#交換日記の多発:返信1[2021.02.11]

橋本さんによる企画「#交換日記の多発」に参加しました。本記事は以下の日記への公開返信です。

【私はどれか】

橋本さんより、以下のようなご質問をいただきました。

江永さんの読書遍歴が気になります。なぜなら守備範囲が広範である現在の姿からは、根っこがうかがい知れないためです。ご自身にとってホームグラウンド、あるいは原点といえるようなジャンル/出版社/作家などはあるのでしょうか?

ジャンルというには絞りが甘すぎるかと思いますが、概ね物語が「原点」とは言えると思います。

読書遍歴を語るというのは、自分が何者か語ることにもある程度は結びつきますし、なかなか気恥ずかしくもなります。実は昔、私へと慕情を告白してきた相手に自分の秘密を打ち明けたら、受け入れてもらえず、最終的に縁を切られた経験があります。このような記憶が私に都合のいい妄想である可能性も疑ってはいます。ただ、別の身内も、私が伏せるところの秘密、そしてこの身内が公にしていたものを理由に、故人を知らない部外者たちによって訃報が社会談議のネタにされていたのを目の当たりにした経験が私にはあります。なので、私は私のことを語るのがうまくできなかったりします。別の機会に私はいじめを受けた側として話を書いたことがありますが、私が誰かは、私がどういう私の話をしたいかで強調点が変わる(まるごとは話せない以上、変えざるを得ない)ため、私は私の根っこ(ルーツ)を分裂したものとしてしかうまく示せません。さっさと決めて、わかりやすい何者かとして己を打ち出せば諦めがついたり話が楽に済む面もありそうですが、ちょっとまだ屈託が残っています。そんなわけで挿話A~Gを用意してみました。腑に落ちるような内容を、ひとつまたは複数、ご選択いただけると幸いです。全てに一瞥をいただき語り落としにも御留意いただけたら、大変幸いです。

A.
図鑑、字典、そして迷路。それらに触れながら、私は育てられてきた。空想上のキメラと眼前のアリの区別も曖昧に怪獣を思い描いた。字の成り立ちと用法を説く書物を読みかじり、造字の真似事をして遊んだ。迷路を書いた。「ロボットをつくりなさい」。怪獣は描かれなくなった。私は、人の役に立つ、ロボットをつくるのに、関心があることになった。ほんとうはそうではなかった、と私は書くことができない。からくり仕掛けというものへの憧憬は、あった。でもそれは謎の文字や迷路をつくるたのしみや、錯視を引き起こす図に魅了されるたのしみとも似ていて、そしていずれにせよ私は、自宅にないゲームの設定資料集を見るのが好きで、ミニチュアと現実の区別は、よくわかっていなかった。事故で頭をコンクリートブロックに打ち付けた。私は、ロボットをつくる、ロボットになることに、関心があった。後にカンパネッラ『太陽の都』に出会い、私はユートピアのことも気になり始めた。

B.
例えばTVドラマ『透明人間』の主題歌「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」(サザンオールスターズ)がまだ少しだけ頭の中で流れてくることがある。「アンゴルモアの大王」が甦ると予言されていた1999年より以前の曲だ。私は児童向けの怪談集を嗜み、前嶋昭人の挿画を怖がりつつ、香月日輪『地獄堂霊界通信』を読んでいた。幽霊と宇宙人、UMAと悪魔などの区別をつけるには私はあまりに夢見がちだった。人体の透明化の薬理的実現、そんな幻像は江戸川乱歩の描く少年探偵団が遭遇する奇怪で魅力的な怪人の姿とも通じ合い、超科学と心霊への関心は、奇術師フーディーニの逸話を前置きに始まるTVドラマ『TRICK』を観るような人間に私を至らせた。例えば、映画『ヤマトタケル』や『河童』などが提供するスペクタクルとこの現世の境が不分明な幼少期を経た私には、「世にも奇妙な物語」たちは、日常の延長の神秘だった。たとえ種明かしを知っていようと、人は手品に魅了されたりする。

C.
おまじない、風水、スピリチュアル。私がそれらに感じる親みは『ミルモでポン!』、『Dr.リンにきいてみて!』、『東京ミュウミュウ』などを観ていた記憶と、少しだけ重なります。環境問題への関心と精神世界への関心がどことなく混じり合ったまま日々の暮らしに魔術を持ち込ませる。そういう感性が私には培われていました。いや、妙なおどろおどろしさへの傾倒は、漫画『3×3 EYES』や『犬夜叉』に触れた日付と、上で挙げたような作品を観た日付の近しさがもたらした混線のゆえかもしれません。語るたび思い出の意味合いは変容し、情景の色合いも別になる。『未来船ゴー』を視聴し返す私が、トランスヒューマニズム的な思潮への己の嗜好の淵源をそこに見出しもするいま、私の子供時代には私の夢想を折り”まとも”な道を歩ませようとする”大人”に出会う機会が乏しかったと言えば話が済むのか、迷っています。

D.
とても小さい頃はディスニー作品をよく観ていました。ダンボ、ファンタジア、101匹わんちゃん、メリー・ポピンズ、アラジン、ライオン・キング、等々……。劇団四季によるミュージカル、『キャッツ』に連れていってもらったとき見た、薄明りの中を跳ね回る、ある猫(役)の姿は心に刻まれているようです。近所に地域図書館があったし、幼少の私は物語に触れる環境に恵まれていた方なのかもしれません。児童向けに改められたバージョンでしたが、ガリバー旅行記やドン・キホーテ、三国志演義や西遊記、ほら吹き男爵の冒険や巌窟王などを、私は読んでいたような気がします。そうした人間の冒険や遍歴を描く作品群と共に、シートンの動物誌やファーブルの昆虫記、あるいは白い牙などに触れていたのも覚えがあります。景山民夫『遠い海から来たCOO』を、私は幼少に触れた冒険譚の延長として読んでいました。

