暴力・わからせ・拳(離人感と支配隷従関係)

"暴力はわからせる" "拳は雄弁に語る"。これらは紋切型だ。いわばお約束として想起されるところの、よくある思想信条なり語り口なりであり、つまりはマスター・ナラティブである。漫画などを見ればこうした紋切型が様々な物語にうまく組み込まれている。そこで思い出されるものは、例えば武論尊『北斗の拳』の「力こそ正義」(シン)であっても、また和月伸宏『るろうに剣心』の「所詮この世は弱肉強食」(志々雄真実)であっても、あるいは別の何かであっても、構わない。強い力を振るえると弱いものを思い通りにすることできる、というお約束があり、それは、わざわざ詳しく説かずとも伝わるくらい誰にでも同じように了解されるものだと信じられがちだ。しかし、本当にそうなのか、私は訝しんでいる。それもあり私は暴力に関心がある。

"暴力はわからせる"

暴力なる語は、存在すべきではないものを呼ぶために使われる。しかし、事実として暴力は生じるし、生じてきた。思うに、このギャップをうまく語ることの困難が様々な混乱と結びついてきたように思われる。そもそも、どういうものを念頭に私は暴力と言っているつもりなのか。私は、あるべきを踏みにじるような何かとしての暴力に関心がある。私は暴力に、冒涜のようなニュアンスを感じている。なので、あるべき平和の、つまり平和なる理想像の冒涜が暴力の眼目だと、私は理解している。それはたんなる破壊や強制や排斥や抑圧ではなくて(そんなものはない)、何らかの意味合いに染められた破壊や強制や排斥や抑圧である。"無意味な破壊"すら意味に塗れてある。

肉体への暴力で言えば、肉体の破壊それ自体より肉体の理想を汚損するところにこそ私の眼は向く。レヴィナス『全体性と無限』の、論全体の流れからはどこか浮いた印象を受けていた、ある一節を私は忘れられずにいる。それは肉体的痛苦に関する記述だ。痛苦はただの刺激でなく、私を惨めにする。

肉体的な苦しみにあって、私たちは存在へと追いつめられる。私たちはこの苦しみをただたんに、追いつめられ打ちつけられている事実に随伴する、不快な感覚として認識するのではない。追いつめられ打ちつけられているという事実が苦しみそのものであり、「出口なし」の接触である。苦しみの先鋭さはすべて、苦しみから逃れることが不可能であること、じぶん自身に対してじぶん自身のうちで、みずからを守ることすらできないことに由来する。それは生のみなもとのいっさいから引き剥がされていることに由来するのである。苦しみから身をひるがえすことは不可能なのだ。
(レヴィナス『全体性と無限』熊野純彦訳、下巻134頁、太字強調は引用者)

痛苦のたえがたさは、それが私の肉体を破壊することではなく、私が何者かという自己理解を書き換えてしまうことにこそ存する。ここでのレヴィナスはそう述べているように映る。もちろん痛苦は肉体に入力される情報に過ぎないはずなのだが、それが人生の意味というか、私の在り様というか、ともかくこの生を汚損してしまうのだ。私は、無力で受け身な何かになってしまう。私は、所有する肉体を操作できるプレイヤーなどではなく、外界の力に左右されるがままの肉体を認識させられ続ける何か、言わば"鬱"映画を無理やり視聴させられ続けている観客のような立場に過ぎないのではないか。そんなふうに痛苦にわからされてしまうこと(己がそんな受け身であるわけがないとの信が毀損されること)。これが痛苦の堪えがたさに含まれている。暴力は自己の立場を強制的に書き換える。そこには、離人感が伴っている。

肉体的痛苦がしばしば離人感をもたらすという経験的事実に即して私は話をしているつもりだが通じない場合もあろう。補足的な説明を付す。

私が離人感と呼んでいるのは、自分のことを他人事みたいに捉えることであり、ときに他人事も自分事も突き放して捉えるような心境であり、おそらく「疲労と鬱の結果、自分を部屋の中にある静物と同じように見る視線」(白江幸司「セルフネグレクト・暴力・気散じ」)のようなもの、その中でもとりわけ自己効力感が衰弱したものであると考えている。それは自分が介入できない光景に強制的にさらされ続けるかのような比喩で繰り返し語られてきた。例に平井堅の歌の一節を挙げる。「惰性で見てたテレビ消すみたいに生きることを時々やめたくなる」(『ノンフィクション』2017)。

