メモ(人生、死ぬこと、よしあし)
とりいそぎ、書きつけ。
昨日、note記事をアップロードしました。
記事のはじめに、人生の充実ということに関してだいたい以下のような話をしました。――もしよい出来事のみで満たされた人生のことを充実した人生とみなすとすると、出来事のよさが相対的に測られるものである限り、よい出来事で人生が満たされることはないはずなので、そもそものところで人生は充実しえないものになってしまう。――私はこうしたことを考え、書こうとしていたつもりでした(実際の記事ではもう少し色々なことを書いており、その代わりに、話の筋が込み入ったものになってしまったように思います)。
また、その記事の後半部分、とりわけその結びのところでは、死というものをとりあげ、死のよさやわるさというものを人生の充実の話と関連付けようとしました。その記事をアップロードしてから、次のようなツイートをしたところ、意想外に多くの耳目に届いたようで、驚いていました。
そうするうちに知ったのですが、ちょうど一昨日、山口尚「《死はどういう意味で悪か》に関するトマス・ネーゲルの立場とその示唆」というnote記事がアップロードされていたのでした。
私の物思いよりずっと明晰な仕方で、問いとありうべき答え方が整理されていることに気付かされました。私は自分の記事を書き終え、ツイートをしてからこの記事を読んだため、思いがけぬ照応を体験したように感じました。もちろん事後的に考えるならば、時系列上では、私が上記記事を後追いしたことになりますし、自分の記事を執筆した時点では、私がこの記事を読んでいなかったという言を証し立てるものはとくに準備できていないのですが。
トマス・ネーゲルは、強いて区分けするならば、いわゆる分析哲学系の学者ということになると思います。分析哲学的な明晰な論の組み方の利益というものを、自分も、初歩的な水準ではあると思いますが、実感したのでした。
ただ、思い出したのですが、私もまた、上記記事で紹介されているネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(邦訳1989)の訳者による人生相談の記事――自死を選んではならないとすればそれはなぜかという内容のもの――を読み、影響を受けてたのでした。永井均『哲学の密かな闘い』(2013のち2018文庫化)に所収されていたと思いますが、そこでは人生が暗い部屋で唯一明かりを発しているテレビにたとえられ、テレビで放映される内容がどれほどひどいものであっても、内容と別の次元で、点けられているテレビの輝き自体に固有の意義がある、といった話運びだったと記憶しています。これは、上記note記事で解説されていた、ネーゲルの〈剥奪説〉の示唆するところ――死のわるさは、世界内部の尺度でいうよしあしとは別に、世界内で体験をすることの可能性を剥奪するところにある、というようなこと――を、たとえ話を通して、巧みにすくいあげているように感じられます。そのようなわけで、このたとえ話は、私にとって印象的なのでした。
付け加えると、先ほどのテレビのたとえ話は、平井堅『ノンフィクション』(2017)の歌詞の一節、「惰性で見てたテレビ消すみたいに生きることを時々やめたくなる」とも照応しているものであるように感じ、その点でも、私には、味わい深く思われていたのでした。
話を戻します。先ほどのネーゲルに関する記事のなかで、考えたくなった点がありました。記事で示されたネーゲルの剥奪説(が示唆するところ)の要点は、いかなる体験であれ、体験なるものを可能にする条件こそが生である、ということだったと思います。その見方に乗るならば、例えば、痛み苦しみから逃れるために死を選ぶというのは、腕の傷が痛むからと腕をちぎりとるようなものだ、という話になるでしょうか(誰かにとって自死がどれほど切実なものだとしても)。ともあれ、記事ではこのように要説されていました。
