短編小説:「×ね」にまつわる短い回想

ご自由にお書きください、という文言が白い画面の上に浮かんでいる。自由に、書こうとするとどうしても私は色々思い出してしまうんだな。しかも、いやなこと。記憶から自由になりたいんだけどそれは別に忘れたいってことじゃなくて、思い出すたびにからだじゅうに走るもの、気持ちというか寒気とか肌がけば立っていく感じ、なにか強いられるように起こる生理的な変調をもうチャラにしたいってことで。話はしたいに決まってるよね。だって、こうして書いてるから。書こうとしているから。私に配られたカードでしか私は勝負できない。それにしたって、デッキはもう少しマシなものにしたいけど。運営に腹を立てるくらいのことはゆるしてほしい。ゆるされなくても腹は立てるけど。立ってしまう。データは処理ができなくても多ければ多いほどいい。余裕がないときはこっちで切るから。思いやりのつもりで、よその方から、調整はいるのは、迷惑。選択肢はしぼったほうがよかったと思うこともそりゃあるけど、あとで、たすけてもらってよかったとか、虫のいい翻意もするかもしれないけどそれは結果論。予測できるリターンが欲しくてなにか対応するわけでもないでしょ。出来事。うまく使えるから私のところに降ってくるわけではない。たいていは、そう。配られてきた鬼札、というかクソ札をひとにおしつけたくて書いているのではない。捨てる気などないし、捨てさせなどさせない。これは私だけのものだ。あなただけのものを、あなたにプレゼントしたい気持ちは、ないわけでもないけど。私の記憶は私だけのものだけど、私の過去は、それを知るみんなのものであり、気持ちはそれぞれのものだから。回想ははじまっている。ご自由にお感じください。

言葉はひとを傷つけるというけどあれは信用ならない。たいてい血も出ないし鼓膜も破れない。身体が傷つくのと心が苦しくなるのは違う。ひびなんかはいらない。ただ忘れられなくなったり、思い出してしまうのが、やめられなくなったりして、調子がへんになったり、うまくものが考えられなくなるだけだ。化膿した皮膚が破けたり、腹からとしゃ物が流れ出したり、関節が動かなくてきしんだり、まぶたが開かなくなるのとは、違う。むかし鼻の骨を折られたことがあるけれど、あれは事故だったから、びっくりしたけど心は大丈夫だった(手術で顔がへんになったらどうしよう、と思ったけど)。きゅうに正面から頭を殴られて、転ばされたときも、どうしてだろうと意味がわからなくて傷つくまでもなかった(理不尽だったから、まだ覚えているけど)。怒鳴られたり、嗤われたり、馬鹿にされたり、仲間外れにされたりするのが、心にあたえる痛み。あれはまた別の感じがする。知っている。私が小学校で執拗に話しかけて頬を張られたときの、取り返しのつかない感じを覚えている。それは言葉じゃないけど私がしくじったときの痛みと衝撃のはじまりのほうにある。私がわるかった、と思った。わるくもないのに急に暴力受けたら意味わかんないし怖いが、むかつくほうが強い。そうならないときは、私は、私がわるかったときの気持ちになる。ちぢこまりおびえて、わけわからなくなるのはそういうときだ。もっと、色々があるけど、省略。

「×ね」って誰かが口にして、緊急集会がはじまる。その学校は、そういうところだった。手を洗って、ハンカチがなくて、床に水を払った子供は雑巾で拭き掃除をさせられた。それは転倒事故の下になる。ちゃんとしなければならない。ある日の私は罰として方眼紙を升目通りに切り続けていた(何の罰だったか覚えていないけれど、工作みたいで楽しかった)。またある日は廊下に立ち続けていた(たしか謝る言葉ができあがったら戻ってきなさいと言われて、私は心の底から謝れる気持ちなのかどうか、自分の気持ちがよくわからなくて、ずっと教室前の廊下を歩きまわっていた)。学校では、背筋をただし、正面をむいて、先生の話を聞くように指導された。先生は、拳や大声はつかわなかった。ただ二人っきりで、体罰はゆるされていないから、図書室で面談されたのはとても覚えている。先生が席を外してひとりで待つあいだ、膝が勝手に震えはじめて、とまらなくなっていた。問題のある子供は少しだけいた。「問題のある子供」という枠があり、わかりやすかった。みんなわかっていた。ちゃんとしなければならない。よそのひと、よその家から見て、しっかりしているように。ここはよそものばかりで、だらしないひとたちにかまっている余裕などない。都市だった。ある日、誰かが誰かに「×ね」といった、それを先生が聞きつけた。全ては中断され、生徒たちは席に着席する。みんな前を向いている。沈黙している。訓話がはじまった。