私が"鬱"動画を無理やり視聴させられ続ける受け身のような立場・心境として念頭に置いていたのはこのようなものである。

また、以下のMVにもそれに近い雰囲気を感じさせられる(suzumoku『笑う耳鳴り』2017)。「"騒がれてる加害者は中学生"それって大人がやると何か違うの?/映画や漫画で死ねば泣けるのに僕は人身事故にはイラつくのか」。

永井均も人生相談で平井堅に先行して映像の比喩を用いていた。人生を生きるとは暗い部屋でただひとつ光を放っているテレビ番組を見るようなものであり、番組の内容がどれほどひどくても、その部屋を照らす輝きには内容と同じ土俵に立てることもできない比類のないものであることも忘れないでほしい、と(『哲学の密かな闘い』所収「■悩みのレッスン」参照)。思えばプラトンが語った、洞窟で影絵を強制視聴させられる人々というたとえ話にも、こうした離人感に通ずる要素が見出されるかもしれないし、それと地続きに捉えるなら、一種のビデオゲーム体験と(拙速に)関連付けられがちであった「現実感の喪失」なる気分を巡る喧々諤々も、この手の離人感についての記述として再考できるかもしれない。例えば、とあるサイバースペース歓迎論者の議論が「感覚入力機器に縛りつけられた「電脳飛行士」を、「洞窟の囚人」ではなく、洞窟から抜け出すことのできた「哲学者」に比している」点に着目し、そこに認識的な転倒があると批判した神崎繁「現実の耐えられない〈薄さ〉をめぐって――「洞窟の内なる影」、もしくは「自動機械の見る夢」再考」(2009)などが、これを考え進めていく際、役立つだろう。

この痛苦が消えて欲しい、ではなく、こんなクソゲーみたいな人生を体験させられるのはもうたくさんだしnot for meだ、と口にさせてしまうようなところが痛苦にはある。痛苦はただの刺激ではなく、私が私であること(「じぶん自身に対してじぶん自身のうちで、みずからを守ることすらできない」ような存在者になってしまっていること)の堪えがたさに、この意識は囚われれてしまう。ひとは痛苦から支配隷従関係を学んでしまいがちだ。痛苦を避けたくなる傾向性から、痛苦は避けるべきだという道徳を学び、痛苦自身がそう教えているかのように思い込む。痛苦は避けるべきなのに避けられないものであり、痛苦こそを、自分に守れない命令を押し付けてくる暴君だと思い込んでしまう。痛苦の擬人化(暴君化)。ひとは痛苦により「じぶん自身に対してじぶん自身のうちで、みずからを守ることすらできない」奴隷にさせられてしまうかのように感じる。そうして痛苦の命ずがままになっていく己が他人事のように映り始める。かくしてひとは痛苦にわからせられる。

しかし、こうまとめると、抜け落ちがちなのは、痛苦からお約束を語る物語を聴いてきたのではないはずだということだ。語り手は、別にいたはずだ。

"拳は雄弁に語る"

