らない。
しかるべき批評が、それらを記してくれることを私は切に望む。というのも批評とは、私の信じるところでは、喝采、拍手、いいね、推し、などの一表現や、一変種などに留まるものではなく(一面ではそうであったとしても)、いまだ形をなしていない、何らかの技術なり方法なりを、言葉にしようとする試みであるから。
もう閲覧できなくなってしまったあるブログの記事から引用する。「個別の作品を読む個別の経験からその可能性の条件が明らかにされると、この条件はひとつの技術になる。「おもしろい」作品をまねるのではなく、作品を「おもしろく読める」ようにする条件を転用する。それによって別の作品がまた「おもしろい」と思われるようになりうる。そして、このような思考は優れた作者が意識的に、あるいは無自覚に遂行してきたことである」。このような「思考」こそが批評であるという言葉に私は強く惹かれている。
そしておそらく、この「技術」は、実のところ、作者もなく、読者もない、人間も含むこの機械たちによる、終わりなきプロセス(おそらく、あなたは人体を持ち、画面を備えた電子端末と、何らかの意味で接している)――しばしば集団的な「思考」、ジャンルなり時代なりの思想や想像力と呼ばれるようなもの――において、作動しているものであるだろう。
2.ミニブログ、吐き出された塊の再編集(ゾンビ、紋切り型、傷つかない身体)
アニメ『ゾンビランドサガ』を視聴。人に、現在のゾンビ表象とはいわゆる障害者表象から当事者的(あるいは社会問題的ないし歴史問題的)文脈をはぎ取った後に残る「面白い」動作や挙措を仮託する対象であるのではないか、と指摘され、確かにそうかもしれないと感じていたので、その意味では山田たえが活躍するたび、それを思い出してドギマギした(宮崎駿の「極めてなにか生命に対する侮辱を感じます」という言は真に受けて然るべきである。『M-1グランプリ2018』で和牛が見せた漫才「ゾンビ」も参照のこと)。
他方で、TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』でのさやかのゾンビ発言以来、ゾンビは、疲労をなかったことにされてしまう労働者のイメージを帯びていると感じていた(だが、これは一面、不可解なことであるはずだ。というのも、魔法少女の身体は、例えば、バイオハザードシリーズが想起させるようなゾンビたちとは異なり腐敗していないし、ゾンビランドサガでしばしば強調されたような、皮膚の変色や皺ともほぼ無縁であるようにさえ映る。だから、重要なのは、不死者であることのみならず、それ以上の含みを備えている、ゾンビというアレゴリーなのだと思う)。(※『まどか☆マギカ』の監督は新房昭之、シリーズディレクターは宮本幸裕、脚本は虚淵玄、キャラクターデザインは蒼樹うめ(原案)と岸田隆宏、音楽は梶浦由記、アニメーション制作はシャフト、TV放映は2011年1月-4月)
このアニメ『ゾンビランドサガ』においても、幾度か、ゾンビに人権はないとか、酷使しても壊れないとか、ゾンビが、いわば脱法身体として提示されていて不穏な気持になった(ゾンビのルーツがかつて黒人奴隷の酷使されていたハイチにあるとされていること、ロメロがそれをショッピングモールの消費者に置き換えたこと、等、合わせて考えるべきことは多い気がする。岡本健『ゾンビ学』(人文書院、2017年4月)、ダニエル・ドレズナー『ゾンビ襲来』(谷口功一と山田高敬訳、白水社、2012年10月)、藤田直哉『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房、2017年3月)等、読むべき文献は多い)。
他方、アイドルというか今や誰もが健全そうで見目の好い外観を維持する圧力を受けつつある、気がするのだが(対面の場面のある労働はほぼどれも、その職に適した健全で見目好いルックスを要求されつつある気がする)、この意味でもはや身体加工技術と化した化粧術が繰り返し物語で活かされること(そしてまるでフィルターが掛け替わるようにゾンビを見て驚く人が居る場面ではゾンビィの顔に皺や傷などが書き込まれること)をよくよく考えてみる必要を感じた。(他方で、二階堂サキは「傷つかない身体」を、星野リリィは「バ美肉」をゾンビになることで実現した(と形容していいだろう)わけで、これは水木しげる的な「お化けは死なない」と絡めて捉えるべきかもしれないと感じている。男女問わず多くのキャラクターがこの作中ではほとんど戯画的な頑丈な身体とほとんど悲劇的な脆い身体のあいだを往還しているように思われる)。
紺野純子や水野愛やゆうぎりは物語において輝いていたが生身のアイドルや生身のおいらんに知悉していない私には語れることは少ない。
このアニメでギャグとシリアスを往還しつつ、従来的な「お笑い」に向けられるモラル的な非難(要するに、全然笑えない、ただの暴力だ、という全面否定)を回避する手段として人権の無い頑丈な「ゾンビ」はとても効果的だったわけだが、それのみならず、同時にゾンビは「元人間」でもあるわけで、これがヴァーチャルなキャラには担えなさそう(そもそも質が違う)な、設定に「生身」感を付与するという方向にも機能していてる。で、これはいわば道化の仮面の裏の悲哀みたいな、「脆い身体」をうまく使わないと生産できない抒情をもたらしている気がする。
これはココアライオン「少年提督と野獣提督」(2014年8月―2016年1月)というネット小説を読んで思ったことだが、ギャグ的な紋切型の裏に壮絶なシリアスを邪推させる技術というものがあり(あるいは今なら、アライさん口調で苦境を開陳する諸twitterアカウントのことも同じ地平に載せて語りうるかもしれない)、最終話などに特徴的だが、わずかなカットで巽幸太郎の裏を邪推させる技術はとても見事だった。また、源さくらの描写に特に顕著だが、このアニメでの紋切り型の使いまわしは、どれもそういう意味でとても有効だった、と感じた。『ゾンビランドサガ』は、私に希望と絶望を(つまり私が死んでも私のイメージは存続するし、それは市場に組み込まれた商品でありうるわけだし、イメージが労働するといえるならば、誰のイメージもがアイドルでありゾンビでもあるだろう)与えた。