そこらじゅうに「×ね」という言葉があふれていた。別の学校だ。もちろん私はおかしいと思った。そこでおかしいのは私だった。友だちができない。あたりまえが違う。違うだけでなくてダメと覚えたことがダメでなかったりした。だらしないのを怒ったりするのでも、そもそもだらしないの意味も、危機感も違った。隙を見せてはならない、ひりひりした感じではなかった。でも「×ね」と言われるようになった。おかしいのは私だった。へんだし、笑えるのだった。そしてウザくて口うるさくて気難しいのだった。ほんとうのはじめには、「×ね」といってくるような連中のほうが私に気さくに話しかけてくれていたのだった。ふつうのひとはどこでもかしこく遠巻きに見ている。そしてなじんだところで素を出していくというわけだ。そんなやり方は知らなかった。気をつけ、礼、おはようございます。宿題はがんばりますし先生の話は聞きます。そういうもので、それはよいことで、私は得意ですという感じだった。いろいろなことをされた。私もいろいろな対応をした。「×ね」と言われた以外にもいろいろあった。別のところで別のひとにお前つかえねえなと軽く蹴られた。別のひとは何で練習こねーんだよと怒鳴られ打たれていた。「×ね」と言ってくる相手もいやだったけど、おなじくらいに、気安く「×ね」と言っていいことになっている、この世界が嫌だった。もちろん学校で誰かが誰かと「×ね」と言っていても、コミュニケーションという類のが大半で、私が受けているそれとは関係がなかった。それくらいのことは子供でもわかっていた。でも私は、「×ね」と気軽に口にする奴らがいるから、私に苛つく、私の友だちではないひとたちも、「×ね」と私に言ってくるのだと私は思っていた。だっておかしいでしょ、なんで学級問題にならないの? なぜこんなに当たり前なの? ろくでもないと眉ひそめるだけで済むの? どうして? 私がいやなやつで、この学校に合わなくて、へんだからか? そのうち私はキレた。だけどその相手は、私に「×ね」といってきたやつの中でも、私より小柄なやつだった。私は勇気を出したのではなく、卑怯者だったのではないかと、ずっと疑いを持っている。私は、頭おかしーんじゃないのお前、ってその子に言われたのも、覚えている。私がキレて、命が大事とか、所詮はきれいごとだと思っている奴に見えたそいつに命の重みとか伝えたくて私は角椅子でそいつの顔面を殴ろうとして先生に羽交い絞めにされた、そのときのことだ。「×ね」とは言われなくなった。

「×ね」とか、あとほかに言われたこと、されたことを思い出してしまい、眠れなくて、朝になっていたときもあった。だから私は「×ね」という文字を見たり声を聞いたりするだけで、自分の色々を思い出して苦しくなったりしていた。別に善良でも柔弱でも繊細でもない子供たちが、ふざけて、ひとの命を奪う気もなく、戯れや苛立ちまた怒りで「×ね」と言い合うだけの、きっとたのしい空間の傍らで私の頭は発火して、そんなことを言うなと噛みつきたくなるのだった。通りがかりの相手にすら、そうだった(ほんとうに言いたかった機会を逃してしまっていたからだろうか?)。あとこんなこともあった。何気なく手に取ったライトノベルが、死神が出てくる話だった。それを読んでいたら、学校で、少年と少女が少し恋愛未満の関係でやりとりをしていた。女の子が照れ隠しに「×ねっ」と、言っていた。で、その箇所を読んだとたん私のなかで何かがプツンときれてそこでその小説が読めなくなってしまった。私は言葉を文字通りに受け止めていたのか、偏った連想をしていたのか、ナイーブで過敏症だったのか、それを判定するのはどこの誰だったのか、どうすればよかったのか、など、いろいろなことがわからないままだ。いまどうするのかは、わからないなりに方針はある。だから書いている。書きながらお話にしている。リアルを振りかざすより、リアリティを与えることの方が大切だ。ひとを黙らせたいのではなく、私が黙りたくないだけだ、という言い回しが卑怯であるくらいのことは私にもわかっている。当てこすりを言うやつはたいていそんな風にする。これはフィクションだ。事実ではない。たとえばなしでもない。役に立たないとか、邪魔になるとかなら切り捨てて構わない。ただ自分が何をするために何を棚上げにしたり、切り捨てたりしているか認識することは、誰にとってもそれなりに、大切なことだと思う(後味はわるくなりがちだが。もちろんそれがいやなら忘れてよい)。認識を判明にすることは、感情と欲望を見つめる手掛かりになる。手がかりは多ければ多いほどよい。くどいかもしれないが、これは何も強制していない、ということにしてほしい。私が自分のことを止められないし、止めたくないように、また私が止められないなりにどうにか手綱は握ろうとしているように、みんなもそれぞれ相応に、そうしていることだろう。これはお話で、終わった話だ。いま、私は「×ね」と言われても平気だ。たとえ目にしても。耳にしても。いや、もちろん怒鳴られたりしたら、わからないが。たぶん疲れていたら、つらくなるだろう。でも、いまは「×ね」と口にしたこともある。これからも言うかもしれない。私はもう慣れてしまった。

(了)

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