殴る側の拳に生ずる手ごたえもまた、刺激であり意味を帯びている。「殴った方の手も痛い」は大抵、不適切な計算擬きを強弁するために使われがちだが、そこに拳に伝わる手ごたえへの意識があるのは確かだ。振るうことのできる拳があるとの自覚が、または振るう武器を持つと信じることが、無力感に苦しむひとをいかに励ますかを、私は"知らない"とは言えない。暴力はわからせるし、わからせてしまう。この意味でも。振るわれた暴力に伴う痛苦が自己認識を書き換える場合もあるように、振るった暴力に伴う手ごたえが自己認識を書き換える場合も、またある。例えば、にゃ『ぼくの立ちション記』(2021)には、力を持つことの認識が、自己が何者であるかの認識とどう結びついているか描かれている。簡単にまとめると、夫から暴力を振るわれていた母親に暴力を振るわれてきた息子(母親によって女性として生きることを強制されており、逆らおうとして殴られ続けている)が、ついに母親を殴り返すことを学び(殴り返された女性は、それまで続けていた子供を支配する母親の振る舞いを捨て、その子の前で、夫の暴力に怯えながら屈従する妻の振る舞いを始める)、そうして「僕、お父さんみたいになっちゃったねえ!」との心内独白に至る話である。力を持つことの喜びを禍々しく描いている。「You got a POWER」(『けものフレンズ.exe』)の文字列を思い出す。

別のところで読んだ、とある作品のことも私は思い出す。ボクシングの物語だ。両親から虐待を受けていた主人公は、両親それぞれが逮捕されたあと、保護された施設でボクシングの試合の放送を視聴し、ひとを殴ることに執着を抱くようになる。学校で不良を殴るようになった主人公を保護者役の人物は諭すが、主人公は聞き入れない。やがて人を殴ることに飢えた主人公は、ボクシングジムに連れていかれる。そして素人にもかかわらず主人公はジム生を殴り倒してしまう。主人公は次のように語る。「どいつもこいつも強い奴は自信満々な顔してるんだ/自分の方が強いって/自分が狩る側/おまえは狩られる側だって顔して」「それが最後はみっともなく泣きべそかいてさ/体中ぶるぶる震えてんだよ」「そんな顔してる奴は大概抵抗がなくなってんだ」「殴っててきもちいんだよ・・・!!!」「強い奴だとその感触がひとしきりきもちいんだ!」。この場面にも、にゃ「僕の立ちション記」の結末の場面に通ずるものがある。共に拳の手ごたえへの耽溺が描かれてあり、誰がそのポジションを占めるかは変わるものの、強者側を弱者側がしいたげる(弱者側は反抗を諦め強者側に屈従する)という支配隷従の構造が従前のまま維持されてしまう点でも、二作には同じさが見出される。

ただし、作品内で強弱の最終的な決定が遂行されたかのように解するべきではない。次の変転の予感は常に含まれてある。

例えば「立ちション記」では、老化と成長とが親子間の支配隷従の線引きを失効させ、男女間の支配隷従の線引きが浮上させるのだが、例えば作中の息子が病気になれば、あるいは母親が武装すれば、また強者と弱者は入れ替わるのかもしれない。また、ボクシングの物語は試合ごとに強弱の線引きが一旦リセットされ引きなおされるはずなのであり、実際、上で紹介した物語ではその後、主人公は何度も試合に負け、そうして"力こそ正義"という生き様を維持できなくなっていく姿が描かれていくのである(しかし、もし勝ち続けて無敗でいたら、この主人公の思想は変わらなかったのだろうか?)。

痛苦・死・自発的隷従

ここまで見てきた、"暴力はわからせる" "拳は雄弁に語る"の類のマスターナラティブを考えるに際して範例的なのは、パスカル『パンセ』の以下の断章だろう。それは、この手のお約束事のどこが胡散くさいのかも可視化する。

 正しいことに従うのは正しい。最強のことに従うのは必然である。
 力を欠いた正義は無力だ。正義を欠いた力は圧政だ。
 力を欠いた正義には異議が唱えられる。悪人の種が尽きることはないのだから。正義を欠いた力は糾弾される。[…]
 正義は言い争いの種になる。力のあるなしを見分けるのはたやすく、 言い争いの余地はない。こうして正義に力を与えることはできなかった。力が正義に言い逆らって、おまえは不正だと言い、さらに正しいのは自分だと言ったからである。
 こんなわけで、正しいものを強くすることができなかったので、強いものを正しいと定めたのである。(断章 103)