その上で、『ゾンビランドサガ』が自ら語る絶望よりもなお深く絶望させる問いを、私は、id:bartlebooth「「遅い男」はなぜ老いたのか」(『で?っていう備忘録』2012年2月8日)に見出す。源さくらの人生は失敗か成功か、との問いに対して、成功を志す限り根源的には成功している、成功でありうる、という応答が「ゾンビ」表現によって示された(と私は感じた)のだが、もし「と或る誰かの人生は頭からつま先まですっかり失敗で、劣悪で、汚らしく、省みるべきところのないものだった、その人はこの世に生まれてくるべきではなかったし、生き延びるべきでもなかった、なるべくすぐに死ぬべきだったのだと、過たず言い当てられるようにな」ったら(源さくらの)生を巡る「持ってる/持ってない」のあれこれは、単なる無能ゆえの不可知に還元されるのではないか。これは私の理解で言えば、生の平等が有害無益な妄想だと確定することに思える。
とはいえそうなった方が望ましいのかもしれない。私は有害無益な妄想を語っていただけだった、とわかるならそれはそれでよい。私は誰もが源さくらになれる(そして、いずれ報われる)、と語っていただけなのかもしれない、と気づかされた。未来なしの輝く今も、後に商品になりますよと。
3.存在すること、ただ働き
輝きを発するものという比喩には、何か、いかがわしいところがないか。三浦玲一は『村上春樹とポストモダン・ジャパン――グローバル化の文化と文学』(彩流社、2014年3月)において、リチャード・フロリダのクリエイティヴ経済論と、マイケル・ハートおよびアントニオ・ネグリのマルチチュード論とに、共に見られるある種のいかがわしさを、こう要言している。「フロリダもハートもネグリも、尽きることなき泉からこんこんと湧き出る水のような夢のエネルギーとして喧伝された原子力が、まるで(鉄腕アトムのように)人間の内部に移植されたとでもいうように、実質的に、無限のエネルギーとしての内在性/クリエイティヴィティが、これからの富の源泉になるのだと主張している[……]。この主張がポストモダンなのは、それが労働の隠蔽だからである」(57-58頁)。生の輝きという表現が、電力に変換できる太陽光のように、生をエネルギーの一種とみなすような比喩と化すことを、注意深く拒否する必要があるだろう。この生の輝きは、未来のために役立てうるエネルギーなどではない。
生の可能性を消尽させることは、作品の可能性を消尽させることと、パラレルに捉えられる。生を「無限のエネルギー」を引き出しうる源泉とみなす発想を拒否するならば、原作に含まれる多様な可能性の中から一つを現実化する、といったような、ある種の二次創作として批評を理解する発想をも、注意深く拒否する必要がある。作品が、「尽きることなき泉からこんこんと湧き出る水のような夢のエネルギー」を持つ、と捉えるのをやめること。可能性の消尽。それが肝要である。しかし、生また作品を、批評また二次創作の源泉と捉えることの拒否と、生また作品を、固化したアイデンティティにおいて捉えることの拒否は、いかにして両立できるのか。
私が、現時点で、手掛かりと目している記述を引用しておく。「一生の文学的な仕事がここで終るのかも知れない、と覚悟を決めさせられた時に、私は人の生涯というものに対して、従来とは非常に異なった眼が自分に開けて行くのを感じていた。今まで、人は生まれて、仕事をして、死んで行く、という経過が、ひとつの完成した作品のように見えていたのが、そうではなくて、無数の可能性の中途半端な実現の束が、人の一生なのではないか、と思われてきたのだった。殆どの人間の人生が中断なのではないか」(中村真一郎『頼山陽とその時代』上巻、ちくま学芸文庫、2017年3月、11頁)。そして「その人物の実現しかけた可能性を数多く知ることで、彼の完成した姿でなく、彼の生きている姿により近付けることになる」(同、傍点ママ)。可能性と現実性に加えて、現にあるものの実現しかけた可能性、しかし、現にあるものが実現することによっては決して解消されることはないような、実現に代替されることのない、可能性としての可能性、という意味で、潜在性という語を加えて、こう述べうるかもしれない。すなわち、二次創作および批評は、それぞれの仕方で、原作の潜在性を探求し、ないしは、体現しているのである、と。
4.文字の生、文字ゾンビ、文字サイボーグ
ロボットに人権はなく、ロボットは壊れるまで働かせることができる、とする。――この限りにおいては、ゾンビとロボットは、サイボーグという語で一緒くたにすることができるだろう(こんな雑な仕方でサイボーグを呼び出すことが、例えば、ダナ・ハラウェイのような理論家の真摯な探究を茶化すためだけに用いらることのないようにと、切に願う)。
断片的な文章の活用は寸断された部品、器官の活用のように、どこかいかがわしい。臓器の輝ける生命力は、ゾンビを駆動する中で疎外されているのかもしれない――つまり、こんな身体を駆動させるために、これの生はあるわけではない、と。
ゾンビ化とサイボーグ化を、奴隷化と、あるいは疎外と呼んでしまいたくなること。――その際にもはや、生そのものが、疎外的に映ってくること。――そして死者さえも、断片化され疎外された器官に、分解されるだけに見えること(もはや当事者のコントロールを離れた画像イメージの群れ、誰かの尊厳や権利を気にせず利用できるかのように映る諸々の断片化された情報の量塊)。デッド・レターへのフリーライド(誰が文字の労働に相応の対価を払うのか)?
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