[……]たしかに生は殴打・詐欺・侮辱・怪我・病気を被るための条件であるので、死は(この意味の)悪しきことの可能性の剥奪だとも言える。とはいえ、ネーゲルが《死は可能な良きことの剥奪だ》と考えるとき、彼は個々の体験の内容へ注目しているのではない(このあたりは解釈が関わりうるので、こう言い切るのはいささか薄氷を踏む心地であるが)。彼はむしろ体験それ自体の価値へ視線を向けている。死はこうした根本的な価値を奪う――この意味で、死が〈悪しきことの剥奪〉であるよりも深い次元において、死は〈良きことの剥奪〉なのである。ネーゲルの(以上で紹介した限りの)立場を正確に要約すれば次のようになる。生においては良いことが体験されることも悪いことが体験されることもあるが、こうした「体験」という根本的に良いものの可能性をすべて奪い去ってしまうがゆえに死は悪なのである、と。(山口尚「《死はどういう意味で悪か》に関するトマス・ネーゲルの立場とその示唆」最終閲覧2020年7月4日)
もちろん、引用記事ではこのあとすぐ「例えば――事実問題として――世界内部的な苦痛があまりに多い場合には、ひとは体験の可能性を保持するよりもこうした苦痛から例えば死によって逃れることの方を望みうる(そしてそれは仕方のないケースもあるだろう)」といった注意が付され、ここでの話はとても気遣いのある筆運びで進められていると思います。
ただ、私が気になったのは、些細ではありますが次の箇所でした。「たしかに生は殴打・詐欺・侮辱・怪我・病気を被るための条件である」。ここでは世界の内部で可能となる悪い体験の例として5つが列挙されています(繰返し確認すれば、これらの体験が世界内部的な尺度で悪いものであっても、生の体験それ自体の良さが独立に考えうる、というのが話のポイントだったはずです)。ですが、そのうちの2つ、殴打と侮辱は、生無しで被ることが可能なのではないでしょうか。私の死体が殴打されることを、私が殴打されることであると主張する余地があるように私は思います(また、私はそう考える方がしっくりくるように感じます)。侮辱に関しても、死後に私が侮辱されることを、私が侮辱されることだと主張する余地があるように私は思います(同様に、私にはそう考える方がしっくりくるように感じられます)。どうも私は、殴打や侮辱が、「〈生の内部で体験される悪〉」のみならず「〈生の内部で体験されるわけではない悪〉」もを備えうると感じているようです。つまり死後に何らかの意味で殴打や侮辱を被ることが、世界内に存在していたはずの私に何らかの意味で損害を与えるように感じているようです。
経験則では、このような疑問が出た場合、私が、書き手の議論を履き違えて捉えている(共有するべき前提を採用できていない、同じ語を使いながら別の体系に則って考えてしまっている、など)と想定するとしっくりくる場合が、これまで少なくありませんでした。note記事で私の書いたことが死の剥奪説としてより明晰な仕方ですでに提示されていたのと同様に、先ほど私の思いついた、この粗っぽい疑問も、より明晰な形ですでに誰かに考えられ、学知として提示されているはずです(だから私が目指すべきはそれに辿り着くことでしょう)。何より、まずなすべきは、記事を落ち着いてしっかりと読むことでしょう(その上で、エピクロスやネーゲルなどに関する、また人生の意味の哲学に関する、学究の成果の蓄積をしっかりと勉強することでしょう)。
以上は記事の内容の是非についての話というよりは(当然ながら、専門として研究なさる方の提示した話を特に訓練を受けていないアマチュアが評せると想定するのには問題含みなところがあります――ただ、いっそうややこしくなる話をすると、私自身は、哲学者の著作を読む文学理論家や、美術や文学を論ずる哲学者、また様々なものを批評する書き手などに関心があり、専門性と領域横断との関係や、いわゆる文人や知識人のような類型のことをあれこれと思ってしまう面もあります――)、むしろ、読んだものに触発を受けて(けれど、読んだものの枠組みをどの程度的確に理解できたかというのとは別に)、私が考えてしまうことがらを、形にするための、メモでした。これから少しずつでも、またこうしたことについて、勉強していければと思います。
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