塩川徹也「『パンセ』における愛と正義」より孫引き『フランス語フランス文学研究』2018, p.174

例えば、パスカルの言う「圧政」の意味をほかの断章に即して解しながら、この断章の言わんとすることを掘り下げ、何を言うことができるのか整理して、主張を引き出して並べることもできよう。しかし、ここでは、ポール・ド・マンが「パスカルの説得のアレゴリー」(『美学イデオロギー』所収)で触れた批判に倣う。すなわち「力が正義に言い逆らって、おまえは不正だと言い、さらに正しいのは自分だと言ったからである」という一節における擬人法の問題である。喋るのは力ではなくて、力を持つ者ではないか。

実際には、力がある相手に対して、他者は不服従でいることもできる。先に見た漫画「立ちション記」で、女性として生きるよう強いられた子が、親から暴力を振るわれつつも親の命令に抗っていたように(この不服従は、子が育ち親が老いたことにより、ただの横暴に転化してしまうのだが)。力は喋らないし、力に従えば誰かの思い通りに動けるというわけでもない。力ある者から発される指令は、"痛い目に遭いたくなければ~せよ/するな"や、"どうせ無理矢理にやらせる/やらせないのだから先に自分から~せよ/するな"といった言語の形をとるはずである。力がある者への自発的隷従の手前には、痛苦や強制が伴うかもしれないが、相手の言に不服従でいようとすることのできる余地が、残されてもいるはずなのだ(当然、不服従ならば痛苦や強制を受けるべきという理屈へと否を突き付けることもまた、可能である)。ここでさらに、ヘーゲル『精神現象学』における主人と奴隷との闘争の物語を想起してもよいかもしれない。私が現状理解する限りでは、主奴による闘争が支配隷従関係の構築へと落着するのは死への恐怖ゆえである。上に見てきた痛苦への恐怖や強制による諦念など(不服従の意志を挫かれるのだから始めから従ったほうがよい、など)に通ずるもメカニズムがここにも見出される。

だが、ふと考える。痛苦がもたらす離人感が、もはやこれ以上の痛苦や死などの到来を、どうでもいいことに感じさせてしまう、そのような事態もまた起こりうるのではないか。いくら拳が振るわれても、どれほど暴力がなされても、もはや聴き取られないか、聴き取られても聴き流されていくだけの、暴君の命令。だが、そこにいるのは、強い意志を抱いて抵抗を続ける闘士ではなく、もはや何もできなくなったヒト、「疲労と鬱の結果、自分を部屋の中にある静物と同じように見る視線」(白江前掲記事)のみが残った、もはや動けないヒトかもしれない。そういえばスピノザは、『国家論』でこう述べていたのだった。「たとえば、私がこの机をどうにでも好きなようにする権利を持つという場合、それは私がこの机に草を食うようにさせる権利を持つという意味では断じてない」(スピノザ『国家論』第4章第4節、畠中尚志訳)。机に草は食べさせられない。隷従を拒む強い心身だけが支配隷従を破綻させるのではない。もう何もできなくなったはずの心身もそれをする。

もちろん、机のようになった何者かを前にした命令者に残された道も、複数ある。例えば、まずは、何者かに自らが人間であると思い出してもらう道が挙げられる。しかし、それだけではない。人間でできた机として利用する道すら残されている。そして必ずしも前者の道が選ばれるとは限らない。自発的に隷従しようがしまいが関係ないという地平どころか、隷従できようができまいが関係ないという地平にすらも思考は開かれている。ある意味での"人間的"な思惑に塗れた支配隷従関係が成立しなくなった地平、そこでは、暴力や死というものが、ほとんど"純粋"に剥き出しの姿であるように現われてくるかもしれない。しかしながら、繰り返しになるが、"無意味な破壊"すら意味に塗れてある。思うに、"純粋"な暴力と死と共に支配隷従が成り立つ視座を練り上げておくことは、例えば、ヒトとヒト以外の生物との間に支配隷従関係を見出したり、ヒトと機械の間に支配隷従関係を見出したり、そうした関係が成立する事態を思い描くための予備的な作業に寄与しうるはずだし、ひょっとすると、予備的な作業そのものにも、なるのかもしれない。

[了]

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