E.
思い返すと、『アニマル横町』を観ていた頃、私は学校では部活動でお前は使えないなどと言われ蹴られたりしていたはずで、と考えれば退行や逃避などとして私の物語遍歴を語ることも、ある程度は妥当に思える。その観点で言えば、映画『心が叫びたがってるんだ。』に私がどこか思い入れがあるのも現実と幻想が地続きになる成瀬順の風景に(境遇は全然異なるにしても)自分の見ていた景色と重なるところを感じたからかもしれない。同様の理由で今日マチ子の幾つかの漫画に私は感じ入るところがある。デルトラクエストやドラゴンラージャ、ハリー・ポッターやバーティミアスを私が読んでいた、いや思い返した頃、そこに成長のモデルよりも避難の居場所をこそ求めていたのかもしれない。思春期の物語は両義的に思える。子供には大人になる夢想を。大人には子供になる夢想を。いずれにせよ傍迷惑で見苦しい空想癖だと切り捨てることは容易くも思える。エマ・ボヴァリーやアロンソ・キハーノには、憧れてなるものではない。憧れてなるものではないが、そのようになってしまうかもしれない生が現に存在する余地は、残されてあるべきなのか。私にこの問いはとても難しい。

F.
井上夢人『メドゥサ、鏡をごらん』を読んでいた。願望を満たしていた。私は私が誰であればいいかわからなかったし、誰であるかわからなくなりたかった。死んでも”私”の死でしかない。より深く(?)、私であることの終わりが欲しかった。あと平山夢明『他人事』を読んでいた。一時、暴力や叫び声のない作品の方が私には縁遠いものに感じられていて、それを稚気と言えばそれまでだが、しかし、学校の入り口に落ちていた首のえぐれた鳥の死骸をビニル袋でつかみ、校内に埋葬したりしていたからか、そういう作品の方が落ち着いて読めた。それなのになぜか、ハセガワケイスケ『しにがみのバラッド』で、学生同士の会話の場面で、親愛と照れ隠し混じりに出た「しねっ」の一言だけでトラウマを刺激され、読むのを止めたりしていた。好きなライトノベルだったので、心が平気になるまで頑張ったら、読めるようになっていた。『xxxHOLiC継』や『シゴフミ』を観ていた。

G.
中村九郎『ロクメンダイス、』のようなライトノベルと太宰治『HUMAN LOST』のような近現代文学とに同じ意味で私にとって適度な(昇華や浄化につながる)自己の崩しを私は見出しました。今日の世間でいう凡庸に病んだ自意識の発露と片付けてよいかもしれませんが、私が本を読む理由には攻撃性をどうにかするためという切実がありました。体や物でなく心を攻撃すること、自己を解体することが、心身を鎮める昇華や浄化の方途でもあった。私は上掲作品への没入と地続きな仕儀で、色々な文芸作品を読んでしまっていた気もしています。うまく息ができないとき土方巽『病める舞姫』を読んだように。ほかに、ラノベだと、樺山三英『ハムレット・シンドローム』や綾里けいし『B.A.D.』が、近現代文学だと吉田知子『無明長夜』や中勘助『犬』が、記憶に残っています。あったはずの私が外的な力で崩れるのが発見されたり、外的な力でも崩れない私が発見されたりする感触に、私は執着を覚えたのでした。それと前後しますが、宗教社会学の図解入門のような本で、判断停止と現象の記述という姿勢があることを知りました。ただ私はそれを、あえて世界を色褪せさせる、いわば離人感を「まとう」ことのすすめとして「誤読」してしまったきらいがあるかもしれません。学問的に正しい態度ではなかったと思うが、私は判断停止し、「病み」の類例として物語を読み、私の「病み」も事例と捉えることで、距離を取ろうとしていました。

【秘密の場、秘密の集まり】

「はたして大きくなったら何になりたいのか。子供のころはとにかく役に立ちたい、お金を稼ぎたいという気持ちがありました。今は、最終的に隠れ里や修道院を開いて隠遁したいという野望を持っています。これが比喩なのか、文字通りそのままなのかは本人もいまいち分かっていません。どうすればこの目標を達成できるのか、何をすれば里や院を充実させられるのか、そんなことを考えています。/もう少し現実的な目標としては、秘密基地を開きたいという夢があります。たとえば会員制の書店、あるいは共用書庫のような場があったら良いとは思いませんか。」(橋本さん「【最近の関心事】3.なりわい」より)

秘密基地、いいですね。それでいうと、私は秘密結社に憧れがありました。私も「役に立ちたい」の気持ちに半ば憑りつかれ、半ばは抗っていまがあります。橋本さんの里や院、基地への思いを見て、私の秘密の場への関心は、少し別様なものなんだなと気づいたりしました。私は、私の分裂を小分けにしたいから「秘密の場」をたくさんつくりたがっているような気がします。私にとってはシェアのためのスペースであると同時に、私の分裂を棲み分けさせてくれるブロックであるようなものを、秘密の集まりや場に夢見ているようです(戯画化して言えば、ゲーム『パラノイア』的な状況の夢想?)。

自分事ばかり話してしまって、すみません。ニュージーランドのSFとファンタジー面白そうだな、とか、ホラー系だとどんなものを読むのだろうか、とか、3DCGっていいですね、など、お話ししたいことは色々ありますがひとまずはこれで結びたいと思います。

[了]

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